リストリー・ノーツ

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【Victoria3プレイレポート/AAR】革命と改革のメヒコ100年史 第4回(最終回) 最後の革命(1904年〜1936年)

 

1820年代。

この国は長きにわたるスペインの支配からの独立を果たし、国家としての自由を手に入れた。

1830年代から1850年代。

独立の痛みを味わうかのように、英雄アントニオ・ロペス・デ・サンタ・アナ将軍による専制政治がこの国を支配し、国民の自由は抑圧され続けてきた。

1850年代から1870年代。

サンタ・アナ将軍による独裁を打倒した自由主義者たちによって、国民は自由を獲得し、そしてアメリカとの戦争に勝利したことによって誇りをも手に入れた。

1880年代。

自由主義の英雄ベニート・フアレスを喪ったこの国は、遺された後継者たちの間で少しずつその方針を巡って対立し、混乱し、道を誤り始めていく。

そして1890年代。

この国は再び、独裁の悪夢を味わうこととなる。

かつて手に入れたはずの自由は繁栄の代償として失われ、莫大な富を一部の特権階級が得た代わりに、多くの国民が苦しみを味わっていくこととなる。


メキシコは、もう一度戦わなければならない。

その先にあるはずの、本当の自由を目指して。

そのために、さらに多くの血が流れることになるだろう。

 

これは、最後の戦いでなくてはならない。

 

Victoria3プレイレポート/AAR第12弾。「革命と改革のメヒコ100年史」最終回。

史実と類似した、しかし史実とは全く異なるこの国の「100年後」を、共に見届けていこう。

 

人民の声は、果たして届くのだろうか。

 

 

Ver.1.3.3(Thé à la menthe)

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~ゲームルール~

  • 戦争による拡張をしない(旧領奪還を除く)。
  • 「プレイヤーに対するAI挙動」設定は「無情」
  • 「AIの敵対行為」は「高い」
  • その他デフォルト設定

 

目次

 

第3回はこちらから

suzutamaki.hatenadiary.jp

 

これまでのプレイレポートはこちらから

虹の旗の下で 喜望峰百年物語ケープ植民地編。完全「物語」形式

パクス・ネーエルランディカ:オランダで「大蘭帝国」成立を目指す

1.2オープンベータ「ロシア」テストプレイ

MOD『出版産業の興隆』で遊ぶ大英帝国RP重視プレイ

強AI設定で遊ぶプロイセンプレイ:AI経済強化MOD「Abeeld's Revision of AI」導入&「プレイヤーへのAIの態度」を「無情」、「AIの好戦性」を「高い」に設定

大インドネシア帝国の夢

大地主経済:ロシア「農奴制」「土地ベース課税」縛り

金の国 教皇領非戦経済:「人頭課税」「戦争による拡張なし」縛り

コンゴを自由にする

アメリカ「経済的支配」目標プレイレポート

初見スウェーデンプレイ雑感レポート

 

Crusader Kings Ⅲ、Europe Universalis Ⅳのプレイレポートも書いております!

 

アンケートを作りました! 今後の方向性を決める上でも、お気に入りのシリーズへの投票や感想などぜひお願いします!

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オーストリア戦争

あらゆる大きな出来事というのは、決して一瞬の選択によってすべてが始まるわけではない。どれだけ劇的な変化に見えるような出来事であっても、その前提には数多くの伏線が張り巡らされており、その因果の帰結として歴史に残る大事件へと繋がっていくのだ。

それでも、その「最後の一押し」は確かに存在する。

今回の件で言えばそれは、この男の決断であったと言える。

 

ロマノフ朝第14代ロシア皇帝イヴァン7世。苛烈な専制政治を敷いた父アレクサンドル3世に倣い、彼もまた、今なお国内で勢力を保ちつつある地主たちを支持基盤とし、広大な帝国を強圧的に統治し続けていた。

そんな彼にとって、恐るべきは隣国オーストリアで巻き起こった共産主義者による革命である。

20年前に当時のハプスブルク王朝を打倒し成立したオーストリア社会主義共和国はその後、革命を主導する「前衛党」なる勢力が国家の独裁的な権力を握る形態を取り、現在はモーリッツ・ヒッツェン主席がその地位についていた。

「平和主義」とは名ばかりで、彼らは自分達の理想を実現するためであればあらゆる暴力の行使も厭わない。それはときに国内の同じ国民に向けられることすら。


イヴァン7世にとって、彼らのその思想がロシアに流入し、ロシアでも政府転覆に繋がりかねないことを強く警戒していた。

事実、彼らの革命に影響を受けたウラジーミル・レーニンなる男が国内で怪しい動きをしていたことがオフラーナの調査により発覚。逮捕の直前で新大陸へと逃れたようだが、最悪の事態を避けることには成功した。

同様の事態が続かないよう、イヴァン7世は対策を練る必要があった。

そのために利用したのが、20年前の革命により処刑された当時のオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の遺児でサンクトペテルブルクに亡命していたフェリックス・フォン・ハプスブルクの存在。

前衛党の専制政治に嫌気が指し、旧皇族の復帰に期待をかける勢力が増えつつあったことを見て取ったイヴァン7世は、1904年3月、このフェリックスをけしかけてオーストリア国内で反乱を起こさせた。

20年前、父および兄たちがウィーンで処刑される中、一部の協力者たちによって命からがらロシアまで逃れることに成功したフェリックスは、共産主義者たちに対する復讐を強く願い続けてきた。


イヴァン7世はただちに介入を宣言。反乱軍側に加担し、オーストリア社会主義共和国への攻撃を正当化する。

これに速やかに反応したのがロシアのかつての同盟国であり、現在の仇敵であるフランス共和国。現在の首相*1を務めるのはジョルジュ・クレマンソー。一時はパリ・コミューンの一員になろうとするなど、急進的社会主義グループとも深いつながりのあった男である。

労働組合が中心となって組織された「フランス社会主義労働者連盟(FTFS)」と連立を組んでいるクレマンソー政権は、オーストリア社会主義政権を打倒しようとするロシアに対し、宣戦布告を決断。

1904年4月28日。

オーストリアを舞台にした欧州2大国による激突が幕を開けた。

兵数では、ロシア・ハプスブルク家同盟側が優勢。

しかし、いまだに国内の軍事改革が進まず、旧時代の兵器しか用意できないロシア帝国軍にとって、塹壕戦を展開するフランス・オーストリア軍の防衛陣地を突破するのは容易ではない。

それでもある程度の領土を奪い取ることには成功するが、その間に西部戦線フランス軍オーストリア反乱軍を着実に後退させていく。

この状況を見て、皇帝イヴァン7世はメキシコ合衆国に対し援軍を要請する。
実際、このままロシアが崩壊すれば、その貿易圏に依存しているメキシコの経済は一気に瓦解する。

それは国内の不穏分子による「革命」への大きな近道となることを十分に理解しているポルフィリオ・ディアスは、すぐさま欧州への合衆国軍派遣を決定した。

ポリフィリオ・ディアスはすでに70を超えていたが、今なおこの国の統治権のほとんどすべてを独占していた。

たとえ列強1位フランスと言えど、実質的に列強クラスの軍事力を誇るメキシコとロシアの2面衝突の前では抵抗は難しいはずだ。

 

だが、彼のこの決定こそが、その「王国」の崩壊の引き金となった。

 

 

3人の扇動者たち

ファウストフローレスは1870年、コアウイラ州のエル・ロサリオにあるアシエンダの経営者エヴァリスト・フローレスの初孫として生まれる。

エヴァリストはポルトガルユダヤ人の子孫で、メキシコにおける商業輸送事業の創設者として莫大な財産を築いたのち、その資本を元手に綿花、ワイン、織物業、銀行、石炭など多角的に事業を広げていった。

1890年代には新たに発見されたゴム資源を活用した農園・工場の権利をいち早く独占的に取得。軍需産業を重視するディアス政権にも取り入り、その権勢を拡大させていた。

エヴァリストも、ファウストの父フランシスコも、メキシコの地主としては珍しく、積極的に欧州へ旅行し、最新の知見を導入することに抵抗がなかった。

若きファウストもまた、兄のアルヴァロと共にフランスに送られ、そこでビジネスを学ぶこととなった。そして彼はその留学期間中に、「その思想」に触れる。

きっかけを与えたのはフランスの社会主義思想家ジャン・ジョレス。1890年代にトゥールーズで教鞭を取っていた彼に影響を受け、彼が支援したカルモーの鉱山ストライキにも参加するなど、次第に社会主義思想へと傾倒していった。

当初はクレマンソーら急進的社会主義者と距離を取っていた彼も、1880年代末から次第に社会主義思想に染まっていき、のちにSFIO(フランス社会党)の指導者となっていく。

 

兄からの報告でそのことを知った父フランシスコはすぐさまファウストに勘当を言い渡す。ファウストはしばらくの間祖国には帰らず、フランス、スイス、オーストリア、そしてロシアへと放浪することとなった。

 

そのファウストが、帰ってきた。

1904年9月。ディアス独裁政権下で苦しむ労働者と農村民たちの解放のため、彼はフランスとの戦争で混乱する祖国に舞い戻り、民衆を鼓舞したのだ。

さらに彼の下には協力者がいた。一人はヴェヌスティアノ・サンタ・アナ。かつてこの国を我がものの如く支配したサンタ・アナ将軍の孫にあたる人物で、今や労働者たちの権利の擁護者として、ファウストの右腕を担う役割を果たしていた。

サンタ・アナ将軍が1844年に結婚した当時15歳のマリア・ドロレス・デ・トスタとの間の子ペドロ・ロペス・デ・サンタ・アナの嫡男。サンタ・アナ将軍の息子たちの殆どが共に国外追放に処されたが、当時まだ子どもであったペドロだけは母と共にメキシコシティに留まることを許され、ペドロとその子ヴェヌスティアノは一介の市民として人生を重ねてきた。

 

そしてもう一人が、ウラジーミル・レーニンファウストがロシア放浪中に出会った、同い年の社会主義思想家であり、現オーストリア社会主義共和国を指導するモーリッツ・ヒッツェンの思想に影響を受けた彼が、ファウストと共にメキシコに来訪し、共にこの地に革命をもたらさんとしていた。

ファウストとサンタ・アナ、そしてレーニンは、それぞれの支持者たちをサン・ルイス・ポトシに結集させ、サン・ルイス・ポトシ綱領と呼ばれる宣言を発出した。これはディアス政権の武力での打倒を掲げる宣言であった。

そして1904年12月31日。

「それ」はついに決行される。

これが「最後の革命」となることを願って。

 

 

メキシコ革命

第一の革命

最初の戦いはアリゾナ州ツーソンの街近郊で繰り広げられた。

カリフォルニアと中央部とを結ぶ交通の要所であるこの街は、連邦軍・反乱軍ともに抑えていくことに重要な意味を持つ街であった。

反乱軍側はセバスティアン・ブラボー元帥に3万5千の兵を率いさせたうえで、鉄道を用いた奇襲でもって連邦軍側を包囲。

ヴェヌスティアノ・ディアス大統領の息子であるレイナルド・ディアス元帥率いる1万3千の兵は潰走するほかなく、4月19日のこの戦いでツーソン周辺は反乱軍側によってほとんどを制圧されてしまった。

アリゾナが陥落してしまえば、いよいよカリフォルニアも反乱軍の手に渡ってしまう恐れがある。

そうなれば今のところを静観を決め込んでいるアメリカ合衆国がどのような動きに出るか保証はできず、早い段階での決断が必要となっていた。

ポルフィリオ・ディアス将軍は首都防衛隊の一部を北部の防衛へと回し、アリゾナ戦線の死守を命じることに決めた。

 

しかし、それこそが反乱軍側の狙いであった。

1905年7月20日

連邦軍側の首都防衛隊の数が十分に少なくなったことを確認し、待機していた反乱軍側のホアキン・ド・アンプディア大将が20万もの兵を率いてメキシコシティ近郊の街トルーカを守備する連邦軍を一気に強襲する。

キューバ生まれのメキシコ軍将校で、史実の米墨戦争では「ザカリー・テイラーを唯一破ることの出来た男」と称されたペドロ・デ・アンプディア将軍の息子。史実では米墨戦争の後リベラル派へと傾き、メキシコ皇帝マクシミリアンとの戦いでも活躍した彼の息子ホアキンも、同様にリベラル派の旗手として今回の反乱に参加することとなった。


トルーカでの市街戦はおよそ2ヵ月にわたって続き、連邦軍側に4万近い死傷者を出したうえで陥落。

同時に南部から攻撃していたエミリアーノ・サパタの軍の侵攻もあり、7月にはメキシコシティは周囲を完全に包囲される形となった。

ここにきて、ディアス政権は敗北を悟った。
ポルフィリオ・ディアス将軍の側近たちはファウストフローレスら反乱軍側の首脳陣と取引することに決め、説得を受けたディアス兄弟はロシアへの亡命を決めた。

だが、これで終わりでは、ない。

 

メキシコから去る直前、ポルフィリオ・ディアスは次のように語ったという。


フローレスは虎を解き放った。彼がそれを制御できるか、見てみようじゃないか」

メキシコの平和は、まだ遠い。

 

 

第二の革命

メキシコシティを占拠した反乱軍は、権力の独占と抑圧の象徴となってきた大統領制度の廃止を決定。労働者や農民、兵士といった各集団が独自の意思決定組織としての「評議会」を形成し、その集合体として統治機関が作られるという考え方の「評議会共和制」を制定する。

そして全評議会を代表する最高意思決定機関としての「人民委員会議」が作られ、その初代議長(主席)として革命の立役者ファウストフローレスが就任した。

だが、この新政権の内部は決して一枚岩ではなかった。

 

大農園の経営者の下で生まれた経歴を持つフローレスは、彼にとってより身近な存在であった農民たちに対して同情的であり、それゆえに彼が最も重視した政策は「土地改革」すなわち現在の大土地所有制度を改め、農民たちに土地を所有させることを目指すものであった。

バニラでは「入植」とイマイチわかりづらい訳(原語がHomesteadingなので仕方ないかもしれないが・・)だったが、日本語改善MODではこれを「自営農」と訳してくれており、ありがたい。

 

一方で、祖父の失脚後、都市の中で貧しい生活を送り続けてきたヴェヌスティアノ・ロペズ・デ・サンタ・アナはより急進的な革命を志向していた。

彼はすべての特権階級からその権利を収奪し、土地・不動産を含むあらゆる財産を国有化する方針を主張した。

革命後に実施された評議員選挙では、半数を超える議席を「サンタ・アナ派」の「社会主義労働者党」が獲得し、農地改革を志向する穏健な「フローレス派」の「農業党」の得票率は3割に留まった。

この勢いをもって評議会の主導権を握りにかかるサンタ・アナだったが、あくまでも各代表評議会の対等な関係を重視するフローレスはその地位を譲らず、革命に大きな影響を与えていたウラジーミル・レーニンフローレスの立場を支持したことによって、両者の対立は決定的なものとなった。

 

そして、1906年6月3日午前7時30分。

サンタ・アナの腹心であったアントニオ・デ・ロメイ准将が士官候補生の一部と兵士の列を率いて国立宮殿前に現れ、衛兵たちと撃ち合いになった。

30分にも及んだこの激しい銃撃戦の中で市民を含む400名以上が死亡し、1,000人以上が負傷した。その場を取り仕切っていた宮殿衛兵司令官のアグスティン・ララ中将の鎖骨を弾丸が貫通し、デ・ロメイ准将も銃撃を受け落馬し、絶命した。

フローレスは最初の戦闘の地から3マイル離れたチャプルテック城の大統領官邸にいた。午前8時ころに連絡を受けた彼は馬に乗り、財務長官を含む少数の護衛と共に市内に入った。

彼はフアレス通りの終点に到着し、狭い通りが混雑していることに気づいた彼は、馬から降り、未完成の国立劇場の向かいにある写真スタジオに入り、情報の収集に努めた。

そこで彼は数名の軍将校と合流し、その中の一人がホセ・リンコン・ガラルド中将であった。彼は有能だが残忍で重度の飲酒問題を抱えており、フローレスはあまり彼を好きではなかったが、ララ中将が負傷している今、この場を任せられるのは彼しかいなかった。

フローレスは彼を首都軍の司令官に任命した上で、国立宮殿のバルコニーに出て群衆に演説し、ガラルド中将もその傍らに立った。そしてフローレスは再び馬に乗り、歓声を上げる群衆に応えながら街を出て、隣のモレロス州州都クエルナバカへと向かった。革命戦争の英雄、ホアキン・ド・アンプディア大将と合流するためである。

その間に、ガラルド中将はローマ地区にある民家で一人の男と会談した。

反乱軍の首謀者。クーデターの仕掛人であるサンタ・アナである。

ガラルドは、フローレスがアンプディア大将と大量の武器・弾薬・兵を連れて首都に戻ってくれば、自身の地位が失われることを理解していた。

彼にとって、その野心を満たす最大のチャンスが目の前にやってきていた。

彼はサンタ・アナに協力することを申し出、彼らの軍が国立宮殿から数ブロック離れたところにある武器庫を占拠する行為を黙認した。さらにはフローレスの腹心である精鋭警察部隊を危険な武器庫近くの露出陣地に誘導し、彼らに反乱軍の機関銃射撃を浴びせさせるといった「不手際」を行ったことで、首都防衛部隊の兵力を大きく損耗させることに成功した。

 

翌朝、アンプディア大将と共に首都に帰還したフローレスが見たのは、武器庫からの砲撃によって完全に崩壊した国立宮殿と、街中に展開された反乱軍の異様な数。

そして街の中央広場で勝利を宣言するサンタ・アナに対し、それを取り囲み歓声を上げる群衆の姿であった。

フローレスは降伏を受け入れた。

これ以上の抵抗が、さらに多くの国民の流血に繋がることを彼は何よりも恐れたのである。

そしてフローレス側についた「扇動者」ウラジーミル・レーニンも、身の危険を感じてメキシコを去ることに決めた。

この「悲劇の二日間」によって、サンタ・アナは権力を手に入れた。

彼は先の正当なる選挙の結果を根拠とし、自らを2代目の人民委員会議議長として承認させた。

国旗も代わり、メキシコは新たな政体となったことを明確に世界へと示した。

 

第三インターナショナル

新たに「メキシコ社会主義共和国連邦」と名を改めた国家の代表となったサンタ・アナ議長は、さらなる改革として、「強力な党の存在が全国の労働者を牽引し、一致団結して革命に突き進まなければならない」とする考えを示し、自身の所属する社会主義労働者党以外のすべての政党を解散させた。

1.3から追加された新法律「一党独裁国家」。そのとき最も強力な政党のみが存在し、それ以外のすべての政党が消滅。選挙でも必ず100%の得票率になるというものだ。

フローレスが率いていた農業党も彼の失脚後に解党し、所属していた農民評議会のメンバーは皆唯一の政党たる社会主義労働者党へと合流した。

 

続いて1906年11月17日に「土地および資産に関する布告」を採択。貴族・教会・地主などから土地を強制収用し土地の国有化を宣言し、さらにはメキシコ国内のすべての銀行や鉄道、鉱山、あらゆる産業に至るまですべてを国有化し、国家の管理に置くことを宣言した。

これはディアス政権下で莫大な富を得ていた、とくに外国人資本家たちの権限をすべて奪うものとなり、各国はただちにサンタ・アナ政権を非難。

特に旧来的な君主制国家からは、すでに結んでいた貿易協定を破棄されたり敵対的な態度を取られるなど、関係が急速に悪化しつつあった。

一方で、オーストリアを始めとして世界各地に同志たちが増えていたのも確かであった。オーストリアの隣国プロイセンでも共産主義革命が起こり、同じアメリカ大陸の経済大国であるブラジルもまた、正しい志による政変に成功していた。

サンタ・アナはこれら世界の共産主義国家に呼びかけ、第三インターナショナルの設立を宣言。オーストリア戦争で崩壊した第二インターナショナルの後継として、第1回大会をメキシコシティで開催し、上記4カ国の代表と19の地域の代表とが集まり、世界から孤立しかけようとしていた共産主義者たちの団結と軍事的な連帯とを誓い合った。

サンタ・アナはメキシコをその指導者として位置づけ、積極的な「革命の輸出」を志向した。

 

たとえば1908年8月。

イギリスの自治領であったカナダで共産主義者による反乱が発生。

これはサンタ・アナ率いる第三インターナショナルの手引きによって同国内の共産主義者ピエール・オーレル・ペラデューを扇動して行われた大反乱であった。

この広大なカナダを自陣営に引き込むことができれば、アメリカ合衆国を南北から挟み撃ちすることができ、ひいては北米大陸全体を共産化することができるチャンスと考えられた。

 

もちろん、イギリスはこれに対抗。

メキシコは列強1位大英帝国との直接対決を迎えることとなった。

オーストラリアも敵側につき、総兵力100万を超えるイギリス連合軍に対し、こちらの総兵力は73万弱。

 

勝算は十分にあった。

カナダに上陸してくる英国軍は上陸時点ですでに補給が不足して士気が減少している状態。

それに追い打ちをかけるようにして、アルヴァロ・フローレス将軍がセントローレンス湾で待機して英国海軍の輸送船を次々と撃沈していく。

アルヴァロ・フローレスは弟と違って純粋に実業家として成長し、父の大農園を引き継いだ。しかしその富も、メキシコ革命によってすべてが失われた。彼が今できることは、悔しさを噛みしめながらもその才能によって革命軍で活躍し、やがて来る機会を待つことだけであった。

 

結果、世界最強の大英帝国軍も万全のメキシコ革命軍の前では歯が立たず、開戦から半年後には逆にメキシコ革命軍側から攻勢が仕掛けられるほどとなった。

1909年6月にはオンタリオ州マニトバ州といった、カナダの中央部分を軒並み制圧。

敗北を悟ったイギリスは早々に降伏を宣言し、カナダは独立を果たすこととなった。

 

この第三インターナショナルと「世界革命」の成功により威信を高めたサンタ・アナ議長は、次なる政策として「五カ年計画」を発令する。

これは指令経済下での徹底した工業化と農業の集団化を進め、五年間で国内総生産1.25倍化することを目指したものである。

1913年にはこの五カ年計画を1年前倒しで達成。

さらに続けて「第2次五カ年計画」を発表し、1918年まで続けられることとなる。

 

この10年で、メキシコの鋳鉄生産高は1908年の12,500ユニット/週からから1918年の23,000ユニット/週1.8倍化、発電量に関しては4,700ユニット/週から15,400ユニット/週3倍化など、重工業部門で大きく生産量を伸ばした。

五か年計画によってメキシコ全土の電化が進められた結果、鉄鋼業においてもそれを利用した「電弧法」を採用し生産高の増大を成功させている。

急激に増加する電力需要に応えるべく、旧来の水力発電のみならず最新式の石炭火力発電も採用し、電力供給効率を増大させている。

 

石炭に代わる新たなエネルギー資源としての石油の発掘も国有企業により積極的に進められ、国内の最新設備で用いられた他、海外への重要な輸出品としても重宝されることとなった。

国営油田は莫大な収益を叩き出し、国家に富をもたらしてくれている。

 

躍進するメキシコ。

完全国営化された工場群の産出する利益は全て国家が収奪し、莫大な収益を生み出す。

主要なエネルギー源であり常に枯渇状態=需要最大値状態の石炭鉱山が特に高収益を上げ国庫を潤している。その他全体的に鉱山・鉄道が高収益だ。

 

一方、その権益を失った特権階級は死滅し、労働者となるかメキシコを去るかの選択肢しかなくなった。

メキシコから貴族と資本家はほぼ息絶えた。代わりに、国営企業を運営する公務員の権力が支配的になりつつあった。

 

利益の大半を食い潰していた少数の特権階級の消滅は、国家の平均生活水準の底上げにもつながる。

国家ランキングでも英仏に継ぐ世界3位の地位につけるなど、この国は真に偉大な国家として認識されるようになりつつあった。

 

だが、繁栄は永遠には続かない。

かつてこの国を支配したサンタ・アナ議長の祖父の時代も、ポルフィリオ・ディアスの時代も、国民への抑圧と強権的な支配により繁栄を築いたが、最後にはそれは自由を求める国民の手によって破壊された。

 

今回もまた、それは避けられない運命であったようだ。

 

 

いよいよ、「最後の革命」が、始まる。

 

 

最後の革命

きっかけは1918年。それまでロシアの保護下に置かれ、その巨大市場の一角を占めていた東洋の虎「大清」で巻き起こった大きな政治的動乱であった。

時の皇帝は愛新覚羅蘇克薩哈(スクサハ)。第9代皇帝奕詝(咸豊帝)の長子で同治帝を名乗った。

史実では「載淳」という諱の幼君が同治帝を名乗るが、ゲーム上では彼と生年が同じこの男がその地位に就いている。史実では混乱する清国の中で西太后によって擁立された載淳はわずか19歳で病没するが、この男は不死鳥のごとく長生きをしている。


ロシアの庇護下で、ほとんど外国の侵略を受けることもなく安定した半世紀を過ごしている清王朝

しかしその分王朝内での腐敗は濃縮され、やがて政権を支えるはずの士大夫階級からも、王朝打倒を唱える者たちが現れ始めていた。

陳炯明(ちん・けいめい)はECCHIで追加されている史実人物。辛亥革命に参加するが、ソ連からも「確固とした共産主義者」と評された彼は孫文とは徹底的に馬が合わず、最終的には対立し敗北する。

 

共和主義者・陳炯明は政権内でその基盤を確実なものとすると、いよいよその本性を現し、1918年5月8日、清王朝打倒と共和制開始を宣言するクーデター(戊午事変)を引き起こした。

同治帝は退位を認め、陳炯明を大総統とする「中華民国」が成立。

しかし5億弱の人口と無数の少数民族を抱えるこの巨大領域は、仮にも400年の実績を持つ清王朝という箍もなく保てるほど強固なものではなかった。

権力簒奪を狙う奸臣は陳炯明だけではなかった。彼の野心は、中国大分裂という爆弾に大きな火をつけることとなったのである。

これまで見たことのなかった中国の大分裂。今回、清DLCの追加要素であるクーデターをきっかけに初めて目の当たりにすることができた。こういうのはどんどん増えてほしい。明治維新しないAI日本とか全くドイツ化しないAIプロイセンとか安定しすぎるAIロシアとか・・・。

 

これまで、清から大量の絹を輸入し、加工した高級衣類を清に輸出していたメキシコ国内の織物産業は軒並み壊滅。

さらに7月末にはフランスでも、何度目になるか分からない革命が勃発し、同様にフランスから大量に輸入していた石炭の供給がストップしたことによって、発動機産業や製鉄業が一気に機能停止へと追い込まれてしまった。

新エネルギー源としての石油の活用はまだ始まったばかりであり、石炭の需要はまだまだ大きく、五か年計画によってさらに膨れ上がったそれは、メキシコ国内で産出される量を遥かに上回っていた。

 

突然のインフレ。そして大量に現れる失業者たち。

国民の大半が困窮する中、逆にこの状況を利用し、その地位を悪用して大量の賄賂を掴み取るチャンスを得た「国家公務員」たちは、密かに私財を貯め込み、その富を増大させていった。

貴族なきこの国における新たな特権階級としての彼らに、民衆の憎悪が向けられるのは当然の成り行きであった。

 

腐敗したサンタ・アナ体制打倒への旗頭となったのが、エミリアーノ・サパタであった。

1879年にモレロス州アネネクイルコの村で裕福な農場主の家に生まれた彼は、10代後半の頃から始まったディアス政権下で、資本主義化する農村とその中で奴隷のような扱いを受ける先住民たちの姿を目の当たりにして育ってきた。

彼は1905年にメキシコ第一革命(ファウストフローレスによるディアス政権の打倒)が勃発するとすぐに、フローレスの軍に合流しメキシコシティ南部のアヤラ占領に貢献した。

彼は農民の土地所有を全面的に認める農地改革を主張する「アヤラ綱領」を発表し、フローレスも自らの政策にこれを一部取り入れるなど、フローレス派の領袖としてその頭角を現し始めていた。

 

しかし翌年、「悲劇の二日間」によってフローレスが失脚。

サパタも身の危険を感じてすぐさま首都を脱出し、放浪の身となった。

 

その後は暫く、サンタ・アナ議長政権下のメキシコ各地を巡りながら、その政策の矛盾を訴え続けていた。

集団農場で、国家公務員の管理者に支配される「新農奴制」に苦しむ農民たちの実態。とりわけ、労働力確保の名目でより一層厳しい立場に置かれることとなった先住民族たち。自身もインディオの血の濃いメスティーソとして生まれたサパタにとって、彼らの苦境も決して見逃せない実情であった。

だが、メキシコがサンタ・アナ体制の下で繁栄している間は、サパタの声を聞こうとする者は少数派に留まった。

やがて、1918年の恐慌がこの国に訪れ、人々がサパタの警鐘が真実であることを理解したとき、その支持者たち――サパティスタたちは急激にその数を増やし始めていた。

 

1919年3月。

サパタとその支持者たちは、全面的な国有化を止め、各工場・鉱山・農場・鉄道等の所有権を労働者たちが平等に分け合う「労働者協同組合」で管理する形式を取る「共同所有」法案の成立を求めた政治運動を開始する。

メキシコ唯一の政党たる社会主義労働者党は総体としてはこの法案に反対の構えではあった。

一方で現在の全面国有化が、1918年の恐慌における損害をすべて国家が弁済する形となっており、国庫に大きな負担をかけていることを、サンタ・アナ議長は十分に理解していた。

恐慌の影響を受け大幅な赤字を出している製鉄所・製法工場・発動機産業などの負債をすべて国家が受け持つ形となっている

 

そして、この全面国有化により権力を握りつつある国家公務員たちが「知識人」グループを形成し、そのトップにフランシスコ・マデロなる「市場自由主義者」を据えている事実もまた、サンタ・アナ議長を警戒させていた。

彼らは現在の労働者政権にとって危険な存在となりうる。

 

財政面・政治面双方において利害の一致したサンタ・アナ陣営とサパタ陣営の結託により、1919年12月21日に共同所有法が成立。

「民営化」された各施設の利益は共同所有する労働者たちに平等に分配されていったことで、生活水準はさらに平準化され、その平均も着実に向上していった。

1920年時点で小国クラクフに次ぐ世界2位の平均生活水準を誇るようになる。純粋に平均生活水準を上げようとすれば指令経済以上にこの共同所有が向いている。

 

サパタはこの「成果」を喧伝し、支持者はさらに増大していき、メキシコ政界における影響力は非常に大きなものに。

サンタ・アナはこれを受け、サパタの社会主義労働者党への入党を打診した。

 

 

1920年5月7日。

メキシコシティの中心部にある国立宮殿の前に一台の馬車がやってきた。そこから降り立ったのはソンブレロにスーツ姿のエミリアーノ・サパタ。彼は護衛に守られながら宮殿の入り口に近づくと、宮殿の前に立つ黒いスーツ姿の男に気がついた。

「本日はお招き頂き光栄です、サンタ・アナ議長」

「こちらこそ、お会いできて光栄です、サパタ将軍」

互いに手を差し出し握手する両名だが、その顔に笑顔はなく、互いに互いを値踏みするかのような緊張感が漂っていた。

サンタ・アナが自分を懐柔しようとしていることは分かる。あとは、どれだけこちらの要求を呑むつもりがあるのか、だ。サパタは彼のこれまでの人生で最も重要な瞬間を迎えようとしていた。

 

護衛たちは玄関に残し、サパタはサンタ・アナ議長に先導されて彼の執務室へと向かった。廊下では二人とも何も話さず、足音だけが辺りに響いていた。

執務室に入ると、サンタ・アナ議長はサパタにソファに座るよう促し、議長自身は自らの机に座った。彼の机の上にはメキシコ社会主義共和国連邦の国旗と社会主義労働者党の旗が飾られていた。

議長はサパタに向かって話し始めた。

 

「将軍、私は貴方を尊敬している。貴方はメキシコの農民たちのため、一貫して戦い続けている英雄だ」

「私もあなたを尊敬しております、議長。あなたが社会主義の理想を体現し、その実現のために誰よりも努力してきたことは、たとえあなたの政策のすべてに賛成ができない人びとも、等しく理解しております」

サパタの言葉は本心であった。目の前の男は決して暴君でも権力に溺れた利己主義者でもなく、ただひたすらに純粋に理想を追い求めている男なのだということは、サパタ自身も、そして彼の師であったファウストフローレスも認めていることであった。

「そう言ってもらえることは幸いだ。しかし、そんな私の理想も、今まさに試練に直面している。あなたのいう通り私の政策のすべてが正しいとは思ってはいない。それは制度疲労を引き起こし、あらゆるところに穴が開いている。そこから水が漏れ出し始め、やがてそこの国は再び、内乱の危機を迎えることになるだろう。

 もちろん、そんなことがあってはならない。同じ国民同士が傷つけ合い、血を流し合う事態は二度と繰り返してはならない。今日、あなたに来てもらったのはそれが理由だ。単刀直入に言おう。

 サパタ将軍、我らが社会主義労働者党に入党し、党の、そしてメキシコの理想の実現に協力してほしい」

サンタ・アナ議長の言葉に、サパタは目を伏せ、暫くの間沈黙を続けた。

やがて、顔を上げたサパタは、サンタ・アナ議長を真っ直ぐに見つめた。

「私も同意見です、議長。私も現状を変えるために必要なことが暴力だけとは思っておりません。その悪き慣習は繰り返されてはならないと思っています。

 議長、私はあなたに協力する準備ができております。但し、それは私たちの要求に応えていただけるかどうかにかかっております」

「もちろん、それは必要だろう。農地改革か、先住民の権利回復か」

「当然、それも必要だと思っております。しかしまず何よりも優先すべき重要なことは、この国が常に争いのテーマに置き続けてきたものーーすなわち、自由です」

自由、と議長は繰り返した。

「集会の権利か、秘密警察の解散か」

「ええ、それも必要でしょう。しかし、まず何よりも手をつけるべきはーー党の、解体です」

サンタ・アナは息を呑んだ。彼は机の上に置かれた赤と緑と白の党旗を見つめた。

「党ーーつまり、メキシコ社会主義労働者党の解党を、か?」

「ええ、そうです。今やこの国の唯一の政党であり、あなたがこの国の象徴と信じている、その党を、です」

サンタ・アナは沈黙した。その意味を、噛み締めるように。

「この国は独立以来、繰り返し相争い続けてきました。最初はわずかな期間、皇帝が即位しました。しかしこれはすぐに打倒され、続いて独立の英雄ーーあなたの祖父ですねーーによる実質的な独裁政治が繰り広げられました。ベニート・フアレスはこれを打倒し、この国に自由と誇りとをもたらしました。しかしその死後は再び政治の主導権を巡って人びとは争い、その混乱の中で再び英雄ーーポルフィリオ・ディアスが独裁を開始しました。

 あなたとファウストフローレスはその打倒のために戦い、成功した。大統領と言う権威を引き摺り下ろし、フローレスは評議会初代議長としてメキシコ国民すべての連帯を希望しました。

 しかしあなたは、そのフローレスを背後から撃った。あなたが先ほど何としてでも避けなければならないと述べていた、その暴力によって」

フローレスは選挙で示された民意を無視した。我々社会主義労働者党が多数派を握ったにも関わらず、彼はその権力を手放そうとしなかったのだ」

「多数派が常に正しいのであれば、この世界から争いは無くなりません」

サンタ・アナは押し黙った。サパタは立ち上がり、革命の闘士としての迫力を持って、目の前の最高権力者を睨みつけた。

「今、真の連帯が求められています。社会主義の理想とは、プロレタリア独裁でもなければ、多数派による少数派への抑圧でもありません。私たちは私たちの権利と自由を不当に簒奪するすべての権力を否定します」

「それが、我らが党だというのか。しかし、今や党は国家と同一だ。それを否定すると言うならばーー」

「ええ、私たちは国家をも、否定します。正確に言えば、国家そのものは人民の集合体として必要ですが、それを統治する旧来型の『政府』というものは、否定されるべきと考えています」

「君は、無政府主義者だったのか」

無政府主義ーーマルクスを批判したミハイル・バクーニンに始まり、ピョートル・クロポトキン、リカルド・フローレス・マゴンを経由したその思想は、やがてサパタの血となり肉となった。

それはあらゆる権威と権力を否定し、個人の自由を無際限に希求する理想主義であった。

「だが、党を否定してどうする。君が言っているのは、社会主義労働者党のみならず、あらゆる党、あらゆる政治集団をも否定することを意味するーー」

「ええ、その通りです」

「だが、そんなものは非現実的だ。この国により大きな混乱と暴力を招くだけだ。現実の歴史に基づかないそのような思想などーー」

「いえ、それはメキシコの伝統的な価値観に基づきます。外来の、旧大陸人のそれではなく、元来の、インディオたちのコミュニティに認められます。彼らは自分たちの土地や資源を共有し、共同で生産や消費を行うことで経済的な自立を果たしてきました。私たちは彼らに学ぶべきです。少数者たちを含めたすべての国民に自由と権利が与えられる、それがこのメヒコであるべきなのです。

 議長、私があなたに協力する唯一の方法は、私たちのこの要求ーー党を解散させ、この国を、あらゆる権威によって支配されることのない、世界で初めての『無政府主義国家』とすることーーを呑むこと以外にありません」

「・・・私がそれを断れば?」

「そうなれば仕方ありません。その上でなお、国家が私たちを抑圧し、自由と尊厳を奪うのであれば、私たちは武器を取って闘うことも辞しません。これまでがそうであったように」

サンタ・アナは目を伏せ、暫くの間沈黙し続けていた。サパタは立ったままそれを見据え、待ち続けていた。

どれくらいの時間が経過しただろうか。永遠とも言える時間の果てに、この100年の歴史の重みを、祖父の代から続くこの国の運命についてを、深く熟考した上で、ヴェヌスティアノ・ロペス・デ・サンタ・アナは結論を導き出した。

「分かった。君の言う通りにしよう。準備が整い次第、社会主義労働者党は解散し、以後、あらゆる政党を結党を禁止しよう。この国はすべての権威と抑圧を段階的に解除していく。この国と国民が求め続けてきた "自由" を、サンタ・アナの名にかけて、国民に返還することを約束する」

 

かくして、メキシコ社会主義共和国連邦最高指導者のサンタ・アナ議長とエミリアーノ・サパタとの間の協定が結ばれ、サパタは一時的に社会主義労働者党に入党した。

そして両者の合意の下、この国は前代未聞の「無政府主義国家」となることを宣言。その実現に向けての準備を進めていった。

この動きに反発したのが、連邦軍最高司令官で「赤軍」の創始者ベルナルド・マルドナド元帥。

彼に率いられた赤軍は直ちに政府から退陣し、反乱の構えを見せる。

しかしサンタ・アナ議長が先頭に立って国民に呼びかけ、再度の内戦の危機を何としてでも回避するよう訴えた。

サパタのみならず保守派の側においても軍部と議長とで意見が割れたことにより、マルドナドの反乱は支持を集めきれず、革命は現実のものとはならなかった。

前代未聞のこの国家体制の変革に対し多くの利益集団が反対に回ったものの、圧倒的な政治力を独占する労働組合と農村民を前にして、その抵抗力は甚だ虚しいものとなった。

 

かくして1921年9月27日。

スペインからの独立100周年を記念するこの日、この国は、あらゆる権威を否定し、国民の自由を最大限保障する、史上初の「無政府国家」となることを宣言した。

そしてエミリアーノ・サパタは、その無政府共同体の「代表」として就任。国内政治への権限は殆ど制限されているが、その国民統合の象徴として、そして対外的な「」として機能することとなった。

国内政治は各利益集団を代表する「評議会」がその利害を調整し実現していく。

そこでも「自由」は最も重要視され、「言論の保護」と「保証された自由」を制定。

そして1926年8月27日。

ついにエミリアーノ・サパタと彼の支持者たちの悲願であった、すべての先住民たちの権利の回復をも実現した。



 

 

1935年12月31日。

独立から115年。「新たなメキシコの誕生」から15年目となる年を迎えようとしていたその日、56歳を迎えていたサパタはモレロス州の自宅のバルコニーで、友人たちと共に夜空に咲く花火を見ていた。

あの日以来の盟友となったサンタ・アナは昨年67歳で亡くなっていた。

ファウストフローレスも、1922年に亡命先のアメリカから戻ってきて以来サパタと共に農村民の指導者の1人として活躍していたが、3年前に62歳でこの世を旅立っている。

多くの知人がいなくなる中で、サパタもまた、自分の番が近づいていることを悟りつつあった。

 

公式にはすでに7年前に政界を引退しており、現在のメキシコ共同体連邦の代表はゲノヴェヴォ・サラゴサが務めている。

かつてベニート・フアレス時代の陸軍大臣を務め、ポルフィリオ・ディアス将軍によるクーデターの際にはこれに対抗し最後まで自由主義のために闘って死んだ(第3回参照)イグナシオ・サラゴサ将軍の孫にあたる。

 

それでもサパタは国民の英雄として、今なお国際的にも国内的にも、消極的な形とは言え影響力を残している。

 

自分が亡くなった後、この国がどうなっていくのかーー不安がないと言えば嘘になる。

しかし、それはこの国の国民が、この15年のあいだ培ってきた体験と自由なる意志に基づいて決めていくものであり、去りゆく自分がどうこう考えるべきではない、とも理解していた。

国内外のマスコミや友人知人も「ポスト・サパタ」についてしつこく聞いてくるが、その度に彼は次のように答えていた。

 

「メヒコの民は自由である限りにおいて、道を誤ることはありません。私もその格率で動いている以上、私の後に来る後継者たちもすべてのメキシコ国民もまた、何ら変わることなくこの国を導いていくでしょう」

 

 

最後に、そのサパタが理想郷として創り上げたこの国の姿を見ていこう。

最終的な国家ランキングは3位。但しGDPではフランスを抜き世界2位にまで躍り出た。

国民の9割が読み書きを行うことができ、その平均生活水準は25.0。もちろん、世界1位だ。

貴族も資本家もいないこの国で最も裕福な職業は技師。そして、差別が完全に撤廃されたこの国において、ソノラ砂漠先住民族であるオオダム人ですら「裕福」な生活を送れるほどとなっている。

 

人口は世界7位の8,523万人。世界各地からの大規模移民による人口増加のスピードに開発のスピードが追いつかず、最終的に300万人もの百姓が残る事態となった。

最終的な職業別人口割合。百姓が3番目に多い職業に。そして機械工と労働者がこの国で最も政治力を持つ職業となった。

 

安定した生活を保証する国家に対して、国民の4分の1以上が体制派という、実に「幸福」な国家となったと言えるだろう。

経済面では英仏二大国と良好な関係を築き、石炭や鉛などの重要資源を輸入する一方、より高い価格で石油や発動機を輸出し、莫大な利益を得ていた。

イギリスから石炭を輸入し、フランスへ石油を輸出するシナロアの港は圧倒的な生産性を誇り、世界で最も稼げる取引所となっている。なお、国営で運営されており、その利益はすべて国庫に直接送り届けられる。

自動車、電話、無線機・・・最先端の製品は常にメキシコが最も多く生産し、世界に輸出してみせている。その財政を支えるのが世界最大の産出量を誇る金と世界2位の産出領を誇る石油である。


メキシコは間違いなく繫栄している。世界で最も幸福で、豊かな国として。

最後に、世界に目を転じてみよう。

まずは北米大陸アメリカ合衆国はあの後、チェロキー族やアフリカ系アメリカ人などによる反乱と独立が発生し国内はガタガタ。アフリカ系アメリカ人による独立国「新アフリカ」からはさらにアメリカ人による独立が巻き起こり「アメリカ連合国」を新たに設立している。共産国家としてイギリスから独立したカナダでも、イギリス人の手引きにより細かく民族の独立が発生してカオスな状態となっている。

カナダ北部のイヌイット族による共産主義独立国家ヌナブト。

 

欧州では一度英国が内乱を起こし、オーストリアが反乱軍を支援(そして両シチリア=イタリアがイギリスを支援してオーストリアと対立)する場面などもあったが、結局は英国がこの反乱を鎮圧。一方、プロイセンではしっかりと反乱が成功し、共産主義政権が倒れる事態が生じた。

中国は相変わらずの状況だが、上海と南京を支配する直隷軍閥と、福建や広西を支配し雲南も勢力圏に収めた大城軍閥とが優勢。北京政府は勢力の拡大もできぬまま主導権を失いつつあった。また、ベトナムカンボジアではフランスによる支配への抵抗が始まっている様子だ。

オセアニアではインドネシア統一国家が成立。そしてカナダに続きオーストラリアでも共産主義革命が巻き起こり、独立戦争を進行中。英国による世界支配も、落日の時を迎えつつあるのかもしれない。

以上が1936年のメキシコの姿である。

この後、メキシコは引き続き国民の幸福の下、繁栄を維持していくことはできるのだろうか。

それとも、またどこかで限界を迎え、革命による混乱が巻き起こってしまうのだろうか。

 

それは誰にもわからない。

もしかしたらありえたかもしれないメキシコの一つの世界。

願わくば、私たちの世界のメキシコもまた、いつの日か平和で幸福な国家とならんことを――。

 

 

Fin.

 

 

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