読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

リストリー・ノーツ

歴史ゲームのプレイレポートが中心。https://twitter.com/SuzuTamaki

Europa UniversalisⅣ プレイレポート:オーストリア第8回 「対仏大同盟戦争と寛容の女王(1574年~1632年)」

1.対仏大同盟戦争

f:id:SuzuTamaki:20161011021147j:plain

1574年。
オーストリア君主マリア・テレジア2世は、ブルゴーニュ公とその同盟国スイスとの戦いに勝利し、スイスの首都ベルンと、ブルゴーニュ公の影響下にあったバル公爵領をともに獲得する。

 

オーストリアのこの動きに、当然フランス王ルイ13世は強い警戒心を抱く。
兼ねてより敵対的関係にあったこの2国だが、ついにその対立が頂点に達しようとしていた。

 

そして1586年11月1日。

f:id:SuzuTamaki:20161011021239j:plain

ついにオーストリアは、仇敵フランスに宣戦布告を果たした。
こちらはプファルツ選帝侯、大ブリテン連合王国ハンガリーザクセン選帝侯といった大同盟。
対するフランスはモンフェラート伯のみと、孤立無援の状態での開戦となった。

 

開戦直後、次々と国境沿いの都市を占領していくオーストリア軍。
これに対しフランス軍は、全土から兵をかき集め、ルイ13世自らが指揮を執る5万5千の主力軍を差し向けた。


オーストリア軍も、30年前のボヘミア戦役で活躍したヨハン・レオポルドの息子であるライナー・フォン・エステルハージを総大将に6万の兵で迎え撃つ。

 

かくして、1587年1月。
今戦争の最初の大規模な激突が、ヌムールの地で繰り広げられた。

f:id:SuzuTamaki:20161011021334j:plain

ほぼ同数同士の兵力の激突ではあったが、父以上の才能を見せつけたライナー将軍の大健闘もあって、敵軍にこちらの2倍以上の被害を与えることに成功した。

 

さらに8月7日。
今度は敵首都パリにて再びルイ13世vs対ライナー将軍の激戦が繰り広げられた。

f:id:SuzuTamaki:20161011021415j:plain

しかし今度はザクセン選帝侯の軍隊も交えた大同盟軍は兵力が10万を超えており、7万のフランス軍はよく持ちこたえたものの結局は壊滅してしまった。

 

 

そして12月20日。

f:id:SuzuTamaki:20161011021448j:plain

開戦から1年。
早くもフランスとの講和が成立し、オーストリアはシャンパーニュ、ヌムール、ブルゴーニュ、ノヴァーラといった豊かな領土を多く割譲させることに成功し、さらにはエノー伯を独立させた。


そしてオーストリア領がフランスの首都パリに隣接することに。
当然、マリア・テレジア2世はこれでフランスとの戦いを完全に終わらせるつもりなどなかった。


やがて来るであろう第二次フランス征服戦争に向け、しばしの休息を兵たちに与えることに決めたのである。

 

 

2.バーデン選帝侯

1591年2月10日。

f:id:SuzuTamaki:20161011021529j:plain

バーデン辺境伯が新たに選帝侯位を獲得したことにより、ようやく選帝侯が7人全員揃う形となった。
しかし金印勅書を完全に無視したこの選帝侯位の乱脈乱発。
我がオーストリアが始めたこととはいえ、伝統に背く嘆かわしい事態であることは間違いない。

 

 

3.対バイエルン戦争

1592年10月19日。
プファルツ選帝侯の誘いに応じ、バイエルン公との戦争に加担する。
先の対仏大同盟戦争では味方についてくれていたザクセン選帝侯を含むプロテスタント大同盟を敵に回したわけだが、すでに敵主力のブランデンブルク選帝侯軍との間にも、軍事技術で2レベルの差がついてしまっている。

f:id:SuzuTamaki:20161011021619j:plain

結果、こちらの1.5倍の兵力を保つ敵同盟軍が、将軍なしの我が軍隊を前にして打ちのめされてしまう。
軍事技術レベルの差の恐ろしさを改めて思い知った出来事であった。

 

 

4.第二次対仏戦争

1598年9月13日。

f:id:SuzuTamaki:20161011021701j:plain
同盟を結んでいるトリール大司教より、対ルクセンブルク戦争への加勢を求められる。

ルクセンブルクはフランスと同盟を結んでいるため、この戦争では、和平期間が続いているフランスと期間内に再度の戦いとなってしまう。

 

それは、オーストリアにとっては願ったり叶ったりといったところ。
ただ、人的資源の枯渇激しく、前回同様にフランスを圧倒はするものの、戦争自体が長続きさせるのは難しかった。

 

 

結局、1600年12月14日にルクセンブルクと単独和平。

f:id:SuzuTamaki:20161011021805j:plain

代償としてルクセンブルク――ではなく、フランスのオルレアンを割譲してもらうこととなった。
本当は首都パリを狙ってはいたのだが、そこまで戦勝点を稼ぎきることができなかったのだ。

 

 

5.寛容の帝国

なお、1586年の段階で、「人文主義」」アイディアの6番目の政策「文化的紐帯(Cultural Tie)」を獲得。

f:id:SuzuTamaki:20161011021901j:plain

文化の受容閾値の縮小を図り、結果として1592年までに、シュヴァーベン、ロンバルディアトスカーナ、ブルゴーニュの各文化が受容文化となった。


ほかにも1571年には「信仰自由宣言(Declaration of indulgence)」を発布し、国内のプロテスタントおよび改革派への信仰の自由を保証した*1

f:id:SuzuTamaki:20161011021941j:plain

 帝国は確実に、多民族多文化主義を標榜する社会へと変容を遂げようとしていた。
厳格だったり苛烈だったりした過去のオーストリア君主たちと違い、マリア・テレジア2世は非常に穏やかで、そして理解できないものに対する強い寛容の精神を持ち合わせている君主であった。

 

 

6.フランスの没落 

 第3次・第4次と続く戦役の結果、フランスからはピエモンテ、アンジュ―、そしてパリといった重要拠点を次々に奪っていくことに成功。

さらにフランスの弱体化を見て取ったスペインがハイエナのごとく襲い掛かり、ピレネー周辺の領土をフランスから奪い取っている。

f:id:SuzuTamaki:20161011024140j:plain

かつて最強の陸軍を保持していたフランス王国は、今まさに落日の時を迎えようとしていた。

 

 

 

そして1632年7月1日。

実に、69年という長きに渡る治世を終え、ついにマリア・テレジア2世は崩御した。

後を継いだのは、オーストリアにとって待望の男子となるカール。

すなわち、ハプスブルク家君主としてはカール2世となる人物である。

f:id:SuzuTamaki:20161011024921j:plain

 

しかし、彼が皇帝位を継承することは難しい。

なぜなら、すでに帝国は、カトリック同盟とプロテスタント同盟とに分かれ、いつ爆発するかわからない緊張状態の中にいるからだ。

f:id:SuzuTamaki:20161011025024j:plain

対フランス戦線はもはやこれまで。

オーストリア君主カール2世は、国内の異端掃討に向けた戦いへと舵を切ることになるだろう。

 

 

 

 

7.おわりに

さて、ここまでプレイしてきたわけだが、今日をもってパッチ1.17が終わり、明日からは新大型パッチ1.18を迎えることとなる。

技術グループに応じた技術コストの変化などが廃止され、それに代わる新たなシステムなどが備わるため、旧来のセーブデータは使用できなくなる。

すなわち、本レポートは今回をもって終了となる。

 

もちろん、パッチを戻すことで元々のデータも使用できるが、

何分、はじめてのオーストリアプレイということで勝手もわかっておらず、皇帝位の継承は途切れるわ帝国改革は遅々として進まずで、正直手詰まりな部分が出てきた。

 

いつか、新たなパッチの中でオーストリアプレイのリベンジを果たすことにして、本レポートはこれにて終了としよう。

 

最後に、この世界における各地の情勢を報告する。

 

 

まずは東欧。

f:id:SuzuTamaki:20161011025542j:plain

リヴォニア騎士団がポーランドばりに東欧を支配。

さらにドイツ騎士団も交じり合っておぞましい世界が繰り広げられている。

 

f:id:SuzuTamaki:20161011025632j:plain

アジアでは朝鮮がシベリア方面に侵食し、清成立の種を完全に潰してしまった。

しかし、いつも明が生き残り続けているわけだが、それってどうなんだろう。

もうちょっと清が成立しやすいバランスにしておいてほしいところだ。

 

 

f:id:SuzuTamaki:20161011025810j:plain

新大陸情勢は、中米をスペイン、コロンビア周辺をフランスが、そしてブラジルは史実通りにポルトガルが獲得した。

イングランドは大ブリテンを成立させたりしているくせに植民地政策はうまくいっていない模様。

 

 

陸戦ばかりでいささかつかれた。

次回は、ネーデルラントあたりを成立させて、海上植民地帝国を作ってみようかと思う。

*1:史実ではイギリス王ジェームズ2世イングランドでのカトリック復活を企図して出した法案であったが、国内の国教会徒らの猛反発を受け廃案となってしまった