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【Victoria3プレイレポート/AAR】強AI設定で遊ぶプロイセンプレイ 第1回 1839革命と普墺戦争(1836年~1846年)

 

前回の「インドネシア」プレイでは、結局アチェのような非欧州の小国では、イベントやキャラクターのビジュアル、名称、あるいはゲームシステムの面でバリエーションにかけており、現バージョンでは十分に楽しむことができないということを悟った。

よって、今回は大正義西欧列強、その中でもまだドイツの統一実績を取っていないので、プロイセンでプレイしていきたいと思う。

ただ、普通にやっても普通に強すぎて面白くないので、今回のプレイでは次の点を検証していきたいと思う。

~ゲームルール~

  • 「プレイヤーへのAIの態度」を「無情」に
  • 「AIの好戦性」を「高い」に
  • AI経済改善MOD「Anbeeld’s Revision of AI」を導入

よりAIが強大化しやすい設定で進め、どれくらいゲーム感覚が変わるのかを確認しつつ、これまではプレイヤーチートの入り込みやすい未成熟な海戦が多かったところを「陸戦メイン」に進めていき、その練習をしていきたいと思う。

個人的には最終的に、最新兵器が飛び交う地獄の戦場第一次世界大戦」をこのVictoria3で追体験していきたいと願っているが、果たしてうまくいくのか・・・。

 

史実では第一次世界大戦で敗北し、帝政も終わりを告げた栄光のドイツ帝国

その後はアドルフ・ヒトラーとナチズムの登場により史上最悪の運命を歩むこととなるこの国の、違った20世紀を描いていきたいと思う。

 

Ver.1.1.2(Earl Grey)

使用MOD

  • Japanese Language Advanced Mod
  • Cities: Skylines
  • Dense Market Details
  • Dense Trade Routes Tab
  • Improved Building Grid
  • More Spreadsheets
  • Visual Methods
  • Romantic Music
  • Universal Names
  • Historical Figuaes
  • Visual Leaders
  • ECCHI
  • Visible Pop Needs
  • Auto Convert Production Methods After Conquest And Annex
  • Japonism
  • Declare Interests Button on top
  • No red smoke
  • Extra Topbar Info
  • Anbeeld's Revision of AI

 

目次

 

第2回以降はこちらから

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過去のシリーズはこちらから

大インドネシア帝国の夢

大地主経済:ロシア「農奴制」「土地ベース課税」縛り

金の国 教皇領非戦経済:「人頭課税」「戦争による拡張なし」縛り

コンゴを自由にする

アメリカ「経済的支配」目標プレイレポート

初見スウェーデンプレイ雑感レポート

 

フリードリヒ・ヴィルヘルム3世の改革

1836年当時のプロイセン王はフリードリヒ・ヴィルヘルム3世

不器用で優柔不断、改革に対する意欲はあったかもしれないが実力と器用さに欠け、貴族(ユンカー)たちの言いなりとなり結局はこの時代の反動政治家の1人に数え上げられることとなってしまった「不定詞王」。

そんな彼を操りながら、少しずつ改革を進めプロイセンを強国にしていければと思う。

 

まずは早速、ユンカーを政権から追放。1万人の急進派を生むが、正当性はわずかに回復する。君主が珍しく地主階級を支持基盤としていないからこそできる荒業。福音教会につけられている「強化」も軍部に付け替えておく。

その上でまずは「専門的な警察機構」制定を目指す。序盤はしばらく税率を最大値にすることもあり、生活水準減少に伴う急進派の増加はできるだけ抑えていきたい。また、初期の「現地警察」によるユンカーへの政治力上昇ボーナスも消滅させよう。

ユンカーを政権内から外したことで「後退」可能性を0%にした・・・と思っていたが、結局のちに彼らの反対政治運動によって後退可能性は復活してしまった。

 

産業においては首都ブランデンブルクに「製造業の奨励」、シュレージエンに「資源産業の奨励」布告を出し、それぞれ工業と資源採掘の拠点とする。シュレージエンでは初期からずっと不足する鉄鉱山を大量に建設していき、ブランデンブルクには建設局(建設セクター)と工具工房(飾り細工工房)や製紙工場・縫製工場などを建設していこう。建設効率とインフラを上げる「道路整備」も必要に応じて付けていく。

 

なお、プロイセンは初期状態でスウェーデンと貿易協定を結んでいるが、そのせいで彼の国にプロイセン市場でも不足している家具・衣類・工具などが無関税で大量に流出してしまっている。この貿易協定はすぐに外そう。

代わりに染料や砂糖など、プロイセン産業にとって有力な商品を余らせているオランダ、および硬材や軟材(木)、鉄などの基礎資源を余らせているロシアとの関係改善を進め、彼らとの貿易協定締結を目指す。彼らはプロイセン産業の中心となる衣類・家具・高級衣類家具を売りつける市場にもなってくれるだろう。

オランダは縫製工場で必要となる染料、食品産業で必要となる砂糖をオランダ領東インド経由で大量に供給してくれるのでありがたい。各種工場の製法を変え需要を生み出した上で交易を開始しよう。

 

この「貿易協定」。今までずっと勘違いしていたのだが、「協定を結んだ双方の関税が0になる(つまり二国間自由貿易)」のではなく、「協定を結んだ国同士の貿易では、その貿易ルートの所有者のみの関税が有効化される」というものなんだね。

つまり、上記のスウェーデンへの衣類や家具の輸出についてはスウェーデンが貿易ルート所有者のため、プロイセンの輸出関税がかからずスウェーデンの輸入関税だけがかかっている状態。よって、「国内供給の保護」ポリシーを選択して輸出関税を設けつつ流出量を抑え込む、ということができない。

 

一方、貿易協定を結んでもこちらが買いたい/売りたい商品については行政力(官僚制)コストを気にせず貿易ルートを増やした上でその輸入関税はしっかりと頂けてしまう(かつ相手側の輸出関税を無視できるため貿易収入や貿易量を不必要に犠牲にしなくてもいい)。

今まで関税で儲ける重商主義プレイの時は貿易協定はすべて断ってきたのだが、かなり損をしていた可能性がある。

っていうか、これ気付いていないの自分だけ? こういうのわかりづらいんだよなー。

 

 

外交ではその他、フランスにライバル宣言を行って影響力を確保した上でフランスのライバルでありイギリスとも関係改善を行いつつ、併合のためにドイツ諸邦への関係改善を進めていく。

技術は同然、「民族主義国家主義)」一択。アンロック後、関税同盟下にある関係値50以上の国家は自動的にプロイセンに併合されるイベントが最短4か月ごとに(戦争中でなければ)次々と発生していってくれる。しばらくはこれで自然領土拡張をしていこう。

悪名も発生することはない。


そうこうしているうちに1837年6月23日。「専門的な警察機構」制定。

実業家集団を政権内に入れ、「植民地搾取」を審議にかけていく。

実業家集団のリーダーはアウグスト・フォン・デア・ハイト。史実では1848年革命の後新たに創設された通商・商業・公共事業省(Ministerium für Handel, Gewerbe und öffentliche Arbeiten)を任されることとなるこの男を、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世は早速起用することとなる。

鉄道の敷設に熱心であった史実の彼を踏襲するが如く、シュレージエンにプロイセン初の鉄道を敷設。その後ブランデンブルクにも新設し、この首都ベルリンからブレスラウまで続く「プロイセン南方鉄道」は、今後の軍事的な戦略においても重要な役割を果たすこととなる。

初期から鉄道技術を持っているプロイセン。布告効果を最大限に引き出すべくブランデンブルクとシュレージエンに集中的に施設を増やした結果不足するインフラを改善するために早期に建てていくこととなる。

 

1839年6月12日に「植民地搾取」制定。

あらかじめ関心を付けておいた中央アフリカ西部「ニジェール・デルタ」に植民を開始。

このニジェール・デルタ、面積のわりに人口が200万を超えており、かつ染料や砂糖、コーヒー・綿花などが大量に産出可能という、アフリカ植民地候補の中では飛びぬけて高価値な土地だと思っている。

史実ではイギリスが勢力圏を築いた土地だが、この世界ではプロイセン・アフリカ植民地の中心地としよう。

次の法律は「レッセ・フェール」を・・・と思っていたところで、

 

「それ」は巻き起こった。

 

 

1839年革命

1839年12月22日。首都ベルリンの広場で騒乱が発生。言論の自由や国会の開設を要求する学生や労働者たちのグループが、警備に当たった兵士たちと衝突。広場には銃声が鳴り響いた。

これを主導するのは労働者組合の代表であったギーゼバート・ハーリヒ。この国で2番目に数が多い勢力ながらその政治力は極端に低く抑えられ、国家が強制する重税に苦しむ労働者たちを代表する立場にある男である。

しかしフリードリヒ・ヴィルヘルム3世はあまりにも性急すぎるこれらの動きに対しては徹底した弾圧をもって対応することを指示。

未だ影響力も小さい彼ら労働者たちの叫びも国民に広く浸透することはなく、翌1840年になっても続いたこの騒動も、国王の支持を得た軍部の徹底した弾圧と関係者の逮捕を通じて6月には完全に終息することとなった。

タイミングによっては喜ばしいが、あまりにも早すぎた。重税により生活水準が低下していたことがトリガーだったのだろうか? 労働組合の影響力もわずか1.4%しかなく、ジャーナル「諸国民の春」も早々に革命勢力の敗北という形で終了した。しかしこの「正当性+25」のボーナスは滅茶苦茶でかい。

 

とはいえ、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世も完全にこの動きをないがしろにしたわけではない。彼らの意見を一部取り入れ、欽定憲法を制定。選挙権は土地所有者に限定するという非常に制限の強い内容ながらも、1841年2月に選挙制度の導入および議会の設立を決定した。

この法律に基づき、軍部を中心とした保守党、実業家集団を中心とした自由保守党、および知識人と小ブルジョワを中心とした進歩党の3政党が結成される。

8月27日に最初の選挙が行われ、プロイセン軍士官を中心に貴族や一部資本家からの支持も集めた保守党が圧倒的多数の得票を得て勝利。

彼らは自由保守党との連立を継続し、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世も実業家集団のアウグスト・フォン・デア・ハイトを初代首相に任命。

引き続き産業の発展を基盤とした国家の強化を進める意向を明確にした。

 

だが、その年の暮れにこの初代首相アウグスト・フォン・デア・ハイトがまさかの急死。

代わって実業家集団の指導者、かつ首相の座を引き継いだのはわずか31歳の女性クララ・フォン・デン・クネーゼベック

ナポレオン戦争で活躍し、1841年当時はポーゼン大公国の最高司令官となっていたカール・フリードリヒ・フォン・デン・クネーゼベック大将の孫にあたる彼女は、祖父譲りの政治手腕とカリスマ性でもってプロイセンを導く新たな存在となることだろう。

 

そして、産業の発展と北ドイツの諸邦の併合を進める中で、

 

「そのとき」はやってきたのである。

 

 

普墺戦争

開戦まで

1843年1月14日。

1838年のリッペ侯国に続きナッサウ公国、ヘッセン選帝侯国、メクレンブルク大公国、シュヴァルツブルク=ゾンダースハウゼン侯国、シャウムブルク=リッペ侯国、自由ハンザ都市リューベック自由都市フランクフルトと次々と北ドイツ諸邦を自国の勢力圏内に併合。

これらの勢力を得たプロイセンはいよいよ、ウィーン会議以降オーストリア主導で存続していたドイツ連邦からの独立を画策。

オーストリアに無断で北ドイツ連邦を成立させることとなった。

1839年革命以来高まりを見せていた「ドイツ人」としてのアイデンティティを刺激された国民たちは、この北ドイツ連邦の成立を推進した2人の政権担当者、クネーゼベック首相とラオホ陸軍大臣を英雄視するようになっていった。


もちろん、無視された形となるドイツ連邦の盟主オーストリアはこれに対し憤慨。二国間は一触即発の状態となった。

この状況を受け、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世はただちに戦争の準備に取り掛かることを指示。

すべての兵舎の製法を最新鋭の散兵に切り替えた上で、北ドイツ連邦随一の資源地帯であるシュレージエンから流れるオーデル川の河口に位置し、最大の軍港・貿易港を担うポンメルンに大量の軍需施設を増強。

オーデル川の効果でインフラも多く、取引所の効果で人も集まりやすいこの地は、産業や資源の布告の対象ともならないことから、軍事関連の施設を中心に専門化していく。

 

さらに仮想敵国のフランスへは禁輸を行い、一方のイギリスとは貿易協定を結ぶなどオーストリアへの包囲網形成を進めていく。ロシアとはもうすでに貿易協定を締結済で、東方への備えも万全である。

ずっと「慎重」な態度を取り続けていたイギリスも、このギリギリのタイミングでようやくデレてくれた。フランスへの禁輸が功を奏したか?


この万全な準備を整えたうえで1年後の1844年1月1日。
ドイツ連邦を解体し、ドイツ統一を主導するのに相応しい国はプロイセンのみであると認めることをオーストリアに要求。

オーストリアはフランスに助けを求め、フランスもこれを受け入れるが、北ドイツ連邦もすかさずイギリスに支援を要請。

フリードリヒ・ヴィルヘルム3世はフランスに対し長年の係争地であるエルザス=ロートリンゲン地方の割譲を要求し、1844年5月6日についに開戦。

独英同盟vs墺仏同盟による総勢90万の兵がぶつかり合う普墺戦争が開幕する。

 

 

1844年の戦い

敵同盟軍で最も精強なフランス軍が構える西方ラインラント戦線では、プロイセン軍参謀総長を務めるヴィルヘルム・フォン・クラウゼネック元帥がザールブリュッケンで完璧な防備体制を築く。

戦争開始と同時に軍事給与も最大に上げ、プロイセン軍全体の士気が上がると共に「愛国熱」を発動。真のドイツ人による統一に向けて、ナショナリズムを高揚させた屈強なプロイセン陸軍の実力が発揮される。

 

いつものテクニックである、「こちらの攻勢がギリギリ100に到達する直前で防衛戦に突入する」を行っており、反撃への準備は万端。

そして直後の反撃戦では狙い通りこちらが数的有利に。この戦法、本当に効果があるのかはわからないが、実際に上手くいっていることが多いので十分に推奨できる戦法と思われる。

見事勝利を果たし、そのまま進軍したクラウゼネック元帥は12月6日メスを開城。

開戦から半年でラインラント地方のメス、そしてストラスブールといった重要都市をプロイセン軍は手に入れることとなった。

一方の東方戦線、オーストリアと接するボヘミア戦線では、イギリス軍の支援が来過ぎてしまい、フランス軍がこちらへの攻勢をかけようとしてくれないため、反撃作戦が使えない。

仕方なくプロイセン軍最強の攻撃的軍隊を指揮するヘルムート・フォン・モルトケ大将にゴリ押しで攻め込んでもらう。オーストリア参謀総長ハインリヒ・フォン・ヘス大将は数では勝るもののモルトケ大将の圧倒的な軍質の前に完全に劣勢状態である。

愛国熱に加えてモルトケの「攻撃戦略の達人」特性まで加わりチート級の火力を誇っている。なお、この1844年時点においてはモルトケはまだ参謀総長ではなく、どころか史実では少佐どまりであったらしい。だが、この戦争での活躍によってその立場も変わっていくだろう。

この戦いに勝利したモルトケ大将はその年の暮れにはボヘミアの州都プラハも占領。

プロイセン・イギリス同盟軍は有利な情勢のまま戦争の1年目を終えることとなった。


1845年の戦い

翌1845年に入ると、状況は少し膠着していく。

1月にはイギリス海峡でフランス海軍によってプロイセンの商船が沈没させられるという事態が発生。産業の基礎資源の不足が発生し始める。

頼みの英海軍は地中海方面に出張っており、フランスの地中海航路をズタズタに引き裂いてくれてはいるのだが、こちら側を守ってはくれない。予想していたことではあるものの、実際にやられるとなかなかきつい。

 

さらに陸戦でも、好調だったラインラント戦線では反撃作戦でも敵の防衛部隊を打ち破ることが難しくなりつつあり、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世自ら率いる軍勢による攻勢も圧倒的数的不利の中跳ね返され続けている。

敵の攻勢を跳ね返した直後の防衛線だったが敵軍に十分な数が。やはりまだ不安定な戦術なのか。それとも兵舎の数が足りなかったか。防衛でもこちらは疲弊するので、何度かの防衛で疲弊の差を大きくしてから望むべきだったかもしれない。


さらに、東方のボヘミア戦線でも相変わらず力押しで攻め込み続けていたが、そううまくはいかず――モルトケ大将の攻勢も跳ね返されてしまいつつある。


ただ、このあたりでイギリス軍が本気を出していく。史実ではインドに派遣されているサー・ヘンリー・ウェイクリン・スミス大将が、質でも数でも勝る軍勢を率いて優勢な攻勢を実現している。

イギリス軍はその後も優勢な進軍戦を続けられている。サー・ヘンリー・ウェイクリン・スミス大将は10万の兵を率いており、結局最後にモノを言うのはこの大隊数なのか? 

あるいは幾度とない防衛戦でさすがにオーストリア軍の元気な兵が少なくなっていっただけ?

確かにオーストリア各地の兵舎の充足率が軒並み減ってきてはいる。結局のところ、慌てて反撃せず守り続けること、あるいは(とくに質で勝っていて負けても死亡数はイーブンになっているときは)攻め続けて時間をかけて疲弊させることが重要になってくるという単純なことなのだろうか?

このイギリス軍の活躍により、11月には敵首都ウィーン目前にまで迫るほどに。

結局、プロイセン軍単体ではどうしようもなかったところに、イギリス軍の助けがあってなんとかうまくいったという形か。

戦争支持率もついにオーストリア・フランス同盟側がマイナスに達し、いよいよ戦争の終わりも見えてきた。

 

 

1846年の戦い・終戦

1846年も冒頭からイギリス海峡でさらなる商船撃沈を食らう。

これを原因とする各種物資不足も深刻となりつつあり、長期戦が経済に及ぼす影響は国民生活にも如実に表れ始めている。

戦時下の1845年に行われた第2回選挙では、戦争により事業に支障が出始めた資本家層が主戦派の保守党に見切りをつけ、より穏健な自由保守党が票を大きく伸ばすこととなった。終戦のときは近い。


しかしそれはフランスも同様であった。
アルザス=ロレーヌ地方の大半を占領され続けたフランス国民は、そもそもドイツ人同士の戦いのはずのこの戦争に対して自分たちが犠牲を払って続ける理由を失っていた。

そんな民意を背景とし、2月についにフランスは降伏を宣言。

2月10日にはフランクフルト講和条約が結ばれ、エルザス=ロートリンゲン北ドイツ連邦への割譲と総額883万ポンドの賠償金支払いが取り決められた。

これでラインラントに駐留していた軍勢もすべて合流し、オーストリア戦線では激しい攻防戦が繰り広げられる。

一進一退の戦いを続けながら、オーストリア軍もなんとかウィーンは守り続けていたが――。

1846年5月20日

ついにオーストリア帝国は降伏。ボヘミアの都市プラハにて講和条約が調印され、オーストリアを盟主としたドイツ連邦は解体され、神聖ローマ帝国時代から続くこの緩く曖昧なドイツの枠組みがついに根底から消滅することとなった。

こうしてプロイセン改め北ドイツ連邦は、ドイツの唯一の盟主となる。

残る領邦も統合し、いよいよ統一ドイツの実現に向けて動き出す。

 

 

そして戦争末期の3月12日に戦場で突如倒れたフリードリヒ・ヴィルヘルム3世は、そのまま目覚めることなく3月14日この世を去った。

プロイセンの勝利、そして統一ドイツの実現を見ることなく逝った彼の意志を受け継ぐのはその長子フリードリヒ・ヴィルヘルム4世。

果たして彼はそのまま「ドイツ」の実現を果たし、そしてその国を栄光の国へと育て上げることはできるのか。

 


と、いったところで今回は終了。

最後にこの10年間の経済や人口分布の推移をまとめてあるので参考までにどうぞ。

 

1846年5月20日の列強ランキング




第2回へ続く。

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