前回はこちら。
北アフリカのベドウィンの一部族に過ぎず、歴史にも残っていなかったゾーグバディットという名を、わずか一代で北アフリカ一帯を支配する巨大な帝国へと築き上げた偉大なる君主アブド=アッラー。
1111年、その45年に渡る長き治世が終わりを告げた。
今や、ゾーグバディット朝(Zoghbadid)は、チュニジアのズィール朝もエジプトのファーティマ朝も滅ぼし、イスラーム世界最大規模の勢力へと成長していた。
今回は、その偉大なる父アブド=アッラーの後を継ぐ後継者たちの物語を見ていく。
目次
第2代スルタン、アブド=アル=カウィの治世(1111年~1123年)
偉大なる建国の父アブド=アッラーを後を継いだのは、その嫡男であるアブド=アル=カウィ(58歳)。
父があまりにも長生きしたため、即位した時点ですでにかなりの高齢ではあった。
性格は寛容だが短気で冷笑的。但し人付き合いは得意な方で、好かれやすい性格であると共に軍事的才能も父と比べてある男。
彼の治世の最初の仕事は、父イブン・サイードが始めていたハシミド朝との2回目の戦争を無事、終わらせること。
一度バラバラになった自国内の整理を完了させたうえで、戦争を継続。
1112年7月25日にはハシミド朝スルタン・アブドゥル=ガフル(29歳)を降伏させ、エジプト一帯の領土をすべてゾーグバディット朝の支配下に置いた。
さらに1118年にはハシミド朝に対する3度目の戦争を行い、イスラームの聖地でもあるマディーナ(メディナ)を獲得。
ベドウィン文化の広がるこの地を手中に収めたことで、ようやくベドウィン文化の文化的指導者の地位に立つことができるようになり、自分の意志で革新性を選べるようになっていく。
早速、高度分割相続制を解禁する「紋章学(Heraldry)」の革新性を選択していく。
さらに、1119年1月にエルサレム王国に対して宣戦布告。
西アフリカを支配するムラービト朝や、アラビア半島を支配するベドウィンの諸部族も同盟国としてかき集め、総勢2万5千の大軍勢にて、聖地を支配する十字軍を撃退する。
1年半後にはこれも終戦。
聖地エルサレムを20年ぶりにイスラームの手に、それもスンナ派の手に取り戻すことに成功した。
アイユーブ朝の生まれ得ないこの世界におけるサラーフ・アッディーンは、ゾーグバディット朝にて誕生するのである。
そしてハシミド朝への4度目の戦争を仕掛け、残された聖地マッカを奪い取ろうとした矢先・・・
1123年4月。ゾーグバディット朝第2代スルタン、アブド=アル=カウィは12年間の短い治世を終えた。
とはいえ年齢は70歳。父アブド=アッラーに劣らない長寿を過ごしたうえでの大往生であった。
治世は短かったものの、異端や異教徒からシナイ、マディーナ、エルサレムという3つの聖地を取り戻すなど、偉大なる事績を残した2代目のアブド=アル=カウィ。
そして、ゾーグバディット朝の当主の座は、3代目アブド=アッラー2世へと移っていく。
第3代スルタン、「敬虔王」アブド=アッラー2世の治世・前半(1123年~1133年)
1123年4月。
ゾーグバディット朝建国の父アブド=アッラー1世の孫にあたるアブド=アッラー2世が、ゾーグバディット第3代スルタンとして即位する。
年齢はすでに50歳。父アブド=アル=カウィ同様、そこまで長い治世は期待できないかもしれない。
性格は勤勉で気前が良く、好色。祖父アブド=アッラー1世譲りの学識の高さと、父アブド=アル=カウィ譲りの人付き合いの良さとを兼ね備えている名君である。
だが、そんな彼の嫡男にあたるアブー=バクル(30歳)はやや問題児か。
1123年の8月7日に、アブー=バクルの臣下のラムシス市長から、彼が妻を持つ身でありながら、11歳も年上のネルジスという女性と不倫を行っていると告発されてしまった。
おかげでアブー=バクルの特性に「Adulterer(姦通者)」の特性がついた上に、献身レベル(Level of Devotion)が1つ下がって「罪びと(Sinner)」に。
ろくでもない息子である・・・が、アブド=アッラー2世の特性に「好色」があるせいか、イベントテキストの文面には「I do not see what the fuss is about. It is not as if lust is an unnatural affliction.(私にはこの騒ぎの意味が分かりません。欲望が不自然な苦悩であるようには思えないのだが?)」、そして選択肢には「Have we nothing more important to tend to?(もっと重要なことがあるのでは?)」と書かれている。
この父にしてこの子あり、といったところか・・・。
それはさておき、いよいよ父アブド=アル=カウィが継続中であったハシミド朝に対する4回目の戦争、すなわちマッカ征服のための戦争を再開。
これは1126年11月10日に決着し、ゾーグバディット朝は聖地マッカを併合。
これで、アシュアリー学派(スンナ派)の聖地5つすべてが、アシュアリー学派の支配下に置かれることとなった。
さらに、アブド=アッラー2世は敬虔の徒に相応しい行いに手をつける。
すなわち、エルサレムこそ奪還したものの、その周辺の地に未だ蔓延る、キリスト教徒たちの放逐である。
1130年1月19日。献身レベルが「美徳の規範(Paragon of Virtue)」に達したことで、開戦事由「王国級の聖戦」が解禁。
こちらを用いて、エルサレム女王エレーナ(28歳)に宣戦布告を行う。
しばらくは順調にエルサレム王国領に侵攻していたが、1131年1月に入るとハンガリー王国軍5,000がエジプトのファラマに上陸。
エルサレム王国軍3,000と合流しようとするこの勢力に対し、ゾーグバディット軍も9,000の兵力で挟み込む。
ファラマの戦い。元々の兵力は互角に近かったが、ゾーグバディット軍の元帥ジブリールとエルサレム王国連合のウルビーノ伯軍元帥ティツィアーノの軍事力の差(22 vs 9)、そして何よりも、敵連合の主力が「船から降りたばかり(Recently Disembarked)」のペナルティで-30もついているのが決め手になり、ゾーグバディット軍が圧勝。
1ヵ月半にわたり続いたこのファラマの戦いの勝利によって形成はゾーグバディット軍側に傾く。
敵軍はハンガリー王ラドヴァン2世が自ら軍を率いているようだが、10年以上にわたる借金のせい-40ものペナルティがついており、敵ではない。
結果、1132年1月。終戦し、エルサレムの地を完全にイスラームの手に取り戻すことを実現。
エルサレム女王エレーナは、紅海の沿岸の砂漠地帯に追いやられることとなった。
異教徒との戦いに完全勝利した「敬虔王」アブド=アッラー2世。
その威光は限りない境地にまで達し、もはやこの地に敵はない――と、思っていたが。
1132年2月1日。
エルサレム王国陥落の報を受け、教皇ルキウス2世(87歳)が第2回十字軍の発令を宣言。前回の第1回十字軍から40年。ルキウス2世治世下における、2度目の十字軍発令である。
その1年後、1133年6月8日に十字軍が正式に宣戦布告。
すぐさまアブド=アッラー2世も、世界各地のアシュアリー学派(スンナ派)の諸侯に結集を呼び掛ける。その中にはペルシアを支配するセルジューク朝も含まれている(アフリカ西部はイスラム改革運動を起こしたムラービト朝が支配しており含まれず)。
アブド=アッラー2世率いるアシュアリー学派軍は5万5千。
一方、教皇ルキウス2世率いる第2回十字軍は総勢6万4千。
史実の第2回十字軍のあの情けない軍容とはあまりにも違いすぎる・・・。
欧州と中東。世界の2大勢力が総力戦の体制を築き上げる、正真正銘の世界大戦。
この数の不利を、アブド=アッラー2世は跳ね返すことができるのか?
1133年の世界地図
第3回「第2回十字軍」へ続く