~前回のあらすじ~
関東管領・上杉家当主の上杉憲忠は、東海の雄・今川家と手を結び、東日本における勢力拡大を図った。
しかし、あまりに強大化し過ぎた両国はやがてその関係を悪化させ、1463年の憲忠の死、および1468年の今川家当主・範忠の死をきっかけにその破局は決定的なものとなった。
全国統一を目指す上杉家にとって、かつての盟友・今川は倒さなければならない相手となったのだ。
今川家滅亡(1468年~1473年)
ついに今川家が同盟破棄を申し出てきた。
いよいよ戦争か、と上杉家内が緊張を高めた、その次の瞬間。
筒井・細川に宣戦布告され、ぼこぼこにされ始める今川。
そりゃ、あれだけアグレッシブに動いたらそうなるよな・・・
結果、紀伊は筒井に獲られ、尾張は斯波氏が復活し、今川は摂津と駿河の2か国のみとなってしまった。
こうなってしまった今川をどうするか?
もちろん、やることは1つしかない。
1471年12月。上杉家はかつての盟友・今川に向け宣戦を布告する。
敵同盟国として陸奥・渡島を支配する安藤家が出張ってくるようだが、敵ではない。
こちらは同盟国の山名の助力を断り、単独で戦うことにする。
そして2年後の1473年6月。
安藤家を滅ぼし、今川の居城・駿河も制圧。
今川は降伏せざるをえなかった。
駿河を割譲させ、賠償金89ドゥカートと、10年間にわたり月毎収入の1割を献上させる約定を定めた。
滅ぼしはしなかった今川家だが、こののち数年後、その所領摂津は足利家によって召し上げられ、お家取り潰しとなった。
将軍追放(1486年~1487年)
もはや東国に敵なしとなった上杉家。
この後、復活したばかりの斯波氏を攻め、尾張を接収。
さらには同盟国だった美濃の土岐氏に対しても外交的な陰謀を巡らせ、敵方から同盟を破棄させることに成功。
これを攻め、美濃の領土も手に入れた。
その間に上杉家当主・憲房が36歳の若さで死去。
新たな当主として19歳の息子・朝宗が即位することに。
これが1482年のことである。
そして、1486年。拡大を続けた上杉家は、紀伊半島および四国も領有し、山陽地方は同盟国の山名・細川氏が、九州地方は同じく同盟国の菊池氏が支配することに。
一方の足利将軍家も、近畿を中心に各地を支配。
無数の大名家によって統治されていた日ノ本が、今ではこの4家のみで統治されているという状態になった。
いよいよ、天下分け目の大決戦である。
1486年3月30日。
上杉家当主・朝宗は、ついに将軍に牙を剥くことを決めた。
しかしまあ、戦力差は歴然であった。
何しろ、足利家の軍事技術レベルはまだ6なのに対し、こちらは8なのである。
さらにこちらは大砲も配備しており、将軍も射撃3の勇将を用意している。
結局、足利家は1年ももたなかった。
1487年2月15日。諸大名は足利将軍との和睦の中で、その独立を保証され、上杉家は新たな将軍として日ノ本を治めることとなった。
このとき、上杉に協力し、各地の足利領を攻撃していた諸大名たちは、自分たちの取り分がないことに対して強い不満をもっていた。
だが、上杉朝宗はこれを無視。
いずれ、彼らは敵対し、その領土を奪う必要がある。
ここで彼らに力を与えるような真似を、朝宗はするつもりなどなかった。
将軍追放! 上杉将軍の下、新たな幕府が立ち上がる!
日本統一へ(~1511年)
さて、改めて将軍として日本の統一を考える。
今回の独立戦争の結果、細川や山名といった大名たちもすべて「独立大名(Independent Daimyo)」となっているため、いくら上杉が将軍でも彼らに対して併合を含めた様々な命令をすることができない。
よって、これらを併合するためには、武力で制圧するほかないのである。
だが、この独立大名たち、こちらが食指を伸ばしていることに気付いたからか、早速、明の朝貢国になってしまった。
この状態から戦争を仕掛けるためには、こちらも明の朝貢国になる必要がある(神聖ローマ帝国と同じシステムやね)。
よって、悔しくはあるが、明の冊封下に入ることを選択。
定期的に金や君主点をカツアゲされてしまう。
無事、明の朝貢国になったことで、早速、宣戦布告。
1502年8月、足利滅亡。
1504年12月、山名滅亡。
そして1511年6月、九州を支配していた菊池家も滅ぼし・・・
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天下一統完了!!
第3回へ続く。