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【Victoria3プレイレポート/AAR】「奇跡の国」サヴォイア・イタリアの夢 第2回 「5年後」の戦いとその後(1866年~1896年)

 

ウィーン体制以降、反動的な保守政権による支配が復活しながらも、自由と民主主義を求める民族的運動が度々巻き起こっていた19世紀のイタリア。

北西部ピエモンテ州に首都を置くサルデーニャ=ピエモンテ王国でも、1830年代から国王カルロ・アルベルトの下、穏健な改革論者たちによる特に経済面を重視した改革が進められていった。

その中心に立ったのが扇動者ヴィットーリオ・ジネットカヴール伯カミッロ・ベンソ

経済・貿易法の改正や先進技術の積極的な導入や投資によって1857年までの20年間でGDPを6倍以上に成長させる実績を残した。

この功績から政治的影響力を増したジネット・カヴールらは、いよいよ彼らの本当の目的である「イタリアの統一」を進めていくこととなる。

 

まずは1852年に起きたオーストリア十月革命」の隙をついてロンバルディアを奪い取る。

さらに1857年には中央イタリア諸州を次々と併合。その勢力圏を大きく拡大させる。

国内では民主的な憲法の制定をめぐり保守派貴族たちがミラノで反乱を起こしかけるも、カルロ・アルベルト王の退位に伴い新たに即位したヴィットーリオ・エマヌエーレ2世と東南アジア帰りの扇動者ジュゼッペ・ガリバルディの活躍もありこれを鎮圧する。

ミラノを逃れた保守派貴族らの手引きを受け、1863年にはオーストリアロンバルディアの「奪還」を求めて宣戦布告。

カヴールはイギリスと「ジュネーヴの密約」を結び軍事支援を取り付けたことで、イタリア2大国とその後ろ盾の列強とが対峙する「イタリア独立戦争」が幕を開けた。

 

戦争はサルデーニャ軍の本土奇襲上陸を受けナポリを占領された両シチリア王国が1865年に降伏。

残りはオーストリアのみとなったものの、北イタリアの戦線は膠着状態に陥る。

イギリスも国内の政治的混乱により1866年に撤退を宣言し、単独ではどうしようもなくなったサルデーニャ王国は悔しさを味わいながら同年6月20日チューリッヒでの講和条約を結ぶことを決めた。

この「チューリッヒ条約」で5年間の休戦が結ばれたものの、カヴールも国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世もはそれを無駄にするつもりはなかった。

 

5年後、再び「イタリア統一」の夢を実現するべく。

彼は、今まさに爪を研ぎ始めたところであった。

 

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目次

 

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雌伏のとき

1866年7月。イギリスの首都ロンドンの地を訪れたサルデーニャ王国初代首相カヴール伯は、先の政権交代で政権を取ったばかりの保守党党首ダービー伯エドワード・スミス=スタンリーとの会談に臨んでいた。

3年前、当時の英首相パーマストン子爵と結んだ「ジュネーヴの密約」に従い、その「見返り」を果たすためだ。

政権交代が行われ、サルデーニャ王国に同情的な自由党政権からオーストリア寄りの保守党政権に代わり戦争からも途中撤退したものの、密約の「中身」の履行義務は残っていた。

 

その内容は、イギリスの「関税同盟」にサルデーニャ王国が入ること。

経済的な独立性が失われるのは恥ずべきことではあるものの、市場の規模が明確に拡大することやイギリスと関係性を深めること自体はサルデーニャにとってもプラスではある。

カヴールは同盟締結の調印を済ませつつ、現在のオーストリアとの和平の「その先」について、ダービー伯と語り合った。

保守党内の殆どの議員が親オーストリア姿勢ではあるものの、イギリス国内の世論自体は自由主義の波に押されて「イタリアの独立」について同情的であり、その世論を背景として自由党が再び勢力を取り戻しつつあることに、党首ダービー伯も党のNo.2である庶民院内総務ベンジャミン・ディズレーリも危機感を抱いていた。

政権の維持のためには、方針の転換が必要不可欠であることは、彼らも理解していた。

停戦期間終了後、再び「イタリア統一への戦い」に向けた援助を行うことの約束を得たうえで、カヴールは8月にトリノへと帰還した。

翌年の4月にはダービー伯も参加するロンドンの晩餐会に、ガリバルディが主賓として招かれるなど、「5年後」に向けた準備は着々と進んでいった。

 

 

国内でも新しい動きが巻き起こっていた。

1866年の第2回選挙では「右派」党が僅差で勝利。

そのままでは政権を維持することが不可能なカヴール率いる自由貿易党は「左派」党との連携を強化し、その連立によって議会多数派を握る形で延命することとなる。

まだまだ国王の権力が強い現憲法下において、自由主義者寄りの姿勢を持っていた国王エマヌエーレ2世の意向も働き、選挙結果とは異なる形での政権維持も可能となった。

 

これにより、政権内での左派党=急進的自由主義勢力の発言力が増加。

その党首マッシモ・ダゼーリョの要求に応じ、政権は「普通選挙」「保証された自由」などの法律を次々と通していく。

王国内務省の治安維持部門からこれまでの抑圧的な部門・制度を取り除き、かつてあったような秘密結社への弾圧などは行われないように改変されていった。ゲーム的にも有用な「武力鎮圧」布告が使用できなくなるのは若干のデメリットだが、急進派の減少と体制派の増加を同時にこなせる非常に強力な法律だ。

 

マッシモ・ダゼーリョは史実ではカヴールの先輩として先に首相となり、彼を見出して自らの政権の農業貿易大臣や財務大臣に据え、将来の偉大なる首相へと導いた存在でもある。

そんな彼がこの世界ではカヴール以上の急進派として左派政権を牽引し、その理想主義的思想に基づいて「世界の国境をなくす」と宣言。関税同盟内や植民地からの移民も大々的に招く姿勢を取った。

なお、史実ではカヴールと共に「右派」党に所属している。


国民もその熱を後押しし、とくに選挙権を持たない若者を中心に運動は盛り上がり、やがてカヴール自身もダゼーリョと同様の思想へと染まっていくこととなる。

 

政治的急進性を増していった政権は、いよいよ決定的な法改正へと着手することとなる。

それはすなわち、教会に認められたあらゆる特権――課税免除、土地の無償取得、聖職者への生活手当や教育の独占など――を剥奪し、その影響力を極端にまで削り取っていく「聖俗の完全なる分離」法案である。

史実でもカヴールが推進した「シッカルディ法案」の名でも知られるこの法案に対する教会の反発は当然激しく、その先頭に立つラ・マルゲリータ伯クレメンテ・ソラーロは武力放棄も辞さない構えを取ったのである。

カルロ・アルベルト王政権下では外務大臣も務めていた彼は熱烈なローマ・カトリック教徒でもあり、国王の絶対権力を支持する一方、教皇庁はもちろんオーストリアにも親和的であり、イタリアの統一を主張するカヴールら自由主義勢力を目の敵にしていた。

 

だが、同じ「右派」党に属するはずの軍部の指導者は「実証主義」のレオポルド・デ・マルティネル。彼は聖俗の完全なる分離を進めようとする左派政権にその点においては完全に同調し、右派党の足並みを乱した上でその軍事的圧力によって教会勢力の放棄を牽制した。

さらに、このマルティネル将軍は来たる「第3次イタリア独立戦争」に際して軍部一丸となって全面的に協力する旨を宣言。

国内外における「5年後」への準備は着々と進みつつあった。

 

 

そして、ついにそのときはやってくる。

 

 

第3次イタリア独立戦争

1871年9月1日。

サルデーニャ王国軍はイギリスから後装式のアームストロング砲を導入し、隔螺式の尾栓を取り付けるなど安全性を高める改良を加えたものを配備し始める。

国家予算の大半を注ぎ込んで兵をかき集め、十分にそれが整いつつあることを確認したとき、カヴールはフランスに派遣していた外交官からの報告を受け取った。

すなわち、フランス帝国軍がロシアと共に戦争状態に突入した、との報せ。

時は来た。

カヴールは、国王ヴィットーリオ・エマヌエーレの名の下に、全世界に向けて「イタリアの統一」を名目としてオーストリアに宣戦布告することを宣言する。

統一候補が1国になることで使用可能になるコマンド「統一外交戦の開始」。5年前の第2次イタリア独立戦争両シチリア王国から統一の主導権を奪ったことで使用可能になった。イタリアを構成するすべての州を悪名を全く発生させることなく併合可能という強力な効果。

 

それは中部イタリアを支配する教皇庁にとっても決断を迫られる瞬間であった。

サルデーニャ王国に抵抗し、オーストリアと共にこれと戦争状態となるか、それともその軍門に降るか。

とはいえ、ヴァチカンの教皇庁を除く教皇領内の各州(ラツィオ、ウンブリア、ロマーニャ)の住民たちはすでに統一イタリアへの併合を支持しており、教皇庁はほぼ孤立無縁の状態となっていた。

このままこれを拒否し続ければ、中央イタリア諸州がそうであったように、革命によって内部から崩壊させられかねない。

最終的にローマ教皇ピウス9世は、サルデーニャ王国から遣わされたインノチェンツォ・マミアニ枢機卿の説得に応じ、ヴァチカンの保全を条件にその領土すべてのサルデーニャ王国への併合を認めた。

トリノ生まれの枢機卿でカヴールら自由主義者とも親和的な彼が、マルゲリータ伯爵に代わりサルデーニャ王国カトリック教会を纏める存在となった。

この効果は知らなかったのだが、統一戦を開始すると支持を表明していた国は「その時点で」自動的に統一主導国に併合されるらしい。


そして事前の取り決め通りイギリスの参戦を得たほか、オーストリア帝国をライバル視するプロイセン王国も参戦を決定。

思惑通りフランス帝国の介入もなく、1872年10月11日。5年前に成し得なかったヴェネトを含む「未回収のイタリア」獲得のための「第3次イタリア独立戦争」を開始する。


ロンバルディア戦線ではフランツ皇帝自ら率いるオーストリア軍8万が襲い掛かってくるも、十分な数の榴散弾砲を備え、高台から撃ち下ろす格好となったサルデーニャ軍7万は一方的にその侵入者たちを蹂躙していく。

ただ、「国民民兵」法を制定しており、100万を超える徴募兵を持つオーストリア軍は時間経過と共にその数を無尽蔵に増していく。結果、5年前のような戦線の停滞が巻き起こってしまうわけだ。

よって、いつまでも防戦一方で戦線に貼りついていても打開はできない。

前回は最後の最後にやって間に合わなかった「横腹作戦」を、今度は開始直後から繰り出していく。

 

すなわち、イストリアへの強襲上陸。北イタリアとプロイセン国境に兵を割いていたオーストリア軍は無抵抗でその上陸を許した。

慌てて駆けつけてくるオーストリア軍が集まり切る前に攻勢を仕掛ける齢65のガリバルディ将軍。

特別イベントでさらに能力が上がっている彼の「赤シャツ隊」は、今なおサルデーニャ王国軍最強の侵略部隊である。

さらに、同時期に北方プロイセン戦線でも、援軍として駆けつけたイギリス軍が優勢。

彼らがヴィッテルスバッハ朝オーストリア帝国の帝都プラハを早くも占領したことによって、早くもサルデーニャ王国側は勝利条件を満たすことに成功した。

あとは各戦線をひたすら守り切れば良いだけ・・・なのだが、先述した通りオーストリア軍は時間経過と共に無尽蔵の兵を吐き出してくる。

あとはもう、時間との戦い・・・そして。

 

1873年10月。

ベルガモでもイストリアでも、此方の2倍近い兵数でもって防衛陣が押し込まれようとしていた、まさにそのとき。

ついに、オーストリア側の戦争支持率がマイナスに突入した!

現バージョンではマイナスに突入さえすれば、結構要求を呑んでくれる形での講和条約に調印してくれることが多い。

今回も、「ロンバルディアに対する請求権の破棄」以外のすべてのこちらの要求を受諾してくれるとのこと。

かくして、1873年10月7日。

開戦からわずか1年で、「第3次イタリア独立戦争」はオーストリア帝国の帝都プラハで結ばれた「プラハ条約」によって終結した。

オーストリア帝国はイストリア・ヴェネト・南チロルといったイタリア人居住地域のサルデーニャ王国への割譲と総額1,305万ポンド(週5万4千ポンド)の賠償金支払いを命じられ、その威信を大きく落とすこととなった。

これで、北イタリアはほぼ完全に手中に収めることとなったサルデーニャ王国

残るは南半分を支配する両シチリア王国のみ・・・

第3次イタリア独立戦争のために限界を迎えていた国庫の安定化を図ったのちに、この「最後の戦い」を仕掛けることとしよう。

36万を超える常備兵を始めとした戦時体制維持のため、税率も最大にして消費税もかけられるだけかけるなどかなり極限の財政状況となっていた。このまますぐ両シチリア王国に仕掛けるのは自殺行為のため、しばらくは内政を行い経済を回復することとする。

 

「イタリア」の誕生

第3次イタリア独立戦争から6年。

経済も随分と立て直し、イギリスの関税同盟の中でGDPも右肩上がりに成長してきている。

税率もしっかりと通常にまで戻し、サービスなど必需品系の消費税も外すなど、なんとか国民生活への圧迫を減らす方向に改善を図っている。


すでに盟友マッシモ・ダゼーリョも鬼籍に入っており、ガリバルディ将軍も「ひとまずの平和」に飽いてイタリアを去ることに決めた。

もう70も近いにも関わらず、ガリバルディはさらなる「革命」に向けて旅立っていく。

 

68歳の「初代首相」カヴール伯は、いよいよ自らの人生の「総仕上げ」に相応しい最後の一手を打たんとしていた。

1879年3月。

両国国境沿いの領土の領有権を巡ってフランス帝国プロイセン王国による戦争が勃発したことをきっかけに、いよいよカヴールは最後の「イタリア」の回収へと突き進む。

60万の兵を持つロシア帝国両シチリア王国に味方することを宣言したものの、いまだ「農民招集兵」法から脱却できず、榴散弾砲も用意できない後進国であれば全く怖くはない。

さらに言えばこれまでのオーストリアと違い、本国から海路を使ってイタリアまで兵を送ってくるロシア軍が相手なので、黒海からの補給ルートで輸送船団襲撃を繰り返していれば無力化できる。

かくして開戦から1年も経過していない1880年5月23日。

両シチリア王国は降伏し、サルデーニャ王国の従属下に入ることを了承した。

これですべての条件は満たされる。

早速、文化タブ⇒「国家の形成」から、解禁された「イタリアを形成」ボタンを押下する。

 

 

 

現バージョンでは条件が厳しくなり、AIでは両シチリア王国ですらほとんど成し遂げるところを見られなくなってしまった「イタリア」の形成の瞬間が訪れた!

 

これで、サルデーニャ王国第8代王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世は「イタリア王国」初代国王となる。

それはまさに「奇跡」の賜物。この世界においてもついに、サヴォイア家のイタリア王国が誕生したのである。

サルデーニャ王国初代首相であり、同時にイタリア王国初代首相となったカヴールもまた、自らの生涯をかけて追い求めてきたこの「夢」の実現に深く涙した。

これまで喪ってきた仲間たちのことを思い、彼はしかし、残りの人生もまた引き続き戦いに費やす決意を固める。

 

そう、これは終わりではなく、始まりである。

「奇跡」を現実としたこのサヴォイアイタリア王国を、今度は「世界最強の国」としなくてはならないのだから。

 

 

「その後」のイタリア

1896年2月20日

自由主義者たちの旗印としてサルデーニャ王に即位し、共に改革と「統一戦争」を主導し、初代イタリア王となったヴィットーリオ・エマヌエーレ2世が、76年の生涯を終え、崩御した。

イタリアの成立から20年。この国は目覚ましい発展を遂げ、GDPも20年前の3.27倍に成長。

ジュネーヴの密約」で約束されたイギリスの関税同盟についても期限は過ぎたとして脱退を宣言。突然の通告にイギリス側も怒りを表明し両者の関係は一時期冷え込んだものの、フランス帝国オーストリア帝国、あるいはロシア帝国といった他の列強諸国への牽制のために、イタリアとは対等の関係が必要であると思い直したソールズベリー侯内閣によって1890年代後半には再び関係が改善。

経済的な独立も果たしたイタリアは列強3位の位置にまで上り詰め、世界の一等国として認められる存在となっていた。

 

順調に成長するイタリアであったが、国内ではいくつかの混乱が巻き起こってもいた。

まず、80に達するほどの長寿を誇っていたカヴール伯が1890年についに亡くなる。

長らく王国の首相として君臨していたカヴールの死後、後継者となったバスティアーノ・ボイリ・ディ・プティフィガリはカヴールほどの政治的手腕も影響力もなく、国政は混乱。

空転する議会に対し外部から強い影響力をもたらしたのが、イタリア領プロヴァンス(ニース)に滞在していたアナーキストエリコ・マラテスタであった。

14歳のときに国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世に対し「横柄で脅迫的な」手紙を書いて逮捕された経歴も持つこの男。1870年代末には王制廃止を唱えるアナキスト運動への関与を疑われて監視下に入り、国外逃亡を余儀なくされていた。そんな彼がエジプト、フランス、スイス、ルーマニア、イギリスと亡命生活を続けながらピョートル・クロポトキンなど有名な無政府主義者たちと交流し、1880年代後半にはアルゼンチンにて、同国初の戦闘的労働組合の設立に関わるなど、国際的なアナキスト運動に大きな影響を及ぼしていた。

 

かつてイタリアを追放された経歴を持つこの無政府主義者も、長年の自由主義政権により制定された「言論の自由」法の下では弾圧されることなく少しずつ影響力を増していった。

言論の保護法を制定すると、気に入らない扇動者を追放することができなくなる。これまで以上に制定には慎重になる必要がある。

 

そしてイギリス系カナダ人の「改革論者」扇動者ミカエル・パターソンと共に、マラテスタは「イタリア人以外」への差別をなくすための「文化的排斥」法制定のための政治運動を開始。

これが武力蜂起にすら繋がりかねないほどの勢いとなったことを受けて、プティフィガリ政権は慌てて彼らの求める文化的排斥法の制定に同意し、1892年11月17日にこれを制定することとなった。

しかしこれは、国内のもう一つの「導火線」に火をつけることとなる。

 

元々、旧オーストリア領であるヴェネトやイストリアでは、「イタリア人」商人と「オーストリア(南ドイツ)人」との争いが絶えず繰り広げられており、法的な身分の保障の無かった南ドイツ人たちは不当に給与が安くされるなどの扱いを受け続けていた。

イストリアでは南ドイツ人以外にもスロベニア人やクロアチア人といった、同じく「非イタリア人」として差別を受ける民族が多数派を握っていた。

 

それが、今回の法改正によって、彼ら南ドイツ人たちに対する差別が禁止され、対等な関係を築かなくてはならなくなった。

このことは、「オーストリア人に不当に抑圧され、支配されてきた」という意識が根強いイタリア人ナショナリストたちにとって我慢のならない状況であった。

南ドイツ人商人たちは彼ら自身のネットワークを活用し、豊かなオーストリア市場との連携も通して財を築いていた。法律で禁止され表立っては言えなくなったものの、「イタリア人」商人たちは彼らのことを「裏切り者」「非国民」と口汚く罵るのであった。

 

そんな彼らの不満を一手に集めたのが「民族主義者」ガブリエーレ・ダンヌンツィオアブルッツォ州の富裕地主の子として生まれ、10代の頃から文芸活動で注目を集めていた彼は、「イタリア人」の誇りたるこの王国の価値を訴え、下院議員として立候補。

「イタリア人」商人を中心としたナショナリストたちの支持を広く集め、圧倒的な得票率で見事、当選を果たした。

史実ではムッソリーニの「ファシスト」運動の先駆けとされた男。


そして——1894年3月29日。

既存の「左派」「自由貿易党」連立政権にNoを突きつける、衝撃の選挙結果が訪れることとなった。

勝ったのはダンヌンツィオを含む「小ブルジョワ」集団の支持を受ける「極左」党。

次いで「共産主義者ピエトロ・ロベルティを指導者に据えた労働組合の支持を受ける(そして当然、「無政府主義者」の扇動者エリコ・マラテスタとその支持者たちの後援を受ける)「共産党」が票を集める結果となったのである。

生活水準が急速に上がり、義務初等教育の充実により識字率が向上してきたイタリアの労働者たちは政治への興味を持ち始め、ついに彼らは彼らの代表者を国政に送り込むこととなった。一方で彼らは「無政府主義者」マラテスタとその支持者たちの急進的過ぎる意見に対してはやや距離を取ろうとする者たちも多くいたようだ。


そんな状況の中で、「国父」ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世が1896年2月に崩御

後を継いだエフィジオ1世は「高潔」な人柄として知られてはいたものの、父王と比較するとその気弱さ、優柔不断さによって、頼りない人物としても見られていた。

 

 

カヴールもエマヌエーレもいない、新しい時代の「イタリア」が始まる。

 

果たして、その運命の先に、何が待ち受けているのだろうか。

 

 

第3回に続く。

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