室町時代末期。
当時の関東は関東管領に任ぜられた上杉家と鎌倉公方との対立が激化しており、これが上杉方の勝利で終わったのちも、上杉家内での内紛が巻き起こるなど、五十年以上にわたる混乱が続いていた。
この状況を憂えた扇谷上杉家家宰・太田道真は、将軍・足利義政との婚姻を通じた同盟を結び、その関東管領職の獲得を認められた上で、主君・上杉家に対するクーデターを敢行。
文明五年(1473年)、この政変は成功し、ついに「関東不双の知恵者」と呼ばれた太田道真は関東管領の地位を手に入れることとなった。
その道真も、文明七年(1475年)にその64年の生涯を終え、太田家の家督はその子・太田道灌へと継承される。
史実では、上杉家によって暗殺されてしまうこの道灌も、この世界では父の偉業により運命を乗り越えることに。
とは言え、父の後を継ぎ関東管領となった彼の前には、さらなる過酷な運命が待ち受けていたのである。
果たして、道灌はこれを乗り越え、太田家を歴史の渦の中に飲み込ませることなく継承していくことはできるのか。
そしてついに始まる「戦国時代」の中で、どのように生き抜いていくのか。
Ver.1.11.3(Peacock)
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- The Royal Court
- The Fate of Iberia
- Firends and Foes
- Tours and Tournaments
- Wards and Wardens
- Legacy of Perisia
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- Japanese Language Mod
- Shogunate(Japanese version)
- Nameplates
- Historical Figure for Shogunate Japanese
- Invisible Opinion(Japanese version)
目次
前回はこちらから
道灌包囲網
伊勢貞親の乱
道灌の代替わりと時を同じくして、中央政府は大きな混乱に陥っていた。
すなわち、将軍・足利義政に対する大規模な反乱の勃発。
そして、その反乱の首謀者となっていたのは、義政の育ての親であり、最も信頼する側近であったはずの伊勢貞親。
その兵力は7,000を超え、とてもではないが義政に勝ち目のない戦いであった。
発端は、先の尾高久倫の乱以降、幕府権力に対する介入を続けていた細川・山名勢力に対し、ついに義政が屈服し、細川らが影響力をもつ弟の義視を後継者指名したことにあった。
伊勢貞親は義政の嫡男で本来の後継者であった義尚の養育係も務めていたため、引き続き幕府内での権力を握る上で、義視の将軍就任はあってはならない事態であった。
よって、彼は細川が畠山家との争いで身動きが取れないタイミングを見計らって決起を決行。
畿内を中心に、中小勢力がこぞって義政に牙を剥く形となったのである。
「――我々は義政が弟・政知と道灌様の娘の環様との婚姻により同盟関係にあります。直接依頼が来ているわけではありませんが、この同盟に従い、救援に向かうこともできますが」
と、家宰の長尾忠景が道灌に尋ねる。元関東管領・上杉房顕の家宰・長尾景信の弟であるが、先の道灌の政変の際には主君を裏切り、道灌に味方したことで、新たな政権での筆頭家老の地位を得ることに成功していた。
「助けてやりたいのはやまやまだが、生憎、我々もまだこれだけの反乱軍に対抗できるほどの兵力は持ち合わせていない。誠に残念ではあるが、今は傍観することしかできないだろう」
と、道灌は少しも残念ではなさそうな表情で回答する。忠景もそれは十分に予期していたため特に反論もせず、別の話を続ける。
「なお、越後上杉家当主・上杉定昌殿は、この戦いの中で伊勢貞興によって討ち取られてしまったようで、現在越後も混乱状態にあるとのことです」
「そうか、それは痛ましいことだ。後ほど、越後上杉家には書状を送っておけ。危急の折は、いつでもお助け致しますぞ、とな」
は、と忠景は素直に頷く。実に生真面目な男である。
「儂の方も外にかまけていられるほど余裕のある状態ではない。家督を継承したばかりでまだまだ家内も安定しきっていない。千葉胤宣による我が弟・資忠との境目争いの状況はどうなっている?」
「は――千葉に対し戦争停止命令を与えましたが、返ってきたのは拒絶の意。停止する気配を見せておりません」
「巫山戯おって・・・先達て奴の為に土地を一つ与えた際の借りを返すよう要求しろ。もしもそれでも聞き入れなければ、我が刀でもって弁えさせてやる、とでも付け加えておけ」
「承知いたしました。千葉胤宣は信太郡の土岐原氏と結んで反乱の兆しを見せてもおります。やはり先日ご相談した件を行うべきかと」
「うむ、分かった・・・お前の言う通りにしよう。
やれやれ・・・儂は片足を失ってあるのだから、あまり歩き回りたくはないんだがな」
文明八年(1476年)春、道灌は国内を巡る巡歴を行うことを決めた。十分な地固めを行い、かつての主君のように内部での崩壊を招かないことが今最も求められていたことであった。
旅の目的は新たな主君たる太田道灌の寛容さと威厳とを見せつけること。特に、今や実力主義の時代に移行しつつある中、「強さ」を見せつけることは何よりも重要であった。
例えば、旅先で出くわした密猟者たちの一団をいとも簡単に打ちのめしたり・・・
あるいは千葉氏と結んで反乱を起こそうと考えていたらしい土岐原景成に酒飲み競争を仕掛けてみたり・・・
「いえいえ、遠慮しておきますよ! 道灌殿に酒飲みで勝てる者なんているはずもありませんから!」
これは残念ながら拒否されてしまったが、いずれにしてもこの交流を通して景成は戦意を喪失したようだ。協力者を失った千葉も矛を収めたようで、反乱の芽は完全に摘まれたことを確認した。
こうして道灌が国内の安定化に努めている間に、伊勢貞親の乱は終結していたようで、当初の彼の目論見通り義政は将軍位を辞して隠居。その地位は彼の十一歳の息子・義尚に引き継がれていた。
これで、関東にも日ノ本にも、ひとまずの平穏が訪れるか、と思っていたが・・・
更なる動乱は、そして道灌にとっての最大の試練は、間もなく訪れることとなる。
越後上杉家の男
文明十一年八月(1479年9月)。
伊勢貞親の乱から三年後。幼君を意のままに操り専横を窮めていた伊勢貞親。そして政治に飽いてこの状況を見て見ぬふりを繰り返す足利義政。この状況に対し、尾高久倫の乱以降も足利将軍家に忠誠を誓い続けていた忠臣たちもついに我慢の限界が訪れつつあった。
彼らは将軍・足利義尚とその側近たちに対し、その権力の「解体」、すなわち実質的な独立要求を突き付けたのである。
その筆頭に立ったのは、三年前の伊勢貞親の乱によって父を殺され、新たに越後上杉家当主の座についていた上杉顕定。
齢わずか二十五にして、その武勇と「聡明」さについては太田道灌に引けをとらない才の持ち主とも囁かれつつあった男であった。
そんな彼が糾合した強大な反乱軍たちを前にして伊勢貞親も成す術もなく、彼らの要求を受け入れることを決断。
かくして、室町幕府は文字通りバラバラの「解体」状態に。
将軍・足利義尚は室町殿周辺のわずかな土地のみを統治する状態に追い込まれ、実質的な室町幕府滅亡に等しい状況となってしまったのである*1。
この絵図を描き、実現させた北の雄・上杉顕定。
だが、これは、彼の描く計画図のほんの初期段階に過ぎなかったのである。
「――ついに、やってしまいましたな、御屋形様。これで、世は『戦国時代』へと突入。あらゆる力有る者が、旧来の秩序を破壊せしめ、世は混沌の渦の中に陥ることとなるでしょう」
「何を言うか、重景。それを言うならば、すでに太田がそれをやってのけておる。世を戦国時代に陥れたのは太田道真・道灌父子を置いて他におるまい」
「確かにまあ、その通りですな」
顕定の言葉に頷き、クックと笑うのは、顕定の取次にして筆頭家老たる長尾重景。顕定の父・定昌死後、すぐさま越後上杉家中を纏め、凄惨な家督争いを未然に防ぎ、顕定を家督に据えたのはこの男の手腕によるところが大きかった。そして今も、顕定が最も信頼する側近の一人であった。
「主君たる扇谷上杉家、そしてその更なる上に位置する関東管領・山内上杉家を共に打ち倒し、まさに下剋上を成し遂げたるあの父子こそ、最初の戦国大名というべき存在。そして、我らは旧勢力、秩序代表として、これに対抗する必要がある、というわけですな」
「――そんな大義ぶったものではない。我は唯、父の仇を討つべくして伊勢貞親の思惑を打倒したのであり、そして上杉の名を穢したあの憎き太田家を討ち滅ぼさんがために今から行動するだけなのだから。我はただひたすらに、欲深い男なだけさ」
「それよりも重景、準備は順調に進んでおるか? 我らが最終目標の為の、最も重要な準備は」
「ええ、勿論です、御屋形様。ですが、何分これは慎重に進めねばならぬ物事ですので、どうしたって時間はかかります。お待ちいただけますますでしょうか」
「構わぬ。我は忍耐強く待つことは得意だ。何年でも、この悲願達成のために待ってやろう」
不穏の影
「道灌様」
文明十二年十一月四日(1480年12月14日)。江戸城。狩りから帰ってきた道灌を、珍しく慌ただし気に忠景が呼び止める。
「どうした、そんなに慌てて。らしくない」
「山内上杉家当主、房顕様が亡くなられました」
その言葉に、一気に道灌の表情が険しくなる。
「――死因は?」
「今のところ、酒の飲み過ぎによるものだとされております。実際、先日の政変にて関東管領の地位を奪われ、実質的な隠居状態に追い込まれて以降、酒の量がずっと増えていたのは確かです」
「とは言え、はっきりしないところも多くあり、不審な点があると言えなくもない状況です。今暫くは道灌様もご注意下さいませ」
道灌も素直に頷く。
「で、次期当主はどうなる?」
「は。残念なことに房顕様には男子がおられませんでしたので、房顕様の弟君で僧籍に入っておられました周清様を還俗させて新たな当主として据える方針のご様子」
「うむ、分かった。暫く様子を見ておこう」
――だが、そのわずか三ヶ月後。
「道灌様、周清様が亡くなられました」
「何?」
忠景の持ってきた剣呑な情報に、道灌は表情を歪ませる。
「今度は明確に不可解な点の残る死に方でした。恐らく、何者かの意図が入っているかと」
「――透破を山内上杉家内に多く忍ばせよ。それと・・・越後にもな」
「越後?」
「ああ」
訝しがる忠景に道灌は頷く。
「今回の山内上杉家の弱体化により、上杉家全体の主導権はおそらく越後上杉家が握ることとなるだろう」
「今回の件は越後上杉家が仕掛けたものだと?」
「あくまでも可能性として、な。用心するに越したことはない。越後上杉の後継者は、侮りがたしとも耳にする故に」
「――承知しました」
忠景は頷き、直ちに指示を出すべく場を辞した。残された道灌は、嫌な予感が残ることを感じつつも、自らのやるべきことに手をつけることとした。
それからの数年間は、平穏無事に過ぎ去った。中央では小競り合いはありつつもそれ以上の動きはなく、関東では安定した統治を続け、周縁の小領主たちも所領安堵と引き換えに自ら臣従を申し出てくるなど、太田家による関東支配は順調に拡大しつつあった。
だが、文明十六年十一月十九日(1484年12月27日)。
不穏さを示す知らせを、仲景が再び持ってきたのである。
「――道灌様。周清様死後、山内上杉家の家督を継いだ周清様の嫡男・憲房様ですが、越後上杉家の顕定殿によって『糾弾』されているとの報です」
「外堀を埋めつつあるというわけだ。元関東管領の山内上杉家はその器ではないと内外に示し、いつでもその地位を越後上杉家が主張できるようにな。
周清暗殺の証拠はどうだ? まだどこからも出ていないのか?」
「ええ、山内上杉家、越後上杉家、扇谷上杉家、念のため太田家中も探らせておりますが、何も出てきておりません」
「・・・一方で、より問題視すべき動きについて、掴んでおります。その真偽の程は精査中ですが、事実であるとすれば悠長にはしていられないような事実が」
言ってみろ、と道灌が告げ、頷いた忠景が続ける。
「このところ頻繁に、越後上杉家と甲州の武田家、そして駿河の今川家との間に密使が行き交っているとの噂。それぞれの領地に、それぞれの地の遣いらしき者の姿も見たと」
「――何」
道灌は頭の中に最悪のシナリオを思い描いた。それはすぐには信じ難きものであったが、これをあり得ぬと切って捨てれば、すなわち自らの破滅を意味するとも分かっていた。
目を閉じる。頭の中に描かれる関東の図。
「――包囲網か」
「ええ・・・未だ確証はありませんが」
「それが出てくる頃には手遅れだ。すぐに動かねばならない」
そうと決まれば、行動は早かった。
道灌は取次の資忠を呼び出し、すぐさま京に遣いを派遣させた。そして自らもまた、早々に準備に取り掛かる。
もう、時間はない。1分1秒の勝負であった。
対抗同盟
文明十六年十一月三十日(1485年1月7日)。
京へ向かうつもりであった道灌は、その途上で方針変更し、尾張の地にて足を止めた。
「貴殿が関東の雄・太田道灌殿か」
尾張下津城の入り口で待ち構えていた男が、道灌の姿を見るなりニヤリと笑って声をかける。
「思ったよりも恰幅の良い御姿。噂では天魔鬼神の如き豪傑とまで言われていたが」
「貴殿は?」
「ああ、これは失礼。手前は織田三郎敏定と申し上げる。武衛屋形殿の家臣で、ここ尾張の守護代を任ぜられている」
「ああ――貴殿が大和守殿か。先の乱でも将軍側についた武衛殿を御守りし、ここ尾張の地の安全を確保したと聞いている。まさに忠君の士であるな」
「そう、ですな。手前の方でも道灌殿のお噂はかねがね。混乱窮まれり関東の地を平定し、平穏を保持する英傑と」
「天魔鬼神の豪傑であろう?」
「いやいや、失敬」
肩をすくめる敏定。軽口を叩きながらも、城の奥、主君の待つ部屋へと道灌を案内していく。
「貴殿からしてみれば、我らは護るべき主君を打ち倒した逆賊の類ではないのかね? それこそ貴殿の敵であった伊勢守家のように」
「いえいえ」
敏定は軽薄な笑みを残しつつも、その目の奥に鋭さを灯したまま、答える。
「最も大事なのは国の繁栄と安寧。その為に取るべき道が正道か邪道かは、必ずしも重要ではありません」
「――世辞は要らんよ。さて、着いたようだな」
同感の言葉の通り、目の前には主の間。
襖が開けられ、通された先には、まだ若き武衛家当主・斯波義寛の姿があった。
「よくぞ参られた、道灌殿。そなたがこうしてここに来てくれたこと、大変心強く思うぞ」
「畏れ多きことで御座います、武衛殿。管領家の方とこうして盟を結ぶなどと」
へりくだる道灌の言葉に義寛は表情を曇らせる。
「管領家など・・・この乱世の中では何も役には立たぬ。そも、今や管領の地位は、あの憎き細川氏が独占しており、我ら斯波氏はもはや没落の身」
何を仰いますか――という言葉を、道灌は飲み込んだ。代わりに、力強い瞳で青年を見据え、言葉を紡いだ。
「そうはさせぬために、我が身はこうして参りました。武衛殿、我が貴公の槍となりて、あの越前の奪還を手助けして差し上げましょうぞ」
「――誠か」
ぱっと義寛の顔が喜色に染まる。越前奪還。それは義寛にとってまさに悲願とも言える出来事であった。
「そう言ってくれるのを信じていた。我が妹の露と貴殿が嫡男・左馬助殿との婚姻を結んでいた意義がついに叶うというもの」
「ええ・・・それに、此度、もう一つの同盟が結ばれることによって、我らの結束はより固くなり、そしてあらゆる困難をも打ち砕く強靭さを手に入れることになりましょう」
「――うむ。そろそろ参られる頃合いか」
義寛の言葉に合わせたかのように、襖の向こうから来客を告げる織田敏定の声が届いた。
義寛の許しを得て現れたその男は、その場に居合わせるだけであらゆる者を畏怖させ、怯懦させてしまう程の迫力を持った男であった。
畠山伊予守義就――先の細川勝元・大内政弘との戦いでは数的劣勢に追い込まれながらも2年半もの間嶽山城に籠城し、和平へと持ち込んだという逸話を持つ猛将であった。
その畠山義就が、太田家との婚姻による同盟締結を望んでいるという報せが斯波氏から寄せられたことが、道灌の足をこの尾張にて止めさせた要因となった。
畠山義就の目的は勿論、仇敵・細川勝元への対抗。
道灌としても中央の政争に巻き込まれるリスクはあったが、畠山義就の武勇と2,200の兵は実に魅力的。
斯波氏の1,200、そして既存の同盟国・宇都宮氏の1,800と合わせ、合計5,200の同盟軍。道灌自身の3,000の兵と合わせれば、上杉・武田・今川の同盟にも十分対抗することができるだろう。
文明十七年正月二十三日(1485年2月28日)。
大きな外交的成果と共に江戸に戻った道灌は、出迎えた忠景から報告を受ける。
「道灌様。ついに、確実な情報を得ました。上杉が嫡男と今川が娘、そして上杉が娘と武田が四男との婚約が結ばれたとの由。越甲駿三国同盟の完成です」
「そうか――分かった。これ以上、待つことはできぬな。
すぐさま兵を出せ。上杉顕房に対し、宣戦布告せよ」
「は――大義名分は、如何様に?」
「大義名分?」
フン、と道灌は鼻を鳴らす。
「そんなもの、犬にでも食わせておけ。今はもう、戦国の世。誰が咎めるでもない。
戦るか、戦られるか。力有る者がこの世を制す。そのことを、あの若輩者に思い知らせてやるのだ」
かくして、文明十七年正月二十八日(1485年3月5日)。関東を舞台とした大規模な大同盟戦争――「文明の役」が勃発する。
そしてそれは、戦国の時代の幕開けを意味する戦いであった。
文明の役
海野夜戦
冬の間に関東平野を密かに北上させていた太田道灌の軍約3,000は、春の訪れと共に清水峠を越え、南魚沼郡・坂戸城を一気に包囲した。
援軍として駆け付けた宇都宮郡1,500と合流し、合計4,500で囲んだ坂戸城は、二ヶ月も持たず陥落。
太田・宇都宮連合軍は続いて隣の北魚沼郡・下倉城へと襲い掛かった。
だが、その間に、武田・今川軍2,500が甲府にて合流。
さらに上杉軍2,000も、春日山城から姫川を上って南下し、武田・今川軍との合流を果たそうとしていた。
そして文明十七年閏三月(1485年5月)。太田・宇都宮軍が坂戸城を落とした丁度その頃、この上杉・武田・今川連合軍4,400の兵は小県郡・海野城を包囲。
海野城は先だって上杉・武田への牽制のために道灌が調略していた城であり、越後-甲州の連携を阻害する重要な位置にある。
この地を落とされれば太田軍としても関東を狙う位置に厄介な敵拠点を生み出すことになり、決して捨て置くことのできない戦略的要衝。現在は忠景の次男である長尾顕泰に守らせているが、守備兵はわずか300程度しかおらず、陥落は時間の問題であった。
当然、これは上杉・武田・今川連合軍にとっては越後を攻める太田軍に対する牽制の意味合いがあった。この重要拠点を守るべく必ずややってくるはずの太田軍を、急峻な山々に囲まれた隘路となるこの地で迎え撃つことによって、その侵入経路を限定し、数的不利を覆し勝利を得るという方策であった。
「彦五郎殿、刑部殿、そう身構えなされるな。太田の軍も今はまだ越後を抜けておらぬだろう。もっとも考えられる経路は北の千曲川沿いを上るものだろうが、その途上の高梨氏、村上氏はすでに調略が済んでおる。太田軍に動きあれば、すぐさまこれを報せにくるはずだ」
「それが今まだ来ていない以上、しばらくは平穏な包囲戦が続くであろう。来る決戦に備え、今は暫し体を休めるべきときぞ」
そう言って今川・武田の両将に休息を進めるのは上杉顕定の家宰を務める中条定資。この上杉・武田・今川連合軍の総指揮を任されてもいた。
中条の言葉に従うかの如く、2,000の上杉軍は海野城を包囲しつつもどこか弛緩した雰囲気が漂っており、国の存亡をかけた戦いの渦中にいる者たちとは思えぬ程であった。
とは言え、中条の言葉も理には適っている。事実、太田軍は必ずこの地にやってくるはずで、来るとしたらより近道の千曲川沿いか、もしくは関東方面から山を越え佐久郡の側からやってくるか、その二つの経路しか考えられなかった。
そして千曲川沿いは中条の言葉通り越後上杉氏の影響圏内であり、佐久郡は武田氏の影響圏内であった。双方の監視のもと、太田軍が近づけばすぐにそれと察知できるはずであり、現状それがない今、常に張り詰めた空気でいれば重要なその瞬間に十分な力を発揮することはできない。
しかし、自家の軍を率いる武田信昌は、道理を超えた不安を抱いていた。何しろ相手は「あの」太田道灌。太田家による関東平定において無敗の強さを誇り続けてきた稀代の戦略家であるあの男を相手にして、道理だけで敵うとも思っていなかった。
「刑部殿も、ご心配のご様子か」そんな武田信昌を見て、同じく陣頭指揮を執ってここまでやってきた今川範慶が声を掛ける。
「今川殿も、か・・・いや、底知れぬ不安を感じてな」
「分かりますぞ。あの太田道灌たる者、よもや山の奥から突如姿を現したとしても驚くことはあるまい」
そう言って範慶は北側に広がる浅間連峰を不気味そうに見やる。もちろん、常識的に考えれば3,000を超える大軍でこの山の中を突き抜けてくるとは考えづらい。しかし、相手は・・・
「いずれにせよ、用心に越したことはないですな」
範慶の言葉に、信昌は頷く。どのみち、斯波や畠山も味方につけているという太田勢に対し、長期戦は事態を悪化させるばかり。ここで勝負を決めねば、彼らに勝利の目はないとさえ言えるだろう。
それから三ヶ月――なおも太田軍の動きが掴めぬまま包囲が続けられていく中で、包囲陣中の雰囲気は更に弛緩したものとなっていた。太田は我らの威容に恐れをなし逃げ出したのに違いない、などと豪語する将兵の姿さえ見られるほどであり、「その日」の夜もまた、陣中の一角では酒盛りをするなど規律は乱れに乱れていた。
そして、文明十七年六月二十二日(1485年8月11日)。
夜も明けきらぬ真夜中。東の空の端がようやく白け始めるか始めないかといったその時分、最初にそれに気がついたのは小便の為に起き出した、寝ぼけ眼の兵士であった。
彼はこの一角の兵たちたちの間で繰り広げられていた酒盛りの参加者の一人であり、用を足している間に目の前の山の奥の方からその物音が聞こえてきたときは、まだ自分は酔っているのだろうかと思ってさえいた。
何しろ、それは獣や野兎の類とは考えづらい。何しろ、それはまるで数十、数百の集団が山の中を掻き分けて下りてくるかの如き音であり、そんな物音が聞こえてくるわけが――。
そこで彼の酔いも眠気も一気に醒めた。そして、小便も終わりきるより先に踵を返し、あらんかぎりの全力で叫んだのである。
「敵襲! 敵襲ーー!!!!」
直ちに陣中はパニックに陥った。全くの前触れのない敵襲。その報せを聞かされた中条定資は、いの一番に「ありえん・・」と呟いた。
「山中を抜けてきたのはまだ分かる。いや、理解し難いが、道灌ならばやりかねん。だが、夜のうちに、見張りにも気づかれずにそれをやってのけたと? 奴ら、まさか篝火すら焚かずに夜の山中を抜けてきたというのか!? 馬廻のみならず、足軽兵たちもまとめて!?」
「――これが道灌だ」
遠方で混乱する上杉兵たちの姿を、武田信昌は落ち着いた様子で眺めていた。
「貴様ら、問題ないな」
振り返り、声をかけた先に並ぶ屈強な武田兵たちは、皆一様に威勢の良い声を挙げる。同様の声が、また遠くより聞こえてくる。
「どうやら今川隊も問題ないようだな。良し、行くぞ。寡兵と言えど、劣るつもりはない!」
かくして、後の世に「海野夜戦」として知られる戦いの戦端が開かれる。
山中より仕掛けた太田・宇都宮軍の奇襲は目の前にいた上杉兵たちを大した抵抗もなく退け、多くの敵兵を切り伏せた。
だが、その第一陣をほぼ無傷で粉砕した太田軍の眼前に、精悍な様子で並び立つ武田・今川隊の姿があった。
道灌は大きな犠牲あることを覚悟しつつも、配下の兵たちに対し突撃の命を下した。
「行け――皆の者! 我らが太田、この関東に真の安寧をもたらす者たちぞ――!」
「――くっ、厳しいか」
自軍の劣勢を見て取って、信昌は吐き捨てる。
緒戦の上杉兵たちの敗退による数的不利の形成は、武田・今川軍としても抗いようがなかった。
「一度、甲府に戻り、体制を立て直す他あるまい」
信昌は軍艦に命じ退き太鼓を打たせ、全軍に撤退を命じる。今川もほぼ同様の策を講じたようで、少しずつ兵が引いていく。
あとはどれだけ、犠牲を減らせるか。
海野城を退き、八ヶ岳連峰に入り甲府への撤退を敢行する武田軍。
だが、太田道灌の本当の恐ろしさはここからであった。
五ヶ国崩し
文明十七年七月(1485年9月上旬)。
筑摩(松本)方面へと逃れた今川軍はその折に木曽方面から下ってきていた畠山軍に遭遇し、会戦となっていた。
その報せを受けながら、信昌は甲府を目の前にしていた。
とかく体制を整え、太田軍が再び越後に向かった隙に関東を攻め多少の戦果を得ることで満足とするべきか――信昌は、そのように考えていた。
だが、そこに、恐るべき報せが重ねて届いた。
「お、御屋形様――太田軍が、すぐ背後に迫ってきております・・・! 奴らは海野で戦後処理にて留まることをせず、我らを追って真っ直ぐ八ヶ岳を越えてきたようです!」
伝令の言葉通り、太田軍は武田軍のすぐ背後にまで迫っていた。浅間連峰からの夜間の強行軍の後会戦、そこから休まずに再び山中追走劇をこなしたというのか――。
甲府での第二戦もまた、太田軍側の圧倒的有利であった。
再び敗北に見舞われた武田軍はほうほうの体で甲府へと戻るが、これを太田軍は疲れた様子も見せずに包囲する。
もはや、これ以上益のない戦いを続ける道理は信昌にはなかった。
「道灌に書状を送れ。当方に抵抗の意思はない。完敗であると。これ以上の妨害はせぬ故、兵を引き給う」
信昌の書状を受け取り、道灌はすぐさま和平交渉へと乗り出す。
文明十七年八月二日(1485年9月19日)。武田氏居館、川田館。
道灌は信昌と対面。傍には道灌の取次、すなわち外交交渉役を務める弟の資忠の姿もあった。
「それでは刑部大輔殿、太田左馬助*2が嫡子・松千代と、貴殿が娘・彩姫殿との婚姻を結ぶということで、問題ありませんな」
資忠の言葉に、武田信昌は頷く。
「感謝致します。これにて我々は晴れて同盟関係。これまでのことは水に流し、永きに渡る平和を共に享受致しましょう」
信昌は資忠のその言葉には反応せぬまま、傍らの道灌に視線を向けた。
「道灌殿――先の奇襲、実に見事であった。しかし夜半の山中を篝火を焚かずに行軍など、自殺行為にも等しい行い。どのようにしてこれを実現させたので?」
信昌の言葉に、道灌は微笑を浮かべながら暫し沈黙し、やがて口を開いた。
「かの道を良く知る地元の男が家臣にいてな。その者を先頭に立たせ、皆これに追随させたまで」
「――しかし、三千とも四千とも言われる兵数。そう簡単なことでは・・・」
「もしそれを困難とさせるとすれば、それは人の恐怖、不信、そして他への思いやりのなさゆえにである。
よって、行軍する者たちを皆、紐で結ばさせた。この儂も含めてな」
絶句する信昌。道灌は愉快そうに笑いながら続ける。
「互いが互いの命を握っていると理解した瞬間、彼らは驚くほどに慎重に、そして人を思いやれるようになった。最初はそれでも重苦しい恐怖だけが中心だったかもしれないが、やがて我らは次第に楽しくなっていき、歌い出すようにさえなった。勿論、隠密行動中故、隣のものにだけ聞こえる程度の小声ではあったがな」
ハッハと笑う道灌。信昌が変わらず驚いたような表情で見つめていることに気がつくと、笑いを引っ込めて目を細め、続ける。
「結局のところ、不可能を可能にするのはただ一人の豪傑ではない。有象無象の数だけ揃えた駒でもない。互いを信頼し、同じ目的を共有する者同士が集まることで、誰もが見たことのない結果を出せる。
儂も多くの城を築き、それを讃えられることもあったが、それよりも何よりも――人こそが、最も強き城だと思っておる」
「成程」
信昌はようやく合点が言ったように頷いた。
「――有難う御座います。道灌殿と同じことを我らが出来るとも思えませんが、少なくともその最後の言葉だけはしかと胸に刻み、我が子らにも教え諭して参ります。いつか、我らが武田も、太田家のような偉大な国を創れるように。
此度の婚姻、及び同盟について、この武田兵部大輔、謹んでお受け致します」
指の先まで畳に付け、信昌は深々と頭を垂れた。
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その後、信昌より饗応の申し出を受けるも、道灌父子はすぐにでも発たねばならぬと言ってこれを辞退した。
「どちらへ?」
信昌の言葉に、同感は答える。
「まずは南へ。富士を見物に行こうと思ってな」
文明十七年八月六日(1485年9月23日)。
甲府を出発した太田軍は富士川を下って南下、富士山の脇を通り抜けその河口部へと向かう。
そこには先の畠山氏らとの戦いで敗北しさらに傷ついた今川兵たちが帰陣の途上であったが、そこを太田軍が強襲したのである。
今川範慶も、彼らが武田を追い詰め講和を結んだことは聞き及んでいたが、その報せを受け取ってからわずか一日。まさか自分たちのもとにそれがやってくるなどと、夢にも思わなかったのだ。
壊滅し、敗走した今川軍もまた、今川館まで追い詰められ、武田同様に降伏勧告を受け入れることに。やはり同じように太田家と今川家との間の婚姻による同盟を結ぶことを条件に和平と相成った。
そして、太田軍はまたしても、速やかにこの地を立ち去った。再び甲府へと舞い戻ったかと思えば、今度はそのまま雁坂峠を越えて秩父へと侵入する。
そこには、海野夜戦で壊滅した上杉軍の残党が逃れてきており、現地の一揆によって足止めを食らっているところであった。
この秩父の戦いで上杉軍は全く統率を失い、戦闘は一方的に推移。上杉軍残党1,500は全滅し、総指揮官の中条定資も捕らわれの身となった。
海野夜戦からここまでわずか2ヶ月*3。
越後、信州、甲州、駿河、武蔵。ほぼ休みなく山を越え谷を抜け峠を駆け抜けて巡ること五ヶ国。計四つの戦いを制したこの道灌の信じられぬ行軍と戦略は、「五ヶ国崩し」として後世に語り継がれ、道灌の名を不滅のものとした。
そして年が明けて文明十八年(1486年)春。
太田軍は再び越後に侵入し、宇都宮・畠山など同盟国たちと共にその支城を次々と陥落させていく。
最終的に文明十八年七月(1486年8月)に上杉顕定居城・与板城を陥落させたことで、顕定はついに降伏を受け入れることに。
越後上杉家も関東の両上杉家同様に関東管領・太田家に臣従することを認め、ここに北陸から関東に至る大勢力圏が築かれることとなった。
エピローグ
「父上、実に見事で御座いました」
延徳四年正月朔日(1492年2月8日)。
太田道灌が居城・江戸城にて、道灌の還暦祝いが華やかに行われていた。
道灌が嫡子にして家督を継承していた資房は、祝賀の言葉と共に父の盃に酒を注ぎ、その栄誉を讃えた。
「今や、関東のみならず、山々を越えた先の越後まで、その権勢は轟き、両国の交流は一層盛んに。商人たちも活発な交流に喜び、北陸の文化が混ざり込んだ独特な『江戸』文化も花開きつつあると噂されております」
「それは実に結構なことだ」
息子に讃えられながら、そして多くの家族、家臣に囲まれながら、道灌は愛すべき酒を満足気に口にした。家督も継承し、国内も安定し、隣国との同盟も盤石。今や、一族の繁栄を疑う余地もなく、彼は父の死後初めて肩の荷を下ろした思いを感じていた。
「先達て江戸で開かれた歌合せ会にても、見事な歌を披露し、優勝されたとの由。拙者も尾張への用事さえなければ居合わせたかったところですが」
「その尾張での首尾はどうだ?」
道灌の言葉に、資房は頷いた。
「滞りなく。大和守殿の嫡子、弾正左衛門殿と我が妹の薫との婚姻が結ばれ、織田家との繋がりもでき申した」
「良きこと。あの一族もまた、味方にしておいて後に役に立ちうる一族であることは間違いない」
道灌はもう一度、手元の盃を口元に運んだ。
「・・・左馬助よ。我が父・道真と共に創り上げたこの関東を、何卒宜しく頼むぞ。御前は誰よりもその知略学識において優れし男。きっと、この国を良く治め、繁栄させていくことだろう」
「ええ、父上・・・勿論で御座います。祖父・道真公が生み出し、父上が育んだこの関東。公正と義によって輝かしきこの大地を、我が智慧によってさらに豊かにしていくことを約束しましょう」
息子の言葉に、道灌は満足気に頷く。
そして彼は、残りの人生を愛すべき酒と共に過ごし、そして明応五年閏二月七日(1496年3月30日)。
その六十四年の生涯を、終えた。
「――父上、偉大なる我が父上よ」
誰もいない、だだっ広い大広間にて、資房は独り、呟いた。
「我はただ単に父上らの築いたこの国を『豊かにする』だけでは満ち足りぬ。
我は父上らを超えてみせよう。それこそが我が人生の、宿命なり」
Crusader Kings Ⅲ AAR/プレイレポート第8弾「太田家」編第三話。
「道灌超ゆる者」へと続く。
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