1604年、天下分け目の大決戦「大坂の陣」に勝利した織田信雄は、最大の敵、羽柴を服属させ、日ノ本の最大勢力へと伸長する。 その後、毛利をも服属させ、西国への影響力を存分に高めた織田家であったが、その前に立ちはだかったのが、かつて妹背山の戦いで信…
本能寺の変以降の混乱を収拾し、旧織田家領内の勢力争いを制したのは、史実の羽柴秀吉でも、柴田勝家でもなく、織田信長が次男、織田信雄であった。 1604年冬に巻き起こった「大坂の陣」にも勝利し、最大の敵であった羽柴家と徳川家の双方に勝利したことによ…
織田信長の死以来、統一されることなく分離し続けていた旧織田領。 その最大勢力を担うのは「明智討伐の最大武功者」羽柴秀吉。次いで筆頭家老柴田勝家の一族が担っていたが、そこに「織田家当主」織田信雄が第三勢力として存在感を示しつつあった。 そんな…
少しずつ、歴史に歪みが生まれつつあった。 まずは、3年間続いた明智光秀討伐戦争。これを制し、織田家中最大勢力を握ったのが羽柴秀吉という点は史実同様であったが、その後彼が柴田や徳川を下し織田家を乗っ取る・・・という図は、この世界では描かれるこ…
1582年の本能寺の変以降、織田家中における内紛が暫く続くこととなった。 まずは信長を殺した男、明智光秀を1585年に羽柴秀吉が討ち取り、同年に清洲会議にて一旦の「信長後」体制について取り決めが行われる。 が、その取り決めもすぐさま反故にされ、同年…
1582年6月21日(天正10年6月2日)。 天下統一を目前としていた織田信長が、突如として家臣の明智光秀に討たれる「本能寺の変」が勃発する。 中国地方にいた羽柴秀吉、北陸地方にいた柴田勝家の両方がそれぞれ敵対していた勢力(毛利、上杉)との二正面作戦を…
16世紀後半。 100年前の応仁の乱以降進展し続けていた「戦国時代」は、いよいよ収束の時を迎えつつあった。 その立役者として最も期待されていた男が織田信長。将軍・足利義昭を追放し室町幕府を滅ぼした後、畿内を中心に随一の影響力を誇り、その有能な家臣…
リィマー・フォン・ラーヴェンスベルクは――世界の多くの人がそうであったように――父ヴァルベルトのことを好きではなかった。 むしろ彼は、父が憎んでいた母ユディタのことを強く慕っていた。彼は彼女の影響を強く受け、寛大な心を養い、育んでもいた。 だか…
フランス王家の落胤とも、古きフランク王国の血の末裔とも噂される出自不明のフランス人、ルイ・ド・ルナールがドイツ辺境の地で創始したルナール家。 異教徒たちを殲滅し、ブランデンブルク辺境伯領やポンメルン王国を創始しつつ、四代目のオトゲル(戦争王…
神聖ローマ帝国の辺境に現れた無名の下級貴族「ルナール家」は、その後半世紀の間に帝国北東端の異教徒たちを駆逐し、キリスト教のポンメルン王国を建国するほどとなった。 初代ポンメルン「慈悲王」ゲロの嫡男オトゲルは、度重なる戦争の果てに勢力を拡大し…
「きつね」の紋章を特徴とするルナール家は、神聖ローマ帝国の東の辺境、ラウジッツ辺境伯領のさらに辺境に位置する小村シュプレーヴァルトから発祥した。 その創始者ルイの嫡男オトゲルは、一族の復讐を果たしたのちに北方の異教徒たちを平定し、かつて存在…
かつて、ノルトマルク(北方辺境伯領)と呼ばれていた地は、カール大帝および東フランク王ハインリヒ1世とその後継者オットー1世らによって平定され、ドイツ人による支配が確立していたものの、10世紀末頃からスラヴ人による反乱が多発し、いつの日かこの地…
11世紀半ば。ドイツ東部ラウジッツ辺境伯領内に位置するシュプレーヴァルトの領主オトゲルは、「きつね」の紋章を特徴とするルナール家の一員であった。 生まれた直後に双子の弟を殺され、その5年後にも父を殺された彼は、まずは復讐の為にその首謀者であっ…
ドイツ東部「シュプレーヴァルト」。低地ソルブ語で「沼地」を意味するこの地域は、現代の国境においてはポーランドに接する辺境であり、シュプレー川によって育まれた氾濫原と泥炭地は特有の景観を生み出し、ユネスコの生物圏保護区に指定されるほどの自然…
平家――平氏の中でも特に平正盛に連なる血統――は、壇ノ浦の戦いにおける敗北を経て平頼盛を除き全滅し、事実上の滅亡を迎えた。 その頼盛の血統は史実においてははっきりとした記録が残ってはいないものの、その一つの可能性として語られるのが、越後の山奥・…
12世紀末、平安の終わりと共に滅亡した「平家」。その生き残りが、池と名を変えて越後の山奥、古志の村に存在していた。 彼の名は池成清。南朝の総大将であった新田義貞の家臣として、討幕軍の中にもその名が記録されている男である。 彼自身は33歳の若さで…
平家――平氏の中でも伊勢平氏、とくに平清盛に代表される権勢を振るった平正盛の系統のことを狭義にそのように呼ぶ。 この意味での平家は、壇ノ浦の戦いにより実質的に滅亡した。ただ一人、清盛の弟の1人であった平頼盛を除いて。 平家の残党による都落ちに同…
江戸幕府・大日本帝国編を終え、次のVerアップデートまで中途半端に期間が空いてしまった為、話題の冷戦MOD「Cold War Project」をプレイしてみた。 steamcommunity.com これはArcady氏によって作成された大型MODで、その名のとおり冷戦時代を舞台としたVict…
19世紀日本。 限界を迎えつつあった江戸幕府は、寺内護久や二宮尊徳、小栗忠順といった「改革者」たちによって、何とかその命脈を保とうともがいてはいたが、やがて1875年、平岡宗悦や津田真道を中心とした「公議派」たちの手により、ついにその息の根を止め…
19世紀日本。 2世紀以上にわたり続いてきた徳川家による統治は今まさに終わりを告げようとしていた。 破綻へと向かう財政を持ち直そうと、新たに老中首座に任命された水野忠邦は「天保の改革」と呼ばれる一連の財政再建策を開始。 しかし農民に対しても過酷…
1836年。 開府から200年以上が経過し、経年劣化を見せ始めていた江戸幕府による統治は限界を迎えつつあった。 1787年(天明7年)に即位した第11代将軍・徳川家斉の治世の前半においては、白河藩主・松平定信による寛政の改革が行われ財政の再建が図られるも…
「奇跡」を現実のものとし、実現に至ったサヴォイア朝イタリア王国。 しかし、その立役者であったヴィットーリオ・エマヌエーレ2世とカヴール亡き後、混乱の時代が訪れることとなる。 まず政治的主導権を握ったのは「民族主義者」ガブリエーレ・ダンヌンツィ…
ナポレオンの侵略以降、民族主義と自由主義に目覚めた「イタリア」の国民は、数々の弾圧に耐えながらもその「統一」に向けた火を絶やさず燃やし続けていた。 そして1860年に即位した国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世と首相カヴールに率いられたサルデー…
ウィーン体制以降、反動的な保守政権による支配が復活しながらも、自由と民主主義を求める民族的運動が度々巻き起こっていた19世紀のイタリア。 北西部ピエモンテ州に首都を置くサルデーニャ=ピエモンテ王国でも、1830年代から国王カルロ・アルベルトの下、…
イタリア。 それは、ヨーロッパの起源たるローマ帝国の中心地でありながら、その崩壊後はゲルマン人、東ローマ帝国、イスラーム勢力などの侵入を許し、中世以降は神聖ローマ帝国やスペイン、フランスなどの列強国の代理戦争の舞台として、分割と支配の憂き目…
1834年にわずか8歳で即位した第24代朝鮮王・憲宗(ホンジョン)は、20代で崩御した史実の運命を乗り越え、改革派の王族・李是応(イ・ハウン)と実業家出身の領議政(首相)・文相璜(ムン・サンファン)と手を組み、旧態依然とした両班の支配権を奪う改革を…
1834年に即位する第24代朝鮮王・憲宗(ホンジョン)の時代は、史実においては彼の外戚である安東金(アンドンキム)氏が政権を壟断する勢道政治の時代を迎えており、国内外の混乱に対して何もできぬまま23歳で没するという暗黒の時代であるはずだった。 しか…
1836年。 14世紀末から400年以上にわたって存続し続けていた朝鮮国は、その末期を迎えつつあった。 当時の国王・憲宗(ホンジョン)はわずか10歳の幼帝。その政治の実権を巡り、祖母の純元王后(スンウォンワンフ)が属する安東金(アンドンキム)氏と実母の…
1820年代。 この国は長きにわたるスペインの支配からの独立を果たし、国家としての自由を手に入れた。 1830年代から1850年代。 独立の痛みを味わうかのように、英雄アントニオ・ロペス・デ・サンタ・アナ将軍による専制政治がこの国を支配し、国民の自由は抑…
独立後の「サンタ・アナ時代」を終わらせたメキシコ合衆国。 その立役者となったベニート・フアレスを中心とした自由主義勢力は、革新的な改革と積極的な外交政策、そして対アメリカ戦争での実質的な「勝利」と、政治的な成功を重ねていった。 だが、そんな…