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【Victoria3】コンゴを自由にする第3回 成長と拡大、そして生まれゆく歪み(1876年~1896年)

 

15世紀以来の宿敵であったポルトガルに対する独立戦争を成功させたコンゴ王国。

その賠償金66万ポンドと旧王国領でもあるアンゴラの地、そして列強1位のフランスの関税同盟に入ったことで、コンゴ王国の経済はその絶頂期に達する。

GDPも900万ポンドに達し、所得税も1870年の約1.5倍の1万7,400ポンド、GDPに比例する鋳貨の値は2倍以上の5,280ポンド、そして賠償金が2,750ポンド/週追加されたことで、1876年時点の財政黒字は1万1,700ポンド/週(年間56万1,600ポンド)となった。

 

わずか53万人しかいなかった小国コンゴをここまで成長させ、拡大させ続けてきた偉大なるマニコンゴ(コンゴ王)、アンドレ・キンラザアンドレ2世)も1878年に80年の生涯を全うし、天に召された。その高い功績に国民は皆涙し、国葬が執り行われたという。

人気度は慕われている(80)と非常に高く終わった。但し、ストレスは相当なものだったのか、最後はアルコール依存となってしまっていた。

 

代わって王位に就いたのはアンドレ2世の嫡男、ガルシア・キンラザ。ガルシア6世と呼ばれるこの若きマニコンゴの下、コンゴ王国はさらなる飛躍に向かって突き進むこととなる。

無鉄砲で浪費家、さらには心理的苦痛持ちということで、前王との比較もあり、国民はやや不安をもってこの若き王の即位を見守ったという。

 

コンゴ王国、成長と拡大の20年。

それは順調なようでいて・・・大きな変化の前触れでもあった。

 

 

Ver.1.0.6(Vanilla)

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  • Japanese Flavor
  • Japanese Namelist Improvement
  • Complete Pop List
  • Dense Market Details
  • Construction Queue with States
  • Dense Trade Routes Tab
  • Umemployment and Peasant Data
  • Improved Building Grid
  • More Spreadsheets
  • Visual Methods
  • One Outliner to Rule Them All

 

目次

 

前回はこちらから

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発展の代償

これまでにない財政黒字、そして人口も200万近くにまで達しようとしている中ではあるため、建設局(建設セクター)を10個まで増設。

さらに首都キンシャサには大学を増設。キンシャサ(バ・コンゴ)だけでも現在129万人も人口が集まっている。

アフリカ全土から移民を集め、コンゴも国際色豊かになってきた。

 

この積極的な投資には資本家の力は欠かせなかった。

資本家ら実業家集団をまとめ上げる市場自由主義者ムフティラ・マ・ノンボの意向に従う形で1884年レッセ・フェールを制定。

資本家の投資プールも増大し、建設にかかる4万超のコストを全て賄ってくれる体制に。

当初2,000の出資だけでもひいひい言っていた時代がもはや懐かしい。

 

フランス市場の高まる需要に応える形でコンゴの家具工場も衣類工場もさらなる増産を進める。1886年にはバ・コンゴの家具工場が家具工場としては世界1位の生産性を誇るようになり、すべての施設の中でも世界3位に位置づけられることとなった。なお、世界4位は同じくバ・コンゴの衣類工場で、そちらも衣類工場としては世界1位の生産性を誇っている。

フランス市場全体で作られている家具の25%をこの工場単独で生産している。

家具工場と衣類工場だけで2万4千超の税を国に納めている。その他、食品工場や製紙工場も高い生産性を上げている。

 

産業化の発展に伴い、ジャーナル「コンゴの都市化」も達成。都市レベル10に達する併合された州を所有すること及び併合されたステートの75%が都市レベル5以上であるときに達成されるイベントだ。

上の選択肢を選ぶことで、国内の体制派市民の数を大きく増加させてくれる。

 

だが、良いことばかりではない。

自身も浪費家で贅沢好きの君主ガルシア6世は、この側近ムフティラ・マ・ノンボと実業家集団に対してあまりにも傾倒しすぎていたのかもしれない。

投資信託」の技術獲得後、各工場の所有権を「公開企業」とし、より多くの資本家の参画を促進。

 

結果、より高い給与を取る資本家の数が大きく膨れ上がり、全体の給与額は減少。生産性は過去最大のものとなったにも関わらず、そこで働く労働者たちは割を食い、経済格差は広がっていく一方となっていた。

資本家の数が2.5倍以上に膨れ上がった結果、そこで全体の給与を多く奪い取る形となり、生産性向上にも関わらず配られるパイが減少。結果として全階級で平均給与が下がり、人数は1.5倍にしかなっていない労働者たちの平均的利益はむしろ減少してしまっている。

 

この事態に、国民の間でも次第に不満が広がっていくことに。

ジャーナル「投資信託」達成で生じるイベント。上の選択肢を選ぶと実業家集団の求心力を下げる。下の選択肢だと技術「国際為替市場」のための革新ポイントを得ることができる。

 

直近の選挙でも労働者を支持基盤とした社会民主党が勝利するも、ガルシア6世は彼らを政府内に入れることを拒否。引き続き国民からの支持は薄い、全人口の2%にも満たない資本家たちのための政策を進めていく意向を明らかにしていた。



経済的発展の背景で進む国内の不安定化に加え、さらなる「外圧」がコンゴ王国に加わろうとしていた。

 

第二次コンゴ戦争(1890年~1892年)

1890年。

選挙制を廃止した大統領寡頭制アメリカ合衆国が、ジェファーソン・バクスレイ大統領のもと「本土の拡張」政策を推し進め、その魔の手をついにコンゴ王国にも伸ばし始めたのである。

 

宗主国たるフランスは当然こちら寄りの姿勢は見せてくれるのだが、何とアメリカ合衆国と同盟関係ということで、懐柔することが不可能に。相手側につかないだけマシかもしれないが・・・

 

仕方なく恩義を与えてイギリスを懐柔させる。


その上で兵舎を一気に50個まで増設。
最悪徴兵もするつもりで、全力で迎え撃つ!

こちらも残った戦略ポイントでアメリカのガボン植民地を要求する。そこもコンゴ王国旧領であるからにして、アメリカが土足で踏み込んで良い場所ではない!

1890年12月28日。交渉は決裂し、のちに第二次コンゴ戦争と呼ばれるアメリカ-コンゴ戦争が開幕した。

 

そして1891年8月。ついにコンゴに上陸してくるアメリカ軍。

これを率いるのは史実の南北戦争でも活躍した「最初の近代将軍」ウィリアム・テカムセ・シャーマン

上陸戦によるペナルティがついているため質では劣るものの、圧倒的な物量で攻め上げてくるアメリカ軍の前に独立戦争の英雄ムヴォウドウコウサラ・マンカラも苦戦。このままでは押し切られる!

 

と思ったら、あれ? まだ上陸戦終わっていないのに戦闘が2つ発生している。

 

もう1個の戦闘の方も上陸戦扱いらしく同じくアメリカ軍の戦闘力にはペナルティがついており、さらに数においても同格ということでこちらは押している。

 

そのまま最初の戦闘の方では敗北し、一気にコンゴ海岸部が占領下に。

 

しかしもう1つの戦闘の方が中断したかと思えば・・・

 

出来上がったコンゴ戦線にはアメリカ軍の姿はなく、空っぽ。

 

そのまますぐさまその戦線にマンカラ将軍を投入。アメリカ軍も慌てて兵を送ってくるが到着まで2ヵ月かかるということで、その間に占領された土地を征服し返すことに成功した。

 

何だったんだろう、あの二重戦闘現象は・・・

下手に触れるとクラッシュしたし、バグだったんだろうが・・・今回そのおかげで難を逃れる形となった。

 

とはいえ次また上陸戦があると厄介なので、さらなる兵舎の増設と徴兵も行い待ち構えていると・・・

 

 

1892年1月。

いつの間にかアメリカのガボン植民地がコンゴコンゴ植民地と接していたみたいで、そちらでも陸上戦線が発生していた(こういうのもっと派手にアラートしてほしい)。

 

すでにイギリス軍主力も到着しており、アメリカ軍のアドナ・チャフィー准将とバチバチの激戦を繰り広げている。

 

独立戦争(第一次コンゴ戦争)のときの主戦場はヨーロッパだったが、今回の第二次コンゴ戦争ではアフリカの地に双方の全戦力が集まってきている状況。両軍合わせて55万以上もの兵が激突している。

だが、ロイヤルネイビーによって制海権を抑えられてしまっているアメリカ軍は補給がままならず、士気が軒並み低下。

結果、すでに塹壕歩兵を導入し驚異的な防御力を誇っているアメリカ軍も、戦列歩兵のイギリス軍を前にして次から次へと敗北を重ねていく。

 

1892年9月。義務は果たしたとばかりにイギリスが先に戦線離脱。

AIのこのあたりの挙動はすごくプレイヤーっぽい。

 

それでももうアフリカに残るアメリカ軍は虫の息であり、士気も0の状態。

 

そのまま1892年11月。

アフリカからアメリカ軍を駆逐したのち、先方から和平条約の申し出が。

 

中を開いてみるとこちらから要求したすべての項目を自ら差し出してきているというもの。すなわち、完全降伏の申し出だ!

 

当然受諾。

かくして1892年11月24日。アメリカの征服欲から始まった第二次コンゴ戦争は、アメリカの屈辱的撤退という形で幕を閉じたのである。

 

このムアンダの和約アメリカは属国インディアン準州と合わせ4万9,000ポンド/週を5年間、計1,176万ポンドもの賠償金支払いを約束させられ、さらに彼らが持っていたアフリカ・ガボンの植民地をすべてコンゴに割譲することに。

 

コンゴの領土はさらに広がり、人口も400万人を超える形となった。

 

1896年にはコンゴに細々と植民地を築いていたオランダに対し、その領土の割譲を要求して外交戦(外交プレイ)を開始。

 

同君連合下のルクセンブルク以外は味方につくことのなかったオランダは劣勢を認め、9月1日に無条件降伏を選択。

 

今や未承認国ながらその国威は世界12位。憎きベルギーをも越えるほどになっていた。

なお、アメリカは先の敗戦が原因か、労働者たちによる反乱が発生し大分裂を起こしている。

 

 

順調に拡大・成長するコンゴ王国。

しかし、逆にこの躍進が、さらなる内部対立を生みつつあった。

 

まずは需要の減衰・原料の不足によって、各種工場の生産性が大幅に減少。

電力化を進めることでこの生産性をさらに押し上げることもできそうだったが、国策でコンゴに整備を進めていった発電所は、フランスの産業の促進に使われるだけで、全く国内に還元されることがなかった。

 

 

さらに、フランスがアフリカ各地の植民地化を進め、その支配圏を広げていることにもまた、国内での不満の原因ともなっていた。

英雄ムヴォウドウコウサラ・マンカラ将軍の弟ポアティ・マンカラが率いる政権与党・自由党内の軍部勢力も、この対フランス独立運動・アフリカンナショナリズムを唱える急先鋒であった。

 

 

かくして、今、コンゴ王国は岐路に立たされようとしていた。

 

このままフランス市場の中で、彼らの都合の良い存在として振り回されるだけの隷属の道を選ぶのか、それとも多大な犠牲を払いながらもそこから自立し、独自の経済圏を作っていく道を選ぶべきなのか。

 

第4回へと続く。

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