北アフリカの一部族から始まり、わずか一代でカイロから北アフリカ一帯を征服する巨大な帝国へと成長したゾーグバディット朝。
その第3代スルタン、アブド・アッラー2世はさらに十字軍からエルサレムの地を取り戻し、バグダードのカリフを保護し、さらには古のビザンツ帝国を滅ぼして東地中海全域を支配する世界最大の帝国へと進化した。
だが、あまりに急激な拡大は、歪みも生むこととなる。
何しろ、その領土の半分以上が異民族・異教徒が住む土地なのである。
当然、その事実が帰結する事態とは・・・
2万を超える反乱軍の蜂起。
果たして、「敬虔王」アブド・アッラー2世はこの危機を乗り越えることができるか?
第一の反乱(1144年~1146年)
反乱軍の内実は以下の通りだ。
首謀者:キリキア公カタカロン2世(総兵力3,360)
オプシキオン公ニケフォロス(総兵力2,740)
パルミラ公ブトロス(総兵力2,522)
サーマッラー伯サウマ(総兵力2,036)
エピルス公イオアンナ(総兵力1,983)
キビュライオタイ公ニケフォロス(総兵力1,886)
オプティマトイ公イオアネス(総兵力1,537)
キプルス公ポリュカルポス(総兵力1,373)
カストロジョヴァンニ伯イサルカス(総兵力1,222)
ストライモン公テオキストス(総兵力1,222)
ワジュ首長フサイン(総兵力781)
ハラット・ラハット首長ムハンマド(総兵力736)
カルディア公ミカエル(総兵力310)
の、合計21,705。
一方のゾーグバディット軍はアブド・アッラー2世自身の軍だけでも23,557。
そこにセルジューク朝の分派であるTungid朝の7,000超の軍隊と、アラビア半島周辺のベドウィン諸部族の兵力とが加わって合計4万超。
2万を超える反乱とはいえ、正直、今のゾーグバディット帝国の敵ではない。
1145年12月。アンタルトゥスの戦いで圧勝。
乾燥地帯(Dryland)での戦いで騎兵系兵種を大量に投入したことにより、実に800名以上を追撃(Pursuit)で粉砕。最も理想的な形だ。
一方、その南方のベイルートでの戦いでは、自軍側に常備兵や騎士がいなかったことにより劣勢に。
しかしそこに援軍3,500超がギリギリで間に合い、かろうじて勝利。
そうこうしているうちに1146年の5月。
最後の正統カリフ・アリーとシリア総督ムアーウィヤとが戦い、勝利したムアーウィヤがウマイヤ朝を建国するきっかけとなったスィッフィーンの地にて、イスラーム連合軍と正教徒反乱軍との最大の激突が勃発。
反乱軍の司令官は首謀者でもあるキリキア公カタカロン2世。
兵数ではゾーグバディット連合軍が上手だが、敵軍の半数近くが常備兵(常備兵総数7,000弱)。
一方のゾーグバディット連合軍の常備兵の合計は2,000超といったところで、3倍近い差がついている。
しかも騎士の数も、49vs26と、2倍近い差。
戦いの中でカタカロン2世に重傷を負わせたりはするものの、6月には敵軍に対して2倍近い敗残兵を出しながらあっという間に劣勢に。
だが、なんとかギリギリのタイミングでアラビアのベドウィン諸部族が援軍として合流。
7月。2か月以上にわたる激しい戦いの末に、最後は数で圧し潰す辛勝。
なんとか勝てたから良かったものの、常備兵や騎士の数の差が兵の総数よりもずっと大きな意味をもつことを否が応でも感じさせる戦い。
この辺りは、物量こそ正義なことの多いEurope Universalis Ⅳとの大きな違いに思える。
なお、この戦いでアブド・アッラー2世の弟、驚異の「武勇32」を誇る騎士アブドゥル=ワッハーブはたった一人で100名以上を討ち取る獅子奮迅の活躍。
のちに彼はスィッフィーンの英雄と呼ばれたとか何とか。
さて、この戦いの勝利によってこの最初の反乱はいよいよ鎮圧に傾きつつあった。
が、そのとき・・・
1146年7月25日。
セルビアの正教徒たちによる反乱が勃発。
セルビアのみならずビザンチウム近辺を含む広範囲にて、総勢1万人超の民族主義者たちが蜂起。
戦いは第2段階へと移行していく。
反乱に次ぐ反乱(1146年~1149年)
セルビアの正教徒の反乱は、所詮は非正規兵の反乱となるため、進行も遅い。
一旦、最初の反乱を鎮圧することを優先し、1146年12月19日。
戦勝点100%に達し、講和。
キリキア公を始めとする反乱首謀者たちすべてを牢獄に叩きこむ。
さて、それではセルビア正教徒たちを討伐に向かおうか、と思ったところで・・・
第2の正規軍反乱が勃発。
今度は、元ビザンツ皇帝バルダスが、自らの妹アンテ(Anthe)を帝位請求者に立ててクーデターを起こした形だ。
6,000の兵を有するバルダスのほか、2,000の兵を有するテッサロニカ公やセバステイア公など、12の同盟国を率いる反乱軍の総兵数は実に2万3千超。
一方のゾーグバディット軍は、彼ら有力諸侯が離れたことにより、1万8千しか兵が残っていないという状況に。
もちろん、これはあくまでもこちらの同盟国を含めていない数字。
新たに同盟を結んだカラハン朝のスルタンやTungid朝のスルタンなどの兵を加え、ゾーグバディット連合の総兵数はすぐさま4万弱にまで膨れ上がる。
とはいえ、楽ではない。
神出鬼没の敵軍に対抗するべく、アブド・アッラーは全軍を大きく3つに分ける。
まずはアナトリアで敵主力に対峙する、従弟ヤフヤー元帥率いる第一軍8,500。
さらに、北アフリカの地に上陸してきた敵連合軍に対抗すべく、アレクサンドリアにて急遽招集することとなったフィリッポポリス公ベリサリオス率いる第二軍。
さらには、攻城兵器を引き連れて、敵本拠地のあるアテナイへと向かう弟のトリポリタニア公フサイン率いる強襲部隊。
アナトリア、アフリカ、ギリシャ。3地域でそれぞれ兵力を分断して進軍。
ここで難しいのは、2万近い同盟軍が、アナトリアの敵領制圧のために貼りついており、上記3方面軍への助力として機能してくれないこと。
数の上では劣勢のゾーグバディット軍単独で、敵同盟2万超に立ち向かう必要が出てきた。
そのままアテナイに上陸されると厄介だ。こちらも100近い金を支払って海へ。
1148年2月。アテナイに、北アフリカ軍と合流した敵主力が上陸。
アテナイ占領を達成したばかりのトリポリタニア公部隊がピンチ!
ペロポネソス半島を北上して逃亡するトリポリタニア公部隊2千。
これを追いかける反乱軍主力2万。
だがゾーグバディット軍も、北アフリカのフィロッポポリス公軍と合流し、アテナイに上陸。
反乱軍を挟み撃ちにする!
トリポリタニア公部隊が犠牲になり、トリポリタニア公フサインは捕らえられてしまうが、その隙に敵主力の一部をゾーグバディット軍主力が包囲殲滅。
トリポリタニア公部隊を殲滅した敵主力が反転して向かってくるが、これを各個撃破していく。
「スィッフィーンの英雄」アブドゥル=ワッハーブも負傷するほどの激戦の中、戦況は有利に推移。
フィリッポポリス公ベリサリオスは、反乱を起こしたモシノポリス公の領土を与えており、異教徒のゾーグバディット帝国に忠誠を誓っている身。
その忠誠を示すためならば、同族殺しも厭わない。軍事力22と優秀でもあるため、重用してやろう。
そして1148年7月。エラッソンでの2か月にわたる激戦の末に、何とか勝利。
これにより、大勢は決した。
1149年2月11日。元ビザンツ皇帝バルダスの引き起こした大反乱戦争は終結。
先の第一次反乱と合わせ、首謀者たちを全員牢獄に叩き込むことに成功した。
戦後処理、そして・・・(1149年)
さて、反乱というのは大変なものではあり、今回も海戦含め対応したため、1,000ディナール以上あった国庫も底を尽きかけるほど国力を消費することとなった。
が、それをするだけの価値が、反乱鎮圧にはある。
鎮圧に成功して投獄させることのできた反乱諸侯たちからは、それを理由にその領土を奪い取ることができるのだ。
これによって次々と反乱諸侯から領土を奪い取りまくる。
一方、Generous(気前の良い)性格をしているアブド・アッラー2世は、この所領剥奪するたびにストレスが蓄積されてしまう。
そのストレスは狩りや祝宴で癒すこともできるがそれだけでは限界があるため・・・
投獄されているライバル(宿敵)を拷問(Torture)にかけることによって、ストレスを解消するという方法も。
お誂え向きに、投獄されているライバルの数が結構多いので、これで大量所領剥奪が可能になる。
さて、そんな感じで豊かなビザンツの地を没収し、反乱に加担しなかった異教徒諸侯らに配分することで忠誠を誓わせ・・・ということをやろうとしていた矢先。
終戦からわずか4日後。
1149年2月15日。
26年間にわたりゾーグバディット帝国を統治し、その領土を2倍以上に広げ、ついには皇帝位をも手に入れた偉大なるスルタン、アブド・アッラー2世が崩御した。
享年75歳という、この時代では圧倒的な長寿を記録することとなった。
さて、ゲーム開始から80年経過し、3代を終えたところで、ゾーグバディット朝は東地中海全域を支配する世界最大の帝国へと成長。
もはや敵なしでこのあとは消化試合となってしまうので、今回のシリーズはここで終了としたい。
次回は新フレーバーパックの発売に合わせて何かレポートを上げられたらと思う。
それでは、さよなら。