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【Victoria3プレイレポート/AAR】強AI設定で遊ぶプロイセンプレイ 第4回 革命の時代と「普仏戦争」(1860年~1880年)

 

宿敵オーストリア、そしてフランスとの戦いを制し、念願の統一ドイツ帝国を成立させたカイザー・フリードリヒ・ヴィルヘルム4世

実業家集団出身の首相ルフレート・クルップの主導のもと、巨大な中国植民地やニジェール・デルタ植民地を創設し、経済基盤も強固なものとなっていった。

「ヨーロッパの病人」オスマン帝国もその経済的配下に置き、この権益拡大を良しとしないロシアも見事退けたドイツ帝国は、ついに世界最大の国家へと登り詰める。

 

だが、1856年12月。

この帝国経済を牽引してきたクルップ首相が死去。

代わって存在感を高めてきたのが、軍部出身の改革派ルフレッド・フォン・シュペスハルト率いる進歩党

1857年選挙ではついに自由保守党を打ち破り、第一党へと躍り出る。

 

そして、この改革の波は今度はドイツに留まらず、世界へと広がりを見せつつあった。

 

混沌を極める世界は果たしてどこに帰着するのか。

 

~ゲームルール~

  • 「プレイヤーへのAIの態度」を「無情」に
  • 「AIの好戦性」を「高い」に
  • AI経済改善MOD「Anbeeld’s Revision of AI」を導入

 

Ver.1.1.2(Earl Grey)

使用MOD

  • Japanese Language Advanced Mod
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  • No red smoke
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  • Anbeeld's Revision of AI



目次

 

前回はこちらから

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過去のシリーズはこちらから

大インドネシア帝国の夢

大地主経済:ロシア「農奴制」「土地ベース課税」縛り

金の国 教皇領非戦経済:「人頭課税」「戦争による拡張なし」縛り

コンゴを自由にする

アメリカ「経済的支配」目標プレイレポート

初見スウェーデンプレイ雑感レポート

 

 

革命の時代

1860年5月。突如フランスで巻き起こった革命戦争。

この革命軍を率いるのはフェルディナン=フィリップ・ド・ブルボン・コンデ

16世紀のユグノー戦争時代にユグノー派首領として活躍し、ブルボン朝初代アンリ4世の叔父にあたるルイを初代とした「コンデ公」を継承するブルボン=コンデ家の末裔を名乗る男。ブルボン=コンデ家は、第9代ルイ6世の1人息子であったルイ=アントワーヌがナポレオン暗殺容疑で処刑(アンギャン公事件)されたことで断絶したと見られていたが、この男はそのルイ=アントワーヌが実は密かに子を成しており、自らがその嫡男でありブルボン=コンデの後を継ぐ存在であると主張したのである。

にわかには信じられぬ話ではあるものの、すでにプロイセン=ドイツとの戦いに3度にわたって敗北し、奪われたアルザス=ロレーヌの奪還をままならないオルレアン朝の王フェルディナン=フィリップに対しフランス国民は愛想を尽かしていた。

そして、ナポレオンの才能を感じさせるこの若き「コンデ公」の登場に民衆は沸き立ち、パリと南フランスを残したほぼ全域が革命軍側についたのである。

 

多勢に無勢。

結局この戦争は半年も経たぬうちに革命軍が勝利し、フランスは七月王政を廃し、フェルディナン=フィリップ皇帝による「第二帝政」が開始される。

当然の如くこちらをより敵視してくるようになるこの第二帝政の存在自体は注意すべきではあるものの、このフランス内戦についてはドイツ帝国にとってそこまで重要ではなかった。

しかしこの国を発端として巻き起こった「1860年革命」はドイツにも波及し、それまではまだ穏健な改革論者であった小ブルジョワの指導者ベルンハルド・トゥーケを急進主義者に変えてしまうなど、歓迎すべきではない影響をもたらしていた。

 

さらに1863年6月にはオーストリアにもこの波が押し寄せ、こちらでは共和主義者たちによる革命が巻き起こっていた。

この動きに対し、カイザー・フリードリヒ・ヴィルヘルム4世はハプスブルク家の皇帝側に立って彼らの支援を行うことを宣言。

シュペスハルトやトゥーケら、政権を握る改革派たちはこの決定に抗議を示したが、もしこれでハプスブルクが倒れ共和政が成立してしまえば、ドイツもまたその影響からは逃れられない。

これ以上、改革派勢力を図に乗らせるわけにはいかない。そしてそれは、革命後これといった成果を示せておらず、早くも国民からの冷たい視線を浴びせられつつあるフランス第二帝政も同様であった。

 

かくして1863年9月13日。

オーストリア内戦が勃発。そしてそれは、宿敵同士であるドイツとフランスが共闘するという、特殊な事態を招くことともなったのである。

 

開戦直後の反乱軍による強襲によって、いきなり帝都ウィーンを包囲されかけるオーストリア軍。

しかしこれを救うべく駆けつけたスイス軍のアレクサンダー・フォン・グラッフェンリード准将が思わぬ善戦。

同じく駆け付けたモルトケ元帥らの8万超の兵も借り受け、未だ戦列歩兵や騎馬砲兵を並べる旧式のオーストリア軍に対し、ミニエー銃を装備したドイツ軍散兵部隊や榴散弾砲が火を噴き、反乱軍を一気に壊滅させていく。

南部では同じく圧倒的な装備・戦術の差でもって、ディーステル中将率いるドイツ帝国軍が次々と革命軍の拠点を制圧。

オーストリアの大部分が反乱側につき、開戦早々にウィーン近郊を制圧した反乱側は開戦から半年でオーストリアを追い詰めていたのだが、そこからさらに半年で形成は完全に逆転。

 

そして1864年9月19日。

オーストリア急進派が降伏。

共和派の思惑を打ち砕くことに成功した。

 

 

だが、この一連の「反革命的行動」に対し、ドイツ国内の急進的改革派勢力は苛立ちを募らせていた。

結局、現政権を握る進歩党、そしてその中心に立つシュペスハルトは、オーストリア革命を巻き起こした共和派を支援することもできず、ただ皇帝の言いなりになって鎮圧に助力したのである。

さらには、中央アフリカでは引き続き植民地政策が進められ、非ドイツ人に対する圧政と帝国主義的拡大が進められている。

所詮、その一部が改革的になろうと、軍部はあくまでも国家の暴力装置であり、その中心たる皇帝とその拡大政策を止める力にはならない。

そのことを痛感したドイツ国内の改革派勢力たちは、彼らを導きうる理想の存在を求め——そしてそれを、発見した。

 

それは帝国にとっては全く辺境の地である、ドイツ中国植民地の大学教授であった。

 

 

激化する国内の対立と分裂

彼はドイツ中国植民地である山東の大学で教鞭をとっていた。そのあまりにも革新的すぎる思想――例えば、ヒステリーは男性にも起こりうるといったような——は、彼を帝国の中心から追放するのに十分なほどの反発を招くこととなった。

彼の名はジークムント・フロイト

一介の医学博士でしかなかったはずのこの男は、オーストリア領のモラヴィアユダヤ人の両親の下に生まれたという異色の経歴と、徹底した科学的唯物論に基づく虚無主義的思想とが、シュペスハルトに代わる新たな革新的リーダーの存在を求めていた急進派知識人たちを強く惹きつけることとなった。

君主制を拒否し、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世を創り上げた福音協会に対しても政治からの完全な脱却を求めるニヒリズムは、フロイトにとっては純粋な科学への信仰による必然的な帰結であったが、この国の急進的改革派勢力――青年ヘーゲル派とも呼ばれる――にとっては、思想的に到達すべき理想でもあった。


そして1873年1月。

フロイトは一気に知識人集団のリーダーにまで登り詰め、さらに急進主義者ベルンハルド・トゥーケや共和主義者エリッヒ・ヴァッヘンドルフらにも支持され、一度は分裂して消えていた自由思想家人民党を復活させたうえでその党首に君臨する。

「改革派」シュペスハルトは完全に主導権を奪われた形となったわけだが、さらにフロイトは彼らを追い詰める政策を立案する。

すなわち、帝国の課題でもあった巨額の財政赤字の解消のために、それまで軍部が頑なに拒否し続けていた軍縮へと手を出そうとしたのである。

確かに国家の財政を、50万近い常備軍の存在が食いつぶしているのは確かであった。一方でそれ以上に財政を傾かせている要因ともなっている公務員への給与については、党内の反発が根強くフロイト首相も手を付けようとすることすらできなかったようだ。

 

だがさすがにこれは、改革派に率いられているとはいえ、軍部を怒らせるのには十分すぎる政策であった。

結果、軍部は自由思想家人民党から離脱。新たな政党である国家人民党を結成し、フロイトたちと対立することに。

さらにシュペスハルトを追放し、軍部は新たな指導者として「王党派」アウグスト・カール・フォン・ゲーベン元帥を据えることに。当初は帝国の英雄モルトケ元帥をその地位に置こうと考えられていたようだが、すでに70を超え、なおも軍務に集中することを選び固辞した彼に代わり、その薫陶を受けた「次世代の英雄」ゲーベンが、帝国を守る剣として政治の世界へと参戦した。

史実では普仏戦争で活躍し、モルトケらと共に鉄十字章を授けられた7名の英雄の一人である。


この軍部の反発によって軍縮は断念せざるを得なかったフロイト首相らは、代わりに比例課税法を制定。財政問題の劇的な改善に成功する。

が、これは当然のことながら資本家やユンカー(貴族)たちの激しい反発を招くことに。

 

さらに、1875年9月。

史実よりも20年長く、80歳を迎えるまで生きながらえ続けたカイザー・フリードリヒ・ヴィルヘルム4世が崩御

子を作れず、また弟のヴィルヘルムもその息子のフリードリヒもフリードリヒ・ヴィルヘルム4世より先にこの世を去っていたため、フリードリヒの遺児であるジギスムントがジギスムント1世として第2代ドイツ皇帝に即位した。

若く、そして「直接的」な彼の言動は国民の人気を集めており、とくに長らく続く政府内の対立にいい加減うんざりしていた彼ら大衆は、この若き皇帝がこの国に変化をもたらしてくれることを期待していた。

そしてジギスムント皇帝はその期待に応えるべく、早速行動を開始した。

帝国の誇りである陸軍を解体せしめんとし、ましてや伝統的な信仰の放棄や純粋なドイツ人以外にもドイツ人と等しい権利を与えようとするような自由主義者たちによる政治に終焉をもたらすため。

そしてこの偉大なるドイツ帝国の道標となることが求められる首相の地位に、無神論者の「ユダヤ人」がついていることの「問題」を解決するため――若き皇帝ジギスムント1世は、その強権を行使し、軍部と貴族から構成される保守党および好戦主義的なミカエル・ダウアー率いる国家人民党とで構成された完全なる右派政権を樹立。

この混乱を受けて国内の急進派も一気に増大し、体制派の数を超過。

いよいよドイツ帝国の内部分裂が加速しつつあった。

 

そしてその隙に、ドイツに追い抜かれていたかつての列強二大国が、着々とその力を積み上げつつあった。

 

 

英仏の興隆と「普仏戦争

さて、ここで今回のプレイのコンセプトを今一度思い出してみよう。

元々今回はプロイセンによる戦争中心プレイ(とくに陸戦の練習)という側面もあったが、同時にAI設定やAI強化MODを入れることによる影響を検証してみよう、というものもあった。

~ゲームルール~

  • 「プレイヤーへのAIの態度」を「無情」に
  • 「AIの好戦性」を「高い」に
  • AI経済改善MOD「Anbeeld’s Revision of AI」を導入

ただ、1870年代に入るまでは正直、その影響をほとんど感じることはなかった。ドイツはあっという間に列強1位に登り詰め、英仏が肩を張り合い第一次世界大戦へと突入することなど不可能なのではないか――と絶望し、プレイもやや雑になってしまった面もあった。今回は企画倒れかな、と。

 

ただ、1870年代に入ってくると少しずつ様相が変わってくる。

まず、(普段であればそろそろ没落し始める)英国が健在であるだけでなく、1870年代ながら早くも塹壕歩兵自動車偵察の製法を取り入れ始めているということ。

さらに識字率も80%に達し、毎週の生産革新値も171.4ポイントに達している。厳密に検証していないが、このペースは通常のバニラプレイではあまり見かけない数字ではないだろうか?

さらに極めつけは、このイギリスが何と東インド会社を戦争で打ち負かし併合してしまったのだ。

これで英国はGDPでもドイツを抜き列強1位に躍り出る。

Anbeeld’s Revision of AIもしくは好戦的なAI設定により、大英帝国は看板に偽りなしのヴィクトリア時代謳歌しつつあるのだ。

 

そしてフランスもまた、ドイツとはまだ差があるものの、途中の革命騒ぎも早々に終息させたうえでオスマン帝国から租借地を奪うなど通常プレイではなかなか見せない積極性を発揮。

 

 

そしてこのフランスの台頭はやがて、ドイツとの都合四度目となる、しかしこれまで以上に本格的な衝突――「普仏戦争」へと導かれることとなる。

 

 

始まりは1879年7月。

ドイツ帝国の同盟国の1つであったベルギーで、プロレタリアによる反乱が発生。ドイツに助けを求めてきた。

ベルギーの君主はあの「コンゴ自由国」で有名なレオポルド2世。そのエピソードばかりが目立ち今でも銅像を破壊されるなどの憂き目に遭っているが、実際には黒人に暴力を揮わないよう地元の行政官に命じるなどの「慈善家」ではあった様子。但し、その暴力の本当の原因に目を届けることのできなかった人物であったのは確かなよう。


カイザー・ジギスムント1世はすぐさまこれを承諾。帝国軍の力を見せつけ、すぐにでも鎮圧して見せようと思っていたところ・・・

ここにフランスが介入。

特別何かを要求してきているわけではないが、直近3度にわたりドイツに敗北を続けてきているフランス。その怒りゆえにかつてのオルレアン朝は倒され、代わって「第二帝政」が樹立されてから早20年。

皇帝フェルディナン=フィリップは順調に経済を発展させつつあったが、それでも「結果」を求められていた。すなわち、宿敵ドイツを打ち倒すという結果を。

かくして1879年9月3日。

ベルギー内戦に端を発した「普仏戦争」が幕を開ける。

アメリカ合衆国もベルギー側で参戦してくれたが、正直あまり意味はない。

 

 

まずは北部フランドル(国王派)と南部ワロン(反乱軍)との国境線沿いに位置するシャルルロワでの戦い。

ドイツ帝国軍はこれまでの主力であったドライゼ銃を発展させた最新式のモーゼルM1879を採用し、旧式の装備しか持たないベルギー反乱軍を質において圧倒。

兵数で劣るゆえにモルトケ元帥の緒戦は劣勢に立たされるも、相手側に2倍の死傷者を出しており、結果で言えば優勢に進められている。

 

一方、80を迎えたモルトケ元帥に代わり、ドイツ帝国軍の参謀総長を務めることとなったアウグスト・カール・フォン・ゲーベン元帥は、反乱軍拠点ワロンを東のドイツ国境から攻め込んでいく。

反乱軍側にはフランスの「ナポレオン」グージョン元帥が迎え撃ち、最新式の塹壕手動クランク式機関銃を用いて防衛線を張るものの、ドイツ帝国軍は最新式の攻城砲(ディッケ・ベルタ)を配備し、堅固な要塞を次々と攻略していく。数的不利をものともしない快進撃である。

ゲーベン元帥が指導する軍部の高支持ボーナス「愛国熱」に加え、ゲーベン元帥自身の「攻撃戦略の達人」効果も加わり防御有利のこの時代にも関わらず絶大な攻撃力(この時点で世界最強の攻撃力)を誇っている。


逆にフランスとベルギー国王軍が支配するフランドルとの国境線に位置するブルッヘではヴィルヘルム・シュミットラー大将率いる帝国軍がフランスによる侵攻を見事に防ぎ切っている。

こちらも世界最高峰の防御力となる「212.5」を形作るのは、塹壕とディッケ・ベルタ、そしてシュミットラー大将の持つ縦深防御スペシャリストの効果。彼の策略によりベルギー領の深くまで誘い込まれたピエール・ペタン少将の5万の部隊は、気が付けば周りに何も障害物の無い農地の中で取り囲まれ、なすすべもなく殲滅させられていく。

 

このシュミットラー大将はキルレシオ4~5倍の大勝利。

ゲーベン元帥も2カ月近い戦いに勝利し、反乱軍の領土を占領。

ドイツ・フランス国境に位置するエルザス=ロートリンゲンでも、この地の奪還を目指すフランス軍が猛攻を仕掛けるも、カイザー・ジギスムント1世の従叔父にあたるフリードリヒ・カール・フォン・プロイセン元帥がしっかりと防ぎきる。

史実でも普仏戦争におけるこの地のメス包囲戦で活躍したというフリードリヒ・カール。高齢のモルトケ元帥、ゲーベン元帥に続く「次の世代」の代表格でもある。

 

かくして、頼みのフランス軍が攻めきれないまま本土を少しずつ制圧されていった反乱軍は開戦から半年後の1880年3月1日に降伏。

これ以上戦う意味を失ったフランスもベルギーと講和し、3月23日にこれを締結。

領土の奪い合いはなかったものの、4度目の、そしてフェルディナン=フィリップ皇帝による第二帝政としては初となる普仏戦争において、彼らはまたしても(敗北とは言わずとも)勝利することはできなかった。

 

塹壕時代に突入してもなおこの優位を保てることに自信をもった若きカイザー・ジギスムント1世。

いよいよその「世界政策」への実現に向けて動くこととなる。

 

第5話へ続く。

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1880年時点の列強ランキング

 

1860⇒1880の各種データ推移

軍事関連の支出は2.6倍近く増えているが、所得税と鋳貨がそれ以上の割合で増えており、全体的に赤字財政からの回復を図った。とくにやはり大きいのが比例課税採用による利益配当税の確保。重商主義(or保護主義)から自由貿易に切り替えるべきかどうかは、この比例課税へのシフトが可能かどうかにかかっていると言えるだろう。

 

1860⇒1880の人口比率推移

農家が増えているのは北ドイツ人がワインへの執着を獲得してしまい、ワインの大量需要を賄うための小麦畑を山東の地に大量に作成しているため。非差別身分ではあるが大乗仏教徒の漢族農家が割と裕福な生活をできている。

同じく、ドイツ植民地の広がりによって国内に大量に増えることとなったハウサ人たちも、高級衣類製造のために必要な染料を大量に賄うための農地を開拓し、富を得ている様子。

 

1860⇒1880の政治力比率推移

この20年の改革派勢力の興隆を反映し、資本家の政治力割合が減少し労働者のそれが拡大した。軍事部門の拡大も軍拡の影響を表している。

漢族は元々被差別民で影響力は出しづらいため、政治力の割合は減衰している。一方で南ドイツ/カトリック地域の開発が進み、国内における存在感を高めつつある。

 

一応現時点の直轄領上位は北ドイツの州が占めている。人口順位でいくと5番目のヴュルテンベルクが最上位。

首都ブランデンブルクの発展に加え、ドイツ国内最大の取引所を有するハノーファーが国内2番目の大きさの都市に。

 

第5話へ続く。

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