中央アフリカ西岸に位置するコンゴ王国は、長きにわたるポルトガルからの実質的植民地支配と度重なる内乱により、19世紀にはすでに分裂し、弱体化していた。
そんな中、キンシャサの村周辺を支配するマニコンゴ(コンゴ王)アンドレ・キンラザ(アンドレ2世)は、自らポルトガルの保護国下に入るという形で従属を選び、その交易で国内を発展させる道を選んだ。
民族の誇りに反するその政策に、国内の貴族や聖職者たちなどからは強い反発を受けたものの、産業の発展と共に力をつけてきた資本家や知識人たちと手を組んだアンドレ2世は、民主的な選挙制度の導入や農奴制の廃止など、西洋的な価値観に基づいた近代的な改革を進めていく。
しかし、彼は西欧に心から従属するつもりなどなかった。
その隷属はあくまでも国内の発展のためであり、その先にあるのは、長きにわたる植民地支配からの完全な脱却。
現在の恥辱はその民族の栄光の未来に向けた過程でしかないのである。
果たして、アンドレ2世の選択は正しいものとなるのか。
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目次
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大いなる繁栄の時代
1856年。待望のキニーネを獲得し、ついに統一への第一歩を踏み出すこととなったコンゴ王国。
一方、ここまで社会系技術ばかりを進めていた中で、ようやく生産系の技術を獲得していくこととなる。
狙い目は、現在の主要生産品の生産量を増加させる技術。偉大なるイギリス市場の下で、原料の不足を気にする必要がない以上、最大生産力の増加は=そのまま収益の増加へと繋がる。
たとえば機械化工房は、織物工場の新たな製法であるミシンを解禁する。
折しも、今や29か国2億3,700万の人口を抱えるイギリス市場では、衣類・高級衣類が圧倒的に不足しており、価格が高騰しまくっているところ。
アンドレ2世はただちに国内に製造業奨励の布告を出し、織物工場を増産。
コンゴの織物工場は毎週1万1,800ポンド、年間にして56万6,400ポンドもの黒字収益を叩き出すこととなった。
この空前の衣類バブルによってコンゴの織物工場で働く従業員たちは下層の機械工・労働者たちに至るまで皆裕福で充実した生活を送れるようになっていた。
さらに、続いてクリスタルガラス・化学的漂白と技術を進めることで、今度はガラス工房を大幅に強化。
こちらも工場2つで毎週1,220ポンドも黒字収益を出すなど、織物工場と並びコンゴの経済を支える基幹産業となっている。
これらの産業発展を受け、1870年時点でのコンゴのGDPは898万ポンドに。スタート時点の18万6,200ポンドからは48倍に、1856年の268万ポンドからもわずか14年で3.3倍に膨れ上がることとなった。1人あたりGDPでは2位のベルギーに2倍差をつけての圧倒的1位である。
また、平均生活水準もスタート時点の8.7、1856年時点の14.3からさらに上がり、1870年時点で22.1に。2位に3ポイントをつけての圧倒的世界1位の平均的豊かさを持つ国となっている。
また、懸念だった人口問題も、改善の兆しが。
「移住規制なし」の法律を通し、非常に高い平均生活水準から求心力も「高い」を維持しているにも関わらず中々発生しなかった移住。
この改善のため、貴重な権力を犠牲にして文化的排斥・良心の自由の法律を通す。
この2つの法律を通したことでようやく、大規模移民が発生するようになる。
その後も何度か大規模移民が発生し、開かれたコンゴはアフリカ大陸やオセアニア地方に住む数多くのアフリカ系民族たちにとっての楽園となりつつある。
人口もいよいよ増えてきた。1856年時点ではスタート時点とほとんど変わらない52万8,000人だったところから、1870年時点で72万8,430人に。
経済も発展し、人口も増えていき・・・
コンゴの未来は明るいように、思えていた。
しかし、バブルというのはいつか崩壊するもの。
そしてこのゲームは、好調で「あり続ける」ことが非常に難しいゲームでもあるのだ。現実と同じように。
バブル崩壊
1870年7月28日。
突如、これまでコンゴを保護し続けてくれていた宗主国ポルトガルが、コンゴの外交官を追放するという事態に。
と、同時に態度が「支配的」に変更。
ついに、彼らはコンゴを本当の意味での植民地、すなわち保護国の立場から「併合」へと突き進もうと考えているのか。
さらに同時に、イギリスがコンゴ地域から関心を外そうとしている。代わってペルシアがこの地に関心を・・・なぜ??
ん? あれ?????(各施設で「材料不足」マークが・・・)
ああー---!!!!! いつの間にかペルシア市場にー---!!!!!
何の前触れもなく突然に、まったく理由不明な状況でイギリス市場からペルシア市場へと鞍替えをしたポルトガル。いや、なんでペルシア? 世界ランク20位の非主要国といえど、世界ランク88位の未承認地方国の関税同盟に入る理由なんてこれっぽっちもないよね? GDPも格下だし。
鉄もねえ、工具もねえ、絹なんてあるはずもねえ、という貧弱極まりないペルシア市場のせいで機能しなくなった織物工場の製法をグレードダウン。生産性は一気に落ち込み、GDPは見事に急落。国民全体が一気に貧しくなっていく。
これがバブル崩壊・・・いくらなんでもあまりにも理不尽すぎる理由で、だけど。
それもこれも、イギリスの市場に直接入るわけではなく、ポルトガルなどという弱小国を介しての市場参入を果たしていたことが原因である。
国民の混乱を見て、マニコンゴ、アンドレ2世はついに決断する。
300年前、気高きコンゴの地に土足で入り込み、寛容に迎えた先人たちの想いを踏みにじり、従属を強い続けてきた悪辣なるポルトガルへ裁きを下すことを。
偉大なるコンゴ、独立の時である!
コンゴ独立戦争(1874年~1876年)
開戦まで
覚悟を決めた以上、全てをそこにつぎ込む必要があった。
まずは、1836年以来存在していなかった兵舎を一気に建築していくこととする。
但し、維持費を最小限に抑えるべく、「その時」が来るまでは完成一歩手前に留め、来るべき瞬間に一気に立て続けに完成させられるよう、キューに予約しておく。
さらにここまで準備が出来たら建設は一旦ストップ。4つ建てていた大学もすべて破棄し、出費を最低限に抑える。
1873年3月20日には比例課税制が制定され、財政的にもぐっと楽になる。
次の法律は保守党を政府内に入れた上で、「専門的な警察機構」の審議を開始。
これで軍部の支持(容認)を上げ、強力な容認ボーナス「愛国熱」を発動させる。
そこまで準備した上で、1874年4月1日。
すでに関係値が0を下回っているにも関わらず、一向に併合のための外交プレイを仕掛けてこないポルトガル。
仕方ない。
こちらから仕掛けるしか・・・ない!
ポルトガルはオーストリア、スペイン、イタリアと防衛協定を結んでおり、そこにこちらから仕掛けるのは正気の沙汰ではない。
かと言って、このままペルシア市場に留まり続けるのは緩やかな衰退を待つだけとなるのも事実。
ここはやるしかない!
幸いにもイギリスがこちら側に乗ってくれる。スペインの奴隷制廃止を餌に食いついてくる。
イギリスのAI戦略が「平等主義の推進」となっていたのだが、このときは奴隷制廃止の開戦事由が有効ということなのだろうか。なお、コンゴもまだ奴隷制は残している。
なお、イギリスがこちらについた途端、その相互ライバル関係にあるフランスがポルトガル側につく。なんと!
これ以上の懐柔を諸列強に行うことは難しそうなので、残りの戦略ポイントはすべてポルトガルへの要求に使用する。
コンゴ王国旧領の一部であり、その歴史的首都ンバンザ・コンゴ(サン・サルヴァドール)がかつて存在した北アンゴラの領土と、賠償金を要求。
かくして1874年7月31日。
長きにわたるポルトガルの実質的支配に対する反乱を、誇り高きコンゴはここに宣言する!!
ポルトガル軍をアフリカから駆逐せよ
コンゴ軍1万を率いるのはンヴォウドウコウサラ・マンカラ。マニコンゴに忠誠を誓う、王党派貴族である。
その特性は「防衛戦略家」。防戦時に10%の戦闘力ボーナスがつくほか、防戦時に役立つ戦闘条件「迷彩」「塹壕」などの発生率を大幅に上げる能力を持つ。
「兵站の達人」はもちろん、「几帳面」という性格も戦闘時にボーナスがあり有用だ。
ポルトガル連合軍は植民地側に部隊を置いておらず、開戦してから悠長に本土から兵を送り込んでくるような状況。
その隙にマンカラ将軍率いるコンゴ軍は一気にアンゴラの地を侵略していく!
1874年9月9日までには南アンゴラの奥深くまで一気に占領していったアンゴラ軍。
ここでついにポルトガル軍がアンゴラに到着する。
ただちにマンカラ将軍に対して「戦線の防衛」を指示。
南アンゴラの地で、いよいよ最初の戦闘が開始される。
近代的な鮮烈歩兵も騎馬砲兵も用意してきているコンゴ軍。愛国熱の高まりもあって、十分すぎる防御力を発揮。
たとえ列強オーストリアの軍であろうと、防戦に徹することで決して負けはしない!
そうして防戦を繰り返し、敵軍にこちらの2倍以上の損害を与え続けた結果、コンゴにやってきた連合軍はポルトガルの1師団を残してすべて撤退。
それもそのはず。ヨーロッパ戦線ではヴェネツィア、そしてジブラルタル周辺でイギリス軍が連合軍を圧倒し始めていたのである。
残ったポルトガルのヴィセンテ・ニコラウ・デ・メスキータ将軍ももう疲弊しきっており、ここでマンカラ将軍が反撃に出る!
地の利を活かしたマンカラ将軍の巧みな戦術が、油断しきっていたポルトガル軍を苦しめる。
かくして、1875年2月1日。
マンカラ将軍率いる1万人のコンゴ軍は、開戦から半年でアフリカの地から西欧人を駆逐することに成功した。
ここまでの戦闘におけるコンゴ側の死者はわずか270名に留まった。偉大なる勝利である。
なお、メスキータ将軍は史実の人物で、1818年にマカオで生まれている。1849年にはマカオで起きたポルトガル人知事の暗殺とそれに続く清軍によるマカオ侵攻、すなわちパッサレオン事件において、わずか36名の手勢を引き連れて砦を奪還したことで一躍国民的英雄となった人物である。
しかしマカオ人であることから冷遇され昇進にも恵まれず、そのことから精神に異常をきたし、最後は妻を殺した挙句自らも井戸に飛び込み自殺するという最期を迎えている。
このゲームの中では再び栄誉を授かるチャンスを与えられていたのだが・・・アンゴラ植民地の防衛という重大任務を失敗することとなった彼には、やはり悲しい運命しか残っていないのかもしれない。
そして終戦へ
そして激化するヨーロッパ戦線の結果、1875年6月11日にまずはオーストリアが降伏。
続いてイタリアも降伏。
だがイギリスもフランス軍によって本土を侵略され、
1875年10月22日に降伏。
これを受けてすぐさまフランスも降伏。イギリスのいない戦争に興味はないようだ。
最後までポルトガル側につき続けていたスペインは12月3日に上陸戦を仕掛けてくるも、
まともな海軍を連れてこなかったスペイン軍は上陸戦で大失敗。無駄に命を散らすだけとなってしまった。
この敗北が決定打となって12月24日にはスペインも降伏。
失態を取り戻すべくメスキータ将軍が人生を懸けた上陸戦に挑む。
が、これは恥を上塗りするだけの結果に終わった。
大勢は決した。
コンゴは屈辱の300年間へのリベンジを、今まさに果たすことができたのである!
かくして1876年3月12日。
ポルトガルはコンゴの独立を認めると共に、北アンゴラの地を割譲し、かつ5年間にわたり2,740ポンド/週、合計65万7,600ポンドの賠償金支払いを認めさせられることとなった。
そして、この独立の価値とは、本当の意味での自立を得ただけでは意味がない。
まだまだ発展途上のコンゴ。この戦争を始めた最初の目的に立ち返り・・・そして見つけた!
経済帝国主義戦略を採用しているフランスが、新たなる経済的宗主国である。
但し、あくまでも保護国扱いであったこれまでのポルトガルと異なり、今度は少なくとも政治的な隷属関係にはない。
比較的対等な経済的同盟関係である・・・そう、アンドレ2世は国民を納得させることとなった。
いずれにせよ、危機は脱した。
この戦争でGDPはさらに下がり、国民の生活水準も大きく落ち込むこととなってしまったが、代わりに領土は広がった。
戦火に見舞われた北アンゴラの地は荒廃しているものの、ここがコンゴ王国にとって新たな中心都市の1つになることは間違いないだろう。
次回は戦後復興。
そして、荘厳なるフランス市場の下、再び経済発展を遂げることを目指していこう。
第3回に続く。
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