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【Victoria3 プレイレポート/AAR】大インドネシア帝国の夢 第1回 トゥアンク・イブラヒムの改革(1836年~1856年)

 

インドネシア

現代では世界4位の人口を誇り、世界最大のムスリム人口を抱え、ASEAN東南アジア諸国連合)の盟主として東南アジア唯一のG20参加国でもある、紛うことなき地域大国である。

しかし16世紀以降、この地はオランダを始めとする西欧列強による植民地支配を受け、「ヴィクトリア時代」においても一貫してこれは変わらなかった。

現代のインドネシアを構成するジャワ島、スマトラ島カリマンタン島南部、ニューギニア島西部のほとんどが1836年時点でオランダ領東インド(オレンジ色の領域)の支配下に入っている。史実ではこのあとスマトラ島北部もすべてその支配下に入ってしまう。

 

日本による統治時代を経て、完全な独立を達成するのは1949年になってから。

今回は、そんな彼らの運命を変え、早期の独立達成を目指していきたいと思う。

 

今回プレイする国家はスマトラ島北部で20世紀初頭まで独立を保ち続けていたアチェ王国

英蘭の勢力均衡政策のもと、その命脈を保ち続けられていたこの国も、やがてその2か国による密約の結果、見捨てられていくこととなる。

史実では最後の王ムハンマド・ダウド・シャー2世による決しての抵抗むなしく、1903年に滅亡し、オランダに飲み込まれてしまうインドネシア最後の希望。

その希望を、今回のプレイでは絶やさず、そして、この国を起点としたインドネシア統一――いや、史実では英蘭の支配圏による違いというだけで(まるでコンゴのように)インドネシアとマレーシアの2つに分かたれてしまったこの「東南アジア地域全域」を統一し、マレー半島カリマンタン島全土・ニューギニア島全土に至る(大ドイツならぬ)「インドネシア(Indonesia Raya)」実現を目指していきたい。

 

今回は縛り一切なし!

本ゲームが通常想定する、まともな産業革命進歩主義の導入を経て、インドネシアを名だたる列強に肩を並べる存在へと成長させていこう。

 

 

Ver.1.1.2(Earl Grey)

使用MOD

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  • Dense Trade Routes Tab
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目次

 

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【Victoria3】アメリカ「経済的支配」目標プレイレポート第0回 ポーズ解除前の状況確認と各種方針 - リストリー・ノーツ

【Victoria3】初見スウェーデンプレイ雑感レポート①(1836〜1856) - リストリー・ノーツ

 

悲劇的な運命に抗うための第一歩

1836年時点のアチェ王国の君主(スルタン)はアラウッディン・ムハンマド・ダウド・シャー。ブジス王朝6代目君主(アチェ王国としては31代目君主)。王国最後の君主ムハンマド・ダウド・シャーと同名のため、区別する際はこちらを1世と称することが多い。

有能な君主ではなかった。

1823年に父王アラウッディン・ジャウハルの死に伴い即位したが、元々父王の遺言では正室の子アブドゥル・ムハンマド(当時6歳)が後継者として指名されていた。

だが、それを国内の有力貴族が認めず、結果、側室の子であったこのアラウッディン・ムハンマドが即位することとなったのだが、正室は当然これに反発。

正室はイギリスに介入を求めたが――当時、すでにアチェを見捨てることに決めていたイギリスはこれを黙殺。最終的に、ラジャ・ムダ(副王)に任命されていたアラウッディン・ムハンマドの兄トゥアンク・イブラヒムの仲介によって内戦の危機は去り、アラウッディン・ムハンマドの即位が正式に認められることとなった。

 

この事実からも分かるように、すでにアチェ王室の権威は高くなく、その王権も地場の貴族たちの都合の良いように――おそらくはこのムハンマドについても、自分たちがコントロールしやすい無能な君主を置きたいという彼らの意向によって――捻じ曲げられるほどに、弱体化していた。

その事実を反映するかの如く、国内の政治においても貴族階級の影響力は絶大である。

驚異の影響力62.6%・・・!

 

自身も奴隷所有者で旧時代的な権力の権化とも言える貴族階級の指導者アリー・ビン・ニク

「カリスマ的」で国内有力者たちの支持を一手に集めるこの男こそが、アチェの近代化ならびにその独立にとっての最大の障害となることは間違いなかった。

 

すでに、これまではオランダによるスマトラ島北部地域への干渉を妨げ続けていたイギリスも、自身のマレー半島権益を認める代償として「オランダの好きなようにする」ことを認める英蘭協約を結んでしまっている。

もはや、一刻の猶予もない。

ただちにアチェを近代化し、独立を守るだけの力をつけなければ——この国は、ひいては未来の「大インドネシア」も、消滅してしまうことだろう。

 

そのために立ち上がったのが、アラウッディン・ムハンマドの兄であり、その即位と共にラジャ・ムダ(副王)に任ぜられたトゥアンク・イブラヒム

ゲーム中では存在していないが、冒頭の国紹介の記述に書かれたラジャ・ムダとは彼のことであり、史実では1838年に亡くなったアラウッディン・ムハンマドの嫡男アラウッディン・スレイマンによる治世の際も摂政を務め、さらにはその死後は自らスルタン(アラウッディン・イブラヒム・マンスール・シャー)となるこの男は、この時代において最も先進的なアチェのスルタンであったとみなされている男でもある。

史実ではその改革むなしく、アチェ滅亡への運命の歯車を止めることはできずに終わった。

今回はそのトゥアンク・イブラヒムの視点に立って、より早い改革からのこの国の飛躍を目指していきたいと思う。

 

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まず手を付けるのは、とにかくも国力の増強である。

定石となる建設局(建設セクター)の建造。但し、初期状態で1,020ポンドの黒字しかないアチェ王国では、まずは1個(基本単価ベースで2,000ポンド)作るのがせいぜい。

そしてもちろん、資材となる生地軟材(木)の価格が高騰すればその分コストが増えるため、それらの商品を清やイギリスなどから輸入

同じ小国でもコンゴなどのような孤立主義国家と違い、これができるのが強みである。

建設局に続いて価格が安定するまで伐採所を建設(今回は2つ)。続いて工具工房を建設し、伐採所の基礎方式を「製材所」に切り替える。このあたりまでくれば逆に軟材を輸出に回せるほどになるだろう。

序盤の輸出用商品は工具が最適のように思える。周囲の大国はどこも大量に欲しがっており価格が高騰している。茶葉も売れるが、農作物は貴族の力を強めるため可能な限り避けたい(だから生地も基本は輸入で済ませたい)。鉄鉱山も採掘して、工具工房の基礎製法を「銑鉄の道具」に変えることも急ごう。

清は素晴らしいお得意様である。工具に関しては、輸出関税重視にしていてもなおこれだけの貿易収入を見込める。

 

もちろん、お金は足りない。よって、しばらくは税率は最大、公務員給与と軍事賃金も、利益集団の支持度-5ペナルティが発生しない程度にまで下げて、穀物やサービスにも容赦なく消費税をかける勢いで金をかき集めていく必要があるだろう。

その割を食うのは平民たち・・・少し余裕ができるまで、我慢してくれ・・・。

 

 

1839年頃になると所得税や関税の好調によりこの財政も幾分か安定してくる。段階的に税率を戻し、国民の生活水準を回復させにかかろう。

 

と、同じタイミングで、「戦列歩兵」の技術がアンロック。実は生産系でも社会系でもなく、初手でこの技術目指して研究を進めていた。

 

すぐさま兵舎と徴兵事務所の製法を戦列歩兵、およびカノン砲に変え、必要な小火器や大砲を貿易収入赤字でも構わないので輸入開始する。

 

そのまま設備適合ペナルティの外れる1年(開戦までのタイムラグを考えて7~8か月ほど「そのとき」を待つ。

内政が基本とは言え、アチェのような1ステートにも満たない弱小国家が最初にすべきは軍事拡張である。周囲に分権国家と西欧国しかいなかったコンゴと違い、今回はお隣にお誂え向きの小国が存在する。

 

問題は、イギリスが彼を保護の対象として見ていること。この場合、ほぼ確実に介入してくる。

しかしまあ・・・きっと、彼らもこんなところまで軍隊をわざわざ出してくることはない、はず・・・。

 

 

1840年3月1日。

いよいよ隣国シアク・スルタン国に対し、領土要求を突きつける。

 

さらにアチェに対して保護的な姿勢を見せていたオランダ領東インドを恩義を支払って懐柔する。

 

これで敵国に対しアチェとオランダの双方で挟み撃ちすることに。

 

これで盤石・・・と思っていたが、

イギリスのみならずスペインもシアク・スルタン国援助に回る格好に。

 

これは・・・大丈夫か?

 

いや、もういくしかない。

このままスマトラ島北部の小さな領域に閉じこもっていても、どうしようもないのだから!

 

かくして1840年6月30日。

シアク・スルタン国のすべての領土を要求したうえで、アチェ王アラウッディン・ムハンマドは宣戦を布告した!

 

 

アチェ・シアク戦争

北部戦線ではスペイン軍がやってこようとしているがわずか1大隊。

 

一方の南部戦線ではイギリス軍が2万弱を引き連れて上陸しようとしている。オランダ軍も4万弱用意されているが、果たしてどうなるか。

いずれにせよ、彼らがやってくる前に占領地を広げるしかない。

まずは北部戦線初戦、弱体なシアク軍を打ち破るぞ!

 

と思ったら兵数の差もあり、普通に負けている! ここを打ち破れないと間もなくイギリス軍2万が上陸してきてしまう・・・

まあ戦列歩兵と非正規歩兵の差は、攻撃力同士なら10ポイント、防御力同士なら15ポイント差があるが、攻撃対防御だとわずか5ポイント差しかない(戦列歩兵の攻撃力20に対し、非正規歩兵の防御力15)ため、攻勢においては絶対的優位を持つことができない。しかも相手はカノン砲を用意してきている。

 

と、思ったらこの戦闘中に、イギリス軍が来る前の無血開城で占領地を広げていたオランダ軍が北部戦線もそのまま飲み込んでしまった。

再生成された新たな単独戦線。表記上はオランダ軍も残っているように見えるが・・・

実際には西欧軍はすべていなくなり、アチェ軍とシアク軍のみのタイマン空間が生まれる。

一体何が?

とりあえず、一旦ラージャ・イヌ将軍には防衛指示を与え、士気が回復したのちに攻めかかる。

よし、今度は勝っている!

 

10月14日。なんとか勝利! とはいえ1地方しか占領できていない辛勝。

慌てず次も士気が回復するまで待ち・・・第2戦も勝利! しかしこちらも1地方。

 

そうこうしているうちにイギリス軍が戦線に舞い戻ってくる。結局、戦線が弾けたときに本国まで戻されていたのだろうか?

 

これは厳しいか・・・と思っていたらイギリス軍はそのまま防御指示を堅持。

これは僥倖。すでにシアク領の大半を制圧しているアチェ軍にとって、あとは何もしなくとも敵方の戦争支持率が-100%になるのを待ちさえすれば良いのだから。

すかさずラージャ・イヌ将軍に防御指示を与える。シアクのスルタンは、この前線で何もせず待ち続けるイギリス軍の姿を見て、裏切られた思いがしたことだろう。

これこそが、彼らのやり口なのだ!

 

そして1841年1月5日。

 

積み重ねられた戦禍に耐えきれず、シアク・スルタン国は降伏。その領土すべてをアチェ王国が併合することに合意した。

スペインもイギリスもこれ以上戦争を続けることに意味を見出さず、即座に白紙和平。

スマトラ島北部一帯はオランダ占領地以外はすべてアチェ王国のものとなった。

 

史実では1873年に英蘭で結ばれた条約の結果、スルタンこそ残るものの実質的なオランダの植民地となってしまったシアク・スルタン国

その併合はその後のアチェ王国征服への前哨戦であり、そのまま史実のアチェ王国はシアク・スルタン国と同じ運命を迎えることになる。

 

しかし、この世界ではその運命を捻じ曲げた。アチェ王国はオランダよりも先に、このシアクの地を手に入れたのだから。

 

もちろん、オランダはそうは思っていないだろう。今回の勝利はあくまでもオランダの協力の結果であり、彼らはアチェ王国に対して大きな借りを作った。それを彼らがどう使うかである。

 

果たして、トゥアンク・イブラヒムのこの大きな「賭け」は、吉と出るのか凶と出るのか・・・。

 

 

政治改革

さて、シアク・スルタン国領の獲得はアチェ王国にとって思いがけぬ収穫も手に入れることとなった。

何しろ、その本拠地北スマトラ(オランダの所有する北スマトラとの分割州)にはすでに行政府が建てられており、交易路を作るうえでボトルネックの1つだった行政力(官僚制)問題がかなり楽になった。しかもこの北スマトラには、アチェにはなかった石炭が採掘できるのが非常に大きい。

他にも港も多く建てられており、アチェ王国はこれで兵舎7つ、港5つを所有することとなった。

なお、兵舎は戦後すぐ製法を「非正規歩兵」「歩兵集中」に戻し、武器の輸入を止める。余計な軍事費は現時点では命取りになりかねない。


交易戦略もこれでかなり自由度が増していく。相変わらず清は大量の工具を欲しがり、大量の生地を売ってくれるため、この2つだけで関税収入1,000ポンドに達しているのだからありがたい。

輸出関税最大にしてなおこの貿易収入。


交易における行政力コストを削減する「証券取引所」の技術を獲得後、「旋盤加工」「機械工具(メカニカルツール)」の技術を獲得していき、いよいよ産業化も本格化していくことに。

そんな中、知識人および実業家集団の指導者が共に「奴隷制廃止論者」に。


結果、「農奴制廃止」審議における賛成率と反対率とが拮抗する事態に。


これはチャンス!

早速(知識人や実業家勢力ではイデオロギー対立で正当性が低くなりすぎるため)農村民勢力を政権内に入れ、農奴制廃止審議を開始する。

 

1844年2月9日には知識人集団の指導者、サフィウッディーン・アル・カーイラトが農奴制廃止を強く訴える演説を実施。

下の選択肢を選ぶとアル・カーイラトの人気度が50ポイント上昇し、33%の確率で施行成功率が+30%、但し66%で成功率が-10%になるというリターンも非常に大きいギャンブル。

だが、現在成功率12.8%と低いため、10%下がってしまうとかなり厳しい。ここは安全に成功率を上げられる上の選択肢を選んでおこう。

 

結果として見事20%増を引き、成功率は32.8%に。いずれにせよ神イベントだった。


そしてその年の8月7日には早くも農奴制廃止が決定!

地主の影響力に50%のボーナスを与えていた農奴制の廃止によって、地主の影響力は今や32%にまで減少。開始時点の半分近い数値である。

 

そして最重要法律「人頭課税」も賛成する勢力が反対勢力を上回る状況に。

劇的に財政を改善するこの法律を通すことが、アチェ王国の興隆にとっては非常に重要なことである。

しかし、その制定のためには、まずは「伝統主義」の法律を変更する必要がある。

これもまだまだ、伝統主義の貴族たちが強く反対する法律。

その壁を、どう打ち破るか――。

 

そう、考えていたとき。

助けは、意外なところからやってきた。

 

 

アブドゥラー・ムアザムの決断

1847年4月1日。

国内の稲田を独占的に所有する貴族たちの意向で長年続けられてきた、外国の穀物輸入を制限する「穀物」について、これに異を唱える人物がなんと貴族たちの中から出てきたのである。

穀物に重点的な輸入関税を付けることで発生する穀物法イベント。中にはどちらの選択肢を選んでも地主階級の影響力を上げてしまうバッドイベントもあるが、こういう神イベントも存在する。

 

彼の名はアブドゥラー・ムアザム。貴族でありながら市場自由主義者であり、旧態依然としたアチェ王国の伝統を捨て去り、新たな時代に適応しようと考える、新世代の改革者であった。

そんな彼が強力なアリー・ビン・ニクに代わり、地主階級の指導者の座につく。

そしてそのイデオロギーゆえに、まさにトゥアンク・イブラヒムが目指していた伝統主義の廃止に賛同し、レッセ・フェール政策へ舵を切ることを承認したのである!

元々、社会系技術の「ロマン主義」を取ってから地主があまり反対しない農本主義を通って、と考えていたので、一気に近道ができた形だ。

 

1849年4月27日には無事、制定完了。

続けざまに実業家集団を政権内に入れ、人頭課税の審議に入る。

正当性は一気に29にまで落ち込む。


地主集団はこの法律変更に強烈な抵抗を見せるが、その首班、アブドゥラー・ムアザムはこれをなんとか抑え込む。

そして1850年4月21日。

審議開始からわずか1年で、スピード制定。

百姓(小作農)からのみ徴収する地税を抑え、すべての国民が平等に低額を支払う人頭税を追加、そして収入に合わせて支払う額が決まる累進性の高い所得税の税率を上げるというこの税制改革は、貴族たちにとっては既得権益を失うこととなる許されざる改革であった。

しかし、百姓たちもやがて鍬を捨て、少しずつ工業化していく国の労働力になっていってもらわなければならない。そうなったとき、かつての法のままでは変化に対応できない。この法律は、この国の今後の発展には必要不可欠なものであることを、ムアザムはよく理解していた。

 

とはいえ、度重なる急進的な改革に、貴族たちの抵抗もより強くなっていく。

ムアザムとトゥアンク・イブラヒムは、この国の改革を邪魔する勢力を完全に抑え込むべく、次なる決定的な改革に着手する。

すなわち、選挙制度の制定。それも、貴族たちに都合の良い土地所有者限定選挙権でも富裕者投票権でもなく、完全に平等ではないものの極力まで制限をなくした「制限選挙」の制定である。

 

当然、貴族たちの抵抗は甚大だ。

トゥアンク・イブラヒムの口添えもあり、スルタン・アラウッディン・ムハンマド自ら貴族たちの前に立って法案の成立を訴えることも行ってみる。

法案の審議は進んだが、貴族たちの怒りはむしろ高まる結果にもなってしまった。

 

そして1852年1月22日。

ついには政府内のイデオロギー対立が決定的なものとなり、法案審議どころではなくなってしまった。

新パッチで新しくなった正当性システム。とくに多くの国で最初から用意されている強力な地主を支持基盤とした君主の下での専制政治では、彼らに反対する法案を通すことがかなり難しくなり、面白くなった。色々改革する前にこの専制政治を変えることが今まで以上に重要になったわけだ。今回はそれに気づくのがちょっと遅かった。


どうしたものか・・・と悩むイブラヒムに、アブドゥラー・ムアザムは「私に任せてくれ」といつもの不愛想な表情で提案する。

その言葉に従い、イブラヒムは政権から実業家を外し、とにかく審議を進めることを優先した。

その状態で制定成功確率はわずか10%
普通に考えれば絶対に無理な数字だが・・・

 

1852年4月6日。

まさかの一発制定! 貴族たちだけになった議会の中で、ムアザムは懸命に彼らに訴えかけ、その制定を説得しきったのである。

完全にダメ元でやってみたのだが、まさかの僥倖。ただ、こんなギャンブルをする前に、色々手を打つべきであった。


但し、これはとある条件付きであった。

それはすなわち、最初の選挙においては地主を含めた保守的な思想を持つ勢力同士でのみ集まった「保守党」のみ、結党を許可するというもの。

その密約通り、6月10日にこの国で最初の政党「保守党」が成立。

そのまま10月20日の選挙では当然、この保守党が100%の得票を得て当選。

政権はこの保守党の一党独裁によってスタートすることとなる。

いわば、専制政治とほとんど変わらない、形式だけの選挙。

しかし、その妥協を経てもなお、この選挙がまず行われたということが重要であった。

ムアザムはことさらにその意義を強調し、地主階級が自ら総意としてこの道を選んだことを喧伝、彼らにとっても引くに引けなくなる既成事実を作りにかかった。

 

事実、この政党システムの導入は、この国にとっては大きな意味をもたらした。

これまでは弱体化した地主単独でも稼げなかった正当性が、保守党という形で4勢力結集したことにより1005に到達。

ブルジョワ勢力が賛成し、地主勢力の影響力をさらにそぎ落とすことのできる「任命制の官僚」、同じく小ブルジョワが賛成する「移住規制」、そしてスラウェシ島ニューギニア島への植民を開始できるようになる「植民地搾取」など、これまで通すことのできなかった各種重要法案を次々と通していく。

実力主義イデオロギーを持つ小ブルジョワ勢力は、自分たちの影響力を高めることのできる「選挙制の官僚」を支持するが、元々の「世襲制の官僚」よりは、知識人層に有利なこの任命制の官僚の方がマシと考えている。

ブルジョワ勢力は非常に差別的で排外的な集団である。ゆえに彼らは非差別民族すら自由に出入りを許可する「移住規制なし」には反対するが、自分たちの仲間である差別されない人びとの移動の自由については強く賛成する。

自国の発展のため植民地を利用しようという植民地搾取の法律については、実業家集団以外にも好戦主義(ジンゴイスト)を基本として持つ軍部が賛成してくれる。


もちろん、烏合の衆とも言える保守党では内部でも意見が一致しないということはざらにある。以下はその一例。

 

移住規制法案に対してアチェ王国国内の最大勢力であるスマトラ人たちが強烈に反対するイベントも。こういったイベントが一つ一つ面白く、没入感を得られる。

 

それでも、今や貴族たちを完全に掌握したアブドゥラー・ムアザムという盟友の獲得により、トゥアンク・イブラヒムは国内の改革を順調に進めていくことができていた。

 

国内は問題ない。

あとは、対外政策だ。

 

 

アチェ・ポンティアナック戦争

アチェ王国は初期領土で硫黄・鉄・染料・砂糖が採れ、シアクから奪った北スマトラには石炭も採掘できるため、序盤で必要な大体の資源が揃う形となっている。

唯一、欲しいのになかなか手に入らないのが。その鉛が採れ、しかも金まで採掘できる素晴らしい国がこのカリマンタン島ボルネオ島)西部に位置するポンティアナックである。

しかもちょうど行政府を建ててくれているところ・・・それごともらってしまえそうだ。

 

共に独立を目指すインドネシアの同胞を手にかけるのは胸に痛いが、まずはインドネシアの国々の中からまずは抜きんでて強い国家が生まれる必要がある。

その力のすべてを余さず活用してみせる・・・偉大なるインドネシアの種たるアチェの一部となってくれ!

周囲にはこの国を「保護」しようとする国がいなかったため、いけると踏んだ。が・・・

 

!!!???

 

そうか、オランダ東インドと本国とは分けて考える必要があった。たしかに、本国オランダはポンティアナックを「保護」対象と見ていた。

 

とはいえ、所詮は陸軍2万、海軍2万6千の弱小国。陸軍だけでいえばオランダ東インドの方が強いまであるこの国が一人きたところで、恐くはない。

 

覚悟を決めて、1855年3月4日、開戦!

 

こちらの戦略はこうだ。この日に向けて前回の戦争以来コツコツと増やしていたアチェ王立海軍10艦隊を、アリー・リアット・シャー提督に率いさせて開幕早々上陸作戦を仕掛けるというもの。

 

本来、上陸作戦は真正面からやろうとするとかなり難しいものなのだが、今回ポンティアナックは1大隊しか所持していない弱小国家。先のシアク戦争でも活躍したラージャ・イヌ将軍率いる王国の精鋭1万人で攻めかかれば、問題なく攻略できるだろう。

 

4月23日。さすがに優勢のまま上陸戦は進む。各種ペナルティで戦闘力自体は敗けているが、数で圧倒しているため問題なく駆逐できる。

 

と、思ったら同時にオランダ軍も上陸戦を仕掛けてきている!!! スマトラ島最北端のクラ・ラージャの港に強襲を仕掛けてきた!

 

が、これをなぜか分身していたラージャ・イヌ将軍がきっちりと防衛! え? なんで? 前回の戦線分裂といいゲームのバグに助けられている感はあるが、まあいい!

そして、同じ兵数同士なら負けることはない。何しろこの日のために、他を犠牲にしてまで「参謀本部」の技術アンロックを優先し、この時代の西欧諸国の最先端である散兵を解禁しているのだから。小火器も弾丸も自給生産し、万全の準備を整えたうえでの開戦であった。

ただ、不可解だったのが、設備適合も起きていないし物資不足も起きていないのになぜか通常の数値より低い数値しか出せていなかったこと。一体何が原因なんだろう?

 

50日間の激戦の末、なんとかオランダ軍を海に突き落としたラージャ・イヌ将軍。

 

同時に敵本土も全土制圧完了。あとは自国本土で続けてやってくるであろうオランダ軍の上陸に備えながら待つばかり・・・

 

と、思ったらそれ以上の上陸は仕掛けてこず、1856年1月6日にポンティアナックが降伏。

オランダも向こうから白紙和平を提案してきたため、問題なく受諾。

 

アチェ王国の領域はついにスマトラ島を出て、ボルネオ島に到達することとなった。

金が、金がうまい!

 

これでひとまず、軍事拡張は終了。

正直、想像していたよりも西欧国の介入が多く毎回冷や汗もののため、これ以上無理を通すのは難しいと判断。

ここからは関税同盟を広げその中での移民獲得を目指して拡張していくこととする。

 

 

と、いったところで最初の20年が終了。

ここでここまでの状況を確認していこう。

 

 

1856年のアチェ王国状況

まずはGDPだが、この20年で実に23倍(£165,000→£3,820,000)の成長を遂げた。

人口も約3,3倍に膨れ上がり35万人から116万人に。ただこれは併合による増加がほとんどで、自然増加は微々たるものである。

いつもの推移表で見るとこんな感じ。1846年の記録と合わせ10年ごとの推移をどうぞ。

やっぱり初期の頃のバージョンと比べると生活水準は上がりにくくなっているように感じる。今回、常に税率を高めにしていたのもあるが(1856年時点でも「高水準」状態)。

また、前回・前々回と関税に頼ったプレイをしていたので、今回は出来るだけ早く自由貿易にしてその効果を検証してみよう・・・と思っていたのだが、結局関税に助けられる部分が多く手放せない。自由貿易とどちらが良いのかって実際どうなんだろう? どこかで切り替えて検証してみたいところ。

そんな1856年時点の関税内訳はこんな感じ。

前回の大地主経済とは逆に、基礎商品は輸入で賄い、限られた人口は工業に投入する方針でいるため、大量に輸入している穀物や生地からの関税収入が大きい。結局穀物法は撤廃していないのである。但し国内の稲田は全て干上がらせたので貴族は涙目。

人口状況はこんな感じ。

アチェ王国は債務奴隷制を最初から所持しており、途中税率を高くして平均生活水準8ポイント近くまで下がった時期を経て、大量の奴隷が生まれてしまった。元々は1万2千名で全体の4番目の多さだったのが、1856年時点では15万8千名にまで膨れ上がっており、労働者の次に多い層となっている。

なお、スタート時点では27万5千名で全体の8割近くを占め圧倒的多数だった百姓は20年間で3%弱にまで落ち込んでいる。完全に働き手不足状態である。

その他、交易所を管理する商店主、港や建設局で働く事務員らが数も影響力も多く、実業家集団や知識人層が政治の中心に立つ下地が出来上がりつつあることがわかる。

 

この国の最多数派と思われるPOP。まだまだ貧困にあえいではいるが、冒頭の苦境に立たされていた頃から比べると少しはまともになったかな?

 

文化・宗教の状況はこんな感じ。

バタクとはスマトラ北部のトバ湖周辺に住むプロト・マレー系の民族で、ゲーム中ではオランダ東インドアチェの多数派民族となっている。彼らのほとんどが精霊信仰である。また、ダヤクはボルネオ島に住むプロト・マレー系先住民で、ポンティアナックの人口構成の4分の1が彼らで占められていた。スンナ派が多数派だが精霊信仰もそれなりにいる。粤(えつ)はゲーム上は広東の多数派民族で、かつてこの地に存在した百越と呼ばれる民族が、秦の始皇帝統一時代に流れ込んできた漢民族と同化する中で生まれた民族である。大乗仏教徒は当然彼らの中にいる。

 

アチェ王国の初期の市民権は「国民至上」のため、東南アジア地域に住む民族は広く受容対象となっている。

 

一方宗教法律は「国教」であり、スンナ派でないものは容赦なく差別するが、東南アジア地域はほとんどがスンナ派のためとくに問題はないだろう。権力の便利さを前回・前々回のプレイで味わってしまったのであまり変えたくはないのが本音。

 

 

次回は平和的に勢力を拡大しつつ、少しずつ西欧国、とくにオランダに対して「復讐」する機会を探れればと思う。

果たして、トゥアンク・イブラヒムは王国を過酷な運命から守り、そしてその先の「大インドネシア」への礎を作ることができるのか。

 

第2回へ続く。

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