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Europa UniversalisⅣ プレイレポート:オーストリア第5回 「ロンバルディア征服戦争」(1499年~1509年)

ロンバルディア

またの名をランゴバルド

 

北イタリア中央部に位置するアルプス山脈の麓の平野部。

二つの大河に挟まれた肥沃な土地であり、古来より多くの勢力によって支配・征服が行われてきた。

もっとも有名なものの一つが、中世初期にこの地を支配したランゴバルト王国。

当時イタリアを支配していた東ローマ帝国から次々に土地を奪い、一時はローマ市を包囲するほどにまで勢力を拡大した。

しかし時の教皇ハドリアヌス1世がフランク王カール(のちのカール大帝)に援助を求め、これに応じたカールがランゴバルトを征服し、王位はカールのものとなった。

 

その後、中世後期に入り、ミラノを中心としたロンバルディアの諸都市は「ロンバルディア同盟」を結び、当時これを支配しようとしていた神聖ローマ帝国皇帝に対抗した。この後ろ盾には当時の教皇アレクサンデル3世がおり、皇帝と教皇の対立の一形態であった。

14世紀末になると、ミラノの僭主であったヴィスコンティ家が領土を拡大し、当時の皇帝から公位を認められ、ミラノ公が成立した*1

15世紀半ばにヴィスコンティ家が断絶すると、最後の当主の娘婿であったフランチェスコスフォルツァが公位を継承。

しかしそれを良しとしない勢力によってスフォルツァ家は追放され、ミラノでは共和制が始まった(これは当時ミラノの土地を狙っていたフランス王の思惑によるところが大きい)。

追放されたフランチェスコは当時の教皇インノケンティウス8世に保護を求め、その後援を受けたスフォルツァ支持者たちはパルマで蜂起した。

成立直後で混乱も大きかったミラノ共和国政府は、パルマの分離独立を認める。

パルマの支配者となったフランチェスコスフォルツァは、改めて教皇より公位を認められ、パルマ公国の支配者として君臨した。しかし彼は自らをあくまでもミラノ公と名乗り続け、その旧領の奪回を狙っていた。

 

だが、1480年代に入ると、ミラノ*2と結んだマントヴァ侯国によりパルマが征服される。

フランチェスコの後を継いでパルマ公(ミラノ公)となっていたルドヴィーコスフォルツァ(別名イル・モーロ)は、今度は皇帝カール1世に助けを求める。

カールはこれを受け入れ、ミラノ打倒とパルマスフォルツァ家への奪還を旗印にした戦争を行うことをルドヴィーコに約束する。

また、教皇との結びつきも強め、ミラノらと同盟を結びつつ教皇領を不当に占拠するフィレンツェ共和国とも戦うことに決めた。

 

かくして1499年4月17日。

皇帝カール1世は、フィレンツェ共和国に対して宣戦布告。

合わせて、その同盟国ミラノとマントヴァに対してもただちに侵攻を開始した。

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教皇領回復を旗印にした対ロンバルディア征服戦争。

かつてその偉業を成し遂げた、神聖ローマ帝国初代皇帝カール(=カール大帝)と自身とを重ね合わせながら、カール1世はその生涯最後の大きな戦いへと身をゆだねていく。

 

 

5月12日。

マントヴァとミラノで行われた緒戦は、ホーエンベルク将軍指揮のもと、危なげなく勝利。

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しかし敵指揮官のジャンカルロ・ブルネッティ将軍は恐ろしいほどの能力を有していた。

一度の会戦で勝利して気を良くするのではなく、残兵が息も絶え絶えなうちに追撃を仕掛ける必要がある。

 

よって、6月17日。

帝国陸軍フィレンツェ共和国の領土に向けて敗走するミラノ・マントヴァ連合軍を追撃。

フィレンツェの地にて掃討戦を開始する。

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2倍近い兵力差がありながらも圧勝。

士気の差というのはこれほどにも大きいのだ。

 

しかし敵も一筋縄ではいかぬ。

10月12日。ロンバルディア地方に属するウェルシュ・ブリクセン(旧ブレシア)にて、反乱軍が蜂起。

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反乱軍の指導者はジョヴァンニ・マリア・サヴォルディ。

ミラノ共和国政府の支援を受けていることは間違いない。

ただちに、ミラノ包囲軍およびマントヴァ包囲軍を派遣し、制圧にかかる。

この程度の策では、帝国の進軍を止めることは能わぬ!

 

11月にはクレモナやマントヴァジェノヴァを舞台にしていくつかの小規模な衝突があったものの、すべてオーストリア・プファルツ選帝侯教皇連合軍によって勝利を重ねていった。

そうして冬に入り、マントヴァやミラノの包囲は続けられながらも、大規模な会戦は行われなくなった。

 

 

皇帝カールはこの機会を利用して、ニュルンベルクへと戻った。

そこで皇帝は、29歳の才能ある木版画アルブレヒト・デューラーに出会う。

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デューラーはカールに、「凱旋門」なる作品の製作を提案する。

 

「この巨大な木版画を完成させることにより、皇帝の威厳はより高まることでしょう!」

 

と。

 

しかしカールはそれを丁寧に断った。

 

「皇帝の権威というものは、言葉や芸術によってではなく、実際の行動によってのみ示される」

 

元より戦時体制の中、帝国財政も決して余裕があるわけではない現状、これほどの巨大芸術を作るために出費できる状況でなかったのも事実である。

しかしデューラーの持つ才能自体は認めていたカールは、のちに自身の肖像画を依頼することとなる*3

 

 

冬が終わり、春が来て、再び激しい戦いが繰り広げられることとなった。

今戦争において、最大の激戦となったのが、1500年3月17日から始まった「クレモナの会戦」である。

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フェルディナンド・オルシーニ将軍率いる2万6千のフィレンツェ軍が、クレモナの解放を目指してホーエンベルク将軍率いる9千の駐屯軍に強襲を仕掛けて始まった戦いである。

皇帝カールは急ぎ、自らの直属軍8千を引き連れて救援に向かう。

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 兵数では負けていたところから始まったこの戦い。

しかし皇帝自ら戦場に立つことによって、戦場の兵士らは奮い立たせられ、数的不利を押し返した。

かつてカール自身がオスマンの君主にやられたこの戦法を、今度は自らやり返した形だ。

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最終的にはプファルツ選帝侯軍も教皇軍も加わり圧勝。

以降は、7月にフェラーラにて、カール皇帝軍とブルネッティ将軍率いるミラノ軍との最終決戦が行われたくらいで、大勢は決した。

 

1500年11月7日。

カール1世は、ミラノの僭主アキレ・デッラ・スカッレと講和を結び、クレモナの割譲と賠償金を支払わせた。

 

1501年9月12日。

マントヴァグリエルモ・ゴンザーガもついに諦め、パルマ公国の独立を承認する。カールは約束通りルドヴィーコを改めて領主に任ずる。

 

そして1501年10月16日。

ついにフィレンツェ共和国政府とも講和を結び、ロマーニャのオーストリアへの割譲、およびアレッツォの教皇庁への割譲を認めさせる。

 

 

北イタリアへの影響力を大いに広げたロンバルディア征服戦争。

1505年時点での帝国の領域と経済状況は以下の通りである。

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もちろんカールは、これで終わりだとは思っていない。

今回は諦めざるをえなかったミラノ、マントヴァ、そしてフィレンツェといった、まだまだ存在する肥沃な土地。

これらすべてを手に入れることが、帝国繁栄のために必要不可欠な手段であることはわかっていた。

 

 

しかし、そんな彼に対してもまた、お迎えの時間がやってきてしまった。

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36年に及ぶ治世は父フリードリヒよりも長く、また63歳という高齢であることもまた同様であった。

そして獲得した領土も父より多く、ロンバルディアでの戦いを経て、確かに彼は「征服帝」の名を冠するに相応しい功績を残した。

 

だが彼は、その死の直前に、一つの大きな不穏の種が、やがて統一されるべきドイツの地に蒔かれてしまったことだけが気がかりだった。

 

それは「宗教改革」。

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度重なるカトリックの聖職者たちの腐敗に耐えかねて、ザクセンの地にて一人の修道士が信仰の改革へと立ち上がった。

その勢いは想像以上に大きく、そしてザクセンの土地は一気に、この異端的な信仰によって染め上げられてしまった。

 

これまでもそのような動きがなかったわけではない。

それがこのザクセンでは止められなくなってしまったのは、ボヘミア王による侵略の結果、その首都ドレスデンだけを残してザクセン選帝侯領のほぼすべてを奪われてしまったからであろう。

いくら選帝侯とは言え、ここまで弱体化してしまえば、異端者の暴走を止めることはできなくなる。

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自ら異端火刑法まで制定し、ローマ教皇との融和を図ってきたカール1世。

そんな彼にとって、この、帝国内における異端の出現には激しく心を痛めたに違いない。

しかしもはや彼には何もすることはできない。

すべては、自身の後継者たちに任せるしかないのだ。

 

 

果たして、信仰の擁護者としての神聖ローマ帝国の行方は如何に。

(第6回に続く)

*1:ここまでが史実。ここから先はゲーム内での動き。

*2:当時アキレ・デッラ・スカッレによる、共和制とは名ばかりの独裁政治が行われていた。

*3:ゲーム的には、この巨大版画の作成を断ると威信-10のペナルティを受けることになる。しかし威信はこの後の勝利によっていくらでも回復することもでき、また実際にこの後、追加の傭兵の雇用などにより経済は実際圧迫されていた。なお、アルブレヒト・デューラーは史実ではマクシミリアン皇帝の依頼のもと、この大木版画を完成させている。また、マクシミリアンの有名な肖像も彼が描いたものである。それは史実では今から10年以上も後のことである。