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【Victoria3プレイレポート/AAR】永遠の大韓帝国 第1回 憲宗の改革と「危機の時代」(1836年~1870年)

 

1836年。

14世紀末から400年以上にわたって存続し続けていた朝鮮国は、その末期を迎えつつあった。

当時の国王・憲宗(ホンジョン)はわずか10歳の幼帝。その政治の実権を巡り、祖母の純元王后(スンウォンワンフ)が属する安東金(アンドンキム)氏と実母の神貞王后(シンジョンワンフ)が属する豊壌趙(プンヤンジョ)氏とが熾烈な勢力争いを繰り広げていた。

その間に、国内では水害や伝染病、国外からは西欧列強による近海への威圧的な来訪など、社会不安が高まりを見せており、この事態に何ら有効な手立てを打たぬまま政争に明け暮れる中央政府に失望し、王位簒奪を狙う謀反事件が繰り返されるなど、朝鮮は混迷の一途を辿っていた。

 

史実ではこの後、東アジアの支配権を巡る清と日本との争いに巻き込まれ、一度国家としての消滅を迎える。20世紀の後半に独立するも、南北に分かれての独立であり、完全な形での朝鮮国家は今なお復活できていない。

 

だが、今回はその運命に抗ってみせよう。

近代化を巡る国内の対立を乗り越え、諸外国からの干渉も退け、20世紀前半を真の独立国家として駆け抜ける。

そして願わくば、「大韓帝国」の称号を、永遠のものとするためにーー。

 

Victoria3 AAR/プレイレポート第13弾。

「アジアのバランサー」朝鮮で、永遠の繁栄を目指していこう。

 

Ver.1.3.3(Thé à la menthe)

使用DLC

  • Voice of the People

使用MOD

  • Cities: Skylines
  • Declare Interests Button on top
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  • Historical Figures
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  • Japonism
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  • Romantic Music
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  • Japanese Language Advanced Mod

 

~ゲームルール~

  • 「プレイヤーに対するAI挙動」設定は「無情」
  • 「AIの敵対行為」は「高い」

 

目次

 

第2回以降はこちらから

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これまでのプレイレポートはこちらから

革命と改革のメヒコ100年史:新DLC「Voice of the people」で遊ぶメキシコ編

虹の旗の下で 喜望峰百年物語ケープ植民地編。完全「物語」形式

パクス・ネーエルランディカ:オランダで「大蘭帝国」成立を目指す

1.2オープンベータ「ロシア」テストプレイ

MOD『出版産業の興隆』で遊ぶ大英帝国RP重視プレイ

強AI設定で遊ぶプロイセンプレイ:AI経済強化MOD「Abeeld's Revision of AI」導入&「プレイヤーへのAIの態度」を「無情」、「AIの好戦性」を「高い」に設定

大インドネシア帝国の夢

大地主経済:ロシア「農奴制」「土地ベース課税」縛り

金の国 教皇領非戦経済:「人頭課税」「戦争による拡張なし」縛り

コンゴを自由にする

アメリカ「経済的支配」目標プレイレポート

初見スウェーデンプレイ雑感レポート

 

Crusader Kings Ⅲ、Europe Universalis Ⅳのプレイレポートも書いております!

 

アンケートを作りました! 今後の方向性を決める上でも、お気に入りのシリーズへの投票や感想などぜひお願いします!

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初期内政

1836年1月1日時点の朝鮮王は憲宗(ホンジョン)。父・孝明世子(ヒョミョンセジャ)を6年前に亡くし、当時の王であった祖父の純祖(スンジョ)も2年前に崩御していたことで、わずか8歳で国王に即位。純祖の正室であった(つまり憲宗の祖母である)純元王后(スンウォンワンフ)が摂政として政治の実権を握っていた。

李烉(イ・ファン)こと第24代朝鮮王憲宗。史実では病弱かつ政治の実権を祖母と祖母の実家に握られ何もなすことのないまま23歳で没した。後継者にはその後純元王后によって据えられた哲宗が設定されている。

 

国政は当然のことながら地主/貴族階級である両班(ヤンバン)が支配している典型的な後進国

一応歴史上の人物である李相璜(イ・サンファン)。第3代国王・太宗の次男・孝寧大君に連なる王族の1人で、憲宗時代の領議政(首相)を務めた。

 

ここから、セオリー通り工業系の施設を中心に建設していき、実業家集団の政治力を高めていって改革を進めていこう。

 

 

朝鮮の特徴は初期状態で清の朝貢国であり、上納金は多少納める必要があるものの、巨大市場である清市場を使えることは大きな大きなアドバンテージとなっている。

木材や生地、工具、鉄などの基本的な資材は初期状態ですでにある程度存在し、かつ高級衣類や磁器などの高級品の需要が膨大に存在しているまさに理想的な市場である。

初期状態の収支。「外交協定」項目の5,000ポンドが清への上納金である。

 

よって、いきなり建設局の製法を「鉄骨施設」にした上で追加で9個の建設局を建設。

まずはさすがにすぐ不足する鉄鉱山を大量に関北の地に建設し、その後首都の京畿キョンギ)に縫製工場家具工場ガラス工房などの主要産業を建てていこう。

資源も最初から潤沢にあるため、縫製工場や家具工場の製法をいきなり高級品にしても全く問題がない。需要が十分にあるというのは本当に大きい。

 

技術についても、通常の後進国の場合はいきなり生産系を進んでも資源も需要も追いつかないため意味がないことが多いが、朝鮮国の場合は先進国並みに生産系優先で問題はない。早めに鉄道へと向かっていこう。

縫製工場と家具工場の基礎製法2段階目を解禁する時代Ⅰ技術「旋盤加工」の後、鉄道の前提技術であり鉱山の生産量を増やす時代Ⅱ技術「大気圧機関」および家具工場や工具工房の製法を解禁する「機械工具(メカニカルツール)」の取得を目指していく。その間、軍事と社会系技術は後回しで良い。

 

朝鮮は京畿嶺南両湖両西関北の5州を領有しているが、首都京畿(州都は漢城)および南西の両湖(州都は全州)は産業都市として「縫製工場」「家具工場」「ガラス工房」「工具工房」「食料品工場」など高生産性を期待できる産業施設を建設。

北東の関北(州都は成興)および北西の両西(州都は平壌)は資源都市として「鉄鉱山」「石炭鉱山」「鉛鉱山」などを建設。

そして南東の嶺南(州都は釜山)は「製鉄所」「化学プラント」「発動機産業」「造船所」「武器工場」将来的には「発電所」などの、生産性が低く高生産性を期待できる施設と一緒に建てると労働者が集まりづらい施設を中心に建てていく。

この「産業都市」「資源都市」「低生産性施設中心都市」の3種に分けた都市特化戦略は、規模の経済を活かしつつ「製造業の奨励」「資源産業の奨励」などの布告を効率的に用いる上で重要かつ基本の戦略となる。人口およびインフラのボトルネックから、産業都市と資源都市は最低2つずつは用意しておきたいところだ。

産業都市の例。1868年の首都・京畿。自立型建設の導入により意図せぬ施設もどうしても建設されることで徹底は難しいが、「製造業の奨励」布告と合わさり各種産業施設の高生産性が維持されている。なお、首都の場合は知識人の影響力を高めるべく意識的に大学や行政府も多めに建てることが多い。軍部の力を高めたいときは首都に兵舎を増やそう。

 

 

さて、そんなこんなで内政を進めているうちに、1849年には実業家や知識人の影響力が増していき、相対的に両班の影響力が減少。

小作農」法制定に向けての政治運動が始まったことを契機とし、いよいよ改革を開始していく。

 

 

憲宗王の改革と「黄金時代」

1849年9月。

史実では同年6月に崩御する運命にあった憲宗は生来の病弱さを克服し、見事に成長した姿を見せていた。

22歳となった憲宗。なかなかのイケメンである。

 

その堂々とした立ち振る舞いは政治姿勢にも表れており、成人して親政を開始した彼は、影響力を保ち続けていた祖母の純元王后とその実家の安東金氏を政権から追放。

代わりに改革派の王族李是応(イ・ハウン)と協力し、500年に渡り廃止されていた議政府(内閣)の復活や党派門閥を問わない人材登用など、安東金氏による専横(勢道政治)の打破と国内の改革に邁進した。

李是応は第21代国王英祖の次男・荘献世子の孫にあたる王族の1人。史実では憲宗の母神貞王后と協力して安東金氏の追い落としを図り、自身の子を第26代国王高宗として即位させると「興宣大院君」を名乗り政治の実権を握った。ゲーム中には登場せず。

 

その一環として新たに領議政(首相)として採用したのが、漢城の縫製工場や家具工場などを多数所有し莫大な財産を築いていた実業家の文相璜(ムン・サンファン)。

両班からの登用が通例であった領議政へのまさかの常民の登用に周囲は驚きを見せたが、憲宗と李是応は意にも介さず、文首相の提言する「農奴解放」を推し進めることに同意した。

李是応は熱心な「奴隷制廃止論者」であった。但しそれは人権意識ゆえではなく、単純にそれが産業の発展にとって非効率だったからである。

 

土地所有者である両班層にとっては既得権益となる農奴制の撤廃は、当然のことながら大きな反発を招く。彼らは武装蜂起もちらつかせながら、法案制定に対する強力な抵抗の構えを見せていた。

そこで文首相は、清を追放され漢城を訪れていた扇動者の張楽行(チャン・レクシン)を政権に招聘することを決断。

安徽・河南地方で捻軍と呼ばれる武装勢力を組織し始めていたところで当局の摘発に遭い、志半ばで祖国を離れざるを得なかった張。

農民たちのことを何よりも重視する彼の政治思想は実業家の文とは根本的には相容れないものの、農奴制を撤廃するというその一点においては意見の一致を見せ、支持者たちを集めて文首相の改革に協力することを約束した。

張のもつ「伝統主義者」イデオロギーでは小作農制への支持は得られないが、所属する「農村民」利益集団が小作農制への支持を持っているため、政治運動に参加。成功率が一気に21%も増加した。これが後進国における序盤の基本的な扇動者の使い方である。

 

農民たちが文政権を支持することを明確にしたことで、両班たちによる反乱の勢いは削がれ、決起は起こらないままに1851年10月には農奴の解放が実現。未だに農民たちが自由に土地を得ることはできずにいるものの、移動の自由など、奴隷的な待遇の撤廃には成功した。

これで権力基盤の一部を失った両班層に対し、憲宗たちはさらに改革を突きつけていくこととなる。

 

まずは「干渉主義」。旧来の「伝統主義」を捨て去り、常態化していた管理による汚職を撲滅(ゲーム的には伝統主義法の効果の1つであった「課税キャパシティ-25%」の効果を撤廃)。収入を一気に5,000ポンド近く改善させた。

課税キャパシティが一気に改善(汚職が激減)したことで「未回収税金」が縮小。


さらに税制も改革。「土地ベース課税」から「人頭課税」へと切り替え、これまでは極端に免除されていた両班層への課税を強化。相対的に平民の税負担を軽くした。

所得税は2倍以上、人頭税/地税・消費税も上昇し、全体として2万4千ポンドもの増収を実現した。なお、これら「議政府の復活」「党派門閥を問わない人材登用」「土地改革」「汚職の撲滅」「両班への課税」といった改革は、実際に史実の1860年代に李是応=興宣大院君が改革として行っているものである。

 

汚職の撲滅と税制改革によって得られた収益を元手に国内への積極的な投資を実行。

清国の豊富な需要を頼みに、朝鮮国内の産業は大いに発展し、1868年末には世界7位のGDPを記録するほどになっていた。

 

1850年代から続くこの「黄金時代」を経て、国王・憲宗の権威は格段に増大。

憲宗もまたこの成長を成し遂げた朝鮮人たちを褒め称え、その誇りを高らかに宣言した。

 

だが、この繁栄も永遠には続かない。

1860年代末、憲宗が40代に差し掛かった頃、東アジアは混沌の渦に飲み込まれることとなる。

 

 

「危機の時代」

その「混沌」の起源は10年前に遡る。

当時のアメリカ合衆国は、奴隷制を巡る激しい対立の渦中にあり、その緊張が極限に達した1859年2月。アメリカは東西に分裂して激しい内戦(東西戦争)へと突入した。

エイブラハム・リンカーン率いる共和党と、奴隷解放運動を主導し、1857年に女性かつ黒人として初めてアメリカ合衆国大統領に就任したハリエット・タブマン率いる人民党との連立政権は奴隷解放を強行制定。

これに反発したロバート・リー将軍率いる民主党奴隷制の存続と自由貿易を求める東部諸州をまとめ上げて「アメリカ連合国」として合衆国からの独立を宣言。

彼らは何とイギリス系アメリカ人のニュートン・シェパードを「国王」に据え、立憲君主制国家として独立を果たしたのである。

16世紀から続く英国のシェパード男爵家の末裔である彼は、18世紀末にアメリカに渡った祖父・父の下で育てられ、ハーバード大学で法律を学んだ後ニューヨークにて優秀な弁護士としての名声を得た。やがて彼は政治にも興味を持ち始め、民主党に所属。奴隷制度の存続と自由貿易を支持し、南部諸州との友好関係を築きつつ1856年にはニューヨーク州の知事に就任した。翌年の大統領選挙で人民党・共和党連立政権が勝利し、初の黒人女性大統領の誕生で西部諸州のリベラル層の支持を集める中、保守的な東部諸州の支持を集めるべく、民主党政権によって「国王」として擁立されたのがこの「ニュートン1世」であった。

 

翌年には停戦を迎えたこの東西戦争の結果、「アメリカ主権連合国」と名を変えた東部諸州は人口・GDP・軍量すべてにおいて西部合衆国を凌駕し、列強の一角として覇を唱えていた。

そんなアメリカ主権連合国のニューイングランド艦隊総司令官パトリック・ウェスト提督は、合衆国に先立って東アジアでの影響力を獲得するという大命を賜り、1866年4月にコネチカット州ハートフォードの港を出港。

8か月かけてマデイラ諸島ケープタウンモーリシャス・セイロン・シンガポールマカオ・香港・上海・琉球(沖縄)を経由し、同年12月に浦賀に来航した。

当時の江戸の将軍は第14代将軍徳川斉善。第11代将軍・家斉の孫にあたり、病弱で子を為せなかった従兄弟の第13代将軍・家定の養子として後継者に任ぜられるも、その翌年に家定が没し、元服前の即位を迎えたばかりであった。

「平和主義者」の彼の思惑とは裏腹に、強硬派の幕府重臣浦賀沖に現れた複数の「黒船」の威圧的な態度に猛反発。

大砲でもってこのウェスト提督の艦隊に対して攻撃を仕掛けたことをきっかけに、翌年3月、アメリカ主権連合国は江戸幕府に対し宣戦を布告した


兵数だけで言えば江戸幕府側に有利とはいえ、250年以上に亘る鎖国政策を続け平和な時代を過ごしていた江戸幕府と、独立以来戦いの連続の中に身を置いていた米国との間の戦争技術・武装の差は歴然であった。

9月には新潟に上陸したアメリカ軍主力部隊の侵攻にあっという間にその占領地を広げられ、1868年11月にはついに江戸幕府も降伏。

江戸と中国四国・九州以南、北海道の一部のみを残しアメリカ主権連合国に領土を奪われた江戸幕府は、以来、東アジアの雄の一角としての地位を永遠に失ってしまうこととなる。

 

しかし、東アジアの混乱はこれだけに収まりはしなかった。

 

1869年3月。

今度は清で、大規模な農民反乱が発生!!!!

満州人の皇帝による専制政治に反発する各階層が結集し、関納蘭(グアン・ナラン)を旗頭に一斉に蜂起することとなった。

上海を中心に勢力を広げ財を成した実業家の関納蘭は、アヘン戦争以来西欧人の言いなりになる清皇帝の弱腰と政府による重税、地方での汚職の拡大に対する民衆の不満の受け皿となり、「革命」の精神を育み、勢力を拡大していった。

 

捻軍と呼ばれる遊民の武装勢力が手ごわく、モンゴル人の勇将センゲリンチンも敗死するほどの苦戦を強いられた清軍だったが、やがて曾国藩を始めとする漢人の有能な将軍たちの活躍で徐々にその占領地を広げていく。

弱体化した清朝軍に代わり「湘軍」を組織して農民一揆に対する軍事的成功を重ねていく。彼を信奉する漢人兵士たちの数も増えていくが・・・。

 

だが、そこにさらにもう1つの「混乱」がやってくる。

今度は朝鮮が舞台であった。

 

 

1869年6月。

40歳を迎えていた憲宗王は李是応と文首相と共に更なる改革として「制限選挙」の制定準備を進めていた。選挙を導入し、民主的な議会を設立。より一層、両班たちの権力を削ぎ落そうとする狙いであった。

両班たちは当然反発するも、その勢いは相変わらず蜂起に至るほどのものではなく、「結局は何もできまい」と憲宗たちは高を括っていた。

基本的にはこの右下の数字以上には進捗はたまらない。但し革命中イベントの選択肢によってはその限りではないため注意。

 

しかし、同年8月。
それまで兵曹判書(国防大臣)を務めていた「保護主義者」の閔氏が53歳で急死。

代わって「権威主義者」の烉朴(ファン・パク)が軍部内で影響力を高めていく。

すると、これまでは様子見状態にあった軍部の支持が一気に両班側に傾き、革命軍の勢力が急激に拡大することとなった。

もはや、内戦は不可避。

憲宗と李是応はすぐさま戒厳令を発布し、最新の武器をロシアやイギリスから輸入。国王派の軍隊へと配布していく。

そして同年10月8日。

ついに、両班・兵曹連合勢力が北方の両西関北を根拠地として一斉蜂起。

朝鮮半島は南北に分断され、大規模な内乱(己巳事変)が勃発した。

首謀者は安東金氏の「金龔(キム・ゴン)」。憲宗らによって追い落とされた安東金氏とこれを支持する両班・軍部勢力による大々的なクーデターとして巻き起こった反乱であった。


自身も農民反乱に襲われている最中であった清はすぐさま憲宗ら体制派への支持を表明。前面に立って反乱軍への対処を引き受けてくれる。

反乱軍は北からは清軍5万、南からは国王軍1万5千に挟み撃ちされる形となり、降伏は時間の問題であった。

そして1870年8月7日。

開戦から1年もたたず反乱軍は完全降伏を認め、分裂した南北朝鮮は無事、統一を取り戻すことができた。

しかし、この「朝鮮内乱」は、1867年の米江戦争勃発以来続く「危機の時代」の最終局面を導く、「最後の一押し」となったのである。

 

1870年8月25日。

1年半に及ぶ中国農民一揆もついに降伏し、清でも内乱が終結する。

しかし、この自国内の内乱への対応、および朝鮮半島での内乱への対応によって、清王朝の権威は大きく揺らぐこととなる。

とくに江南で農民反乱への対処に直面した曽国藩ら漢人の軍部指導者たちは少しずつ中央政府への不満を蓄積していき、やがて1870年9月2日。それはついに致命的な形で爆発することになる。

 

すなわち、中国の大分裂

清皇帝咸豊帝が反乱鎮圧支援に感謝する朝鮮王の歓待を受けるべく奉天へと向かっている間、留守となった紫禁城を漢族の将軍・聶王(ニー・ワン)が攻め、これを制圧。漢族の共和制国家としての「中華民国」の建国を宣言した(庚午革命)。

安徽省合肥出身で先の農民一揆の鎮圧においても活躍。センゲリンチンを戦死させた強力な「捻軍」を曽国藩と共に撃退し、「バトゥル」の称号を得るほどの英雄となった。

 

軍部を取り仕切る曽国藩がこれを支持しており、反乱鎮圧の手段を失った咸豊帝はそのまま満洲地方を治める皇族の瑞鄧(ルイ・ドン)に匿われる形に。

清王朝創始者である太祖ヌルハチの14男ドルゴンから連綿と続く「瑞王子(第一瑞王子)」一族の末裔。庚午革命勃発当時、満州の支配を任されていた彼が、図らずとも帝権の擁護者となった。

 

聶王は中国全土に自らが正当な政権であることを宣言するも、中国各地の省はこれには従わず、次々と軍閥が群雄割拠する大分裂時代を迎えたのである。

この混乱の中で、当然これまでの主従関係が維持される道理はなく、意図せず朝鮮国は「独立」を果たすこととなる。

とは言え、全く思いも寄らぬこの独立は、同時にこれまでの経済発展の頼みとしていた中国の資源そして需要を失うことを意味しており、朝鮮国は一気に絶望的な恐慌状態を味わうこととなった。

資源も市場も失い、首都・漢城の各種工場も稼働が停止したことにより、賃金が支払われなくなった朝鮮の資本家たちは軒並み貧困へと落ち込み、国家は一気に混乱状態へと陥った。

 

これこそが、第24代朝鮮王・憲宗が直面する真の「危機の時代」。

果たして、彼はこの危機を乗り越えられるのか。

そして混乱する東アジアの中で、朝鮮国は本当に永遠の繁栄を手に入れることはできるのか。

 

第2回に続く。

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