史実では20世紀初頭にオランダによって滅ぼされてしまうスマトラ島北端の小国アチェ。
その運命が目前に迫る中、国内で権力争い時と権益保護に精を出す貴族勢力を前にして、現スルタン・アラウッディン・ムハンマドの実兄にしてラジャ・ムダ(副王)の地位につけるトゥアンク・イブラヒムは、国家の抜本的な改革の必要性を痛感していた。
手始めに隣国シアク・スルタン国を、仇敵オランダの手を借りるという決断を果たしながら征服したイブラヒムは、続いて国内の改革に着手。
勃興してきた資本家や知識人たちの力を借りまずは農奴制を廃止。反発する貴族たちの中からもアブドゥラー・ムアザムという良き協力者が生まれ、彼の力を借りて制限選挙の導入や人頭課税制度の制定など、国をより強くしていく改革を進めていった。
さらにイブラヒムは、海を隔てたカリマンタン島(ボルネオ島)のポンティアナック・スルタン国に侵略。オランダの本国政府がここに介入してくるも、その上陸をラージャ・イヌ将軍が迎え撃ち、見事目標を達成した。
ここに、アチェ王国はスマトラ島を脱出し、マレーの海をまたぎながら拡張することに成功したのである。
トゥアンク・イブラヒムはここに「インドネシア」帝国を築き上げるべく、続いてこの多島海の国々に友好の使者を送っていくこととなる。
果たして、そこに理想の帝国は成立しうるのか。
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目次
前回はこちらから
インドネシア関税同盟と諸改革
前回の戦争を経て、トゥアンク・イブラヒムは国家の戦争状態を解除。兵舎のすべての製法を元に戻し武器工場も大砲生産を停止。税率も「普通」の状態に戻すことで国民生活の安定を図った。
さらに1858年に中央銀行の技術をアンロックしたことによって、他国に資金援助ができるようになる。
国力の成長によって国家ランクが未承認国から未承認地域大国にランクアップしたこと、同じくGDPの成長によって小国が簡単にアチェ王国の関税同盟に入ることを承認してくれる状態になったことを受け、早速それらの国々に資金援助を開始。
恩義を得た上で最後の承認スコア50ポイントを稼いで経済的従属国に仕立て上げる。
同じようにしてインドネシアの小国たちに次々と関係改善および融資を行い、関税同盟への組み込みを進めていく。
いずれも小国たちばかりなので、融資によるアチェ王国の経済的ダメージは極小に留まるため気にする必要はない。
ただ、中にはわざわざこちらに「対立」してきたりして、傘下に入ることを良しとしない国家もある。たとえば歴史的にもマラッカ海峡の貿易を巡り幾たびも争い続けてきたこのジョホール王国。
そういったところは武力で脅しつける必要がある。
ジョホール王国がどの国からも「保護」対象となっていないのを確認し、アチェ王国への併合を要求する。
最終的にはジョホール王国も抵抗を諦め、アチェ王国の一部となることに同意。
これにてマラッカ海峡を挟む2つの貿易大国は一つになり、史実を超えた「大インドネシア」実現に向けての大きな一歩を踏み出すに至った。
さて、対外的な政策を進めているうちに、国内でもいくつかの変化が。
まずは1856年4月8日。アチェ王国2回目の選挙に向けて、保守党以外の初の政党となる「自由党」が成立。
国内で最も先進的な改革を目指す実業家集団と知識人層とが手を組み、とくに知識人層が大量の得票を予定しており保守党に対して優勢の構えを見せていた。
そして1856年10月8日に行われた第2回選挙では自由党が見事勝利。
これを受けて成立した新政権にて、両派閥が強く主張する「奴隷制の廃止」を審議開始。
圧倒的な成功率で1857年4月5日には奴隷制禁止が制定。
この国で長きにわたり多くの国民を苦しめてきた奴隷制が、これで廃止されたのである。
続いてリベラルなアル・カーイラトの希望に沿って「女性の財産権」を審議開始。女性の職場参画を促し、この国の成長の妨げとなっている労働人口の確保に貢献できることは、トゥアンク・イブラヒムにとっても利益と言えることであった。
女性の権利を巡る画期的な裁判も行われる。少しずつこの国も、産業以外の面での近代化が進みつつある。
だが、そんな自由党による政権も、1864年に終わりを告げる。
これまでこの党を引っ張り続けてきたカリスマ指導者アル・カーイラトが60になる前に早すぎる死を迎え、同じ奴隷制廃止のイデオロギーを持ち共闘関係にあった実業家集団と知識人層とが対立。結果、実業家集団が「自由貿易党」を新たに結党し分裂してしまったのである。
新しい知識人層の指導者は「嫌われ者」で求心力はなく、そのまま小ブルジョワ・スンナ派ウラマー・軍部が集結した保守党が勝利。再び政権交代となってしまった。
この保守党政権では新たに「宗教学校」の法律を制定。この国で最初の初等教育が実現すると共に、国内にまだ4%ほど残っている未開宗教・異教徒たちを改宗させていく。
さて、国内政策も紆余曲折ありながら充実していく中、いよいよ関税同盟の輪も広がっていき、インドネシアの小国たちが加盟するアチェ王国が主導するインドネシア経済同盟は大きな広がりを見せていくこととなる。
その意義は何と言っても市場間移民の存在。長らく人がいなさすぎて新しい施設も建てられず経済成長が止まり続けていたアチェ王国の救済となってくれる、はず・・・と、思っていたら――。
あれ? アチェ王国の植民地からしか人は来ず、その他の関税同盟国家からはいつまでたっても人が来ないよ?
まさか。
確認すると、どの国家も「国境閉鎖」の法律が制定されており、国民の脱出が認められていなかった!
そういえばアチェ王国も最初は国境閉鎖していた・・・。
その事実に、早く気付くべきであった。
関税同盟拡張による移民獲得政策は何の意味も持たない。
結局は、武力で植民地を広げるしかない! 結局戦争に頼らざるを得ない、このゲームデザインは何とかするべきでは??!!
よって、まずは小国ブトゥンを屈服させ、アチェ領セレベス植民地に編入させる。
さらにボルネオ島北東端とその沖合に広がる島々を支配するスールー王国に属国化要求。
この戦争には狙いが2つある。1つは、そのままスールーを属国化し将来的に併合すること。そしてもう1つは、この国と防衛協定を結んでいるオランダ領東インドを戦いに引き込むこと。
史実では、このあとのアチェ戦争によって王国を滅ぼすこととなる仇敵オランダ領東インド。
その歴史に、復讐すべきときが来た!
スマトラ戦争
思惑通り、オランダ領東インドのみが参戦し、その本国含め西欧諸国の介入はなし。このギリギリのタイミングで各州要求を追加し、かつ動員もこのタイミングでかける。
すでにラージャ・イヌ将軍はこの世を去っているため、今回の作戦を実行するのは軍部出身のアアザム親子。リアヤト・アアザム(60歳)とムアビディン・アアザム(37歳)である。それぞれ「悪党」「残虐」といった性格で嫌われ者ではあるが、腕は確かである。
まずは動員したリアヤト・アアザム(大アアザムと称する)をスマトラ戦線に配備。
敵の10個大隊がこちらに配備されてくる。こちらは首都絶対死守ラインである。
さらに無防備なボルネオ戦線にも蘭印軍19大隊がやってくる。これで蘭印軍は全部隊が配備された。狙い通り。このボルネオ戦線及びアチェ領西ボルネオは、あえて「捨てる」覚悟である。
そして1866年11月5日、開戦。
アチェ王国の歴史への復讐が始まる。
開戦と同時にユースフ・ベンダーラ提督に敵首都バタヴィアに向けた上陸作戦を指示。
ただ、ここで1つ、ミスをしてしまった。
本当はここで息子のムアビディン・アアザム(小アアザム)に上陸作戦を行わせるつもりが、そういえば彼はインドシナ司令部に配備しており、艦隊の所属するインドネシア司令部ではなかったことを失念。スマトラ戦線で防備させる予定だった大アアザムを向かわせることに。
結果、スマトラ戦線は無防備に。すぐに小アアザムも向かわせるが、間に合わない!
だが、未使用の兵舎が残っている関係で、指揮官なしでも数を揃えて現地兵たちが自ら防戦を敷いてくれ、十分に守り切れている!
それはボルネオでも同様。指揮官なき兵士たちが次々と敵兵を打ち倒していってくれている!
12月2日、スマトラ戦線で見事勝利!
ボルネオ戦線では惜しくも敗れるが敵の被害も拮抗しており、また奪われた領地は1地方に留まった。よし!
母国で同胞たちが奮迅する中、使命を帯びた大アアザムは12月25日、ついに敵首都バタヴィアに上陸。ただちに9地方を占拠し、バタヴィアもその支配下に置いた。
スマトラ本土では息子の小アアザムも無事先陣に到着し、その「防衛戦略専門家」の特性を活かし、8,000人の蘭印軍を壊滅させる。キルレシオ10倍の大勝利だ。
続けて行われた戦いでは小アアザム、わずか4,000の兵で蘭印軍の1万人の軍に対して競り勝っている。凄い!
ただ、この戦いは50日に及ぶ激戦の末、最終的には惜しくも敗れてしまう。それでも、奪われたのは1地方だけ。まだアチェ王国の首都には届いていない!
ボルネオ島はすべて蘭印軍の占領下に置かれ、そこから首都防衛部隊も戻ってきた。ここで大アアザムに防衛の指示を与える。数では勝っており、十分に守り切れるはず!
何しろ、こちらは蘭印の首都をすでに奪っている状態。戦争全体の戦争支持度では拮抗しているように見えるが、実際にはオランダの戦争支持度がガンガン下がっている状態。
スールー一人残れば全く敵ではなくなるため、とにかく早期にオランダの戦争支持度を-100%にまで落とし、無条件降伏させる!
ただ、そのためにはスマトラの首都を守り切らないといけない。
オランダ軍もそれをわかり切っているため、全力の攻勢に出る。さしもの小アアザムも厳しい!
果たして、間に合うのか・・・?
しかし、1867年6月17日。
ついに、オランダ領東インドは降伏を宣言! アアザム親子の決死の防衛戦は間に合い、アチェ王国は見事、歴史への復讐を果たしたのである!
残ったスールーは当然、敵ではなく、1868年1月22日に降伏。複数州を所有していたスールーはいきなり併合されるのではなくまずは属国となった。
この偉大なる勝利によってスマトラ半島は、アチェ市場に入っているジャンビ国以外はすべてアチェ王国の直轄地に。まずはスマトラを、西欧のくびきから解き放つことに成功したのである。
但し、この勝利が王国に新たな歪みを生むことにもなる。
アッラーの下の平等
新たにアチェ王国の支配下に置かれた南スマトラは、これまで支配層であったオランダ人たちが多数派を占めている。
しかし彼らは今や「国民至上」を掲げるアチェ王国の領民となっており、パレンバンに住むオランダ人たちはスマトラ人たちに激しく差別される立場となっていた。
だが、そのような状況はトゥアンク・イブラヒムにとって望ましい事態ではなかった。彼が目指すのはあくまでも「インドネシアの独立」であって、本当の意味での復讐を彼ら西欧人たちにしたいわけではない。
そして、その「インドネシア」に住む人々を余さず国家の繁栄に貢献させるためにも――新たなる改革「多文化主義」の制定へと舵を切る。
奇しくも実業家集団が自由党に復帰したことで、1868年の選挙では再び政権交代が行われた。これを機に「多文化主義」制定に向けた審議を開始。
知識人層はこの制定を確実なものとするために、有能なオランダ人政治家ローレンス・ファン・ヴィンガーデンを集団の指導者に据え、オランダ人であってもこの国のために尽くす気概があることを主張した。
だが、この国に根強い彼らオランダ人に対する差別感情は小ブルジョワを中心に広がっており、怒れる彼らは街中で激しい排斥運動を繰り広げていった。
これらの抵抗をかいくぐりながら、1872年4月17日。
ついに多文化主義が制定! アチェ王国に住むものはどの民族であっても差別されないことが決まった。
ただし、「国教」はそのまま。アチェ王国に住むあらゆる民族は差別されないが、それはスンナ派信仰している場合に限る。
代わりに「宗教学校」の法律を制定しており、この後も行政力を消費して投資し、レベルを上げていく予定。積極的に国民を改宗させ、アッラーの下での平等を実現する。
なお、その年の8月、ファン・ヴィンガーデン氏が亡くなったというニュースが。まだ28歳。自然死にしては違和感があり過ぎる。
その6日後には小ブルジョワ集団の指導者アブドゥラー・ベンダーラが亡くなる。法律上差別はなくなったが、この問題を巡る課題はまだまだこの国には山積していそうである。
その後も、1873年。
スールーの併合を決めたアチェ王国に対し、オランダ領東インドが再び介入。
アチェ王国はさらなる蘭印の領土を要求し、これを迎え撃つ。
先ほどと同様にボルネオ島などで敵軍を引きつけながらのバタヴィア強襲上陸を行う。
その途中でアチェ王国軍が蘭印軍を侵攻戦で倒すというこれまでにない場面も。我が軍は強くなっている。確実に。
そして1874年1月6日、オランダ領東インドは2度目の降伏。
1874年9月にはスールーも降伏し併合されたため、アチェ王国はこの東南アジア地域に13州を領有する国家へと成長を遂げることとなった。
だが、そんな国家の繁栄のさ中、スルタン・アラウッディン・ムハンマドが崩御する。
史実では1838年に早くも亡くなっていた彼が、この世界では72歳まで生きながらえた。
決して政治に熱心な男ではなかったが、兄トゥアンク・イブラヒムとは固い信頼で結ばれ、その改革にときに協力し、ともにこの国の強大化に尽力してきたのは確かだった。
その後継者となったのはアラウッディン・ムハンマドの嫡男アラウッディン・スレイマン・アリー・イスカンダル・シャー。
史実では幼くして父を亡くし即位し、トゥアンク・イブラヒムの摂政を受けるが、成人した際にはその実権を要求して内戦を引き起こしたことも。彼も史実では長くはなく、1857年に29歳で亡くなるが、この世界ではここまで生き延び続けていた。
しかし、「アヘン中毒」にもなっており、国民からの人気は劣悪。「大衆の敵」とまでみなされてしまっている。
伝統主義者であり、政権を握る自由党員たちとの関係も芳しくなく、この先のこの国の行方にも幾何かの不安を抱えることとなってしまった。
しかし、トゥアンク・イブラヒムももう、これ以上政治に関わることは難しそうだ。
弟を先に喪い、最後まで多文化主義を巡る政治の動乱の中に身を置き続けていた彼は、いささか疲れすぎていた。
まだまだ大インドネシアの実現までは遠いが、それでも宿敵オランダを打ち破り、そしていよいよ大規模移住も発生し始めたことで、長らくこの国の発展を阻害してきていた人口問題にも解決の兆しが見え始めた。
きっと、後世の「インドネシア人」たちは、彼の夢を叶えてくれるに違いない。
そんな風に思いながら、トゥアンク・イブラヒムは彼の長い生涯にも終止符を打つこととなった。
1876年のアチェ王国状況
それでは最後に、1876年時点のこの国の状況を見ていこう。
まずはGDP。20年前からさらに6.5倍に増大し、2,510万ポンドに到達。世界13位と、列強の背中が見えてきた。
人口は20年前の3.3倍に膨れ上がり473万人に。こちらはまだまだ併合による増加が中心で世界ランキングでも上位には届いていないが、これからは大規模移住がどんどん発生し、一気に増えていくことが予想される。
2度の大規模移住のターゲットになったことによりアチェ王国最大の人口を抱えることとなった北スマトラは人口120万に到達。スンナ派が多数派を占めるキルギス人たちが多く移住してきている。
20年ごとの各経済数値の推移はこちら。
生活水準は大きく上がり、世界4位に。識字率も50%を超えた。
収入は相変わらず関税収入が大きな割合を占めている。一方でその維持のための港の維持費が結構嵩んでしまっているため、その整理と、そもそも貿易に頼らない経済基盤を作っていく必要がある。どこかで自由貿易も試したいしね。
各職業の人数と政治力の割合は以下の通り。奴隷はいよいよいなくなり、20年前は突き抜けていた商店主の政治力も、次第に労働者の政治力がそこに追い付こうとしている。
1876年1月1日時点ではまたも実業家が自由貿易党を結党して自由党を抜けた一方、勢力を増してきた労働者たちが自由党に合流。
ただし知識人層も自由貿易党に合流しようとする動きも見せているため、その前に労働者組合は自分達の政治力をさらに高めるために1875年3月13日に普通選挙を制定。アチェ王国に住むすべての成人男性が投票に参加できるようになった。
その勢いのまま現在は「比例課税」の制定に向けて審議中。国力のさらなる増強に資する改革ではあるものの、かつては貴族の既得権益を剥がすための改革を行っていた資本家たちが、新たな既得権益層としてそこに立ちはだかっている格好だ。
果たして、この改革は成功するのか。
選挙は今年の10月6日。そこでどうなるか、である。
国内の民族分布はこのような形に。少しずつ世界中から移民が集まりつつあるのと国家の大拡張によって、元々の主要民族であるスマトラ人は4割近くに。そしてオランダ人は全体の5%を占めている。
そんなオランダ人たちも、スンナ派に改宗することで差別なく伸び伸びと暮らすことができる。「宗教学校」の投資レベルもすでに3にまで上げており、少しずつ、アッラーの教えに帰依するオランダ人も増えていくことだろう。
と、いうことで最初の40年が終了。
トゥアンク・イブラヒム亡き後、このアチェ王国――いや、今や「インドネシア連邦」と称してもよさそうな状況になりつつあるこの国は、果たしてどうなっていくのか。
第3回へ続く。