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【Victoria3プレイレポート/AAR】「奇跡の国」サヴォイア・イタリアの夢 第1回 統一の進展と「独立戦争」(1836年~1866年)

 

イタリア。

それは、ヨーロッパの起源たるローマ帝国の中心地でありながら、その崩壊後はゲルマン人、東ローマ帝国、イスラーム勢力などの侵入を許し、中世以降は神聖ローマ帝国やスペイン、フランスなどの列強国の代理戦争の舞台として、分割と支配の憂き目に遭い続けてきた場所。

 

イタリアは、地理的な表現以上のものではない。

その認識を塗り替えたのが、19世紀初頭のナポレオンによる侵攻であった。

ナポレオン侵攻と「革命の輸出」は、少なくない数のイタリアの知識人たちに「イタリアの統一」の夢を芽生えさせた。彼が失脚し、旧態依然としたウィーン体制が立ち上がったあとも、その火は消えず、やがて1820年代以降、数々の革命がイタリアの新時代を招き入れようとしていた。

 

そして、サルデーニャ王国もまた、そんな旧い専制君主制国家でありながら、内部に自由主義的な改革への強い志向を秘めた国の1つであった。

国力では同じイタリアのもう一人の雄、両シチリア王国には劣り、フランスの影響を強く受けているこの国は、イタリア統一の中心となる国とはとても思えないような国家でもあった。

しかし、彼らはそれを成し遂げてしまう。史実においては。

それは奇跡のようなものだったのかもしれない。事実、ゲームの中ではなかなかそれは実現せず、統一の役割を担うのは常に両シチリア王国であったりもする。

 

今回は、そんな「奇跡」の「サルデーニャ・ピエモンテによるイタリア統一」を、ゲーム上でも再現していきたいと思う。

そして激動の20世紀を乗り越え、世界に轟く「最強」のイタリアを目指して。

Victoria3プレイレポート/AAR第14弾。

 

奇跡の果てに、この国はどんな風景を見るのか。

 

Ver.1.3.6(Thé à la menthe)

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目次

 

第2回以降はこちらから

suzutamaki.hatenadiary.jp

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1852年までのサルデーニャ王国

サルデーニャ・ピエモンテ王国は、正式にはサルデーニャ王国と呼んだ。その名の由来はもちろん西地中海に浮かぶサルデーニャ島にあるが、支配者は現フランス領のサヴォワからイタリア北西部のピエモンテまでを支配していたサヴォイア公家であり、当初はサルデーニャ島を領有してはいなかった。

完全な大陸人である彼らがサルデーニャ島を手に入れるのは1720年。その7年前にスペイン継承戦争に勝利したことで手に入れたシチリア島と、オーストリアが手に入れていたこのサルデーニャ島とを交換する形で獲得した*1

公よりも王の方が位が高いということで、以後サヴォイア公家はサルデーニャ王を名乗ることとなるが、政治の中心は相変わらずピエモンテ州のトリノにあり、ゆえに便宜的にサルデーニャ・ピエモンテ王国と呼ばれるようになった。

 

そんな「サルデーニャ・ピエモンテ王国」の1836年時点の王は、初代サルデーニャ王ヴィットーリオ・アメデーオ2世の直系男子がすべて絶えたことで、遠戚のカリニャーノ公カルロ・アルベルトが第7代国王として就任していた。

ヴィットーリオ・アメデーオ2世の祖父ヴィットーリオ・アメデーオ1世の弟であるトンマーゾから始まる、サヴォイア公家の分家サヴォイア=カリニャーノ家の7代目である。

 

ウィーン体制以後のイタリアは、概ね保守的で反動的な支配者たちによる統治が行われていたが、一方で一度火のついた自由主義者たちの動きを止めることはできず、弾圧を受けた自由主義者たちは各地で「カルボナリ」などの秘密結社を結成していった。

サルデーニャ王国でも1821年に「ピエモンテ革命」と呼ばれる反乱が発生。摂政に指名されていた当時のカルロ・アルベルト公は革命派への譲歩を匂わせたものの、結局はオーストリアの介入もありこの革命は鎮圧されてしまった。

カルボナリが関与していたというこの革命。革命の主体が軍人や貴族、大学教授や医師といった富裕層/知識人に限られ広範な社会運動とならなかったことが敗因と言われている。

 

その後しばらく、秘密結社による蜂起反乱がたびたび発生するも、その度に鎮圧。1830年代半ばには沈静化し、やがてイタリアにおける主流は「穏健派ナショナリズム」へと移り変わってていく。

それは主に政財界を中心に湧き上がってきた思想であり、イタリアの統一を絶対視せず、オーストリアからの独立と経済的自由主義を中心とした現実的な改革を行うべきという考え方であった。

史実ではカルロ・カッターネオや「サルデーニャ王国初代首相」チェザーレ・バルボなどが推進したその思想を、この世界ではこの男が推進していくこととなる。

 

男の名はヴィットーリオ・ジネット。1812年にトリノ市長プロスペロ・ジネットの下で生まれた彼は、ピエモンテ革命の頃に自由主義者だった父の国外亡命に随伴し、フィレンツェ、ローマ、パリ、イリュリアなど各地を転々とした。

その中で彼は自由主義や啓蒙主義などの考えに触れ、進歩的ブルジョワや知識人たちとの交流の中で、次第にイタリア統一への思想に傾倒していくこととなる。

やがて1830年代後半のトリノに戻ってきた彼はカッターネオらの影響を受けつつ文筆活動を開始。

イタリアの希望』や『イタリアの起源から現在までの歴史』などの著作を著し、一般民衆から知識人・進歩派の貴族に至るまで幅広い支持を集めつつあった彼は、次第にイタリア自由主義の中心人物として注目されるようになっていった。

当時、サルデーニャ王カルロ・アルベルトは、本質的には非常に保守的な反動君主であった一方で、ピエモンテ革命などに直面した経験をもとに、民衆の敵意が自分に向けられることを極度に恐れていた。

そのため彼は民衆の求める改革に着手する必要を感じ焦っていたが、そこに国民人気の高いジネットの存在は渡りに船であった。

ジネットが急進的な自由主義改革を必ずしも求めてはおらず、まずは経済的な改革に基づく国家の成長を主張していたことも、カルロ・アルベルトにとっては利害の一致として認められる範囲であった。

 

よって、1848年。カルロ・アルベルトはこのジネットを首席大臣に指名。彼の指導のもと、「自由貿易」や「植民地搾取」といった市場自由主義に基づく先進的な法律を次々と制定していった。

偉大な文筆家でもあったジネットは、巧みなフィクションや歴史書によって国民のナショナリズムを喚起し、支持を集めていた。その中には自由貿易の推進によって国際的な連帯を強めていくといった彼の政治思想も多分に含まれており、読者に少なからぬ影響を与えていったという。

ジネットは新聞を始めとする当時の主力メディアも多く味方につけており、その中では積極的な植民地政策によって列強に負けぬ競争力を付けることを強く主張し、新聞読者である知識人たちの支持も確保することに成功していた。

史実よりも30年以上早い「イタリア」の初植民地は、個人的にアフリカで最も魅力的な植民場所と考えているニジェール・デルタにて築かれる。面積の割に人口がとにかく多く、染料や砂糖など大陸ではあまり取れない重要資源が豊富に得られる。

 

1852年には共に日刊政治新聞『イル=リソルジメント』を創刊した盟友・「カヴール伯」カミッロ・ベンソも政権入り。

カヴールの力も借りて穏健的経済改革をさらに突き進めようとしていたそのとき、「それ」は唐突に巻き起こった。

 

 

第一次イタリア独立戦争(未遂)

1852年10月27日。

即位したばかりのオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は国内の自由主義勢力への妥協の一環として「集会の権利」法の制定を進めようとしていたが、これに国内の強硬な地主層が反発。

彼らはバイエルン王マクシミリアン2世の弟であるフランツを擁立し、彼を新皇帝として据えるための「十月革命」を引き起こした。

「ギリシャ王」オソン1世の弟でもある彼は敬虔なカトリック教徒でもあり、貴族のみならず、修道院の解散とその土地の国有化などを主張する自由主義者たちに反発するカトリック教会勢力をも味方につけたことで、強大な反乱勢力を組織することに成功した。


この事態を聞きつけたカヴールとジネットは直ちにオーストリアへの侵攻をカルロ・アルベルトに進言。

カルロ・アルベルトもこれを容れ、オーストリア帝国に対しロンバルディアの「イタリア」への「返還」を要求した。

オーストリアはサルデーニャ王国に対抗するため、スペイン王国と両シチリア王国とに参戦を依頼し、両国はこれを受け入れる。

スペインはともかく、あろうことか同じイタリアの同胞であるはずの両シチリア王国までもが「イタリアの仇敵」オーストリアと手を組んだ。サルデーニャ島への領土的野心ゆえの参戦であったようだが、許せない。

 

だが、カヴールもあらかじめ諸外国を回り、各国を味方につけることに成功していた。まずはロシア帝国、さらにはイギリスをも味方に引き入れることに成功し、その総合戦力差は圧倒的な状態となっていた。

プロイセン、フランス、オスマン帝国もサルデーニャ王国に同情的であり、オーストリアは外交的に完全に包囲される形となった。

 

これを受け、1853年2月15日。オーストリア帝国は戦わずして降伏を宣言。サルデーニャ王国にロンバルディアを割譲することに同意する。

そもそもウィーンが反乱軍によって包囲されており、それどころではなかったのである。

かくして、この「第一次イタリア独立戦争」は、実際の戦火を交えることなく、カヴールの外交的手腕によって、労せずしてロンバルディアを獲得するという成果をもたらすこととなった。

この「成功」は、カヴールら自由主義政権への国内からの信任を得る結果に留まらず、イタリア統一を夢見る各国の自由主義者たちを惹きつけ、やがてサルデーニャ王国こそがその運動の中心であるという考え方を醸成していくこととなる。

そして、1857年以降、その動きは具体的な形を伴って進展していくこととなる。

 

 

イタリア統一運動の進展と「エマヌエーレ憲法」

1857年。

首席大臣ヴィットーリオ・ジネットとその盟友カヴール伯とが中心となって進めていった改革によって近代産業の育成や軍隊の近代化、鉄道網の整備などが実現。GDPも20年前の約6倍にまで成長することとなった。

結果、サルデーニャ王国の国家ランクも「大国」に成長。名実共に両シチリア王国に並び立つ存在となった。

「イタリア統一運動」ジャーナルは、「民族主義」の技術に加えて国家ランクが「大国」以上であることで有効化される。

 

これを受け、中央イタリアの小国に住む人びとも、「イタリアの統一」を現実的に考えるようになっていく。

たとえばトスカーナ大公国では1857年に革命が勃発し、身の危険を感じた大公フェルディナンド4世は家族と共にフィレンツェを脱出。臨時政府は国民投票を実施し、その結果、5月1日にサルデーニャへと併合されることが決定した。

同様に中央イタリアに存在するモデナ公国ルッカ公国パルマ公国といった国々の政府が次々とサルデーニャ王国への編入を選択。

1858年までには北西部イタリアの一帯がサルデーニャ王国の領域に収まることとなった。

史実では「中央統合諸州」という共同体を経て併合される中央イタリア・エミリア地方。ゲーム上でもいつかその辺りの経緯が実装されていくと面白そう。

 

この統合の連鎖は、王国内の急進的な自由主義者たちの発言力を高める結果となっていき、カヴールら穏健派も少しずつ彼らをコントロールしきれなくなっていく。

同年11月には折悪くジネットが急死する悲劇が。カヴール伯がその後を継ぎ首席大臣となる。

 

やがて彼らは国王に対し議会の設立と民主的な選挙の実現を求めて激しい運動を展開し始める。

国王カルロ・アルベルトもこの圧力に押され、議会の設立を含む自由主義的な内容を多く含んだ新憲法の制定に着手する。

だがこれは当然、国内の保守派貴族たちの猛烈な反発を生み出す結果となる。彼らは武力行使も辞さない構えを見せ、国内は大きく分断されることとなった。

貴族たちは自前の軍隊を用意し、併合したばかりのロンバルディア・ミラノに集結しつつある。自由主義勢力もこれに対抗すべく自ら軍隊に志願し、両者は今にも衝突しそうな緊張感をはらんでいた。

 

この状況に対し決断を示すべきカルロ・アルベルト王は、生来の優柔不断な性格から保守派にも改革派にも煮え切らない態度を示し続けており、その状況に対し両陣営から厳しい批判が浴びせられ続けていく。

そしてついに1860年11月6日。

彼はこの状況に耐え兼ねて退位を決断。自らはポルトガルに亡命したうえで、王位を嫡男のヴィットーリオ・エマヌエーレに譲ることを決断する。

Ver.1.3から追加された「退位」。現君主が所属する利益集団(今回で言えば地主)の支持が著しく低い場合や不人気の場合、高齢の場合などに後継者へ王位を譲ることができる。後継者が一定の年齢以上であることも条件となったはず。しかし「死亡」はやりすぎだと思うんだ・・。扇動者みたいに国外追放されたら面白そうだけど。

 

これを受け入れて新たに即位したヴィットーリオ・エマヌエーレ2世は、自由主義勢力からも支持を集める改革派の君主。

彼はすぐさまカヴール伯を首席大臣として留任したうえで、保守派に対する牽制として、1834年のピエモンテ反乱以来外国に亡命し続けていたジュゼッペ・ガリバルディを招聘。

史実では南米を旅していたガリバルディであったが、この世界では東南アジアのオランダ東インドにて自由のための戦いを繰り広げていたようだ。別の世界ではメキシコの民主化にも力を尽くしていたとか

 

「赤シャツ隊」と呼ばれる精鋭軍団を指揮し、将軍としても類稀なる才能を発揮する彼が前線に立ったことで、ミラノで蜂起した反乱勢力は徐々にその勢いを減衰させていく。

やがて少しずつその反乱勢力はオーストリア方面へと退避していき、本格的な武力衝突に発展することなく1861年9月20日、最低限の財産制限のみを残した民主的な選挙制度と議会の設立を約束した「エマヌエーレ憲法」が制定される。

早速、最初の選挙に向けて多くの政治思想を持った政党が結成されていく。

各政党は熾烈な争いを繰り広げていくが、1862年3月30日に投開票された第1回選挙の結果は、ごく僅かの票差でカヴール伯率いる自由貿易党が勝利。

サルデーニャ王国「初代首相」となったカヴール伯は急進的自由主義者マッシモ・ダゼーリョ率いる「左派」党と連立を組み、保守勢力を中心とした「右派」を抑え込む体制を完成させた。

なお、ダゼーリョもカヴール伯も史実においては「右派」に属していた。

 

順調に改革と拡大とを続けていくサルデーニャ王国。

しかし、この「革命」の際に国を逃れ、オーストリアへと身を寄せた保守派勢力の手引きによって、この国は再び危機の時代を迎えることとなる。

 

 

第2次イタリア独立戦争

1863年7月20日。サルデーニャ王国の保守派の手引きを受けたオーストリア帝国が、かつてサルデーニャに奪われたロンバルディアの地の「返還」を要求。

10年前の「十月革命」で勝利したヴィッテルスバッハ家のフランツが新たなオーストリアの皇帝として、火事場泥棒を働いたサルデーニャ王国への復讐を開始した。

 

今回もまた、両シチリア王国がオーストリア帝国側につき、サルデーニャ王国に対して敵対。彼らは拡大するサルデーニャ王国に警戒心を抱き、その拡張を制止しようと考えていたようだった。

これに対抗し、カヴールは再びその外交手腕を発揮する。彼はイタリア国境にも近いスイス・ジュネーヴの湖畔にて、イギリスの首相ヘンリー・ジョン・テンプル(第3代パーマストン子爵)と極秘に会合。とある条件を代償として、イギリス軍の軍事支援を約束させた。

こうして再び火のついた両国の睨み合いは、双方ともに折れることなく進行していき、やがて1863年11月15日。「第二次イタリア独立戦争」が勃発することとなった。

早速国境線の街ベルガモに侵攻するオーストリア帝国軍。

これを、イギリス軍の支援を受けたサルデーニャ王国軍のベルナルディーノ・ディ・サヴォイア=アオスタ元帥率いる4万の軍隊が決死の防衛戦を繰り広げていく。

史実ではヴィットーリオ・エマヌエーレ2世の次男アメデーオがアオスタ公位を与えられて成立するサヴォイア=アオスタ家。この世界ではもうちょっと早く成立していたようだ。

 

この防衛戦は80日に亘る激戦の果てにサルデーニャ王国側が勝利。

そしてその間にこの北イタリア・ロンバルディア戦線には双方の総力が集結しつつあり、サルデーニャ王国側は26万、オーストリア帝国側は40万の兵がポー平原で対峙する格好となった。

「この隙に」、カヴールはある戦略を練っていた。

主力部隊をこのロンバルディア戦線に貼りつけている両シチリア王国に対する、その「本土奇襲」作戦である。

それは、1864年の春に行われた。

まずは西地中海、サルデーニャ島沖で両シチリア王国海軍の主力艦隊をモモ提督率いるサルデーニャ王国海軍で撃破。

制海権を確保した上で、続いてガリバルディ将軍率いる4万の強襲上陸部隊をナポリの海岸に一気に突入させたのである。

王国首都にはパオロ・スガリリア大将率いる3万の防衛隊が駐留しこれを守備していたものの、ガリバルディは得意の攻撃的な戦略によってこれを殲滅。

ナポリ周辺を一気に制圧していった。

その後、本土から駆け付けた両シチリア王国軍とオーストリア軍の一部、そして同じく駆け付けてきたイギリス軍も混じって年末まで激戦が繰り広げられていった結果・・・

1865年2月28日。ついに両シチリア王国は降伏を宣言。サルデーニャ王国への全面的な敗北はこの国の国際的な威信を失墜させ、もはや彼はイタリア統一の「もう一方の中心」となることはないだろう。

これで2vs1。

天下の大英帝国の支援もあり、余裕かと思っていたところではあるが・・・

 

実際には、ロンバルディア戦線にて思わぬ膠着状態が続く。

イギリスは未だ53%程度の動員率であり、ロンバルディア戦線では兵数において大きな劣位を与えられていた。カヴールは英国側に抗議するも「国民や野党の反発」を理由に躱され続けており、カヴールは地団駄を踏む思いであった。

 

すでに双方の戦争支持率は0%に到達しているものの、共に戦略目標を満たしていないことからそれ以上の進展が見られない状態に。

このままでは無駄に死傷者と戦費ばかりが増えてしまう。

そのことを危惧したオーストリア帝国の外相ボイスト伯爵はサルデーニャ王国側に白紙和平の提案を持ちかける。

が、カヴールはこれを拒絶。ここまで来て、ヴェネト王国の奪還を果たせずに終わるわけにはいかない・・・!と彼は少しばかり意固地になっていた。

 

とはいえ、膠着するロンバルディア戦線はどうしようもない。疲弊すればやがて防衛線を突破され逆侵攻を受け、白紙和平の機会すら失ってしまいかねない。

 

そこで、彼は再び敵本土上陸作戦を展開する。

1866年春。アドリア海を北上した王国海軍によってクロアチアへの上陸を敢行。

オーストリア帝国軍も慌ててこの「裏口」への防備に兵を回すが、これによってロンバルディア戦線の兵が薄くなる。

その隙に、サヴォイア=アオスタ公による「大反撃戦」を開始。ついに、オーストリア帝国軍の鉄壁が破られようとしていた。

このままいけば、開戦から3年——この苦しい戦いに、終止符を打つことができるかもしれない!

そう、逸る気持ちを抑えきれずにいたカヴールだったが——そんな彼のもとに、6月12日、信じられないような通知が届けられる。

 

すなわち、イギリスの撤退。前年に首相であったパーマストン子爵が急死し、代わって首相となったジョン・ラッセル卿も、選挙法改正を巡る国内の対立と混乱に巻き込まれて敗北。新たに保守党のダービー伯爵による内閣が樹立するが、もはや戦争どころではなかった。

この報せを受け、カヴールは暫し、呆然としていたという。

あと少し、あと少しだったというのに・・・

しかし、もはや彼に選択肢は残されていなかった。

気を取り直した彼はすぐさま閣僚たちに伝達し、国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世の許可を得たうえで、ただちにオーストリア帝国外相ボイスト伯に、今度はサルデーニャ王国側からの白紙和平の提案が送り届けられた。

この和平案はただちにオーストリア帝国側でも受諾され、1866年6月20日、スイスのチューリッヒにて講和条約が結ばれることとなった。

双方ともに要求を取り下げ、5年間の平和と休戦を明確にするこの条約は、サルデーニャ王国にひとまずの平穏をもたらすこととなった。

 

 

しかし、それはあくまでも、一時的なものに過ぎなかった。

カヴールも、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世も、ガリバルディも、ここで歩みを止めるつもりなどなかった。

イタリアの統一のため、彼らは5年の歳月の後、再び戦いに赴くことになるだろう。

この5年は、そのための「雌伏の時」に過ぎないのだ。

 

 

第2回へ続く。

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*1:オーストリアも同じスペイン継承戦争でスペインからサルデーニャ島を手に入れている。eu4プレイヤーならばご存知の通り、それまではこのサルデーニャ島もシチリア島もアラゴン王家に由来してスペイン王国が領有していたのである。