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Europa UniversalisⅣ プレイレポート:オーストリア第7回 「混沌の時代(1536年~1567年)」

ボヘミア(独:ベーメン)は、ハプスブルク家にとっては古くから因縁の深い地であった。
そもそもハプスブルク家がオーストリアを支配するきっかけとなったのは、このボヘミアの王との対立からであった。
13世紀後半。ときのハプスブルク家当主ルドルフ1世は、弱小であることを理由に神聖ローマ皇帝となる。
帝位を狙っていたボヘミア王のオタカル2世はルドルフに対抗するが、諸侯をまとめ上げたルドルフがこれを撃破。オタカルが所有していたオーストリア公位と領土を獲得する。
16世紀以降、ハプルスブルク家の支配を受け始めたボヘミアだが、17世紀にこの地でプロテスタントによる蜂起が発生し、三十年戦争へと発展していく。
その初期段階でハプスブルク家ボヘミアを制圧し、以後、20世紀になるまで、完全にその支配下に置かれることとなった。


1536年11月19日。
プロテスタント信仰に染まったかつての友・ボヘミアに対し宣戦布告した皇帝アントン。
「信仰の守護者」としても宣言し、ドイツ騎士団の力も借りて、準備万端の体制で乗り込んだ。

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最大の会戦となったのは2月5日から始まるリンツの会戦。
ボヘミア本土を蹂躙している最中、電撃的に攻め込んできた敵軍2万に対応するため、急遽、ナッサウ占領のために派遣していた軍を呼び戻し、なんとか撃退する。

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戦争自体はドイツ騎士団の助けもあってあっけなく終わり、1年後の12月1日に、ブジェヨヴィッツェの割譲と選帝侯位剥奪を条件に講和を結んだ。

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ブジェヨヴィッツェ自体は大した開発度ではないものの、この地を得ることで、敵国の首都プラハへの道を得ることができる。


そう、この戦いはあくまでも前哨戦。
講和期間が終わり次第、再度ボヘミアを攻め、その豊穣なる首都プラハおよびモラヴィアの地をもらい受ける。

 


ともあれ、当初の目標であるボヘミア選帝侯位剥奪は完了した。
そして、カトリック信仰を強く持ち、かつ同盟に値する強大な勢力を――という条件で探した結果、遠き低地諸国に属するブラバント公を、新たな選帝侯として選出することに決めた。

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当然、ブラバント公はハプスブルク家の帝位世襲に好意的であり、結果として、戦前の状況が嘘であったかのように、帝位世襲が確実な情勢となっていった。

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だが・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


1540年6月7日。
アントンの弟アルブレヒトが病死。


遺されたハプスブルク家唯一の後継者は――マリア・テレジアという名の、美しき姫のみ。

 

もちろん、神聖ローマ皇帝は女性では務め上げることはできない。
アントンは残り少ない命を振り絞り、様々な策を練ったものの、結果として、間に合うことはなかった。

 

そして1550年5月31日。
ついにアントンはその天寿を全うした。
享年73歳。


驚異的な長さのその人生において、最後の最後に痛恨の結末を迎えてしまった。

 

 

 


そして新たなオーストリア大公となったのはマリア・テレジア

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もちろん、帝国諸侯は、オーストリアが見せたこの弱みにしっかりとつけ込む姿勢を見せた。

 

 

新たな皇帝に即位したのは、選帝侯位を手に入れたばかりのブラバント公フィリップ5世。

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フリードリヒ3世以来、3代にわたって世襲されてきた神聖ローマ皇帝位を、ハプスブルク家はついに手放すこととなったのである。

 

 

 


フリードリヒが夢見た、永遠の帝国は夢幻の彼方へと遠ざかってしまったのだろうか。


マリア・テレジアの後継者にも、同じく女性のマリア・テレジア(2世)がついたことで、今後しばらくの間、オーストリアが帝位を得ることは難しくなってしまった。

 

 

 


しかし、マリアは悲観していなかった。
確かに自分の存在により、オーストリアは帝位を失った。
しかし、オーストリアには未だ、ドイツ領域における最大規模の兵力と領地を所有している。
もはや、西の大国フランス・スペインとも互角以上に渡り合えるだけの。

 

だから、今の時期は忍耐のときである。
帝位を捨て、耐え忍びながら――マリアは、この栄光のオーストリアが、再び帝冠を授かるのに相応しい大国へと育て上げるべく、行動を始めたのである。

 

 

 


1552年秋。
マリアは同盟国ハンガリーおよびドイツ騎士団を引き連れて、先代から続く2度目のボヘミア侵略を開始した。


早速、その首都プラハに向けて進軍。
オーストリア軍の総指揮官は、ハンガリー貴族エステルハージ家のヨハン・レオポルド。
射撃能力が5と非常に高く、信頼のおける将軍だ*1

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1554年10月22日。
意外にも長引いた戦役の末に、ボヘミアはついに降伏する。

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その領土の大半を、本来の持ち主であったザクセン選帝侯に返還させ、また、首都プラハおよびモラヴィアの地をオーストリアに割譲させた。
また、ラティボルの地をハンガリーに割譲させ、同盟国との関係もしっかり維持しておく。

 

 

 

 


そして、オーストリアという偉大なる頂点を失った帝国は、混沌の極みに陥っていた。
プロテスタント信仰に染まっていたハンブルク共和国が強大化し、ケルン選帝侯領を完全平定してしまったのだ。

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さらに皇帝フィリップは、異端信仰を奉ずるマインツ大司教から選帝侯位を剥奪。
選帝侯が6人しかいないという異常な事態に陥ることに。

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これでは帝国正統性の向上および帝国改革の進展など望むべくもない。
やはり、オーストリアによる導きがなければ、帝国は正しい道を進むことなど不可能なのだろう。

 

 


1563年5月9日。
ボヘミアの再征服により帝国領域のさらなる拡大を果たしたマリア・テレジア崩御し、マリア・テレジア2世が即位。

 

1566年12月16日。
ブルゴーニュ公と同君連合を結ぶロレーヌに攻め込み、およそ1年後にこれを併合する。

 

そして1567年10月9日。
ついに、待望の男児がオーストリアに生まれる。

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マリア・テレジア2世は彼に、カールという名を授ける。
神聖ローマ帝国初代皇帝の名であると同時に、ハプスブルク皇帝世襲時代の2代目、「征服帝」と呼ばれたあの偉大なる皇帝の名を希望と共に授けたのである。

 

 

マリアの願いは現実のものとなるのか。

(第8回に続く)

*1:史実のエステルハージ家で有名なのはニコラウス・エステルハージ。ナポレオン戦争期に活躍したオーストリア軍元帥である。ナポレオン1世ハンガリー王位を約束されながらも拒否し、ハプスブルク家を支持した忠臣であった