リストリー・ノーツ

歴史ゲームのプレイレポートが中心。https://twitter.com/RestoryNotes

【Victoria3プレイレポート/AAR】大地主経済 第2回 農業経済の隆盛とストレルカ戦争あるいはザヴォイコ氏戦争(1856年~1876年)

 

「ロシアだけがヨーロッパの救世主にならなければなりません。わが陛下はご自分の崇高な使命をご存じであられます、そしてその使命に服されることでしょう。このひとつだけ、これだけですわ、わたしが信じておりますのは。聖徳並びなく、ご英明にわたらせられるわが皇帝陛下のまえには、この世界で最高の尊いお役目がひかえております、そして陛下はこの上なく慈悲ぶかく、お心の清らかなお方ですから、神がお見すてになるはずがありません。陛下はかならずやご自分の使命をお果たしになり、いまやこの凶悪な殺人鬼の形をかりていよいよ恐ろしい姿をあらわした革命のヒュドラの息の根をとめることでございましょう。わがロシア国民だけが正義の人の血を償わなければなりません*1

 

自由主義を徹底的に弾圧し、反動的な専制君主として権力を揮うロシア皇帝ニコライ1世

迫りくる産業化と自由主義の波によって自らの基盤が崩されることを恐れた彼は、突如その首都サンクトペテルブルクを放棄し、旧き首都モスクワさえも無視し、ウクライナ平原のルハンシクに首都を移転。

この地に大量の農園を建造し、そこで働く貴族や聖職者、そして農民たちを中心とした政治を突き進めていくこととなった。

新首都ハルキウに隣接するエカチェリノスラーフ。1775年に建造されたこの都市は、当時の皇帝エカチェリーナ2世の名を取ってこう呼ばれた。ドニプロ川沿いの豊かな土地には数多くの小麦畑と葡萄畑が広がる。現代ではその川の名からドニプロと呼ばれている都市である。

 

さらに新たなる商品作物の生産地と、それを消費する市場となる大量の人口を求め、ニコライ1世は積極的な南下政策を推進。

まずは遷都決定直後の1836年に、治世下では2度目となるガージャール朝ペルシア帝国との戦いに勝利し、これを傀儡化。のちに完全な併合を果たした。

さらに中央アジアのカザン平原でも遊牧民たちの反乱を退けてこれを併合。

その南部に横たわるヒヴァ・ハン国、ブハラ・ハン国、コーカンド・ハン国も次々と併合し、さらにはイギリスがこの地から関心を取り除いた隙を突いてアフガニスタンをも手中に収めた。

カフカース地方に残っていた小国(チェルケス、コーカサスイマーム国)もその宗主国オスマン帝国がエジプトとの戦争に気を取られている隙に併合。

ペルシャ湾、そしてインド洋へと続く「黄金の道」が出来上がったと共に、アヘン、染料、茶葉といった重要な商品作物を大量に得ることのできる資源地帯を我がものとしたのである。

 

「農業帝国」としての地盤を固めることに成功したニコライ1世は、史実で亡くなった年を超えて治世31年目を迎え、さらなる国家の成長を突き進めていくこととなる。

 

果たしてその先にあるのは、誰の幸福なのか。

 

~ゲームルール~

  • 地主勢力を政権内に維持し続ける。
  • 「土地ベース課税」「農奴制」の変更は行わない。
  • 知識人/労働者/実業家集団を政権内に入れない。

 

Ver.1.1.2(Earl Grey)

使用MOD

  • Japanese Language Advanced Mod
  • Dense Market Details
  • Dense Trade Routes Tab
  • Improved Building Grid
  • More Spreadsheets
  • Visual Methods
  • Romantic Music
  • Universal Names
  • Historical Figuaes
  • Visual Leaders
  • ECCHI
  • Visible Pop Needs
  • Auto Convert Production Methods After Conquest And Annex
  • Japonism

 

目次

 

前回はこちらから

suzutamaki.hatenadiary.jp

 

ニコライ1世の治世

ニコライ1世はその人生の最後の20年間を、ひたすらロシアの農業の振興に尽くすこととなった。

首都ルハンシクとキエフにはひたすら小麦畑を造営し、その経営者たちを豊かにするための政策を続けたほか、新たに獲得したペルシアやステップ地帯ではロシア本国では作ることのできないアヘンを大量栽培。

アヘン栽培可能な土地。ウズベキスタンについては200万の人口を抱え、最大76個のアヘン農園を作れるまさに楽園である。さらにまだ併合前なので表示されていないがアフガニスタンに至っては両ステートとも2万超えの人口と100を超えるアヘン栽培可能地を有している。

ペルシアの一部ホラーサーンでは、これもまたロシア国内では採れない高価値商品である染料が、処理量ボーナス付きで大量に用意されている。

 

さらにこれを円滑に生産、輸出するために1857年、西欧から鉄道の技術を導入。

ただちにウズベキスタンの中心都市サマルカンドからヘラート、マシュガル、テヘランタブリーズといった主要都市を通り、最後はペルシア湾へと至るペルシア鉄道を建設する。

古くからシルクロードの重要拠点として栄えていたサマルカンドは、今や中央アジア~ペルシア中のアヘンを集積して港へ運び出すための基幹鉄道の始点として新たな役割を担い始めている。正式にはペルシア鉄道と称されるこの鉄道網は、陰では「アヘン鉄道(Опиум магистраль)」と揶揄されることもあったという。

 

その終端に位置するフーゼスターンの港からは、毎週大量のアヘンが清に向けて輸出され、その対価として清からは大量の家具がロシア帝国内に持ち込まれていったという。

国内でも不足しているにも関わらず、アヘンの対価として大量に輸出せざるを得ない清の家具は高騰しており、清国内の民の生活を苦しめる要因となっていた。


この政府の「汚い政策」に対する批判の高まりは、政権内にも徐々に敵対的思想の登場を促すことともなった。
1864年には知識人たちの間で新しい思想であるニヒリズムが誕生。

おのれバザーロフ・・・!

あらゆる権威を否定し、拒絶するニヒリストたちは、当然のことながら皇帝による支配も宗教による統治も強く反対することとなる。

 

これが知識人たちの間だけで留まっていれば良かったのだが、1868年には軍部の指導者ニキータ・ドラゴミーロフもこの愚かな思想に染まり始める。

さらに1852年に若くして亡くなったイェウヘーン・フレビンカから引き継ぎ、農村民の指導者となったドミトリー・クロパトキンも、選挙制の導入や言論の保護を強烈に求める急進主義者となってしまった。

 

皇帝の意に反するこれらの勢力をニコライ1世はただちに政権から追放し、1870年代の彼の政権には王党派のヴァシリー・ザヴォイコ提督率いる貴族会合と、神政主義者のルハンシク府主教ウラジスラフ・グールコ率いる正教会勢力だけが残ることとなった。

 

だが、反対意見を尽く退け、専制の度合いをより強めていくニコライ1世に対し、国内の急進派勢力も増大し、不安定化が進みつつあった。

土地ベース課税の廃止や農奴制の廃止を訴える農村民や知識人たちの政治運動を尽く無視し続けたことが、少しずつ急進派の増大を招いていた。

 

そこで、ニコライ1世も多少の妥協を行う。例えば、30年近く国民を苦しめ、貴族を肥やしていた穀物法の廃止である。

この驚くべき政治的転換に、国内の労働者、百姓たちは大いに歓喜。ニコライ1世を讃える歌までもが流行り出すほどであった。

元々人口の多いこの2つのPOPの10%が体制派に鞍替えしたことで、あれだけ危険水準にあった体制派-急進派バランスが一気に逆転することとなった。凄まじい効果だ。


もちろん、ニコライ1世は巷で言われる通り「自由主義に目覚めたのだ!」とか「兄アレクサンドル1世皇帝陛下の魂がようやく受け継がれたのだ!」などという状況になったわけではない。

ただ単に、増大する国内人口に対し穀物の供給が急激に不足し、もはや輸出を促進する意味がなくなったからである。

むしろ、輸出に税をかけ、それで儲けた方が利益になる。そう踏んだニコライ1世による思惑の結果であり、自由主義者たちが求める選挙制の導入などは当然、変わらぬ無視を決め込んでいった。

 

この穀物の状況からも分かる通り、農業を中心としたロシアの「大地主経済」は、かなり好調になりつつあった。

このあたりで、1873年時点での経済状況を確認しておくとしよう。

 

 

1873年の経済状況 -帝国の隆盛-

1873年10月6日時点で、ロシア帝国GDP1億7,700万ポンド。1856年の約2倍にまで成長しており、世界ランキングでは4位の大英帝国に3,000万ポンド近い差をつけて第3位の位置につけている。1人当りGDPもかなり改善してきた。

特に大きな戦争があったわけではないし革命も起きていない平穏なヨーロッパだったのだが、なぜかフランスの工業化が遅れており、かなり伸び悩んでいる。


人口は相変わらず、併合を除けば自然増に任せているため伸び率は緩やか。

収支も含めた推移は以下の通り。やはり平均生活水準も伸び悩んでいる。

やはり特筆すべきは関税収入。今や、全収入の50%を超えている。

その貿易状況を見ておこう。

スラウェシ島で採れるコーヒーやカフカース地方でも採れるタバコは意外と収益が取れておらず(タバコはアメリカが相手のため輸送費が嵩む)、とにかく小麦とアヘンとワイン、茶葉、そして染料が重要な輸出品となっている。

世界的にもアヘンは大量に枯渇気味。ロシア国内においてもアヘン、ワイン、(世界的には圧倒的供給過多にも関わらず)穀物が圧倒的不足、そして果物と茶葉も不足気味である。

 

この状況ゆえに、国内最大の穀倉地帯キエフの小麦畑は小麦畑とは思えないほどの圧倒的生産性を記録。

そこで働くウクライナ人の貴族や農民たちもその恩恵に預かり、裕福な暮らしをし始めている。

キエフやルハンシクにおいては、貴族よりも農村民の方が政治力を持つ状況すら生まれ始めている。


この状況を受けて、1873年

ロシア帝国内では、純粋なロシア人よりもウクライナ人の方が政治的な影響力が高くなるという状況が生まれ始めてきていた。

人口で言えばロシア人の半分にすら満たないウクライナ人が、政治的影響力においてはロシア人を上回る状態が生まれることとなった。

 

その中で台頭してきたのが、ウクライナ人でありながらロシアの全貴族を代表する「貴族会合」のTOPに君臨することとなった、ヴァシリー・ザヴォイコ提督である。

 

 

ザヴォイコ時代

ヴァシリー・ザヴォイコは1809年にウクライナ地方ポルタヴァ県の貴族の家で生まれる。1827年にはギリシャ独立戦争に参加し、ナヴァリノの戦いなどで活躍した。

史実では1840年代に極東シベリア・オホーツクの支配者の1人となり、クリミア戦争では極東戦線で奮闘する彼ではあるが、この世界ではニコライ1世によるウクライナ平原への遷都を経て、そのまま帝国の中心地となったドニエプル軍管区にて黒海艦隊の司令官として躍進。

さらに元々自身が所有していた農場が国家の保護を受けて価値を上げていくのに合わせ、類稀なる商才もあった彼は一気にルハンシク、キエフの各農場の所有権を獲得。さらにニコライ1世による各地の鉄道建設にも積極的な投資を行い、その見返りとしてペルシアのアヘン農場の所有権も独占的に獲得した。

そしてペルシア鉄道=アヘン鉄道の終着地点にあたるフーゼスターンの交易所も取り仕切り、清とのアヘン交易を一手に握っていたのである。

ペルシア湾の奥に位置するフーゼスターンから、大量のアヘンが清に向けて運び出されていく。


この商売から得た莫大な利益、そしてそこから数多くの投資を行うことで得た人脈をもって、1860年代の後半にはザヴォイコ提督は貴族会合の議長の座を掴み取る。

さらにその巧みな弁舌は、かつての盟友であったセルゲイ・ウヴァーロフやアレクサンドル・ベッケンドルフらに先立たれてしまい孤独を感じつつあった晩年のニコライ1世にとって、彼を数少ない信頼を置ける人物と感じさせるには十分であった。

ニコライ1世の後継者である皇太子アレクサンドルは、幼少期より自由主義者たちの影響下にあったことからニコライ1世とは不仲であり、そのことを知っている民衆は、冗談で「次の皇帝はザヴォイコ氏なのではないか」と囁くことすらあったという。

幼い頃から皇帝になることを宿命付けられていたアレクサンドルであったが、父の抑圧的な政治姿勢には常に反発し、隠れてはプーシキントルストイといった自由主義的な文学に現を抜かしていたという。

皇太子アレクサンドルに影響を与えた知識人のリーダー、レオ・トルストイ。史実人物扱いされていないが、良く知られた本名の「レフ」は英語では「レオ」であること。そして設定されている生年月日が1828年9月9日と実際のトルストイと全く同じことから、ちゃんとしたネームドキャラクターであるようだ。なお、「悪党」特性を持っており嫌われているが、これはニコライ1世直属の皇帝官房第三課によって徹底的に弾圧され、悪評を広められているがゆえの「評価」である。皇太子アレクサンドルについても同様。

 

そして、実際に、1870年代の政治はもはやこのザヴォイコ氏によって牛耳られていたといって過言ではない。

やがてそれは、成長の安定期に入っていたロシアに大きな動乱を巻き起こすこととなる。

 

ニコライ1世、いや正確には「真の皇帝」ヴァシリー・ザヴォイコは、現在の成長に限界を見ていた。

確かに農村は栄え、これまでにない繁栄を貴族は、農民は、ウクライナの民は享受してきていた。

しかし、西欧諸国は今まさに産業革命の最終段階へと移ろうとしており、とくに人口において急激な成長が期待できないロシアは、やがて頭打ちを迎えることになるだろう。

そのとき、国内の資本主義者たち、自由主義者たちが勢いを得て旧勢力を打倒するなんてことは、決して起きてはならないのである。

 

さらなる成長の爆発的な飛躍のために――ザヴォイコは、自らの上にたつ2大国からその富を奪うことをニコライ1世に進言する。

ただし、オーストリア帝国は、ロシアの盟友であると共に、その国内産業の基盤があくまでも工業に寄っており、ここを奪って成長することは得策ではない。

欧州のグローバルGDPを見てみると、上位のオーストリアとイギリスだけが濃い緑色を示す土地をもっており、伸び悩んでいるフランスがいかに弱小な気が一目瞭然である。

ボヘミアGDP貢献産業一覧。普通に産業革命が出来ていることが良く分かる。なおフランス穀物がTOPに来る地域の多いこと・・。

 

一方の清はどうか。

見てみると、長江沿岸に位置する江西南安徽の2州がとりわけ高いGDP貢献度を示していることが分かる。

いずれも人口2,000万人超えの土地であり、しかも農作物の貢献度が比較的高い。

これこそが、ロシア帝国が理想とする新たなる海外植民地である。

 

そして、これは国家運営者としてのニコライ1世を説得するための方便であり、「農業資本家」ヴァシリー・ザヴォイコの狙いはまた別にあった。

現在、ロシアは清に対し、2つの交易ルートで合計1,436ユニット/週のアヘンを輸出しているが、イギリスが清に対して売りつけているアヘン量は2,580ユニット/週に及ぶのである。

この違いは貿易の生産性の違いであり、その差を生み出しているのが、清とロシアとの間の交易では清の輸入関税15%が乗っているのに対し、清とイギリスとの交易ではその関税がかかっていないことによる。

これは、1836年にイギリスが清に対して突きつけた不平等条約の結果であり、それによってイギリスが得た「条約港」による効果であった。

よって、国家の成長のために必要な不可欠な植民地であるとしてニコライ1世を焚きつけながら、ザヴォイコは自らのアヘン貿易利権拡大のために、その策を練っていたのである。

今や政権内に逆らえるものなどいない「皇帝」ヴァシリー・ザヴォイコが強力に推し進める「征清論」は政権の既定路線となり、これに反対した平和主義者のルハンシク府主教レオニード・エンガルィーチェフは、残虐かつ悪辣な趣味をしているという謂れのない評判を添えられながら政権から追放された。

ザヴォイコ率いる貴族会合による独裁政権が成立。もはや彼を止めることができる者など誰一人いない。

 

首都ルハンシクが位置するドニエプル軍管区では急ピッチで新規艦船の建造が進められ、多方面に広がる各司令部では軍団の再編成が行われていく。

完全なる戦時体制。戦争へと突き進む雰囲気の中で、ニコライ1世が1874年3月11日に崩御

享年77歳。史実より20年近くも長生きした末でのその最期は、居室にザヴォイコ氏のみを残しそれ以外の者をすべて退室させるなど、完全に彼に依存した哀れな老帝となってしまっていた。

直ちに、ザヴォイコ氏の主導で葬儀が行われ、そのまま新皇帝アレクサンドル2世の即位が決まった。

しかしニコライ1世時代から悪評も流され、その影響力はほぼ奪い取られた形での即位であり、誰の目から見てもそれはザヴォイコの傀儡のような存在であることは明らかであった。

 

そして1874年5月25日。

いよいよ、「そのとき」はやってくる・・・。

 

 

ストレルカ戦争

開戦準備

1874年5月25日。

フーゼスターンの港から運び込まれたアヘンが水揚げされている広州の港にて、その事件は起きる。

清の官憲がロシア船籍を名乗る中国船「ストレルカ号」に臨検を行い、清人船員12名を拘束し、そのうち3名を海賊の容疑で逮捕した。

これに対しロシア側は臨検の不当性を主張。さらに逮捕の際に清の官憲がロシアの国旗を引きずり下ろしたことは、ロシアに対する侮辱であると抗議した。

 

この「事件」はエスカレートし、やがてロシア皇帝アレクサンドル2世の名で、清に対して謝罪と賠償金、そして福建全域の領土割譲を要求する文書が届く。

当然、これを受け入れるわけにはいかない清の皇帝咸豊帝(愛新覚羅奕詝)は、ただちに全軍の動員と徴兵を開始。

合わせて諸外国へ救援を求めるが、この地に関心を持っている2代列強イギリスとフランスは共に清に対しては冷淡な態度を取る。一応ロシアに対しては非難声明を出しつつも、様子を見てあわよくば自分たちも清に対して何か要求してやろうという下心しかなかった。

真っ赤な色をしているイギリスの清に対する態度は「支配的」。フランスは「警戒」となっており、介入の可能性が低いと踏んだ。また、フランスは同盟国ベルギーの内戦に、イギリスもチュニス征服のための戦争に手を取られている状況でもあった。

今回のプレイで何度目か分からないイギリスからの非難。但しいつも口ばかりで手は出してこない。

 

ただ、清に対して「協力的」であったスペインだけはここに加勢。

どうやらロシアが東南アジアに建設したセレベス植民地を要求したいらしい。

ただ、所詮はすでに列強の地位からも滑り落ちた二流国。

陸軍の数も海軍の数もロシアの比ではなく、恐るるに足らない。

さて、援軍も得たことで清も無条件降伏することはないということで、ヴァシリー・ザヴォイコは全軍に配置へつくよう命じていく。

 

まずは清とロシアとの長大な国境線を防衛する、最も重要な役割を担うのがモスクワ軍管区所属で陸軍総指揮も担当するフランツ・エドゥアルト・フォン・トートレーベン元帥

ラトビアに住むバルト・ドイツ人の高貴な家柄に生まれた彼は、サンクトペテルブルクの技術者学校で学んだ近代的な要塞技術で名を馳せ、ペルシャ戦争やそのあとに続く中央アジアの戦線などでも工兵として将軍たちの絶大な信頼を集めていた。

そんな彼に、得意の防衛戦略でもって、敵軍50万超の大規模侵攻軍をすべて押しとどめるという本作戦最大の重要性をもった任務が与えられたのである。

史実でもクリミア戦争における決死の防衛戦で活躍したこのトートレーベンについては、主に防御面に資する様々強力な特性が付けられている。


さらにシク王国が清側についたことで形成されたアフガニスタン戦線においては、中央アジア方面軍の軍団長を務めるアレクサンドル・ソローキン元帥

険しい山岳地帯の続くこの地では地の利がものを言う。

長年の中央アジア任務の経験を活かした「測量士」としての腕前が、ここで発揮されることだろう。

 

主にこの2戦線でまずは敵の猛攻を耐え抜く。

そうしているうちに、後方に待機しているヴァシリー・ザヴォイコ提督率いる黒海艦隊と、そこに連れられて行動を共にするドニエプル中央軍総大将ウラジスラフ・クタイソフ元帥が、「とある作戦」を遂行する予定だ。

若くして高いカリスマ性を持ち元帥に登り詰めた天才。とくにその「兵站の達人」という特性に目を付けたザヴォイコ提督によって、この作戦の実行部隊を指揮する権限を与えられた。

 

そして1874年10月3日。

露清両国の「交渉」はむなしく決裂し、ここにストレルカ戦争あるいは第2次アヘン戦争と呼ばれることとなる戦争が勃発する。

交渉の最終盤でロシア側は本性を見せ、清に対し福建のみならず江西・南安徽の全領土および蘇州の条約港を要求。あまりにも過大な要求に憤慨した清の外交官はただちに席を離れ開戦を決断。欧州からもプロイセン王国イタリア王国などがロシアに対する非難声明を発表した。

 

なお、清およびスペインとの交戦状態突入によりその貿易路はすべて破棄されることとなったが、ロシア市場への影響はほぼ皆無となった。関税収入も3万ポンド/週ほど減ったものの、なおも29万の関税収入がもたらされており、戦争が経済に与える影響は極小に留まった。

戦争に突入してもなおも2万6千程度の赤字しか生まれておらず、すでに金備蓄は上限の3720万を遥かに超えた4660万ポンドにまで達しており、底を突く気配もない。

 

絶対防衛線

11月。

中国北方戦線、ザバイカル山中にて、清軍の勇猛果敢なるモンゴル人将軍センゲリンチンがトートレーベン元帥と接敵。最初の激戦が繰り広げられる。

センゲリンチンは史実のアロー戦争でイギリス・フランス連合軍を破ったこともある猛将。チンギスハンの遠い子孫にあたるとも言われる血統を持つこの由緒正しき男は、満州・モンゴル人を中心とした清の伝統的軍制「八旗」を代表する存在でもあった。

しかし、アロー戦争後半で西欧の近代化軍の前に結局は敗れ去り、アロー戦争終結後の民衆蜂起の中で彼が戦死した後は、八旗から漢人を中心とした湘軍・淮軍を中心とする軍制へと時代は変化していくこととなる。

 

この戦いでも戦列歩兵を中心とした旧時代的な清の部隊は、散兵部隊と榴散弾砲とを配備した最新鋭のロシア陸軍の前に手も足も出ず、敗北。

その後も長い国境線を縦横無尽に動き回る無数の清軍は戦線を突破しようと試みるが、このときのために投資をして配備してきていたシベリア鉄道を用いた機動防御によって、トートレーベン元帥率いる北方戦線防衛軍は清の猛攻撃を防ぎ続けた。

未開の荒地を突き進むシベリア鉄道は、まさにこのときのためにザヴォイコ提督が投資してきた一大プロジェクトであった。

なお、世にも珍しい極限の土地への旅客ツアーは都市部の貴族たちには割合ウケており、普段は鋼製客車も用意して完全民需用に使わせることでむしろ高い利益をもたらしていた。

 

アフガニスタン戦線でもソローキン元帥がシク王国軍の攻撃を撃退。こちらも全く問題なく、兵の質の差でもって敵を圧倒している。

アフガニスタン南部、バルーチスターンでの戦いでは、属国カラート藩王国軍のシャーディル・ダシュチャリ将軍が清軍の猛攻を跳ね返している。

どうやらバローチ人の国民的英雄のようで、「防衛戦略家」の特性も持っており、防備にはもってこいの人材であった。

ここの戦線にはロシア軍を配置できていなかったため期待していなかったが、素晴らしい。
何しろ相手は曽国藩。史実の太平天国の乱を鎮圧し、センゲリンチンを代表するモンゴル・満州人中心から漢人中心に軍制を転換していく時代の分かれ目を作った名将である。

時代を代表する清の2大将軍がそれぞれ猛攻を仕掛ける北方戦線と西部戦線

ゆるぎないこの2戦線でのロシア軍防衛線に対し清がその全兵力を差し向けている様子を確認して、いよいよロシア軍の本命となる作戦が発動する。



イスカンダル作戦

開戦と同時に、クリミア半島の海軍基地で待機していた黒海艦隊は、作戦総指揮を務めるヴァシリー・ザヴォイコ提督の号令のもと、厳かに進軍を開始した。

ザヴォイコ提督の乗る旗艦イスカンダル号の名前を取って「イスカンダル作戦」と名付けられたその作戦は、50日をかけて黒海から地中海を抜けて喜望峰を巡り、インド洋を渡って東シナ海へと至るという、壮大な規模の大海軍作戦であった。

史上稀なる大英雄の名を冠した作戦に相応しいこの偉業を成し遂げられるのは、「艦隊指揮の達人」であり、すでに2度、地球一周を成し遂げている「探検家」であり、かつ「勇敢」であるというザヴォイコ提督をおいて他にいない。

彼の本業はあくまでも海軍提督であり、今やかげで「皇帝」と綽名されるようになったその権力への志向はおまけみたいなものなのである。

そして、その実力が遺憾なく発揮されたのが東シナ海の戦いである。

およそ2か月弱の長旅にも艦隊の乗組員たちの士気は全く衰えておらず、一糸乱れぬその操艦術でもって清海軍を圧倒する。

 

23日間の戦いの末に清海軍を完全に蹴散らした後、クタイソフ元帥による上陸作戦を敢行。

清側も配備されていた防衛軍で迎撃に出向くが、数を揃えた元帥の上陸軍の前に、上陸戦ペナルティをもってしても敵わなそうな様子を見せる清軍。

翌年の1875年3月時点までに、今回の戦略目標の1つであった福建全域と江西の一部まで征服を成し遂げている。

だがこのあたりで、北方戦線を守っていたセンゲリンチン含む清の主力部隊が防衛に駆け付けたことで戦線は停滞。

まだ残る戦略目標である南安徽と蘇州が無傷で残っているために、このまま清の戦争支持率を下げていっても0%以下には至らない。

 

だからこそ、ロシア軍には「二の矢」が存在する。

それは、ロシア軍栄光のバルチック艦隊

これを率いるのは皇帝アレクサンドル2世の弟であるアレクセイ大公殿下である!

ヴァシリー・ザヴォイコ提督の下で鍛え上げられたこのアレクセイ大公も、実に優秀な提督である。

 

アレクセイ大公も50日の船旅の後、東シナ海にて清海軍と激突し、難なくこれを撃破。

やはりバルチック艦隊はアジアでも無敵のようだ。

 

バルト司令部に駐在していたフリードリヒ・フォン・ベルク少将による上陸作戦も見事成功し、狙い通り蘇州・南安徽の領土も制圧。これで清の戦争支持率を0%以下に下げることが可能となる。イスカンダル作戦、見事成功である!

 

 

終戦

そしてこの南方戦線へセンゲリンチンを始めとする主力部隊が引き抜かれたため、中国北方戦線ではこれまで防戦一方であったトートレーベン元帥が逆侵攻をかけられるようになってきていた。

北方戦線でも少しずつ支配領域を広げていく。

 

一方、西部戦線では、スペイン陸軍が本格的に投入されてきたことによって、次第にソローキン元帥も押され始めつつある。さすが、腐っても元列強である。

 

だが、遠い異国の地の内陸奥深くに入り込んでいる彼らの弱点は補給である。

こちらの上陸部隊も補給を寸断されると危険なのでしばらく様子を見ていたが、どうやらスペイン唯一の30艦隊は本国周辺で上陸警戒をしているだけで、こっちの補給網寸断を狙うどころか自軍の補給防衛すら考えていないようだ。

海上のノードをクリックして見ることのできるこのインターフェースを見ることで、敵海軍が「どこで」「何をしているのか」が分かるようになる。これまで海戦は不明なところが多かったがようやく理解できるようになってきたぞ。ってか分かりづらいんじゃい!


よって、心置きなくザヴォイコ提督とアレクセイ大公には敵輸送船団の撃沈任務に就いてもらう。

この襲撃の連続を経て、大陸で戦うスペイン兵たちへの補給を少しずつ削っていくことに成功。

削った補給はそのまま戦線で戦う兵の補給へのマイナス補正としてかかる。それだけ撃たれ弱くなり、0%になれば戦闘に参加できず不戦敗撤退するようになる。

士気が低くなれば第1回のときのペルシャ戦争で東インド会社がそうだったように、士気が満タンなれどより弱い現地兵たちを使うようになったりして、全く勝てなくなっていく。

 

そして、各戦線で状況が上向きになりつつあった1876年7月9日。

開戦から2年。

ついに、清は降伏を宣言。こちらの要求をすべて飲む「北京条約」を締結することとなった。

 

総勢140万以上の兵が動員され、双方で15万以上(うち、清軍単独で10万以上)の戦死者を出したこの壮絶なる戦い。

この戦いの「成果」は、4万6,200ポンド/週(総額1,108万ポンド)の賠償金と巨大な中国南部植民地の獲得。それから世界2位のGDPと世界3位の人口だけである。

GDPは狙い通り一気に清から奪い取り、1位のオーストリアの目前にまで迫る結果となった。

人口も一気に跳ね上がり1億5,964万人に。これは清(3億1,800万)、インド(1億8,600万)に次ぐ世界3位の数字である。

 

「真の皇帝」ヴァシリー・ザヴォイコが自ら始め、自らの利益のためだけに推し進めたこの戦争のことを、その批判者たちは影でこう形容することがあったという。

 

これは、国家の戦争ではない。

ザヴォイコ氏による、実に個人的な戦争だ、と。

 

 

第3回に続く。

suzutamaki.hatenadiary.jp

 

*1:レフ・トルストイ戦争と平和』、新潮文庫、工藤精一郎訳。