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【Victoria3プレイレポート/AAR】虹の旗の下で 喜望峰百年物語 後編(1896年~1936年)

 

19世紀前半にイングランドの植民地として再スタートを切ったケープ植民地。

しかし彼らは次第に本国政府から切り離された「南アフリカ人」たちの自治国家としての自立を志向し、様々な改革を行っていた。

エドムンド・フェイン、アベル・マクレガン、アレクサンダー・ロウサー、ナサニエル・ステープルトン、ルイス・スミット、セシル・ローズ・・・本国から派遣された総督や現地財界の有力者、責任ある政府の設立を目指す自由主義議員に労働者の権利を求める活動家、そして「鉱山王」など、それぞれ立場も思惑も異なる者たちが絡み合い、やがてその流れは50年の時を経てその瞬間を迎える。

 

1895年12月24日。

ケープ植民地――改め、「南アフリカ共和国」は、本国イギリス政府に対し、独立を宣言した。

 

 

喜望峰の民は、どんな運命へと帰着するのか。

 

目次

 

前編はこちらから

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これまでのプレイレポートはこちらから

パクス・ネーエルランディカ:オランダで「大蘭帝国」成立を目指す。

1.2オープンベータ「ロシア」テストプレイ

MOD『出版産業の興隆』で遊ぶ大英帝国RP重視プレイ

強AI設定で遊ぶプロイセンプレイ:AI経済強化MOD「Abeeld's Revision of AI」導入&「プレイヤーへのAIの態度」を「無情」、「AIの好戦性」を「高い」に設定

大インドネシア帝国の夢

大地主経済:ロシア「農奴制」「土地ベース課税」縛り

金の国 教皇領非戦経済:「人頭課税」「戦争による拡張なし」縛り

コンゴを自由にする

アメリカ「経済的支配」目標プレイレポート

初見スウェーデンプレイ雑感レポート

 

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南アフリカ独立戦争

開戦と同時に、今回の独立戦争に合わせて参戦してくれることを約束してくれていたスペイン王国が、英国に占拠されたジブラルタルの砦を18万の兵で包囲。

これを救出にやってきた英海軍をジブラルタル沖で破るなど、快調な滑り出しを見せていた。

しかしあらかじめこの動きを察知していたのか、ジブラルタル砦に駐留していた英国人は思ったよりも多く、陥落させられるどころか逆に押し返され、1896年2月頃にはイベリア半島南部を占領され始めていった。

 

元より直接支援はできないことを双方定めていたものの、遠方から届けられるスペイン軍の劣勢にやや心を痛めるルイス。

とは言え、彼らがこうやって時間を稼いでいる間に、彼らは広い南アフリカの沿岸部の守りを固めていく必要があった。

沿岸部の高台に堡塁を固め、手動クランク式機関銃や榴散弾砲を並べていった。

 

1896年8月12日にスペイン王国は降伏。

プロイセンとの戦争も1897年7月18日に白紙和平を結んだようで、いよいよ英本土軍がやってくる頃合いだ。

 

そして1898月3日13日。

ついに、最初の上陸部隊がやってきた。

ケープタウンポート・エリザベスとの間に位置するジョージの港町に直接乗り込んできた上陸軍。

しかし相手は英本土軍ではなく、英領インド帝国軍。武器も旧式で数も1万程度しかなく、防衛を任されたマーティヌス・クルーガー中将はこれを難なく撃退する。

ドイツ系の移民の子孫であるクルーガー将軍は、ニジェール川戦争で散っていったヘルマヌス・シェーマン将軍を敬愛しており、自分だけが本土に残り先立たせてしまったことを深く悔いていた。今回の独立戦争についてもすぐさまルイスに同調し、「弔い合戦」を行う意志を強くしていた。防衛戦術に精通しており、ルイスとしても本土防衛の要として期待していた。

 

しかしその1か月後の5月3日に、2回目の上陸戦が行われる。今度はケープタウンの北に位置する何もない海岸地帯に、最新鋭の装備を身につけた英本土軍が3万超の兵で上陸してくる。

だが、これも事前に察知していたクルーガー部隊が現地に駆け付け、塹壕を掘って全力の防衛。

英国軍も3万の兵を連れてきたはずが、南半球の先端まで2カ月近い航海を経る中で、多くの兵士が戦う前から戦闘不能に陥っていたようだ。

1カ月超の戦いを経てこれを撃退。

その頃、フランスがイギリスに対して宣戦布告し、アフリカの植民地各地で戦闘が勃発。

度重なる戦争、そして直近の2つの戦争でうまくいっていないことについて英国内では反戦運動が激しく展開されており、内閣の支持率が急落している。

その反戦運動の先頭に立っていたのが政界から引退していたはずのアレクサンダー・ロウサー。

彼は元ケープ植民地総督として、彼らが誇り高き同胞であり、その自由と自治とを尊重するべきだと力強く訴え、市民の支持を集めていた。

 

それでも、ここで引き下がるわけにはいかない!と軍部内の強硬派をまとめる立場にあったトリスタン・ディルウィン元帥が10万の兵を率いてジョージに上陸。

だがこれも、クルーガー将軍が植民地内の兵をかき集め5万の防衛軍を組織したことで、なんとか押しとどめることに成功している。

 

そして、この上陸戦が続いている間に——本国から、和平条約の調印を求める使者がケープタウンにやってきた。

これを迎え入れたルイスは、早速和平条約の締結を進めていく。

1898年7月27日。ケープタウンで結ばれた「ケープタウン協定」は、ケープ植民地の独立を全面的に認める、事実上の英国による敗北宣言となった。

 

これを受けて、イングランド人とアフリカーナーによる独立国家「南アフリカ共和国」が成立した。

これまでのケープ植民地では英語のみが公用語であったが、新しく発布された憲法では英語だけでなくオランダ語アフリカーンス語)も公用語とされた。

 

そしてルイス・スミットはその初代大統領として就任し、国民からの盛大な歓呼を受けることとなったのである。

クルーガー将軍率いる5万の「南アフリカ自由軍」は聴衆の喝采を集めながらケープタウンの中央広場を凱旋した。

 

大いなる目標を見事果たして見せたルイス。

しかし、本当に大変なのはここからであり、凱旋式の後、彼は慌ただしくケープタウンを発つ準備を始めていた。

 

 

果たすべき責務

1898年10月15日。肌寒さに身を震わせながらパリのオルセー駅に到着したルイスは、そのまま馬車でテュイルリー宮殿へと向かった。

そこで彼を待っていたのはフランス王国閣僚評議会議長ジョルジュ・ブーランジェ

ジョルジュ・ブーランジェは対英強硬派の筆頭であり、国防大臣を務めていた10年前のニジェール川戦争を主導、これを成功に収めたことにより国民的人気が絶頂に達し、1889年の選挙で閣僚評議会議長の座を射止める。なお、この世界のフランス王国オルレアン朝が継続しているもののその王権は極端なまでに制限されており、閣僚評議会議長も選挙で選出され、行政の中心を担っている。

 

ルイスと対面したブーランジェは和やかな様子で右手を差し出し、握手をした。そのまま隣接する応接間へと入ると、ソファに座って南アフリカ産のワインを口にしながら会話を始めた。

ブーランジェはまず、ルイスに独立戦争の勝利を祝福し、南アフリカ共和国の発展を願った。ルイスは感謝の言葉を述べ、フランスの援助がなければ勝利はなかったと述べた。

「参戦が遅くなったことは申し訳ない。議会を説得するのに少し手間取ってしまってね」

「いえ、十分なお力添えを頂きました。イギリス世論も西アフリカ戦線での劣勢を見て早期の講和に進んだことは間違いないでしょうから」

言いながら、ルイスはブーランジェがわざと出兵を遅らせたことを確信していた。今や、対英政策においてブーランジェの意見に反対する議員も国民もほとんどいない。それが勝利が確定しているものならなおさら。

ブーランジェはこちらの力を試したのだ。果たして、本当に英軍の上陸を退けられるだけの力があるのか、と。それを見て、彼らは出兵を開始したのだ。

「スペインには気の毒なことをしたが・・・まあ彼らも大きな被害を得る前に離脱できたようだし、結果としては本当に、君たちの見事な力の成果だったと思うよ。想像していた以上だ」

ブーランジェの称賛の言葉に短く礼を告げながら、ルイスは本題へと切り込んでいった。

「それでは、関税同盟の件についてですが」

「ああ、事前の取り決め通り、私たちが君たちの独立戦争に協力する代わりに、君たちは私たちの主導する関税同盟へと入ってもらうことになる」

関税同盟。つまりフランスを盟主とする無関税貿易圏のことであり、その中ではフランスで作られた工業製品や農業品は全て無関税で南アフリカへと入り込んでくることになる。逆に言えば、南アフリカ側の製品についても同様である。

すでに、イギリスの植民地であった頃には、同様の貿易圏の中に入っていた。しかし今回の独立に伴い、その貿易圏から離脱してしまったことで、イギリス市場向けに製品を作っていた国内の産業はすべて崩壊の危機に瀕していた。

GDPも急落。この状況の早期改善がルイスの喫緊の課題であった。

 

ゆえに、イギリスに並ぶ世界市場を持つフランスの関税同盟に入ることは、南アフリカ共和国の産業を立て直す意味において南アフリカ側にも利益のある話である。

しかし、それは同時に、未だ彼らが「真の独立」を果たしきれていないことを意味している。だからこそ、この会談が重要であった。

「ええ、私たちにとっても歓迎すべきことであり、私たちの市場の存在は、フランスにとっても利益になることを望んでいます」

ただ、とルイスは続けた。

「あくまでも、確認になりますが、これは経済的な同盟以上のものではない、ということ。今後我々は独立した主権をもった国家であり、その外交的な自由や自治は十分に保証される前提でおります」

「ああ、分かっているよ」

と、ブーランジェは笑う。その口元は柔和だが、目の奥は笑っていないことをルイスは見て取っていた。

フランスの狙いは明白であった。南アフリカギニア湾マダガスカル、紅海、そして東南アジアへと連なるフランス海上ネットワークの中継点となる非常に重要な戦略拠点である。逆にイギリスがここを失ったことはかなりの痛手であり、フランスにとって今回の密約は大きな価値を持つこととなった。

さらにこの上で南アフリカをフランスの傀儡とすることができれば——少なくとも海軍基地を置ける条約港だけでもあれば——より大きな意味を持つことになるのは明白であったが、今回のルイスの訪問はそれを牽制するものであった。

ブーランジェとしても、国民的人気著しいルイスを裏切ることは得策ではないと理解していた。今はとりあえず、良好な関係を築くことが最重要である、と。

「これからも我々は信頼に足る同盟国として、互いの発展と平和のために協力を続けていこう」

ブーランジェは言葉と共にもう一度右手を差し出し、ルイスもこれを力強く握り返した。

「ええ、これからも——ゴホッ」

言いかけて、ルイスは小さくせき込んだ。

「大丈夫か?」

「ええ、大丈夫です。長旅の疲れが溜まっているのかもしれません」

 

 

パリでの訪問は成功裏に終わった。エッフェル塔など、パリの先進性を象徴する多くの施設を見て回り、得られるものを得たあと、彼は帰国した。

その頃には正式に両国の間での関税同盟が締結され、積極的な交易が開始されるようになっていた。

とはいえ、イギリス市場と比べるとその需要も様変わりしており、イギリス市場では高く売れていた家具やガラス・磁器などはあまり売れなくなってしまい、工業分野は全体的に低調となってしまった。

鉄鋼もかつては生産性50以上を常に維持しているような売り手製品であったが、今はそこまででもない。なお、関税同盟に入った直後はしばらく低調な状況が続き、1年ほど経過してようやく上記のある程度まともな生産性に戻った。完成された市場に後から入ってきて、そこに適用するまでの期間と考えれば自然ではあるけれど、ゲーム的なメカニズムは不明。

GDPも徐々に回復しているが、独立直前の水準にはまだ届いていない。

 

そんな中、変わらず・・・どころか、より一層高い生産性を誇っているのが、セシル・ローズが独占的に利権を握っている各種鉱山であった。

北ケープの金鉱山は相変わらず世界1位の生産性を誇っているほか、東ケープの石炭鉱山も同様に世界1位の生産性を誇っている。

 

戦争でより富を増す結果となったローズだったが、彼の欲望は際限などなかった。

むしろ、本命とも言うべき投資の回収を行うために、彼は今度は自分からケープタウンの大統領官邸へと赴いた。

 

「――ケホッ、ああ、失礼。すみません、わざわざ遠いところご足労いただき」

「いえいえ。・・・ご体調も優れないようですし、また日を改めた方がよろしいですかな?」

「いえ、大丈夫です。ちょっとせき込んだだけです。さて、オレンジ自由国の件ですよね?」

「ええ。ずっとお忙しそうだったのでなかなか先延ばしになっておりましたが、我々としてはもう準備はできていますので、いつでもいけますよ」

「分かっております。私の方でも現地の労働組合とは話をつけております。トランスヴァール共和国――ここは我々と同じ、社会民主党が政権を握っておりますが——にも、了承と不干渉の約束は取り付けております。今回はあくまでも、オレンジ自由国内での非ボーア人に対する不当な差別や待遇を続ける現政権を打倒し、『南アフリカ人』が共存できる社会を作るための行動であると」

「ええ、その通りです。それでは、準備していた現地のイングランド人とソト人たちに蜂起させます。彼らは計画通りブルームフォンテーンの武器庫を占拠するでしょう。その後、共和国軍はオレンジ自由国の『秩序を回復する』ため、国境を越えることになると思います」

「ええ、お願いしますーーゴホッ」

 

要件が済むと手短に切り上げ、ローズは執務室を後にした。

スミット大統領はもう長くない。

計画を、早めに進める準備に取り掛からなければならない。

 

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1899年11月10日夜。

オレンジ自由国首都ブルームフォンテーンにおいて、イングランド人とソト人が中心となった炭鉱労働者たちによる蜂起が発生した。オレンジ自由国大統領マルチナス・ステインは直ちに同盟国である隣国ズールー王国に支援の要請を出し、自らは官邸にて籠城の構えを見せた。ある意味で彼らオレンジ自由国の施政者たちはこの状況に慣れてすらいた。

ただし今回、いつもと事情が異なっていたのは、事案発生からわずか6時間後に、南アフリカ共和国の軍隊が国境を越え国内に侵入してきたという事実である。

その数時間後に南アフリカ共和国大統領ルイス・スミットの名で、オレンジ自由国における非ボーア人への不当な待遇とそれに起因する国内の混乱を鎮圧し、南アフリカに住むすべての人種が共存し、平和に過ごせる社会を作ることを目的に、オレンジ自由国南アフリカ共和国に併合する、という旨の宣言が出されたのである。

この宣言を受けて、ズールー王国は出兵を拒否。

ステイン大統領は隣国で同じアフリカーナーの同胞であるトランスヴァール共和国にも救援を求めるが、これも反応はなかった。

ステイン大統領は国軍に守られながらブルームフォンテーンを脱出して北部へと逃れ戦線を構築するも、圧倒的な質の差を誇るアフリカ共和国軍の前では無駄な抵抗に過ぎなかった。

そして半年後の1900年5月18日。

ステイン大統領は降伏し、オレンジ自由国のアフリカ共和国への併合を認める協定をブルームフォンテーンで結んだ。

 

ルイスは憔悴しきった顔でその報告を受け、そのまま一人になると執務室の椅子に背中を深く預けた。

これで良かった。私にはもう、アフリカーナーの代表としてではなく、南アフリカ人の代表としての責務があるのだから。

この南アフリカにおいてすべての国民が幸福に暮らせる社会を作ることにおいては、うまくやれているはずだ。

そう言い聞かせながらも、ルイスは何か引っかかるものを感じ続けていたが、その思考もやがて襲い来る激しい咳によってかき乱されてしまう。

ここ最近、明らかに体調が悪化している。最初は疲れかとも思っていたが、主治医によると、かつて炭鉱で長く働いていた人に共通する症状が出ているのだと。

それを聞いて、ルイスはむしろ安心したような思いを感じた。私は死ぬときはあの場所に戻れるのだな、と。彼は20代のあの辛い日々を思い出し、それでもあのとき、仲間たちと共に未来について語っていたときがもしかしたら、一番幸せな日々だったのかもしれない、と思っていた。

 

最後にやるべきことを思い出し、ルイスは2通の手紙を書いた。遠きイングランドの地いる、アレクサンダー・ロウサーに宛てた手紙と、もう1通。

 

その1週間後、手紙がロウサーの手に届くよりも先に、南アフリカ共和国初代大統領ルイス・スミットは、永遠の眠りについた。

この「共和国の父」の訃報に、国内の誰もが涙し、盛大な国葬が執り行われたという。

 

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その連絡を受けたローズは「そうか」と短く一言だけ述べた後、しばし沈黙し、やがて立ち上がった。

「それでは、仕事に取り掛かろう」

 

 

セシル・ローズの時代

スミットの後任として社会民主党の党首に就いたのはウィレム・ピエナール。スミットの意志を継ぐことを力強く宣言し大統領選に出馬するも、そこでローズの息がかかった新聞社が次々とピエナールの「乱れた私生活」や「不正」を大袈裟に喧伝。

あっという間にピエナールの支持は失われ、強固な社会民主党党員以外からの得票はほぼ望めなくなってしまった。

ルイス・スミットの甥(姉の息子)にあたる人物であり、ルイスのことを敬愛し常に付き従っていたこともあり、ルイスも彼を寵愛していた。それゆえに党内でも地位を確立できていたのだが、脇の甘さが目立ち、今回のスキャンダルへと繋がった。

 

一方、同じく大統領選に出馬を表明したローズは、以前からのスミットとの繋がりを暴露し、独立に協力し、共により良い国作りを進める同士であったと感情たっぷりに宣伝した。

両者は拮抗した選挙戦を繰り広げていたが、1901年5月1日についに決着。ごく僅かの差でローズ率いる自由貿易党が勝利するという、奇跡的な接戦であった。

選挙の不正をピエナール陣営は訴えたものの聞き入れられず、代理で臨時大統領を務めていた自由党ジョン・ヒューム=キャンベルに代わり、南アフリカ共和国の正式な第2代大統領としてセシル・ローズが就任した。

権力を手に入れたローズは、自らの帝国主義的野望の実現のための改革に着手した。

 

まずは植民地省を設立し、ここに多額の税金を投入。

共和国の北部ツワナ人居住地への入植を進め、ここを「ローデシア」と名づけて植民地支配を開始した。

ここにはオレンジ自由国のような金鉱山こそないものの、「黒いダイヤ」と呼ばれた石炭鉱山は豊富に眠っている。

このローデシアの拡張こそが国家の成長の鍵となるのだとローズは確信していた。

 

その意味で、旧オレンジ自由国(フレイスタート)の奥に位置するズールー王国も、同じく石炭が多く眠る有望な地であった。

ゆえにこの地も近い将来、理由をつけて侵攻するつもりでいたのだが・・・

それよりも先に、ロシア帝国が宣教師の殺害を理由にズールー王国へ宣戦布告。軍隊を派遣し、王国に上陸させてしまった。

知らせを受けたローズは憤慨し、すぐさま共和国軍を派遣するよう指示を出す。

しかし彼らが現地に到着した頃にはすでにロシア軍はズールー王国のほぼ全域を制圧し、「仕事」を終えてしまっていた。

ローズは外交官を通じてロシア側に厳重に抗議。この地は「南アフリカ」の領域であり、すぐさま撤退をするべきである、と。

しかしこの要求に対するロシア側の返答は短く、拒絶する、といった内容であった。

その報告を受けたローズは震える手で電話の受話器を置き、執務室で一人、呟いた。

 

良いだろう、やってやる。

 

これまでも彼は、彼を面と向かって侮辱してきたものたちを決して許さず、時間をかけてでも復讐してきた。

今や、彼は南アフリカ共和国と一体の存在であり、国家への侮辱は彼自身への侮辱と等しいと、彼は考えていた。

煮えたぎる頭のなかでそれでも冷静になろうと努め、ようやく方針を導き出したローズは、受話器を取って秘書に繋ぎ、船便を手配させた。

行き先はプロイセン

世界で最も優秀な兵器を作っている男のもとである。

 

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1902年1月22日。

ドイツ・エッセンにあるクルップ社の本社にて、ローズは1人の男と会っていた。

男の名はフリードリヒ・アルフレート・クルップ。鉄鋼財閥クルップ社の3代目当主にして、現代最高の兵器販売者である。

「突然の訪問、申し訳ありません。社長もお忙しいでしょうに」

「いえいえ、世界で最も金持ちだと噂されるローズ大統領直々にお越しになられているのだから、他の予定などよりもずっと優先すべきものであることは明白ですよ」

「いや、それは買い被りですな。確かに私がかつて所有していた会社は幾分か儲けているでしょうが、今はその株式もほとんど手放してしまっており、私のもとには一銭も入っておりませんよ」

「ハハハ、確かに、『公式では』そうかもしれませんけどね。

 それに、ブーランジェ将軍の方からも是非にという言葉が添えられていたほどですし、これは我々プロイセンにとっても国益に適うものと見て良いでしょう。ところで、ラインハウゼンの製錬所はもう見られましたかな?」

「ええ・・・全く、驚嘆に値しますよ。あれほど巨大な炉をいくつも備えた工場など、見たことも、想像したことすらありません」

「でしょう。だからこそ、大量の石炭と鉄が必要になる。ドイツだけでは賄いきれないからこそ、ケープ・・・失礼、南アフリカ共和国からどれだけ頂けるかにかかっているのです」

「そこにいくばくかの金も乗せてお届け致しますよ。それだけの商品を、売って頂けるものと考えておりますので」

「ええ。何しろ、世界中のどの陸軍にも―—そう、英国やフランスですら——まだ配備されていない最新式の兵器です。時代を10年は先取りしていると考えています」

「ほう、それは素晴らしい。その兵器の名は、何と言うんですか?」

「ディッケ・ベルタ」

「ベルタ?」

「ええ・・・私の愛娘の名です」

 

 

その兵器と、南アフリカでは採れない硫黄や鉛を大量に乗せた商船が頻繁に大西洋を渡り始めた頃、ケープタウン近郊の砂漠や山岳の中では、クルーガー将軍の指揮のもと激しい訓練が繰り返されていた。

特別に軍事顧問としてフランスの高名な将軍にして戦術理論家フェルディナン・フォッシュも招いた上で、南アフリカ軍は最新式の戦術と戦略とを身に着けていった。

この動きにロシア軍も当然気付かないわけもなく、占領したばかりのズールーランド(旧ズールー王国領土)には常に4万以上のロシア兵が張り付き、その時に向けて備えていた。

だからこそ、ローズは焦らなかった。最も適切なタイミングを見極めないといけない。かと言って、待ち過ぎれば技術的優位を失いかねない。

陸軍大臣外務大臣、そして各国に派遣している外交官らと緊密に連携を取り合いながらーーついに、そのタイミングを見つけた。

 

1906年4月。

ロシアのフィンランド総督ニコライ・ボブリコフが、フィンランド民族主義者オイゲン・シャウマンに暗殺される事件が発生。

ロシア皇帝ニコライ2世はすぐさま報復のための軍隊を動員するが、フィンランド側もこれに抵抗する意思を固め内戦状態に突入する。

そしてロシアの同盟国イギリスも、度重なる先住民反乱に襲われ、ザンビアでは派兵が間に合わず一部侵略されつつある状態。

これこそ、絶好の好機。

ローズはすぐさまフランスのブーランジェ将軍に連絡を取り、準備の最終段階へと移った。

 

1906年8月4日。

ロシア帝国が不当に占拠する南アフリカ民族の土地の返還を要求し、これに回答がなかったとして宣戦布告。

セシル・ローズの「鉄の復讐」が開始される。

 

 

8月15日。ズールーランド北部の山岳地帯を強行軍で駆け抜けた7万の部隊がニューカッスルの街を強襲。

ロシア軍も駐留させていた4万の軍で直ちに迎撃に向かうも、士気の高い南アフリカ軍の攻勢に押され、2ヵ月の戦いの末にロシア軍はニューカッスルを放棄した。

12月にはさらに占領地を広げ、ウルンディの街も解放。

残る重要拠点となるズールーランドの首都ピーターマリッツバーグ攻略に向けて、クルーガー将軍は準備を進めていく。

 

同じ頃、ロシア本国からポール・フォン・レンネンカンプ元帥が30万の兵を連れてピーターマリッツバーグに上陸した。

そのまま北上し、ニューカッスル解放を目指して進軍を開始。

クルーガー将軍はニューカッスルから少し離れたコレンゾーの平原に塹壕を掘り、ロシア軍の到着に備えた。

12月29日の早朝、朝靄の奥から、地平線を埋めるが如きロシア軍の隊列が現れた。

確かに数では圧倒的であったが、彼らは今なお旧式の戦列歩兵部隊による前進という時代錯誤甚だしい戦術を取っている。塹壕に身を隠した南アフリカ軍は、前進するロシア帝国軍に対し、塹壕の中からドイツ製のボルトアクション式モーゼル銃、そしてマキシム機関銃を使用した一斉射撃で持って対抗した。

バタバタと倒れていくロシア帝国軍の隊列前衛。しかし彼らは前進をやめず、仲間の死体を踏みつけながら塹壕までの距離を縮めていった。

やがて幾つかの塹壕で、ロシア軍の襲撃を許してしまう。塹壕に飛び込んだロシア兵は銃剣やナイフで白兵戦を仕掛け、南アフリカ軍の若い兵士たちも必死で抵抗するが、次々と犠牲者が増えていった。

クルーガー将軍は撤退を命じた。まだ襲撃を免れていた塹壕を伝って後方に退却していく南アフリカ軍を、すでに塹壕を制圧したロシア帝国軍が追いかける。レンネンカンプ元帥は勝利を確信し、さらなる前進を命じた。

だが、退却する南アフリカ軍を追撃しているうちに、ロシア帝国軍の隊列は細く長く伸びていった。そしてニューカッスル目前にまで迫ったところで、チェルムズフォードの湿地帯にカーキ色の迷彩服で潜んでいた南アフリカ共和国軍の遊撃部隊が、ロシア軍後方の側面に一斉攻撃を仕掛けた。

この遊撃軍を指揮したのはシャール・コンラディ。クルーガー将軍が手塩にかけて育てた、南アフリカ共和国軍のセカンドエースである。

防御面での能力はクルーガーに劣るも、攻撃面ではより優れたポテンシャルを持つ男だ。

 

優勢に進めていたはずが、気がつけば包囲されていたロシア兵たちは恐慌状態に陥り、7万の兵が死亡。戦意を失った8万の兵が投降し、南アフリカ軍の捕虜となった。

統制の取れなくなったレンネンカンプも退却を選ぶほかなく、決死の反撃作戦は失敗。ピーターマリッツバーグでの籠城戦に持ち込まざるを得なくなった。

 

ロシア軍としても勝算がないわけではなかった。

イギリス軍からは、ようやく先住民反乱がひと段落つき、アフリカ各地での対フランス戦線も膠着状態となりつつあると聞いている。

最新式の武器と戦術を有する彼らが援軍に来てくれれば、まだ逆転の目がある。

ロシア軍としてはこのピーターマリッツバーグで耐え抜き、時間を稼ぐことが勝利条件であった。

 

そして南アフリカ軍としてはこれをできる限り短期で済ませることが勝利条件であった。

先の勝利でロシア軍の数を減らし、反撃能力を失わせた上で、彼らはピーターマリッツバーグ近郊のウムラズィ丘陵の制圧に成功した。

1,000mほどの標高を持つこの丘の上からは、ピーターマリッツバーグの街の全体を見渡すことができる。

そのピーターマリッツバーグには今、大量の堡塁が用意され、鉄壁の守りが固められているように見える。

通常であれば、この要塞を突破するのに半年はかかるだろう。

だが、ここで南アフリカ軍は、ドイツ・クルップ社から取り寄せた最新兵器を用意する。

ブルームフォンテーンから鉄道で運ばれてきたそれは数十名がかりで丘の上まで運ばれ、そしてピーターマリッツバーグに照準を合わせて並べられた。

それは、とてつもない規模の巨大な大砲であった。ロシア軍が堡塁を作る際に想定した敵大砲のサイズはせいぜい21センチくらいであったが、その「ディッケ・ベルタ」は42センチ口径を持った怪物であった。

その怪物は12㎞離れたピーターマリッツバーグの堡塁に向けて、810kgの砲弾を次から次へと打ち込んでいった。

砲弾はコンクリートの防壁をいとも簡単に貫通し、あちこちでキノコ雲を巻き上げることとなった。およそ2週間のうちに、北側と西側の堡塁はすべて陥落した。

クルーガー将軍は号令をかけ、南アフリカ共和国軍12万が一斉にピーターマリッツバーグへと突入した。

ロシア軍も40万の兵でこれを防衛するも、なすすべもなく崩壊していった。

 

結局、6月までにはピーターマリッツバーグのすべての堡塁が取り除かれ、市内はほぼ全域を南アフリカ軍が制圧。残りの地域の制圧も時間の問題であった。

ズールーランド沖の制海権南アフリカ海軍が掌握しており、駐留ロシア軍への補給もすべてシャットダウン。ロシア駐留軍は袋のネズミとなった。


かくして、1908年1月19日。

ロシア帝国は全面降伏を宣言し、ズールーランドの南アフリカへの「返還」と、総額1,132万ポンドに及ぶ賠償金の支払いを承諾した。

あとは英国だけである。

ここまで英国軍を引き付けていてくれた借りを返すべく、南アフリカ戦線でのフランス軍の戦いにも助力する。

一通り南アフリカ地域から英国軍を駆逐するのを手伝った末に、フランスの了承のもと戦争からは離脱。

この戦争で合計9万3千の「南アフリカ人」戦死者が生まれ、635万ポンドの「戦争コスト」を発生させてしまったものの、ズールー族の土地を「南アフリカ共和国」のもとに取り返すという当初の目標は達せられた。

ローデシア」の地の拡大も順調に進んでおり、ローズはこの「成果」に深い満足を覚えていた。

ズールーランドやローデシアを含めた各種鉱山の合計は175施設にも及び、その合計所得税収額は9,150ポンド、合計利益配当税収額は7万7,030ポンドとなる。利益配当税収額については国家全体のその税収額15万2千ポンドのうちの半分近くをこの3種鉱山のみで賄っている形となり、かつては交渉の材料とした累進課税制度が、今や逆にローズの「財産」に結びつく結果となっていた。


だが、あらゆる繁栄は永遠には続かない。

とくに、それが何かに依存した繁栄であれば、なおさら・・・。

 

 

革命と崩壊

ユーグ・ド・ゲイドンは1872年9月8日、フランス・ブルターニュ半島の先端、ブレスト近郊にあるランデルノーの街で生まれる。彼の父はフランス海軍少将であったオーギュスト・ド・ゲイドン。祖父は第20代アルジェリア総督ルイ・アンリ・ド・ゲイドンである。

幼い頃から好奇心旺盛であった彼は、父の意志に従って海軍士官学校に入学するも、その影でジャン・ジョレスアンリ・バルビュスの著作に感銘を受け、社会主義思想に傾倒していく。

そして1905年にジョレスが創設したフランス社会党(SFIO)に参加。ジョレスは長らくフランスを支配し続けていたブーランジェ将軍やその後継者で現国防大臣のベルトラン・ド・ゲラン将軍の軍国主義体制を批判。ユーグ・ド・ゲイドンも軍人でありながら共に反戦運動に身を投じていくこととなる。

しかしそのジョレスが1907年に国家主義者に暗殺されると、一転して党は体制派に傾き、当時継続していた対英戦争(南アフリカ戦争)にも全面的に協力。党幹部であったジュールス・レグトも政権入りを果たすなど、国家と一体となって戦争に突き進もうとしていた。

当時のフランスは市場自由主義者の国王の下で社会主義共産主義勢力が政権を担うという歪んだ状態が形作られていた。そして最も影響力を握っているのは未だに軍部であったが、その軍部内では少しずつ、着実に、「不満」が溜まりつつあった。

 

ゲイドンは党のこの動きに強く反発。同じくプロイセン国内で戦争反対を唱えていた女性活動家ローザ・ルクセンブルクとも交流し、やがて彼女の批判するウラジミール・レーニンなるロシア人の前衛党論に興味を持つ。

革命後になお民主的自由は擁護されなければならないというルクセンブルクの主張に対し、ゲイドンは必ずしも同意はできなかった。

今なお皇帝による専制政治が続けられているプロイセンと違い、フランスはすでに普通選挙も導入され、君主制こそ継続しているものの民主化はかなり進んでいた。にも関わらず国民は好戦主義的な首相を選び、さらには戦争反対を唱えるべき社会主義共産主義者たちもまた、この国家的犯罪に加担しようとしている。

 

そのような社会では、革命を主導する強力な前衛党の存在が必要不可欠である。

そう確信したゲイドンはレーニンの著作を読み、その思想に共感し、そして軍内部においても、その思想の共感者たちを少しずつ、増やしていった。

 

そして、1911年6月14日。フランスのクリストフ・デ・セロン政権はアルジェリアへの侵攻を決定する。すでにアルジェリアはフランスの自治領となっていたが、その完全な併合を目指して侵攻を開始したのである。

これが引き金となり、ゲイドンは行動を開始した。

すでに軍部内に張り巡らせていたネットワークを活用し、決行日を9月10日と定め、準備を進めていった。

 

そして、9月10日当日。

ルーアン、ランス、ディジョン、ポワティエ、ボルドートゥールーズ、そしてゲイドンの地元であるブルターニュ

フランス各地で合計50万、動員した予備役含め110万の兵が一斉に蜂起。

対するフランス政府軍は予備役含めても63万。

完全に不意を突かれた政府軍は、圧倒的不利な形で存亡の危機を迎えることとなった。

 

さらに政府軍にとって災難なことに、この状況を受けてプロイセン王国フランス王国に対して宣戦布告。政府軍が影響力を保持していたアルザス・ロレーヌ地方へと侵攻を開始した。

プロイセン自身はアルジェリアの独立を守るための正義の行為であると主張するが、これを額面通り受け取る者は誰もいなかった。

ローザ・ルクセンブルクはこの動きを知り衝撃を受け、間もなくカール・リープクネヒトラやクララ・ツェトキンらと共にグルッペ・インターナツィオナーレ、のちにスパルタクス団として知られる組織を結成することとなる。

 

政府軍もパリで必死の抵抗を試みるも、数の差はどうにもならず、12月には降伏を宣言。

政権を掌握したゲイドンはすぐさまプロイセンと講和交渉を開始。

革命軍の想像以上に早いパリ陥落によりプロイセンアルザス=ロレーヌを実効支配することができなかったこと、そしてゲイドンがアルジェリアの侵攻を止めたばかりか、その独立を認め沿岸部もアルジェリアに返還する*1という大判振る舞いをしたことで、元々それを口実に開戦を仕掛けたプロイセンは何も言えなくなってしまった。

元々アルジェリア植民地に対する圧政を批判していたゲイドンらにとって、その解放は必然であり悩むべき材料でもなかった。これによりアルザス=ロレーヌを守れることの方が、何倍も重要な成果であった。国内のゲイドン支持者たちも揃ってこの決定を歓迎したが、降伏に追い込まれた旧政府派はこの決定を弱腰であるとして長く批判し続けることになる。

 

ゲイドンによるこの「革命」は見事成功に終わったわけだが、遠く離れた南アフリカ共和国にとっても決して対岸の火事などではなかった。

何しろ、イギリスからの独立以降、この国はフランスとの関税同盟によって経済的に支えられてきた。それが無くなった今、あのときの忘れがたき混乱が再び南アフリカ共和国に襲い掛かることとなる。

ローズはすぐさま対応を進める。

まずはかつて友好的な交易関係を結んだプロイセンの関税同盟に入ろうと試みるも、その段階ではまだフランスと戦争中であり、フランスの同盟国として見られていた南アフリカ共和国の大統領が気軽に訪問できる状況でもなかった。

仕方なく、続いてローズは兼ねてより友好関係を結んでいた中小国に声をかけていく。

結果、出来上がったのがこの、南アフリカ共和国を盟主とする「喜望峰経済圏」。

トランスヴァール、アルゼンチン、チリ、ニカラグア、ヌエバグラナダ、ペルー・ボリビアビルマの計8か国が参加。南米から喜望峰を回り、東南アジアへと至る南半球を中心とした大型の経済圏を創り上げたのである。

とは言え、GDP世界13位の南アフリカ共和国が中心となって小国ばかりが集まって創った経済圏。その市場GDPはイギリス市場の10分の1程度でしかなく、世界市場ランキングでも7位スペインに大差を付けられての8位。

当然、市場規模が小さくなれば、需要も減少していく。

イギリス市場からフランス市場に乗り換えた際には工業製品が軒並みその価値を下落させた一方で各種鉱山の生産性はむしろ上がり、ローズが一方的に富を得る結果に終わったが、今回はその鉱山が大きなダメージを受けた。

火薬の原料である硫黄の供給が間に合わなくなった結果、火薬の価格が高騰し、そのことが各種鉱山における生産性を著しく落とすこととなった。もちろん、供給過多による石炭の価格の暴落も大きな原因の1つだ。それでも金だけは安定して収益を上げている。

 

この事態への対応のために、ローズが取った手段がすべての引き金となった。

 

これまでも暗黙の了解のうちに行われていた、鉱山における白人と非白人との間の賃金差別を合法化する「鉱山労働法」を制定。

加えて非白人らの移動を制限する「原住民土地法」も制定した。

これらの法律の目的は非白人を囲い込み、彼らを鉱山で安価に働かせることにあった。

 

その他、新たに植民を行なった「ローデシア」各州およびナタール州(旧ズールーランド)において、「白人4州(ケープタウン、北ケープ、東ケープ、フレイスタート)」で認められている各種労働者の権利や福祉の受給、公教育や公的医療の提供などは行われないことが明言された。

これらの政策の背景には鉱山所有者など自らの支持基盤である資本家たちへの配慮というのもあるが、同時に近年急速に勢力を拡大しつつあるファシスト党への配慮も存在していたことは確かである。

フランス「九月革命」の影響による経済の急落で余裕を失った人びとは、「なぜ自分たちよりも生まれた瞬間から劣っているはずの人間が自分よりも豊かに暮らしているのか」という疑問を抱いてしまう。彼らにとっては自分たちよりも下の存在を見つけることだけが、目の前の見たくない現実から目を逸らさせる唯一の手段となるのだ。

 

もちろん、ローズ自身の根底に、根強い差別意識が存在していたことが彼の最終的な決断を後押ししていったのだろう。

しかしそれは、彼の「王国」を崩壊させる引き金となる。

 

 

1914年9月9日。

耐え難き差別の蓄積は、ついに決壊の時を迎える。

6年前、ロシア帝国の手から「解放」したばかりのズールー人たちが、南アフリカ共和国正規軍の武器と戦術を携えて一斉に蜂起した。

1880年に生まれたソモフォ・カマホールはズールー王国の戦士として10代の頃から名を馳せており、1901年のロシア侵攻の際には抵抗運動を組織し、王族が降伏した後も地方でゲリラ戦を展開し続けていた。1906年からの南アフリカ共和国によるズールー解放作戦の際には共和国軍に協力し、「解放」後は現地駐留部隊の指揮官を任されることに。しかしフランス九月革命以降、急速に広がった共和国政府による非白人への弾圧の高まりに失望し、フランス留学帰りのアフリカーナーの友人から紹介されたレーニンの著作に影響を受けながら、民族の解放と革命のために蜂起を選んだ。

 

ローズはすぐさま鎮圧の指示を出す。

国軍を率いるのは、引退したクルーガー将軍に代わり全軍の指揮を任されることとなったシャール・コンラディー元帥。彼は新兵器である自動機関銃を実戦投入することを命じられた。

その威力は絶大であった。

唸り声を上げる機関銃の嵐が過ぎ去った後、兵士たちの目の前に広がる平原には、無惨に転がるかつて人であったものと、その合間に作られた赤い水溜まりだけが残った。

そこには勇猛果敢たる鬨の声もなく、民族の誇りもなく、勝利への誇りも虚しさすらも、なかった。

兵士たちはそこに何も感じなかった。彼らはただ、命令に従っただけだったのだから。

 

 

反乱を起こしたズールー族に対するローズ政権の対応は苛烈を極めた。

彼は反乱に加担したズールー族の土地を没収した後、彼らを強制的に白人の経営する鉱山や農場に送り、無償で働かせた。彼らには食料や医療もほとんど与えられず、多くのズールー族が酷使や病気によって命を落とした。

さらにズールー族以外の非白人に対しても、鉱山のみならず農村や都市部の工場でも、白人との間の賃金格差を明確にし、白人には適用される労働法を非白人には適用しないことも明言した。これにより、彼ら非白人は都市部であったも過酷で劣悪な労働を強いられることとなったのである。

 

この事態を受け、南アフリカ共和国の都市部では連日非白人グループによるテロが頻発するようになる。

その度に政府による苛烈な「報復」が行われ、今やこの国は復讐の連鎖による悲惨な状況が常態化しつつあった。

 

 

1916年3月25日。

ローズは久々に会う友人と共に遅くまで飲んでおり、珍しく酩酊した様子で街を歩いていた。ここ数ヶ月、常に暗殺を警戒し気を張り詰め続けていたので、つい羽目を外し過ぎてしまったようだ。

もちろん、それでも警戒は怠らない。今も彼は信頼するコンラディー将軍の部下を護衛として引き連れ、周囲を警戒させている。何か怪しい動きをする者がいれば、すぐさまこれを捕らえるか銃殺するはずだ。

「ジェームソン、この光の海を見よ。これだけの数の電灯は、ロンドンにもパリにもないだろう。私はこのケープタウンを、世界最高の都市にしてみせたのだ」

ふらつく身体を右手に持った杖で支えながら、ローズは誇らしげに左手を掲げ、友人を振り返った。

「私はこの光を、ケープタウンだけでなくアフリカ全土に広げるつもりだ。そしていつかエジプトのナイルの河口、カイロにまで。私はこの大陸に、大英帝国にも負けぬ帝国を築くつもりだ。ローデシア帝国と名付けた帝国を。素晴らしいと、思わないかね?」

しかし目の前の友人は驚いた顔で何事か叫びながらローズの背後を指差した。

慌てて視線を前に戻したローズが闇の中に見たのは、ピストルを持った一人の男であった。

「Dumo kwaZulu!」

三発の銃声が鳴り響き、ローズは胸元に熱を感じた。視界が反転し、目の前に眩い光の海が広がった。

 

ああ——私は、夢を果たした。

この光の海を、ずっと追い求めてきた。

あの日、英国から引き離され、この遠き地の果てにまで追いやられたときからずっと。

 

私は帝国を手に入れた。

私がいるこの場所こそが、帝国なのだ—―。

 

 

こうして、15年にわたりこの国を支配してきた「鉱山王」は、その生涯を終えた。



 

 

南アフリカ人のために

ローズの暗殺は政界に大きな混乱を生み出し、国論を二分する事態を引き起こした。

暗殺の実行犯はその場から逃亡し行方をくらましたものの、彼の警護を任されていながらこの凶行を許した兵士2人は捕らえられ、その処遇を巡って「極刑にすべし」と考えるナショナリストグループと、暗殺そのものは許し難いものの兵士は無罪であり、ローズの政策にも批判されるべき部分が多々あったとする自由主義グループとが大きな対立軸として存在した*2

ナショナリストグループを牽引するのはファシスト党の党首アドルファス・ドーソン。ローズ率いる自由貿易党と連立を組み副大統領の地位についていた彼は、ローズ死後の臨時大統領の座についた上でその意志を継ぐべしと国民を沸き立たせた。特にイングランド人の多くはこのグループを支持し、上流〜中流階級が主な支持基盤であった。

一方の自由主義グループは自由党社会民主党の支持者が中心となり、元首相ナサニエル・ステープルトンの孫娘グレース・ステープルトをその旗印とするも、マスメディアを支配するナショナリストグループによるお得意の誹謗中傷戦略により無党派層からの支持は弱く、選挙戦においては苦戦を強いられていた。

 

そんな中、1916年12月1日。ある男が15年ぶりにケープタウンに戻ってきた。

ウィレム・ピエナール。故ルイス・スミットの後継者として15年前の大統領選挙に挑むも僅差でセシル・ローズに敗れた彼は、失意のまま酒に溺れ、実質的な政治からの引退状態にすら陥りかけていた。

そんなとき、スミットの秘書だった男から、ある一通の手紙を渡された。

それを読んだのち、彼はすぐさま旅支度を整え、党の仲間たちに別れも告げず、単身ケープタウンを離れ、イングランドへと向かった。

 

彼の目的はスミットの盟友でもあった元ケープ植民地総督アレクサンダー・ロウサーとその教え子たちによる自由主義グループ「マンチェスター・スクール」へ参加すること。

ルイス・スミットがその死の直前にロウサーに宛てた手紙の中で、もしもピエナールがイギリスに渡ったときには面倒を見てあげてほしいという旨が記されていたのである。

 

ピエナールはここで、ロウサーとその弟子たちの影響を強く受け、反帝国主義・平和主義・自由主義の精神を強く継承する。

ロウサーの一番弟子であったアーチボルド・プリムローズは、スコットランド貴族ローズベリー伯爵プリムローズ家の嫡男として1847年に生まれる。1871年から自由党貴族院議員として政界入りし、1886年には第3次グラッドストン内閣で外相を務める。史実ではこの後自由党内での帝国主義派に属し、保守寄りの政治思想を抱くようになるが、この世界ではちょうどこの外相時代にロウサーが総督を終えて英国に帰国しており、彼との交流の中で少しずつ急進的自由主義思想に染まっていくこととなる。1896年の南アフリカ独立戦争時にはロウサーと共に反戦運動を展開。その後も英国の植民地政策を厳しく批判し、インドやオーストラリアの原住民たちへの差別撤廃を広く呼びかける運動を推進していった。

 

そうして若い時分の軽率さ、傲慢さを全て脱ぎ去り、「生まれ変わった」ウィレム・ピエナールは、分裂の危機に陥った祖国へと15年ぶりに帰還することを決めたのである。

ナショナリストグループは15年前同様、ピエナールに対するネガティブキャンペーンを激しく展開する。

だがピエナールはこれを否定しなかった。

代わりに、彼は集まった人びとに向けて、落ち着いた様子で語りかけた。

 

「かつての私は甘く、幼く、そして多くの過ちを犯してきました。しかし、私はその過ちからたくさんのことを学び、反省し、そして今、新たに生まれ変わってこの場所に戻ってきました。

 この国も同様です。この国は15年間、誤り続けてきました。スミット大統領が英国からの独立を果たし、この国を『南アフリカ人の国』として成立させたとき、果たしてそれはイングランド人とアフリカーナーたち『だけ』の国として考えていたのでしょうか。

 いえ、そうではないはずです。『南アフリカ人』とは白人だけでなく、この大地に住むすべての民族、すなわちコイコイ人、サン人、コサ人、ソト人、ズールー人、ツワナ人、ングニ人、へレロ人、さらには移民としてやってきたドイツ人、ベルギー人、フランス人、アイルランド人、アメリカ人、オーストラリア人、スペイン人、ポルトガル人そして数多くのイングランド人とアフリカーナー

 これだけの多くの人びとの支えがあり、努力があり、そしてこの国を良くしていきたいと、この国で幸せに暮らしていきたいという思いが合わさって、この『南アフリカ共和国』はできているはずです。

 今、この国は分裂の危機に瀕しています。この国をより小さく、限られた民族だけのための国にしようとする人たちがいます。もしそうなってしまえば、後にやってくるのは、終わりなき民族間の争いと対立の時代だけとなります。

 もうそんな悲しみは、我々の代だけにしましょう。我々の子どもたち、我々の未来の世代に対しては、あらゆる隣人、あらゆる民族、あらゆる信仰、あらゆる性別、あらゆる職業の人たちが、互いを尊重し、互いに扶け合える、そんな国家を残していきましょう。

 その夢を実現できるのは、私一人では叶いません。ここにいる、偉大なるステープルトンの孫娘と、そしてこの場にいる皆さん、偉大なる『南アフリカ人』の方々の助けがあってこそ、実現できるのです。

 共に戦いましょう。理想の国家の実現のために」

 

選挙戦は熾烈を極めた。ナショナリスト派の新聞はこぞってピエナールやステープルトン女史の悪名をあげつらい、「国家の分裂を招こうとしているのはどちらだ」「彼らは神聖な投票権を売買しようとしている」と自由主義グループの戦略を厳しく批判する。彼らはときに暴力的な手段に出ることすらあった。

より穏健で中立的な新聞であっても、「彼らに本当に公約を実現するだけの実行力はあるのか」「急激な改革は新たな対立と分裂を招く恐れもあり、時期尚早」と慎重な姿勢を見せるところも多かった。

それでも少しずつ、ピエナールを支持する人たちの数は増えていき、また選挙権はなくとも自分たちの立場を改善してくれるかもしれないという期待から、多くの有色人種がピエナールの選挙事務所を訪れ、支持を表明した。

ピエナールはその度に事務所の前に立ち、彼らと一人一人握手をして、できるだけ彼らの言葉で感謝を述べた。

 

また、ピエナールと同盟を組む自由党の党首グレース・ステープルトンは、独自に女性の解放を訴え、その選挙権拡大を求める運動を展開していた。

その支持者も一緒になって自由主義グループを支持することで、彼らはナショナリストグループに対抗できるだけの存在へと成長しつつあった。

 

そして最終的には、この15年のローズ政権への不満を持つ人びとが、ピエナールたちの政策を支持するかどうかに関わらず、現状に対する何かしらの変化を求めて、投票先を選ぶ決断を果たした。

彼らにとってステープルトンや社会民主党の名は、栄光の時代への回帰を期待させるものとなったのである。

 

これらの動きの果てに、1917年5月1日。

この国の運命を大きく左右する重大な選挙結果が発表された。

結果は、自由主義グループの圧勝であった。7割以上の票が彼らに集まり、有権者の意思は現状からの変革への期待という結論に至った。

 

こうして、南アフリカ共和国第3代大統領としてウィレム・ピエナールが選出されることとなったのである。

早速ピエナールは公約通り、アパルトヘイト各法の撤廃に向けて動き出す。

元々法制定前から暗黙の了解とされてきた賃金面での差別などの撤廃を含むこの決定は、選挙結果が出てもなお、議論を招く難しい問題ではあった。

多くの懸念と不安のすべてが解消されたわけではない。

 

それでも、この一歩は踏み出さなければならない。

 

1919年11月29日。

南アフリカ共和国は、世界に先駆けて、有色人種を含むすべての民族差別を公式に撤廃し、またこれが永遠に存在してはならないことを明記した新憲法を発布した。

これを受け、これまでイングランドアフリカーナーの団結をのみ象徴していた国旗を改め、アフリカ民族と欧州民族との融和を象徴するレインボー・フラッグを新たに制定した。

さらにこの憲法においては差別の撤廃は民族の問題だけに限らず、信仰においても同様であることを明記した。

キリスト教のみならず、土着の信仰や移民たちの信じるユダヤ教イスラム教、ヒンドゥー教など、あらゆる宗教と信仰とが、平等に侵されざる権利として認められたのである。

 

そしてもちろん、自由党支持者たちが求めていた女性参政権についても、この1919年憲法の中でははっきりと定められた。

 

1921年5月1日。

南アフリカに住む一定の年齢以上のすべての民族、そしてすべての男女が投票する世界で最も先進的な最初の選挙が行われる。

結果は再び、自由主義勢力の圧勝。ファシスト党は大きく勢力を失い、この4年間の成果が国民に広く評価された格好となった。

 

GDPも完全に立ち直り、イングランド独立前の3倍以上の水準にまで成長。

あらゆる差別を撤廃した世界で最も平等な南アフリカ共和国には世界各地で苦しむ数多くの宗教・民族が集まり、人口も1,700万人にまで達する。

ソト人やコイサン人といった南アフリカ先住民族だけでなく、モルッカ人やベドウィンアボリジニといった、世界各地の民族が、紛争などにより故地を離れざるを得なくなった末に、この南アフリカ共和国へとたどり着くこととなった。

 

これがまた新たな富をこの国にもたらし、南アフリカ共和国の平均生活水準は先進国では随一のものとなった。

故地のアラビア半島においてフランスとプロイセンによる熾烈な争いが繰り広げられる中、町を焼かれ、安全な場所を失ったベドウィンの民も、その信仰を保持したまま南アフリカ共和国の鉱山で安定した暮らしを許されていた。

 

 

ウィレム・ピエナールは成し遂げた。

叔父のルイス・スミットが創り、未来を夢見た南アフリカ共和国のあるべき形を創り上げるという使命を。

一度は信頼され任されたバトンを情けない形で手放してしまったが、彼はそこから再び、責任を持って掴み取り走り切ったのである。

そのバトンはすでに次の世代に託されている。

軍隊経験も持つこのデア・メルヴェは強烈な個性はないものの柔軟な姿勢と調整力の高さには定評があり、党や派閥の枠を超えたバランスの取れた大臣の任命など、ローズ時代からピエナール時代にかけて分裂した国内の諸勢力を仲介し、統合する功績を残した。

 

この先この国がどのような国になるかはわからない。それは彼らの世代が選ぶことであり、旧い世代はそれを見守り、託すことしかできない。

スミットも、その前の世代のステープルトン、ロウサー、そしてフェインたちもまた、そうやって次の世代に託してきたのである。

 

次の百年の先に、果たしてこの国はどんな国になっているのだろうか。

 

それがどのような国であったとしても——その国民にとってそれが誇り高い国であり、そしてその国の国民の誰もが満足し、幸せに暮らせる国であってほしいと、ピエナールは人生の最期に願った。

 

そして1924年10月28日。

ピエナールケープタウンの空へと飛び立った。



 

エピローグ

1936年5月2日、朝。

いつもより心なしか少し早く目を覚ましたソモフォ・カマホールは、自分の部屋に飾られたレインボー・フラッグをまっすぐに見つめた。

その旗に込められた思い、そして責任の重さを心の中で噛み締める。

 

部屋を出るとそこには妻の姿があった。彼女もどこか興奮しているようで、いつもより早く目を覚ましたようだった。

「おはよう、ノルワジ」カマホールは妻をしっかりと抱きしめた。妻も強く抱きしめ返した。今日という日が、民族の歴史にとって、そしてアフリカ人すべてにとって、重大な歴史的な日であることを、彼女も強く感じていたようだった。

廊下の向こうから2人の娘もやってきた。姉のアヤンダは大学生、妹のサネレは高校生。共に聡明で、これからの国の未来を作ってくれるであろう、自慢の娘たちだ。

準備を整えたカマホールが家を出ると、そこにはすでに運転手が車で待機していた。妻とキスをして、用意された専用車(アメリカ製のキャデラック)に乗り込むと、彼は窓の外に広がる南アフリカの美しい空を見つめた。

 

1914年。同士たちと共に共和国の圧政に反旗を翻して蜂起したカマホールは、共和国軍の新兵器の威力の前に、何一つ抵抗らしい抵抗もできないまま鎮圧されてしまった。

同士たちの多くが命を落とす中、捕らえられた彼はケープタウン沖に浮かぶロベン島の収容所に送られた。

彼は絶望し、自ら命を絶つことすら考えた。しかし同じ収容所に入れられた様々な民族の人々と話すうちに、彼が暴力ではなく、正しい手段でこの国を変えていくことについて信念を持つようになった。

そして彼は必死で勉強し、英語とアフリカーンス語を身につけた。キリスト教について学び、ラグビーについて学んだ。そして他民族との話し合いを通じ、共生への道について、有り余る時間を使って必死に考え続けた。

 

いつかこの島を出られたときに。そう考えていたカマホールの下に釈放の知らせがやってきたのは思いの外早かった。

彼が収容所に入れられてから5年後の1919年12月5日。新大統領ウィレム・ピエナールの下で新たに制定された憲法によってすべての民族の解放と平等が宣言され、カマホールは多くの同胞たちと共に島を出て自由を手に入れた。

 

ピエナールはカマホールの下にやってきて、これまでの仕打ちを謝罪した。そしてカマホールのことを友人と呼び、これからのアフリカ国家の形成に向けての協力を依頼してきた。

カマホールはすぐさまこれを承諾した。ピエナールのことも友人と呼び、共に夢の実現のために協力し合うことを誓った。

 

それから17年。

カマホールは社会民主党の中で頭角を表し、民族融和の象徴として重要な役割を担うこととなった。彼を先頭に、多くの有色人種の閣僚が現れ、各州の議員にも多くの非白人や女性が名を連ねることとなった。

 

そして1936年5月1日。

ピエナールの後任デア・メルヴェ大統領の引退に伴う新大統領選挙において、カマホールは社会民主党の候補として立候補し、そしてこれに勝利した。カマホールは南アフリカ共和国において有色人種としては初となる大統領に就任したのである。

 

 

大統領官邸の前に集まる多くの観衆を前にして、カマホールは自分が不思議なほどに落ち着いていることに気がついた。人々は色とりどりの服を着て、様々な民族の旗をなびかせ、そしてところどころではそれぞれの言語による歌が歌われていた。

そして彼らは互いに互いを尊重し、そこには誇り高き調和が保たれていた。そのことに、カマホールは深い誇りを覚え、そして彼を勇気づけたのである。

 

彼は人びとに向けて話し始めた。

 

「みなさん、聡明なるこの南アフリカ共和国の国民にして、世界で最も気高く、そして偉大なる出来事を成し遂げた人びとよ。今日は共に、この誇り高き日を迎えられたことを、嬉しく思います。

 この日を迎えるまで、決してその道のりが平坦なものではなかったことは、皆さんもよく知っていると思います。私たち有色人種は、このアフリカの多くの地で虐げられ、苦しめられてきました。

 そのことに、私は暴力でもって抵抗を示したこともありました。それだけが、現状を変えうる唯一の方法であると、私は思っていたのです。

 しかし、それは違いました。私は私の仲間たちと共に、より大きな暴力によって叩き潰され、そして多くの仲間が命を落としました。

 その後私は、収容所において、新しい多くの仲間たちと出会いました。彼らとは言葉も違い、文化も違い、肌の色も異なりました。しかし同じ苦しみを背負い、同じ夢を持ち、同じ目標を持って未来を見ていました。私は彼らと話し、語り合ったことで、少しずつ過去の自分の過ちを理解し、そしてどのようにこの国の未来を形作っていくべきか、理解するようになっていきました。

 17年前、私は解放されました。この国の者なら誰もが知る、偉大なる友人ピエナールによって。私は彼と共に未来について語り、そして実際に、この国のためにできることを多く積み重ねてきました。

 12年前、彼がこの世を去ったとき、私は彼と約束しました。いつか必ず、私が大統領として、この世界の至るところで未だ苦しい思いを味わっている同胞たちの希望となることを。それからも私は国家のために働き、そしてついに今日、その約束を果たすときが来たのです。

 今度は私が皆さんに約束しましょう。この国を、カラードも、ホワイトも、共に幸福に暮らせる真の平等社会とすることを。そして世界をそのようなものにするための先陣を切る国家とすることを。

 肌の色や信仰の違いから、人を憎むように生まれついた人間などおりません。

 人は人を憎むことを学びます。

 憎むことを学べるのなら、人を愛することだって、学べるはずです」

 

 

喜望峰

まだ世界を知らなかった500年前の欧州人が、新しい時代を切り開かんとしたときに見つけ、そして名付けた「希望の岬」。

 

そこから、また一つ、新しい時代が開かれようとしていた。

 

あらゆる民族の共生と調和を象徴する、この虹の旗の下で。

 

 

 

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パクス・ネーエルランディカ:オランダで「大蘭帝国」成立を目指す。

1.2オープンベータ「ロシア」テストプレイ

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金の国 教皇領非戦経済:「人頭課税」「戦争による拡張なし」縛り

コンゴを自由にする

アメリカ「経済的支配」目標プレイレポート

初見スウェーデンプレイ雑感レポート

 

 

*1:ただし50年は現地のフランス人利権を維持することを条件に

*2:なお、ローズの死は当然の天罰であり、警備の兵士も暗殺の実行犯も英雄として祭り上げられるべきであるとする過激派もいるにはいたが、ごく少数に留まった。彼らは政党としては急進党を支持する立場を取った。