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【CK3】江戸城の主・転 道灌超ゆる者・太田資房(1496-1534)

 

文明十一年(1479年)。

すでに管領・細川勝元らの反乱や、側近・伊勢貞親の裏切りもあり、その権威を大きく失墜していた室町幕府は、越後上杉家当主・上杉顕定が中心となった大規模な反乱により、その命脈を実質的に絶たれる事態に陥っていた。

天下はこれを統率する主君を失い、「戦国時代」に突入。

大義も名分もなく、力ある者が覇権を握る混沌の時代の中で、日ノ本の各地では少しずつ頭角を現す諸勢力が形成されつつあった。

 

そんな折、中央同様に長きにわたる闘争と混乱に明け暮れていた関東では、元の主君・上杉氏を打倒し下剋上を実現した太田道真道灌父子が台頭していた。

新勢力の登場に対し、旧勢力の代表たる越後上杉家は、武田今川と結び「包囲網」を形成し、これに対抗せしめんと画策。

対する太田も宇都宮・斯波・畠山と結び対抗同盟を形成した末に、文明十七年(1485年)に両者はついに激突。

軍事の天才、太田道灌による「海野夜戦」と「五ヶ国崩し」によって武田・今川は次々と降伏し、翌文明十八年(1486年)には越後上杉家も降伏。

越後から関東に至るまでの大勢力を築き上げた太田氏は、まさに日ノ本随一の勢力を誇る存在へとのしあがったのである。

 

明応五年(1496年)の道灌の死により、この大帝国を継承したのが彼の嫡子・太田左馬助資房

柔和な笑みの奥底に、誰にも窺い知られぬよう秘められし大いなる野望は、この一族にいかなる運命をもたらすことになるのだろうか。

 

史実から大きく一歩を踏み出すこととなる、Crusader Kings Ⅲ AAR/プレイレポート第8弾Shogunate「太田家」編第3回。

 

乱世の中で、太田の一族もまた、大きな「転換期」を迎える。

 

Ver.1.11.3(Peacock)

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目次

 

前回はこちらから

suzutamaki.hatenadiary.jp

 

道灌超ゆる者

名声の影

明応五年四月(1496年6月)。

二ヶ月前の道灌の死を追うようにして、資房の義兄*1であり、尾張守護・幕府三管領家の一つでもある斯波武衛家の当主・斯波義寛が亡くなった。戦に伴う野営の最中における突然の病没であったという。

その戦とは、このおよそ一年前から始まっていた、織田伊勢守家当主・織田信幸とその弟・光信による反乱への対応であった。

元々、尾張守護代の地位を世襲し、織田氏総領家の立場にあった伊勢守家だが、信幸の父である織田敏広が、斯波義寛と武衛家当主の座を巡り対立していた斯波義廉を支援する立場を取っていたため、義寛を支援する大和守家当主・織田敏定によって打倒され、総領家の地位も奪われる結果となってしまっていた。

今回の信幸の反乱は、父の代に奪われた彼らの家の権威と地位の回復を目指したものであり、あわよくば尾張乗っ取りを画策したものであった。

しかしこれを、斯波家の同盟国である太田家が、同じく同盟国である武田家と共に支援。

同年九月(1496年11月)には反乱軍側の敗北で決着が着き、信幸・光信兄弟は投獄され、伊勢守家の勢力は地に堕ちることとなったのである。

 

「――左馬助殿、此度はどれほど感謝しても仕切れぬ。我が父・義寛も貴殿が父・道灌殿に随分と世話になったと聞いていたが、こうして父子二代に渡る両者の信頼関係の構築、誠に喜ばしいことである」

広間へと資房を招いた義寛の嫡子・現斯波武衛家当主・斯波義達の言葉に、資房はいえいえ、と謙遜しながら応える。

「こちらこそ、先の越後上杉家との戦争においては、武衛殿のお力をお借りし、見事勝利することができました。此度は太田家として、その際の借りをお返しするための参戦であり、実際にお力になれたのであれば実に幸いです」

柔和な笑みで遜るようにして言い募る資房。

「本来は、武衛殿の悲願であった越前の奪還をこそ、お助けできればと思っていたのですが、かつて貴家から越前を奪った麻柄家は、吉野を追われた南朝の末裔にその越前を譲り渡す形で庇護を求めてしまい、とてもではないが我らには手出しできなくなってしまいました」

南朝最後の天皇・後亀山天皇の皇統たる小倉宮家の末裔。その二代・聖承の子にして三代・教尊の弟である。史実では教尊を最後に絶家となるこの小倉宮家だが、この世界ではこうして越前の地を手に入れ、悲願の南朝復活を画策することとなる。

 

「うむ、左馬助殿の仰る通りだ。我もこのような状況で越前を取り返せるとは思わぬ。それに、父は越前奪還に並々ならぬ熱意を持っていたが、我はそこまでこだわってはおらぬ。我は尾張で生まれ、尾張で育った。尾張より外は殆ど見たこともなく、当然越前など話でしか聞かぬ。そこには憧憬は抱くことはあっても、郷愁を覚えることはない。まずはこの尾張を無事、平定してからだ。のう、大和守殿?」

義達に振られ、広間の脇に控えていた尾張守護代・織田大和守家当主・敏定が頷く。

「ええ、御屋形様。我々はこの肥沃な尾張にて新たな斯波家の繁栄を現実のものとするのです。御公儀が乱れる中、我々は我々で、新たな時代の生き方を学んでいく必要が御座います」

敏定の言葉に、うむ、うむと頷く義達。「いずれにせよこれからも固く結ばれ続けようぞ、左馬助殿。頼りにしておるぞ」

 

広間を辞し、帰路に着くべく廊下を歩いていた資房に、背後から声がかけられた。

「左馬助殿、少し宜しいですかな」

振り返ると、そこには先ほども座敷にいた織田敏定の姿。

「此度の内乱、改めて助力を感謝申し上げる。さすがの太田軍、実に精強にて我らが軍としても学ぶところの多い戦いでした」

「いえいえ、私などは安全なところでただ指示するのみであり、戦地にて実際に采を振るったのは父の武才を受け継いだ弟の源六郎。私は父のようにはいかぬものです」

史実における道灌の嫡子・太田資康。ゲーム中では彼より先に架空人物の資房が生まれたため、家督は資房が継ぐこととなった。なお、史実ではこの資康の別名等は遺されていないため、源六郎は架空の別名である。

 

「御謙遜を。確かに道灌殿は軍事に内政にと類稀なる才をお持ちの偉人で御座いました。ですが、左馬助殿には道灌殿をも超ゆる知略と、広き視界をもお持ちと理解しております」

敏定の言葉に、資房はやや自尊心をくすぐられ、この男に興味を持ち始める。

「――して、左馬助殿。そのような広き視野をお持ちの左馬助殿は、今後如何様な野望をお持ちで?」

資房に身を寄せ、心なしかやや声を顰めて尋ねる敏定。その目も細められ、鋭く敏定を射抜こうとする。

「・・・野望等と。拙者はただ、偉大なる祖父・父より継承されし大国を、維持し、繁栄させるのみと」

「ほう、左様で御座いますか」

敏定は驚いたように返すが、その表情には何も驚いた様子は映っていない。口元には笑みが浮かび、貴様の胸中はすべてお見通しだぞと言わんばかりの迫力で資房を見やる。

「先達ては前将軍・義政公が暗殺され、その弟君たる義視殿も討ち死に。同じく弟君である政知公も捕らわれの身となるなど、御公儀は混乱の極みに」

勝元公亡き後、細川京兆家を相続した嫡男の政元公は、畿内から伊勢貞親とその嫡子・貞宗殿を追放し、弱体化した将軍家を実質的に乗っ取っており、半将軍などと呼ばれさえする状況」

「貞宗殿は細川氏と対立する畠山氏のもとに落ち延びましたが、その畠山氏も、豪傑・義就殿が十年前に没し、その嫡子・義純殿が後を継ぐものの、その勢力はこれも明らかに弱体化しております」

「・・・何が言いたい?」

「左馬助殿であれば、ここまで言えばご理解もしているでしょう」

敏定の笑みが広がる。

「関東越後を平定し、日ノ本随一の勢力を誇る太田殿。今や、陰ながら頼朝公の再来として、戦乱の混沌に飽く民草の希望となっております。天命下される頃合かと存じますが、如何に――?」

 

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明応六年(1497年)春。

江戸に戻った資房は、尾張であの守護代に言われた言葉を脳裏で繰り返していた。

頼朝公の再来、道灌を超ゆる者――あの男はひたすらに口賢しく、その言葉全てを信じるに値しないことは当然、資房も理解していた。あの男には何らかの意図があり、それが為に資房を利用しているのだということも。

それでも、あの男は資房の内心を正確に見抜いていた。

「大殿様、宇都宮明綱もついに降伏を受け入れ、館林城の門を開くことを決断しました。間も無く、その身柄は江戸に運ばれてくるとの由」

広間に入ってきた太田家家宰・長尾顕泰は、てきぱきと関東北部の情勢を報告する。祖父・父と二代に渡り仕えてきた家宰・長尾忠景の後継者である。

かつて太田家の信頼する同盟国であった宇都宮家は、その当主で傑物であった等綱の死後、激しい家督争いが勃発。拡張された宇都宮家領はそれぞれの請求者同士で分割され、互いにそれぞれの国人たちを味方につけて内戦に突入した。

太田家当主となったばかりの資房は、その中でも早くに恭順の意を示してきた宇都宮家の遠縁である芳賀正綱を支援。宇都宮氏宗家を倒し、正綱を新たな宇都宮家当主にすることを引き換えに、宇都宮家全体の太田氏への臣従を認めさせることとなったのである。

この政策は成功し、宇都宮家も含めた関東全域が関東管領の直接の支配下に入ることとなった。ここに、太田家による関東支配は完成に至ったのである。

「何たる僥倖。道真様が産み、道灌様が育てたこの太田家の栄誉を、大殿様が完成させたというわけですな。その繁栄を我が目で捉えられること、実に喜ばし。我が父より太田家に仕える選択をしたこと、間違っていなかったと確信しております」

「そうだな・・・」

顕泰の言葉を受けながら、資房は暫し、思案した。

「なあ、顕泰よ」

「は、何で御座いましょう」

自身の思惑と異なりご機嫌斜めな主君の様子に、顕泰は少し緊張して応える。

「率直に、貴殿はどう思う? 我は祖父・道真公と父・道灌公と比較し、果たして本当に偉大と言えるのか? 偉大なる祖父・父の遺した遺産を、ただ単に積み上げるだけで終わり、これを超えることはできていないのではないか?」

「め、滅相も御座いません」

顕泰は慌てて、頭をフル回転させながら、言うべき言葉を探す。

「確かに道真公、道灌公はこの世に二つとない偉大なる御身。然して、その両者より才を受け継ぎし大殿様もまた、余りにも偉大なる御仁にて・・・」

「――結局は、我は太田を受け継ぎし者に過ぎぬと言うわけだな」

語気を鋭くした主君の言葉に、顕泰は喉が閉められたかの如く言葉を失い、顔面が蒼白になる。

「我は我だ。道真の孫で、道灌の子である前に、我は太田資房という一人の男だ。そうではないかね?」

「は、はは――」

平伏する顕泰。やおら立ち上がる資房。

「決めたぞ。我は新しき世を創る。そうしてこそ、真に祖父公・父公をも超ゆる存在とならん。――寅丸をここへ呼べ」

 

文亀の政変

「――お呼び致しましたか、叔父上」

資房の命により江戸城に呼び出されたのは、かの足利義政の弟・足利政知と資房の姉である環の間の子である寅丸(のちの足利義澄)。元々父母と共に京にいたが、近年の京の混乱を避けるべく、母と共にこの江戸へと逃げ延びていたのである。

「おお、寅丸。少し見ぬ間にまた立派になったように見える。母上も息災かね?」

「ええ、本日も共に来ております。後ほどご挨拶させて頂ければと申しておりました」

少し緊張した様子の甥を安心させるべく、いつも以上に柔和な笑みを広げながら、資房は彼に語り掛ける。

「貴殿が父、政知公は未だ京にて囚われの身。今は貴殿が従兄たる義尚公が将軍職に就いてはいるものの、その実権は管領・細川政元によって傀儡とされているが如く。

 足利の血を引くものとして、この状況を如何に思う?」

資房の質問の意図を図りかね、寅丸は警戒心と共に沈黙する。京にいた頃から常に肩身の狭いを思いをし続けた彼にとって、不用意な発言は身の危険を招きかねないことを、身に染みてよく知っていたのである。

「ご安心めされよ、甥御殿。ここに貴殿の発言を取り上げて謀反だの何だの言うような輩はおらぬ。京と違い、この関東は我らが太田家によってよく統治され、安定しておりますゆえ。すべてが一枚岩で、殿を惑わすようなものは御座いません」

殿、という言葉に寅丸の方が小さく震えた。資房はそれを見逃さず目を細め、傍らより一枚の鏡を取り出して資房の前に差し出した。

「この唐鏡をご覧じられよ、殿。そこに映る瞳の奥に、ひとかけらの野心すらもないと仰られるか? もしも、もしも――殿がお望みとあらば、この太田資房、日ノ本に座する足利家に忠実なる臣民の一人として、世の秩序を正常なものへとお戻しする助けとならんことを誓いまする」

「そ、それはつまり――」

寅丸が動揺を露わにした表情のまま、水を求めて乾く旅人が如く口を開く。

「ええ、寅丸様。京を正しき足利家のもとへと取り戻してみせましょう。もちろん、すぐとはいきませぬが。然るべき時を見つけ、そのときは我が身、全力でお力をお貸しいたします」

 

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「――左馬助、寅丸に随分と余計なことを吹き込んだようだな」

寅丸が辞したのちの広間に、今度は一人の女性が入ってきた。

資房の姉で寅丸の母である円満院(太田環)である。祖父譲りの管財の才能と父譲りの勇敢さとを併せ持った、太田家きっての才女でもある。

「余計な事? そうでもないだろう。事実、京は混乱に満ちており、そなたの夫もまた、囚われのまま命を終えようとしている。このまま、寅丸に無為な人生を過ごさせる気か?」

「・・・左馬助。お前は何を求めているのだ? この関東を良く統治する、それだけで事足りるではないか。宿敵の上杉もすべて臣従し、危険はない。関東の各地では市が開かれ、街道の安全が確保されたことで、各地の宿場町も発展してきておる。国も民も潤ってきている中、これ以上、何を求めるというのだ?」

「そなたには、分からぬのだ。かの太田道灌の後継者であるということの意味、その重圧を」

資房が普段の声色よりもずっと暗く押し殺したような響きでそう告げたとき、円満院も思わず怯む様子を見せた。

「私は太田道灌を超えねばならぬ。その為に、利用できるものはすべて利用する。姉上、例え我が道を邪魔建てするつもりであれば、姉上であっても許し難きぞ――」

 

かくして、資房は「そのとき」を迎えることとなる。

 

文亀元年十一月八日(1501年12月28日)。

京の地で軟禁状態にあり続けていた足利政知が、ついにその生涯を閉じることとなった。

これにより、政知の子・寅丸の請求権を獲得した資房は、早速「細川吉兆家の傀儡となっている現将軍を廃し、相応しき将軍の下、京の秩序の回復と足利将軍家の権威の再興を果たす」という大義名分の下、ついに「上洛」を開始した。

当然、この事態に、足利義尚の後見人役を務めている細川政元はすぐさま反応。参戦を決定する。

対する資房の方も事前に対策は講じていた。

元々の同盟国たる畠山氏はもちろん、六角氏なども服属させて南近江までを支配圏に収めている畿内随一の勢力・北畠氏とも婚姻による同盟を結び参戦依頼。

こうして太田家主導による政権奪還戦争「文亀の政変」は、日ノ本を東西に分ける壮大な大戦争へと発展したものの、総兵力で言えば太田率いる東軍が、細川率いる西軍に対して2倍近い差をもっての優勢で開幕したのである。

 

文亀二年九月三日(1502年10月13日)の夕方、日が沈み始める頃を見計らって、北畠家の勢力圏であった延暦寺方面から、東軍(太田・北畠連合軍)6,400が一気に京都市内に侵入。

花の御所(室町殿)に待機していた西軍(足利・細川連合軍)4,700はすぐさまこれを迎え撃ち、花の御所に近接する相国寺にて最初の激戦が繰り広げられることとなった。

 

数的には圧倒的有利。

しかし、襲撃に備えて存分に要塞化された相国寺の守りは硬く、また東軍の総指揮を任された北畠材親は無謀な突撃を指示するばかりで、戦いは次第に東軍の損耗が増していき、劣勢へと傾きつつあった。

このままでは敗北、撤退もありうる・・・と東軍側が危機感を抱き始めたところで、相楽郡など京南部の制圧を進めていた畠山軍2,300が援軍として上京入り。

これで形勢は逆転。なおもこちらの損害は敵以上に増えていくものの、数の差はより圧倒的になり西軍側の逆転の目は潰えていく。

最終的には東軍側に内通した相国寺の僧によって寺に火をかけられたことにより、たまらず西軍側は退却を決定。

最終的に九月四日(10月14日)の明け方には決着が着き、東軍側は多大な犠牲を払いながらもまずは緒戦の勝利を得るに至ったのである。

東軍において最も活躍し、多くの首を獲った武将は、資房の弟の資康、次いで資房の従弟である太田興仙である。宍戸元家の嫡男で史実ではのちに司箭院興仙として名を馳せる男だが、この世界では道灌の弟の資顕の養子となっていた。

 

その後、優勢を手に入れた東軍はそのまま花の御所、そして西院といった重要拠点の包囲を開始する。

途中、舞い戻ってきた足利軍によって上京が再び襲撃される恐れを受け、西院包囲を行っていた北畠軍が上京の防備へと回った隙を突いて、手薄となった西院包囲軍に対し細川軍が襲撃を仕掛けるという場面も。

しかしこのとき西院を護っていたのは太田家が誇る最高の軍師かつ武将である弟の資康。

数的劣勢にも関わらずよく耐え、最終的には上京で足利軍を跳ね返した北畠軍・畠山軍の援軍が到着したことで形勢逆転。

最終的には西軍により大きな損害を与える形でこの「西院の戦い」も決着。

最終的には文亀三年二月(1503年3月)にこの西院が陥落。花の御所の陥落も時間の問題であり、この「文亀の政変」は問題なく東軍の勝利に終わるだろう、


と、思っていたが――。

 

文亀三年四月二十五日(1503年5月30日)。

京で花の御所包囲の陣頭指揮を執っていた資房の元に、早馬で急報が届けられた。馬を乗り潰し、飲むものも飲まずといった様子で現れたその伝令にまずは水を飲ませ、資房は報告を聞いた。

「あ、顕泰様より急報――関東にて、反乱が発生致しました! その首謀者は上総・下総・常陸に二十所領を有する我が国随一の家臣たる千葉胤季様にて候! その総兵力は残された関東管領軍の総数を上回るものとなっております!」

 

――太田家最大の危機が、今、幕を開ける。

 

関東動乱

「――そうか。そうか、そうか。相分かった。すぐに対応を取る故、兵には一同、関東への帰陣の準備を指示せよ。また、尾張の斯波氏にも伝令を送り、支援の要請と馬の替え、食料の準備をさせるよう依頼し給え」

表情一つ変えず、淀みなく指示を与え始める資房。これを受けた家臣たちは驚くと共に、一様に安心感も覚えていた。

さすが資房殿、このような危急の事態であっても狼狽することなく、的確な指示を出すことができるのだ。それでこそ、「賢者」と称されるだけの傑物というもの――家臣たちは安堵し、そして自信をもって指示された作業へと取り掛かり始めた。

一方、陣幕の中へと入り、一人となった資房は、周囲に気付かれないように慎重に深く大きな溜息を吐いた。その顔面は蒼白で、脂汗がびっしりと額、こめかみに張り付き、心臓の音は自分の耳に届かんばかりであった。

何たる悪機――寧ろ、この事態を予見し、対策をできていなかった自分自身に対する怒りこそが、次々と湧き出てくる。こんな時、我が父道灌ならばどのように――

 

いや、違う。

我が――「太田資房」が、この難局を乗り越えねばならん。

膝を叩き、額の汗を拭い、呼吸を整えると、資房は陣幕の外へと声を掛けた。

「成綱! ――成綱は、おるか!」

「ここに」

陣幕へと入ってきたのは、元宇都宮家家臣で、先の宇都宮御家騒動の際には芳賀正綱と共に早々に太田家への臣従を受け入れて所領安堵された宍戸成綱であった。温和でお人好しなその性格から表情には常に笑顔が張り付いているような男だが、人の心の機微を感じ取り物事をコントロールする術においては、資房の最大級の信頼を置く男であった。

「既に聞いているとは思うが、関東で大規模な反乱が巻き起こった」

「ええ、愚かにも芳賀家の者もこれに加わっているとか」

「ああ。正直なところ、非常に苦しい状況であることは間違いなく、すぐにでも太田家全軍を関東に引き戻す必要がある。だがもちろん、そんなことが義尚・細川に知られてしまえば、あと一歩で実現する西軍の降伏は反故となり、むしろ関東の反乱軍と共に手を組み挟撃の形に曝されることになるだろう。そうなればすべては終わりだ」

宍戸は笑顔のまま無言で頷く。表情は変わらないが、彼が一言一句聞き漏らすまいと真剣にこれを聞いているのはよく分かった。

「そこでお前に命じる。今すぐに花の御所へ向かい、義尚に降伏を迫る交渉を行え。奴らは既に兵はなく、抵抗の余力も残されておるまい」

「右京兆殿はまだ抵抗するつもりはあるだろうが、それよりも先に義尚との単独講和へと何とか持ち込むのだ。――時間がない。関東の動乱のことを義尚が知れば、講和に応じることはないだろう。時間との勝負だ!」

「は!」

力強く成綱は頷き、すぐさま立ち上がると陣幕を飛び出ていった。

その首尾を待つ間、各地に放っていた遣いからの情報を収集し、状況を精査し始める。

しかし集めれば集めるほど、状況がいかに絶望的であるかを思い知る状況ともなっていた。

 

まず、反乱軍の内訳としては、最大の勢力はもちろん、反乱の中心となっている千葉胤季。父・胤宣の頃から太田家に仕える家内最大勢力であったが、その実力故に父の頃から度々反旗をちらつかせる様子を見せており、故に各種要職や領土の分与を行わざるを得ず、そのことがまた彼らの勢力を拡大させる要因となっていた。

逆に言えばこの千葉氏以外の勢力は大したことはない。会津を中心に勢力を誇っていた葦名氏や信太郡の土岐原氏、そして宇都宮家の家督を渡したことで臣従を誓ったはずの芳賀正綱の息子。これらは千葉さえ崩せれば、いかようにもなる小勢力たちばかりである。

ただ、これに対抗する太田軍側が心許ない。越後上杉家も大規模な内乱が発生しており、主家を守るどころではない。

頼みの綱の同盟国・今川武田は、今川から仕掛ける形で戦争中。こちらも太田家の内乱に付き合っている暇はないだろう。

当然、反乱軍側もこの機を狙っていたのは間違いないだろう。

とかく、すぐさまこの内乱を収め、北畠・畠山らと共に関東へ向かうほかない。

 

そして、四月三十日(6月4日)。成綱は見事、成し遂げてくれた。義尚が降伏を受け入れ、将軍職を弟の寅丸に譲ることを認めたのである。

当然、この突然の降伏に、細川氏は納得しないだろう。それに、彼らはすでに関東の動乱について情報を得ている可能性はある。

畠山にはこの京周辺の警護を任せ、北畠家と太田家のみで、遥か関東へと「大返し」を行うこととなった。

 

とは言え、関東は遠い。

彼らが能う限りの全速力で東へと向かっている間にも、江戸城は包囲され、陥落間近となっていた。

そして文亀三年十月二十五日(1503年11月23日)。

甲斐を抜け、今まさに関東へと入らんとしていた資房ら一行のもとに、江戸城の陥落とそれにより資房の妻子らが敵方に捕えられたとの報を受ける。これを守ろうとして命を落とした廷臣たちもいるという。

この報せを受けた資房は、さすがにここでも兵たちの前で冷静さを保つことはできなかった。肩を震わせ、暫しの沈黙ののちに、多くの者が見たことのないような憤怒の形相で、彼は告げた。

「良いだろう――胤季。撫で斬りにしてやる。覚悟するが良い」

 

そして永正元年(1504年)春。立川城を包囲する反乱軍4,700に対し、太田・北畠連合軍6,400がついに姿を現し、これを強襲する。

資房は兵の少なさを補うべく、傭兵団の「上野国衆」を雇用。

その頭領である「房顕」なる男が「名将」として名高いとのことで、これを指揮官として「立川の戦い」へと挑む。

まずはこの緒戦で勝利した太田軍。その勢いで敗残兵たちを追っていく。

永生元年六月十一日(1504年8月1日)。信太の地にて追い詰め、これを再び敗北させる。反乱軍側は、その頭目の胤季を負傷させられるなど、次第に状況を悪化させていくこととなる。

十月二日(11月18日)には千葉郡・小弓にて三度目の会戦。ここでも難なく勝利。

この戦いでは反乱軍側についていた叔父の顕清を戦いの中で討ち取るなど、一族にとっても痛みのある結果となった。

そしてこの戦いの後、千葉氏本拠地の上総への道を開いた太田軍は、その居城・真里谷城を包囲。

2ヶ月に及ぶ攻城線の末にこれを落城させ、胤季の息子の綱胤を捕虜とするなど、先の江戸城陥落に対する意趣返しを行う。

いずれにせよ、これで反乱軍側は抵抗する気力を失うことに。

永生元年十一月二十九日(1505年1月14日)。

反乱軍は降伏し、胤季を始めとした各反乱者たちは皆、投獄させられることとなった。

千葉胤季は領地取り上げのうえ、斬首刑に処された。その他の反乱者たちも概ね同様の対応となる。

 

これでひとまずの混乱は収束。

この間、京での細川氏の政権奪還の動きもなく、ついに「来るべき時」が来ることとなる。

 

――すなわち、幕府の再興である。

 

 

江戸城の主

永正の乱

永正二年(1505年)春。

関東の動乱の平定から約三ヶ月。ようやく落ち着きを取り戻した太田資房は、京に戻り、保留状態にあった寅丸の元服・将軍宣下の儀式を執り行うことに決めた。

まずは二月二十日(4月4日)に後柏原天皇が宸筆を染め、寅丸に義澄の名を賜った。次いで二十六日(4月10日)に従五位下・左馬頭に叙任された上で元服式が行われ、烏帽子親を資房が務めた。理髪役・打乱役などの諸役は、将軍就任に功あった畠山・北畠家の一門が務めるも、全体としては資房率いる太田家が主導権を握り進められていった。

そして三月六日(4月20日)に将軍宣下が行われ、その即位式には畠山、北畠のほか斯波家、織田家、今川家、武田家、上杉家といった太田家と関係の深い一門ら、及び太田家の面々が列席した。

その一方で細川家はもちろん、かつて将軍側近やその縁戚として権勢を奮っていた伊勢家や日野家の姿は見当たらず、中央政府の関係者一同の情勢変化を印象付けるものとなったのである。

そして、征夷大将軍・足利義澄が誕生した*2

 

「実に立派なお姿。母君も喜んでおられるでしょう」

資房の言葉に、将軍・義澄は「うむ・・・」と煮え切らぬ様子で答える。しかし資房はそれを特に気にすることなく続ける。

「とは言え、公方様。それほど呑気に構えていられるわけでも御座いません。今や武田も含め天下は広く再び足利の権威の下に服しましたが、その中には関東を中心に再度独立を考える輩が多く潜んでもおります」

「もちろん、これは私がすぐさま関東に戻り対処致します。その代わり、その後の仕置きについては、私に一任して頂けますでしょうか」

前のめりに迫る資房に、義澄はただ頷くほかなかった。

「ありがとうございます。是非とも公方様のご期待に応えさせて頂きましょう。関東は我に任せ、公方様はここ京にて畿内及び西国に睨みを利かせ給え。そうそう、我が配下の興仙山科に残し、公方様の支援に当たらせますので、ご安心ください」

のちに山科探題と呼ばれることになるそれは、明らかに太田家による足利将軍に対する「監視役」であったが、もちろんこれも、義澄に拒否権などなく、受け入れるほかなかった。

かくして、永正二年五月十四日(1505年6月25日)。資房の予見通り、幕府の「解体」を目論む勢力による「永正の乱」が勃発。

その内訳は以下の通りである。

 

まずは、山内上杉家第13代当主・上杉憲英(のりひで)25年前に不審な死を遂げた上杉周清の孫にあたる。

当時重なった悲劇により一時期弱体化していた山内上杉家だったが、その後の文明の役によって越後上杉家が、関東動乱で千葉氏が相対的に力を失っていくのに合わせ、関東の中で徐々に力を取り戻し、今や関東管領配下の中で最も大きな勢力を持つ存在となっていた。

そして越後上杉家八代目当主・憲春(のりはる)上杉顕房の子で、彼もまた20年前に道灌に敗れ失意のうちに没した父の借りを返すべく執念を燃やしていた。

この両上杉家の勢力に加え、まさかの腹違いの弟である太田刑部少輔景資(かげすけ)までもがこの反乱勢力に加わる。

越後から相模にまで至る、総兵力7,000超の大規模反乱軍。

一方の資房も同盟国の北畠家の力も借りながらこれに対抗する。

景資の本拠地である埼西で繰り広げられた激戦では、弟の資康(すけやす)が率いる4,000の部隊が反乱軍の6,000の部隊を撃退。

この戦いで扇谷上杉家の現当主・憲広(のりひろ、顕房の子)が捕えられたほか、翌年春には山内上杉家の本拠地・緑野郡の平井城を陥落させ、憲英の嫡男である憲寛を生け捕りにするなど、終始太田家側の優勢で推移していった。

そして永正三年五月二十五日(1506年6月26日)。

資房の政治力と資康の軍事力。道灌の才を受け継ぐ兄弟の卓越した対応によって、両上杉家による大規模反乱はわずか1年間で鎮圧されることとなった。

そして、資房はこの反乱者たちからその領地を取り上げ、功あった者たちに分け与えていく。

まずは越後上杉家当主から越後守護職を奪い、彼の元家宰だが今回の乱においてはすぐさま資房に協力姿勢を見せた越後長尾家当主・長尾能景に宛がう。

そして山内上杉家から奪い取った上野国は「年下の叔父」太田右馬頭能資(よしすけ)に与える。

太田軍最高の指揮官たる弟の太田民部大輔資康には扇谷上杉家や上総の一部領土などを分け与え、その勢力をさらに拡大させた。

なお、反乱に加わっていた腹違いの弟・景資は、以後太田一族として持つ領地に関する権利をすべて放棄することを条件に、埼西郡の剥奪のみで許され、解放されることとなった。

その他、同様に反乱に与した勢力の領地を取り上げては、資房に味方した勢力へと再配置していく、この「国分け」を、関東限定とはいえ、将軍の意向を無視して独断で実行に移すことができたという点で、資房の幕府内における権力は圧倒的なものがあった。

さらに、そのことを象徴する出来事がもう1つあった。

 

真の支配者

永正五年八月(1508年9月)。

京に滞在していた資房のもとに、突如、朝廷からの遣いがやってくる。

その内容は、未だ越前の地に勢力を構え、南朝復活を目論むその末裔たちの打倒。

前将軍・足利義尚とその側近であった細川政元にも同様に依頼をかけていたようだが、彼らはこれを聞き入れることがなかったようで、今回も将軍ではなく直接「実力者」たる資房のもとに依頼に来たというわけだ。

 

資房はこれを好機と捉える。越前は、畿内における経済的・軍事的最重要拠点の一つ。ここを直轄地とすることで、畿内西国危急の折には如何様にも対応が可能となる。これまでは南朝とはいえ皇族に手を出すことは憚られていたが、朝廷の望みであれば遮るものは何もない。

そして何より、朝廷が将軍を飛び越えて直接自分に依頼してきたことは、今後の権力掌握における大きな一歩となることは間違いない。

資房はすぐさま軍を動員し、越前に対して侵攻を開始する。

 

「・・・なんだと・・・なぜそのようなことが・・・予は征夷大将軍であるぞ・・・なぜ予に断りなく、家臣たる資房如きが、そのような勝手な真似をしているのだ・・・」

侍従長の報告を聞き、肩を震わせながら言葉を絞り出す将軍・足利義澄。

「上様、お言葉にはお気を付けください・・・もし少将殿の手の者にそのような言い方を聞かれでもしたら・・・」

「なぜ予が奴に阿らなければならんのだッ! その少将という呼び方もやめいッ! 予が奴よりも官位が下だと・・・」

資房は今回の越前侵攻の功を以て朝廷より正五位下・左近江少将の官位/官職を得るに至った。
なお、官位・官職はそれぞれの等級に応じ直接的なボーナスが得られる。官位は上がるたびに月々の威信獲得量が、官職はその種類に応じた能力が合わせて向上する。

 

「落ち着きなさい、寅丸」

激昂する義澄の脇から、凛とした声で諫める者がいた。義澄の母であり、義房の姉でもある円満院(太田環)である。

「お前の怒りはよくわかる。それはここにいるお前の従者たちも皆、同様だ。しかし、冷静になるのだ。我が弟、資房は実に恐ろしい男だ。お前の怒りもすべて、あいつの思惑の通りに違いない。ここでお前が冷静さを失い何か行動を起こしでもすれば、それこそあいつの思う壺。一歩間違えれば、お前の命すら危うくなるぞ」

「しかし、母上・・・」

円満院の強い言葉に、義澄も幾何か冷静さを取り戻す様子を見せるも、なおも納得のいかない様子を見せていた。

「では、どうすればいいのだ・・・予は、予はこのままではただの傀儡ではないか・・・従兄の義尚と何も変わらぬ・・・」

「待つのです」円満院はきっぱりと告げる。

「待って、時を得るのです・・・お前はまだ若い。必ずや、機会は訪れる。その時まで、危うい道を踏み出すべきではない」

 

しかし、その「待つ」ことを、義澄はできなかった。彼は誰に唆されたのか、反資房の派閥を形成すべく書状を送り、行動に移し始めた。

だが、それは当然、すぐさま山科探題の耳に入ることとなる。

 

そして、永正十二年六月二十日(1515年8月10日)。

足利義澄は、酩酊の中に沈み、永劫の中へと旅立つこととなった。

 

「――首尾よくいったな。報酬は弾むぞ」

「は、有り難き幸せ」

資房の言葉に、義澄の侍従長を務めていた家教が平伏する。

「すでに宮廷内では手を回しており、少将殿が新たな将軍・義維様の摂政となることについても誰からも異議は御座いません」

「うむ、我が姉・・・円満院はどうだ?」

「はい。今回のことが余程ショックだったのでしょう。剃髪し、仏門に入ることを決められました。何か行動を起こすことはないだろうと思われます」

「よし・・・なべて、こともなし。

 これにて我が政権、盤石となりし。

 これを以て、我は真に、道灌超ゆる者となりし」

 

江戸の将軍

永正18年(1521年)。

管領・細川政元の死に伴い、新たな管領となったのは細川政房(まさふさ)

男子のいなかった政元が、養子として迎えた足利政知と円満院との間の子であり、すなわち資房の甥にあたる存在。

これを機に、長く対立していた細川管領家との和解も成立。資房の嫡孫・資実(すけざね)と政房の娘との婚約も結ばれた。

享禄元年(1528年)にはこの二人の結婚式を盛大に執り行い、日ノ本各地から数多くの客人が江戸の地に来訪することとなった。

その江戸は開発が進み、今や京都にも劣らぬほどの大都市へと発展。

整備された城下町には「楽市・楽座」令が敷かれ、全国津々浦々の文物が流れ込む一大商業ネットワークの中心地として発展していったのである。

古き都・京に対し、「新しき都」として最新の文物や文化が入り込み形成された「江戸」文化は、関東のみならず日本海側にまで到達する程の勢いで拡大しつつあった。

 

そして政治においても引き続き、この「東の都」の主が、幕府の実権を握り続けていた。

義維はわずか9歳で病没し、新たな将軍として彼の弟の義晴が第11代将軍として即位していたが、引き続き資房が摂政を務め、その関係は彼が成人してからも変わらなかった。少なくとも表向きは、両者の関係は良好である。


この資房の力もあり、彼が主君として擁く足利幕府の名声は全国に轟き、今や奥州の奥地まで、東日本はほぼ全域が幕府の直接影響下に入るまでに権威を回復しつつあった。

もちろん、その権威の実態は将軍そのものにではなく、「関東管領」太田資房にこそあると、日ノ本の誰もが表立っては言わねども理解はしていた。

ゆえに彼は、人々から単なる関東管領ではなく「関東公方」、あるいはより直接的に「江戸の将軍」と呼ばれるようにさえなっていったのである。

 

そして、天文三年(1534年)夏。

 

太田資房はその晩年を迎えており、彼は広間から廷臣たちを皆引き払わさせ、誰一人いなくなったその場所に一人座り、呟いていた。

 

「――父上、偉大なる我が父上よ。

 貴殿が築きしこの江戸城も、今や増改築を重ね、往時の面影は見当たらぬ程。

 如何に、我は貴殿を超えし者か?

 

 我は貴殿よりも遥かに国を大きくし、太田家の名を不動のものとし、天下を牛耳ることに成功した。

 然し如何でか――」

それ以上の問いかけを、資房は口に出さず、吞み込んだ。

 

そのまま同年八月二十日(10月7日)。

「江戸の将軍」太田左近衛少将資房は、その76年の生涯に幕を閉じた。

 

そして新たな「将軍」に、太田武蔵守資政が就任する。

だが、あまりに広大な太田の帝国の継承は、決して簡単なことではなく――彼は即位直後にあまりにも大きな壁に直面することとなる。

果たして、太田家の命運はいかなる結末を迎えるのか。

そして、長きにわたる戦国の世は果たして終焉の時を迎えることはできるのか。

 

次回、「江戸城の主」最終回。

小さき弥陀」へと続く。

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*1:資房の妻は義寛の妹であった。

*2:ゲーム上では、義澄の請求権を使って愛宕郡を手に入れるところまでは一緒だが、その後は資房自らが征夷大将軍となって幕府を開いている。但し物語上では義澄を将軍として擁立し、その配下につく形式を取るため、下記の画像などは物語のために別途撮影したものを使用しているので悪しからず。