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【Victoria3プレイレポート/AAR】「奇跡の国」サヴォイア・イタリアの夢 第3回 夢の終わりへ(1896年~1910年)

 

ナポレオンの侵略以降、民族主義と自由主義に目覚めた「イタリア」の国民は、数々の弾圧に耐えながらもその「統一」に向けた火を絶やさず燃やし続けていた。

そして1860年に即位した国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世と首相カヴールに率いられたサルデーニャ王国は、「扇動者」ジュゼッペ・ガリバルディの力を借りながら宿敵オーストリアや両シチリア王国との3度にわたる戦いを制し、1880年についに、「イタリア王国」の建国の夢を叶えることとなったのである。

並行して国内の自由主義的な改革を進め、爆発的な経済成長も遂げていったイタリア王国。

その威信は世界に広く行き渡り、世界の一等国として、イタリアは認められるようになっていった。

 

だが、そんなイタリアを牽引してきたカヴールは1890年に死去。

その後継者を巡り混乱する国政の中で、穏健左派を超えた急進的な「極左」「共産党」勢力が急拡大を遂げる。

その「極左」党の中心に立つのが、「民族主義者」のガブリエーレ・ダンヌンツィオ

「国父」ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世も1896年2月に崩御し、遺されたのはどこか頼りないエフィジオ1世のみ。

 

指針を失ったこの「奇跡の国」は、果たしてどこへ向かおうとしているのか・・・。

 

 

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目次

 

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ダンヌンツィオ時代

東アジアでの勢力拡大

1894年の選挙で大勝し政権を獲得した「極左」党は、当初はジュゼッペ・ランツァが首相を務めるも、実質的な党の中心人物は、中産階級の支持を一手に引き受け、党の勝利に最大の貢献を果たしたダンヌンツィオであることは明白であった。

カヴール首相の側近の一人として副首相の地位を得たこともある政治家ジョヴァンニ・ランツァの三男。その家柄と財力を元に党首の地位につけてはいるが、実質的な権力はほぼないに等しい人物であった。

 

ダンヌンツィオはしきりに国民に対し「イタリア民族の誇り」を訴え、熱狂的な支持を集めていた。彼はこのイタリア王国を古のローマ帝国の後継国家であると喧伝し、それに相応しい「世界一」の国であるべしと主張した。

 

その目標を叶えるべく、彼は世界に目を転じることとなった。

すでに、アフリカには巨大な植民地を築いており、英仏に対抗する準備は整っている。

次いで彼は豊かな人口と資源を擁する「アジア」に目を向けた。東アジアに君臨する巨大な帝国「大清」は、この世界ではロシアの関税同盟下に入っており、列強による分割を完全に免れていた。

そこに、ダンヌンツィオは斬り込んでいく。

大清に対し、山東半島の割譲を要求。

これに宗主国ロシア帝国はもちろん、オスマン帝国やエジプト、ペルシアのガージャール朝などが次々と参戦。

こちらもイギリスと同盟国メキシコをすぐさま呼び込み、戦いは130万vs200万超の激しい激突へと発展していった。

チベット戦線で清軍主力が引き付けられている隙に、山東半島と北京に上陸した主力軍が瞬く間に占領地を広げていく。

イギリス軍もメキシコ軍と共にロシア帝国の首都サンクトペテルブルクに上陸し、これを占領。

オスマン帝国領のバルカン半島西岸にもイタリア軍が上陸し、世界各地で激しい攻防戦が繰り広げられることとなった。

1897年6月に開戦したこの「世界戦争」も、1年も経つ頃には清・ロシア同盟側の劣勢が明らかになっていき、ロシア皇帝アレクサンドル2世も講和条約の締結に前向きな意向を示した。

かくして1898年10月15日。イタリアのローマで調印されることとなった「ローマ条約」によって、イタリアは清から山東半島と賠償金を、オスマン帝国からはバルカン半島西部の港町ドゥラスを、そしてイギリスはロシアからヒヴァ・ハン国の宗主権を獲得した。

イギリスはヒヴァ・ハン国の獲得によって、イギリス領インド帝国からカラート藩王国を経てロシアの南下政策を牽制する中央アジア支配圏を拡大することに成功した。のちに彼らはアフガニスタンの支配圏をも狙うこととなる。

 

続いてダンヌンツィオは、清の隣国で長年に渡る「鎖国政策」を取り続けている日本に対しても、軍艦を差し向けての「開国」を要求。

日本の支配者であった江戸幕府将軍・徳川斉温(なりはる)は、大老・松平春嶽の進言に従い、降伏と開国を認めることに同意。

これにて、300年間にわたり閉ざされ続けてきた日本の門戸は開かれ、イタリアは日本と日伊修好通商条約を締結。

神戸港をイタリアに割譲し、そこからイタリア産の小麦や木材、蒸留酒などが大量に無関税に日本国内に流れ込むこととなった。

今や、4,000万の日本の人口はイタリアの市場となったのである。

 

 

この東アジアへの拡張のみならず、ダンヌンツィオはさらなる「市場の拡大」を画策した。

チュニス、モロッコ、スカンディナヴィア、米国北東部を支配するアメリカ自由国、メキシコ、南米のブラジル、ペルー、アルゼンチン・・・それらの国々に時に投資し、時に負債を肩代わりするなどして恩義を獲得し、その代償としてイタリアの関税同盟に加わることを要求。

この「イタリア関税同盟」には1901年時点で17ヵ国が参加する、大経済圏へと成長することとなる。

この拡張により、イタリアのGDPは3億6,700万ポンドにまで成長。

威信ランキングでは3位。2位フランスまであとごく僅かというところにまで迫っていった。

市場ランキングではフランスを追い抜きイギリスに迫る2位に。

 

だが、このイタリアの拡大は当然、ライバルたちの警戒を呼び起こすこととなる。

 

 

伊仏戦争

他の列強諸国同様、アフリカでの勢力拡大を進めていたイタリアだったが、1901年6月にウバンギ・シャリの奥地に位置するダル・アル・クティのスルタン、ヌデンギュー・ドウアラによる反乱に見舞われる。

これ自体は大した相手ではなかったものの、問題はここにフランス帝国が介入してきたこと。

ルイ=ナポレオン・ポナパルト(ナポレオン3世)により始まったフランス第二帝政は、ルイ=ナポレオンの孫にあたるアンリ・ポナパルトの代を迎えていたが、彼らは拡張政策を続けるイタリア王国に対し常に敵対的な姿勢を維持していた。

いつも通りイギリスを呼んで・・・と思っていたダンヌンツィオだったが、そのイギリスもまた、度重なるイタリアの帝国主義的拡張に対し、ついに「警戒」の姿勢に転換。

こちらからの懐柔にも全く応えようとする姿勢がなくなってしまった。

フランスはすでに「攻城砲」まで配備されており、こちらはつい最近ようやく「塹壕歩兵」が解禁されたばかりでまだ一部設備適合が残っているような段階。

兵数は常備兵数なら互角だが、徴募兵まで含めると劣勢。

こちらには同盟国としてスカンディナヴィア帝国、メキシコ合衆国、ブラジル帝国がついているとはいえ、初めて真に格上と言える相手に対しての実質的な一騎打ちを挑まざるを得ない状況へと陥ったのである。

 

とりあえず、やれることをやるしかない。

ダンヌンツィオは、軍部内で最も影響力を持つ男エンツォ・ダゼーリョに接触。

カヴールの盟友として自由主義改革を推進していったマッシモ・ダゼーリョの親族にあたる人物で、裕福な家柄の出身ではあったものの、労働者や農民たちに同情的であり、スイスに亡命してきていたとあるロシア人に影響を受けた急進的な思想を軍部内に広め支持を集めていた。


彼が強く求めていた「小作農制の廃止」すなわち農民に土地を与える農地改革を進めることを約束し、軍部の全面的協力を取り付けることに成功したのである。

 

さらに、ダンヌンツィオはダゼーリョの勧めもあり、2人の優秀な将軍に重要な2戦線の司令官に任命した。

まずはイタリア本土防衛部隊の総司令官として、ルイージ・カドルナ元帥を。

史実では第一次世界大戦の最初の総司令官(参謀総長)であったが、カポレットの戦いにおける大敗によってその任を解かれ、無能な指揮官の代名詞ともなった男。しかしゲーム中では高い防衛能力によって活躍する世界線も多い。

 

さらに、アフリカ方面においてはより若く、しかし攻撃的なアルマンド・ディアズ元帥を総司令官として任命した。

史実では解任されたカドルナの後任として参謀総長に就任し、オーストリア=ハンガリー帝国軍を撃破。イタリアに勝利をもたらす立役者となった人物である。実際、ゲーム中でも「攻撃戦略専門家」および「砲術指揮官」の能力により、ガリバルディ以上に超有能。

 

北イタリア・フランス戦線では敵の主力を押しとどめつつ、手薄なアフリカ方面で攻勢を仕掛ける戦略を描いた。

その目的は、フランスの領有するアフリカ植民地「ニジェール」。

ここには大量の「石油」資源が眠っており、全体的に石油の保有量が極端に少ないイタリア植民地帝国においては、かなり重要度の高い土地となっている。

仕掛けられたからにはただでは起きない。

必ずや、この土地を奪って勝利して見せる。

その思いを胸に、1901年9月22日。列強2位・3位による直接対決「伊仏戦争」が勃発した。

 

 

まずは北イタリア・フランス戦線のカドルナ元帥。

トリノ郊外のクーネオの街において塹壕戦を仕掛け、アルプスを越えて仕掛けてきたフランス軍のクザン=モントーバン准将率いる5万の部隊を、13万の部隊で見事撃退した。

 

カドルナ元帥のフランス方面軍が健闘している間、アフリカ方面軍を指揮するディアズ元帥は、砂漠の真ん中で古都・ティンブクトゥに立てこもるフランス軍を追い詰めていた。

塹壕戦の導入により、数値においては圧倒的な防御優位となるこの時代。フランス戦線をカドルナ元帥に任せて死守してもらう一方で、アフリカ戦線には主力級を投入し一気にカタを付けるという戦略だ。

それにしてもフランス軍が少ない・・・と思ったら、いつの間にかオーストリア帝国がフランスに攻め込んでいた。

イタリアの同盟国のオランダ、スカンディナヴィアらも各地で戦線を形成し、フランスは50万の兵をその世界各地へと派遣せざるを得なくなっていたのである。

世界各地で繰り広げられるフランス帝国vsイタリア&イタリアの同盟国たちとの戦闘

 

半年後の1902年3月にはフランス領ニジェールへの侵攻も順調に進んでいき、フランス東部地域もほとんどがオーストリア帝国の支配下に陥った。

世界最強の一角のはずだったフランス帝国は、今や落日の時を迎えつつあった。


1902年8月6日。総勢220万以上の兵士が激突する「伊仏戦争」は、開戦から1年も経たずにフランス側の全面降伏という形で決着。

イタリアは大量の石油が湧くニジェール植民地を獲得し、列強ランキングでもついに英国に次ぐ2位の位置に躍り出るなど、さらなる躍進を遂げたのであった。



しかし、この急激な拡張とフランスとの全面戦争は、イタリアに栄光をもたらすと共に、「ダンヌンツィオ時代」に終止符を打つ結果にもなってしまったのである。

 

時代の終焉

50万を超える常備軍の拡張、最新兵器の配備、そして肥大化する帝国を支えるための官僚機構と航路の維持・・・必要に迫られて無際限に歳出を増やし続けていったダンヌンツィオ主導の各種政策は、気が付けばその債務が後戻りのできない水準にまで達していた。

この勢いで歳出を垂れ流せば、3年もしないうちにこの国は債務不履行に陥ってしまう。

そうなったときに政府ができることは、「破産」の宣告をすること・・・

 

もちろん、そうなれば、国家の威信が大きく失われる——だけでは済まない。

彼ら「極左」党の主要な支持母体であった商店主らにとっては、その収入の大半を占めていた「利益配当」を生むための「手元資金」をすべて消滅させることに繋がる。

「ダンヌンツィオは破産によって債務の帳消しを図ろうとしている! 国民からの借金を何一つ返すことなく! 奴らは国民に対する裏切りを、国民からの恥ずべき強盗を成し遂げようとしているのだ!」

—―政敵たちによってここぞとばかりに喧伝されたその文句に対し、ダンヌンツィオはすぐさま否定する。そんなつもりはない。そんなことをするはずがない、と。

しかし一度流れた噂と不信感は、決して拭い去ることはできなかった。「極左」党の支持者たちは、「壊れた篩のように」流出していってしまった。

「極左」党党首ジュゼッペ・ランツァは、すぐさま「トカゲのしっぽ切り」を敢行した。すなわち、この方策はすべてダンヌンツィオの独断によって行われたものであり、党の責任ではない。すべての責任は、この傲慢な若者にこそある——と。

しかし、そんな理屈が通るはずもなかった。

最終的に、戦争の勝利の立役者として支持を集め、一方で財政問題に対する批判の急先鋒に立ち鋭く極左党を批判し続け、さらに「財政再建するための策がある」と公約した「共産党」が、一気にその支持を集めたのである。

すべては、エンツォ・ダゼーリョの狙い通り。

新たな時代の始まりである。

 

 

夢の終わり

共産党の躍進

新たに政権を握った共産党は、エンツォ・ダゼーリョ「軍務大臣」率いる軍部と、ピエトロ・ロベルティ率いる全国労働組合とが合同で支持する左翼政党であり、彼らはイタリア民族やイタリア国家としての繁栄よりも、この国に住む労働者や農村民たちの生活や自由をこそ第一に考えるべきであると宣言し、広く支持を集め始めていった。

先の伊仏戦争への軍部の協力と引き換えに確約させた「自営農」法の制定においては、地主や資本家たちの影響力を農村から排除し、農家と労働者と商店主たちが共同で管理する「農業協同組合」の設立も支援したことで、これまで極左党の支持者であった商人たちをも取り込み、政界における勢力図を一気に塗り替えるに至ったのである。

これにより先の選挙にて大勝した共産党は、公約通り財政再建のための「秘策」に出る。

それは、税制を改革し、逆進性の強い人頭税を廃止する一方で、給与にかけられる所得税率を増やし、新たに利益配当税を創設する「比例課税法」の制定である。

もちろん、資本家たちの激しい反発に見舞われはしたものの、国民の多くはこの共産党の政策を強く支持。この支持を背景に、共産党政権はさらなる改革に着手していく。

 

その中の一つが、カヴール政権時代から国家の伝統として継続されてきた経済政策である「レッセ・フェール」政策の廃止。

民間の自由に任せていた政策から、より政府が干渉する政策へ——この方針転換と共に、これまで資本家たちの富の財源でもあった鉄道全面国有化を実施。

これらの政策により、国家財政は大幅な黒字へと転換されたのである。

その他、規制機関の導入初等教育の義務化など、労働者階級に寄り添った政策を足早に進めていく共産党政権。

だが、あまりにも、これまでのこの国の自由化を推進してきたブルジョワジーたちへの配慮に欠如した改革の連続に、彼らを支持基盤とする国王エフィジオ1世も忍耐の限界を迎えつつあった。

彼は国王に許された大命降下の権利を使い、自由貿易党の党首トマッゾ・バルディッセーラに政権を任せようとする動きを画策し始める。

だが、この動きに対しては、すぐさまダゼーリョ軍務大臣が反応し、彼は議会の壇上に立ち、国王の横暴に対する批判を堂々と繰り広げていった。

自由化・民主化が進んだとはいえあまりにも畏れ多いこの行為。

しかし、議会に並ぶ誰もがこの軍務大臣の言葉に表立って反対する者は現れなかった。何しろ、彼と彼が実質的に率いている共産党とは、イタリアの有権者2,200万人の過半数の信任を握っているのだ。

もはや、それは国民の代表といっても過言ではなかった。1,000万人超の「国民」を前にして、議会のどの元老院議員も代議員たちも、沈黙という名の同意を表明する以外に方法はなかったのである。

 

そしてさらに2つの出来事が、この共産党政権を後押しすることとなる。

 

1つ目は、「微粒子病」の問題とその解決。

DLC「Voice of the People」で追加された連続イベント。簡単なイベントといえばそれまでだが、ダレがちなゲーム終盤に新たなスパイスを加え、また技術をただアンロックするだけのものではない、ストーリーをもったものとして再解釈させる良イベントと感じている。こういうイベントをどんどん追加してほしい。

 

中央イタリアの養蚕農家たちに大打撃を与えることとなったこの病気の解決のため、共産党政権は関連研究への大規模な投資を行うことを決定した。

王都トリノの郊外に研究所を構えていた微生物学教授ジュリオ・ヴェルディは、その投資を元に研究を重ね、ついに1906年9月5日、病気の根本原因とその解決のために必要な「低温殺菌法」を開発。

政府はこの技術を用いた微粒子病撲滅の方策をただちに病気の流行地であるエミリア・トスカーナ両州へと広め、「農業の奨励」布告を用いて一気に問題解決へと突き進むこととなった。

そして1年後の1907年12月10日。

イタリア国内のすべての微粒子病の影響は取り除かれ、ロベルティ首相はこの危機の終息を宣言した。

共産党政権が先頭に立って達成したこの偉業は、世界におけるイタリアの威信を上げると共に、共産党の科学へのリスペクトと適切な評価、そして強いリーダーシップを印象付けるものとなった。

 

もう1つの出来事が、「女性参政権」問題。

40年前の選挙法改正により男子普通選挙は実現したものの、未だに女性の選挙権は世界のどの国でも実現してはいなかった。

その「未知の領域」に果敢に飛び込んでいった活動家が、ミラノ生まれのソフィア・マーティンであった。

Ver1.3から女性参政権を求めるキャラクターは扇動者として現れる。これまでのように、そのイベントの煽りを受けて唐突に既存の政治家が殺されるというようなことが発生しなくなったのはとても嬉しい。


共産党政権はこの目新しい活動に対してもすぐさま支持を表明。

共産党の若手の実力者ドメニコ・ブッファを中心にマーティンの活動を全面的に支援し、1908年1月6日に選挙法改正が実現。

1910年に実施される次回選挙から、女性であっても成人さえしていればすべての国民に投票権が与えられるようになったのである。

当然、この「新たな有権者」たちのほとんどが、女性参政権を支持した共産党への支持を表明することになるだろう。

 

さらに、国王の忠実な支援者であったはずの自由貿易党も、政治的劣勢を悟った党首バルディッセーラが党内の突き上げに耐え兼ねて辞任。

新たに党首に就任したベルナルディーノ・スリス中将は「共和主義者」であり、彼らは野党でありながら共産党政権に対して支持を表明。

サルデーニャ島出身のスリス中将は、ディアズ元帥に匹敵する侵略戦の名手として先の伊仏戦争でもアフリカ戦線で活躍した名将である。


無政府主義者エリコ・マラテスタ率いる「左派」党ももちろん王政廃止を訴えており、議会の実に8割の勢力が実質的な王政廃止勢力となったことで、エフィジオ1世は完全なる四面楚歌状態へと陥ってしまったのである。

19世紀末に「文化的排斥」を成立させる立役者となった「扇動者」エリコ・マラテスタは、今やカヴールやマッシモ・ダゼーリョを意志を受け継ぐ左派党を率いる存在となっていた。

 

そしてより決定的な出来事が、1908年の2月に巻き起こる。

それは、列強1位「イギリス帝国」の、崩壊を意味する大事件であった。

 

革命

グレース・スミスは1860年にスコットランドのエディンバラで生まれた。

彼の父は織物工場の労働者で、母は家事と子育てに追われる専業主婦だった。彼には兄弟が5人いたが、そのうち3人は幼くして病気や事故で亡くなった。

グレースは幼い頃から勉強が好きで、地元の学校に通っていたが、12歳のときに父が工場で怪我をして働けなくなったため、学校を辞めて働きに出た。彼は父と同じ織物工場で働き始めたが、劣悪な労働環境や低賃金に不満を抱いていた。

彼は18歳のときに、フランスやロシアとの戦争に志願して軍隊に入った。このときの彼はイギリスの王室に対する尊敬と憧れを抱いており、母国の栄光と正義のために戦うことを誇りに思ってもいた。

しかし、戦場で彼が目にしたのは理想とは程遠い残酷さと不正義であった。仲間が死に、敵を殺し、自らも多くの身体的・精神的負傷を負った彼は、やがてこの戦争を指導する立場にある王や貴族たちに対する怒りを抱くようになっていった。

彼は1890年に除隊されてロンドンに移り住んだが、そこでも彼は幸せを見つけることはできなかった。彼は職を転々とし、貧困や差別や暴力に苦しんだ。彼は酒やギャンブルに溺れるようになり、家族や友人とも疎遠になっていった。

彼は自分の人生に絶望し、自殺を考えることもあった。

 

しかし、1900年に彼の人生は大きく変わった。彼はある日、街角で共産主義思想のビラを配っている男と出会った。その男は「赤い星」という秘密結社のメンバーで、グレースにビラを渡して話しかけてきた。

グレースは最初は興味がなかったが、その男が話す共産主義の理想や目標に惹かれるようになっていった。それは、彼が幼い頃や20代の頃、そして30代の苦しみの時代に常に感じていた疑問に対する回答のように思えた。

彼は「赤い星」の集会に参加するようになり、そこでカール・マルクスやフリードリヒ・エンゲルスの著作を読んだり、仲間と議論したりした。

彼は共産主義が自分の求めていたものだと確信し、「赤い星」の一員として革命活動に参加するようになった。

 

やがて彼はその生来の聡明さとカリスマ性でもって、組織の中で頭角を現していった。やがて彼は、王政打倒と共和制の樹立を目標に掲げ、武装蜂起の計画を進めていった。

そして1907年5月15日。ヴィクトリア女王の嫡男であったウィリアム王が崩御し、新たに17歳のエドムンド王が即位する。

しかし幼くして精神的な病を抱えており王としての威厳はなく、政権を握る軍部・愛国党の「好戦主義者」ハーバート・キッチナー将軍によって政治は壟断され、ウィリアム王時代から継続していたアフリカでの対フランス戦争などに邁進。

そのツケは国民に背負わされ、100万近い陸軍を維持するための戦時特別税と大規模な徴兵によって、国民の不満は着実に積もり溜まっており——ついにそれは、1908年の3月、スミスによる「二月革命」へと帰着するのである。

 

1908年2月15日。

イギリス軍の大半がアフリカおよびオーストラリアでの反乱鎮圧のために本国を留守にしていた隙を狙って、スミスら「赤い星」は計画を実行に移した。

彼らはイギリス本国のスコットランド北部、アイルランド、ロンドン周辺を除くほとんどの地域で武装蜂起を開始。

遠征中のキッチナー将軍は直ちに海外派遣軍の半数を本国に戻すことを指示し、また、本国に残ったベーデン=パウエル准将らにロンドンの死守を命じた。

そして、カナダやイギリス領インド帝国などの、イギリスの傀儡国・自治領たちもエドムンド王の側につき、軍事支援を約束。

さらに大陸のプロイセン共和国もまた、イギリス王軍に味方することを宣言した。

 

1908年3月2日。

イタリア・トリノにあるカリニャーノ宮殿にて開かれていた下院議会にて、イギリス革命軍総司令官のグレーム・スミスから届けられた手紙を、下院議長は手に取って読み上げ始めた。

 

「イタリアの同志たちよ。私たちの声は、国は違えど同じ境遇を味わうあなた方の国の労働者たちと等しい価値を持っていると私は信じています。私たちは圧政と欺瞞で人びとを苦しめる悪しき王政を打倒するべく、武器を手に取って今まさに戦っております。しかし、この私たちの理想を、国民の正義を、踏みにじろうとする者たちがまだ多く残っております。

 どうか、同志たちよ、私たちの助けとなってほしい。そしてともに革命を成功させ、共に手を取り合い、理想の国家を共に築き上げる最初の二つの国家となることを、切に願っております。

 

 イギリス共和国暫定政府首班

 イギリス共産党書記長

 グレーム・スミス」

スミスからのこの要請に対しすぐさま議会は採決を取り、7割以上の賛成でもって即時の軍事支援が可決された。

しかしこれを見ていた国王エフィジオ1世は激怒し、国王に許された拒否権の発動を宣言した。

 

だが、それは「サヴォイア・イタリアの夢」を終焉へと導く、最大の悪手であった。

 

 

国王の拒否権でもって強制的に議会が解散された翌日、イタリア共産党副書記長のエンツォ・ダゼーリョは、自らの支持基盤である陸軍を率いて王宮へと迫った。

彼は国王エフィジオ1世に対し、すぐさま拒否権を撤回し議会を招集し、その上で自ら退位すること要求。さもなければ実力行使を辞さないという宣言を行った。

 

エフィジオ1世は自らの行為の代償の大きさを悔やみ始めたが、あまりにも遅すぎた。その日の深夜、彼は家族と共に側近に引き連れられ、アルプスを越えてフランスへと亡命。

王宮を占領したダゼーリョは広場に集まった民衆に向けて「イタリア共和国」の成立を宣言し、民衆もこれに応え、歓声を上げ続けたのである。

 

 

かくして、「奇跡」と共に結実したサヴォイア・イタリアの夢は終焉を迎える。

もちろん、「イタリア人」の物語はこれで終わりではない。

 

1908年8月3日。ダゼーリョ率いる軍部による暫定政府は新たな憲法をまとめ上げ、国家元首としての象徴的な役割のみ果たす大統領を置きつつ、実際の政治は議会多数派の党の党首が「首相」としてこれを行う議会共和制の原則を発表した。

当然、初代首相としてエンツォ・ダゼーリョがそのまま就任。

一方、ダゼーリョの強行的な手法、および共産党内での実権を力ずくで奪おうとするやり方に反発したドメニコ・ブッファら穏健派は、新たにイタリア社会党を立ち上げる。ブッファが影響力を持つ全イタリア労働組合はこの新党への支持を表明した。

過激な手法ではなく、より現実的な方法で労働者の権利を守ろうと主張するイタリア社会党。ただその批判の中には、やや感情的で突飛な内容も含まれており、単なる党派争いでしかないと判断された旧支持者たちの支持はそこまで集めきれずにいた。

 

逆にダゼーリョはこれまで野党でありながら与党共産党と近しい主張を述べてきていたエリコ・マラテスタ率いる「左派」党と合流。マラテスタは副首相の地位に就くこととなる。

これらの政界再編を経て、1910年3月に開かれた新憲法下の最初の選挙では引き続き共産党が圧勝し、新体制においても国民の信任を得ることとなったのである。

 

この勝利の要因の1つはもちろん、クーデター直後に暫定政府を主導した軍部が改めてすぐさま介入を表明していたイギリス内戦での成功が挙げられる。

1908年4月には英本土に上陸したイタリア共和国軍は、フランチェスコ・マラン元帥率いる第一軍が54万の軍隊を率いてロンドン包囲に参加。

5ヶ月以上にわたり繰り広げられたロンドン包囲戦は、イタリア軍に9万以上もの犠牲者を生み出しながらもついに勝利し、これを陥落。

翌1909年4月9日にはイギリス王国軍が降伏を宣言し、王家のアメリカ合衆国への亡命が実現。

革命指導者グレーム・スミスによる「イギリス共和国」の建国宣言をもってこの「イギリス内戦」は終結し、スミス主席は勝利の立役者となったイタリア共和国への感謝を述べると共に、両国の同盟締結に直ちに同意することとなった。

 

 

王政廃止と共和制の実現。

世界最強の国イギリスとの同盟。

「イタリア人」の国は新たな時代へと突入しつつある。それは、彼らの新たな「夢」へと向かう時代になるのかもしれない。

 

だが、その道のりは決して平坦ではない。

 

次回、Victoria3プレイレポート/AAR第14弾「サルデーニャ=ピエモンテ」編最終回。

イタリアの夢」へと続く。

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MOD『出版産業の興隆』で遊ぶ大英帝国RP重視プレイ

強AI設定で遊ぶプロイセンプレイ:AI経済強化MOD「Abeeld's Revision of AI」導入&「プレイヤーへのAIの態度」を「無情」、「AIの好戦性」を「高い」に設定

大インドネシア帝国の夢

大地主経済:ロシア「農奴制」「土地ベース課税」縛り

金の国 教皇領非戦経済:「人頭課税」「戦争による拡張なし」縛り

コンゴを自由にする

アメリカ「経済的支配」目標プレイレポート

初見スウェーデンプレイ雑感レポート

 

Crusader Kings Ⅲ、Europe Universalis Ⅳのプレイレポートも書いております!

 

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