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【CK3】四国の狗鷲① 四国統一編(1568-1575)

 

長宗我部元親

長宗我部家復興を実現した名将・国親の嫡男として天文八年(1539年)に土佐国岡豊おこう城で生を享ける。永禄三年(1560年)には父・国親が土佐郡朝倉城主・本山氏を攻めた長浜の戦いにて初陣を飾り、自ら槍持って突撃する勇猛さを見せるなど、その武名を高めることとなった。

そして同年6月、父が急死。

わずか21歳にて、家督を継承することとなる。

 

そして永禄十一年(1568年)9月27日。

永年の宿敵であった本山氏をこの冬に降伏させ、土佐中部の平定に成功した元親は、いよいよ土佐の統一、そしてその先にある四国の統一という遠大な夢を抱き始める。

その勇猛さから鬼若人おにわこと賞賛され、のちに「土佐の出来人」と呼ばれるようにもなる稀代の名君の物語は今、始まる。

その夢の先に、強大なる敵が立ちはだかることになるとは、このときはまだ、誰も想像することはできていなかったのだが。

 

目次

 

※ゲーム上の兵数を10倍にした数を物語上の兵数として表記しております(より史実に近づけるため)。

 

Ver.1.12.4(Scythe)

Shogunate Ver.0.8.5.5(雲隠)

使用DLC

  • The Northern Lords
  • The Royal Court
  • The Fate of Iberia
  • Firends and Foes
  • Tours and Tournaments
  • Wards and Wardens
  • Legacy of Perisia
  • Legends of the Dead

使用MOD

  • Japanese Language Mod
  • Shogunate(Japanese version)
  • Nameplates
  • Historical Figure for Shogunate Japanese
  • Big Battle View
  • Japanese Font Old-Style

 

第二話以降はこちらから

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土佐の統一

永禄十一年(1568年)9月27日。

長宗我部氏が領有する土佐中部と土佐一条氏が支配権を持つ西土佐との境に位置する鳥形山の高台に、元親は側近の谷忠澄を引き連れてやってきていた。

「いよいよ、時が来たな」

高台から見下ろす渡川(四万十川)とその流域(幡多郡)の町並みを見下ろしながら、元親は呟く。

「我らが領民の安堵の為とはいえ、父の代に大恩ある一条氏に反旗を翻すことは、抵抗がないとは言えぬが・・・」

「お気持ちは分かります、殿」と、忠澄が応える。

しかし現当主の一条兼定殿は、遊興に耽り国政を省みず、これを諌めようとする家臣の土居宗珊氏に対しても苛烈な対応をしているとのお噂。もはや土佐国主の器で御座いませぬ」

「それは貴殿らが西土佐に流している流言の類であろう」

苦笑しながら返す元親の言葉に、忠澄もハッハと笑う。

「いかにも――とはいえ、まるで作り話というわけでも御座いませぬ」

「分かっている」

元親はしっかりと頷く。

「いずれにせよ、民の上に立つ領主の務めとして、個人的な感傷に左右されるつもりはない。多少の心情の吐露を、心許せる者にだけはしておきたいと思ったまでだ」

元親の言葉を、忠澄は無言で受け止める。彼もまた、元親の器量を良く分かっていた。その心底の心優しさと、そしてそれとは別に、国主としての果断さを持ち合わせているということを。

忠澄は彼をこの土佐の――そして四国の王として相応しい存在であると確信していた。

「間も無く、左京進殿のご準備も整う頃合いかと」

「ああ」

元親は決意に燃える目で、土佐に流るる大河を見据える。

「ここが我が夢の始まりだーー参るぞ!」

 

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10月13日。

精強なる土佐の一領具足たちの招集を終え、元親は弟の吉良左京進親貞と共に一条氏の治める幡多郡へと進軍。

10月28日。長宗我部軍は一条氏の居城・中村城を目の前にして、渡川の手前まで兵を進むるも、その対岸に一条軍の兵が並んでいるのを発見。両軍は荒れる大河を前に睨み合いの状態となった。

兵数は長宗我部軍が圧倒的に優勢。とは言え、川を挟んだ体制においては、防御側の一条軍が優勢。そのことを理解していた一条軍の間にはどことなく弛緩した空気が漂っていた。

だが、間も無くして、彼らは長宗我部軍が川を渡り始めるのを目にすることとなる。慌てて彼らは弓を持ち、迫り来る長宗我部軍を撃退しようとする。だが、降り注ぐ矢の雨を、彼らはものともせずに前進してくる。それは信じられぬ速度であり、農民兵とは思えない統率を見せていた。

一条軍はこの長宗我部軍の勢いに戦意を完全に喪失し、それぞれ武器を捨て思い思いに逃げ出そうとした。しかし長宗我部軍はこれを逃すこともせず、岸に上がると同時に一気にこれを追撃し、一人残らず討ち取るかもしくは捕縛することとなった。

戦いはわずか数刻で終わりを告げた。一条軍は総崩れとなり、反撃の手段を失うほどに壊滅。

その後は最低限の守備兵だけを残した中村城の包囲を開始し、二ヶ月半後の永禄十二年(1569年)2月15日にこれを開城せしめる。

一条兼定は追放され、土佐西部はすべて長宗我部のものとなったのである。

 

返す刀で、長宗我部軍は土佐東部の安芸郡へ侵攻を開始する。前もって忠澄より、安芸の領主・安芸国虎に対し、「土佐はすでに長宗我部のものとなるので、岡豊城へと来て臣従の意思を示すように」という挑発的な文を送っており、これに対し国虎がはっきりと拒絶の意思を表明したことを口実に、元親はこれに宣戦布告を行ったのである。

4月8日。八流に陣取る国虎軍4,500に対し、長宗我部軍は元親率いる本隊1万弱で激突。

地の利を活かして防戦できると考えていた国虎軍はいとも簡単に瓦解し、逃れようとした敵軍を、内陸沿いに進み敵部隊の背後に回っていた勇猛果敢なる福留親政率いる遊撃隊にて包囲し、此度の戦いも敵軍の全滅という形で圧勝を遂げた。

安芸城に逃れ籠城を開始した国虎だったが、やがて食糧も尽き、城内でも徹底抗戦派と降伏派が対立し刃傷沙汰に至るほどに。

この事態を重く見た国虎は7月21日に城兵の助命を条件に開城し、降伏。

かくして長宗我部元親は一年の間に西土佐と東土佐を全て平らげ、土佐の一統を果たす。名実共に土佐の「大名」としてその名を轟かせたのである。

しかし、元親の野望はここで留まることを知らなかった。彼は更なる戦いへと身を投じていく。

 

 

四国の王

永禄十二年(1569年)10月2日。

安芸城を陥落し土佐統一を果たしたばかりの元親のもとに、谷忠澄が深刻な表情でやってくる。

「殿――河野氏が動きました」

「我々が土佐で勢力を拡大させていることに危機感を抱いたからでしょうか。隣国の宇和郡を支配する西園寺家に侵攻を開始し、西園寺家当主・公広を捕らえることにも成功。間も無くして南伊予は河野家のものとなるかと思います」

「なるほど」

報告を受けて元親は思案する様子を見せる。

「彼らの背後には、毛利家の存在があると聞いているが」

「ええ。昨年の3月にも、毛利一門の小早川隆景が四国に上陸し、一条氏と対立していた河野氏を支援しております。河野氏は今や独立した勢力とは言えず、実質的な毛利の従属国とさえ言えるでしょう」

「その河野氏が伊予国全土の支配権を回復することは、我々にとっては望ましいことではないな」

元親の目が剣呑な光を放つ。

「ええ」と、忠澄は頷く。「毛利が今のまま河野氏に伊予を任せ続けるならばまだ良し。しかし彼らが直接に伊予を領有した暁には、彼らと我らの国境は陸上において接することとなります。この乱世において、それは我々の安全において重大な危機を招くことになるのは必定です。

 ――幸いにも、現時点で毛利は北九州にて大友氏との激しい国境争いを繰り広げている最中さなか。しばらくは四国に兵を送る余裕はないはずです」

忠澄の言葉に、元親は頷く。

「すぐに兵を集めよ――我々は土佐を出なければならぬ。四国を統一し、民の安寧を確保する為に」

 

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「御屋形様」

宇和郡黒瀬城を陥落させたばかりの伊予国主・河野左京大夫道宣は、忠臣にして精強なる河野軍を統率する平岡房実からの報告を受けていた。

土佐西部・渡川沿いの中村城にて、長宗我部軍の兵の招集が始まったとの由」

「ほう。先達て一条家も滅ぼし土佐を統一したばかりと聞くが、まさかこの伊予にまで侵攻するつもりではあるまいな」

「おそらくは、そのまさかかと」

房実の言葉に、フ、と通宣は微笑を漏らす。

「愚かなり。我らを衰退せし旧勢力と侮るつもりだろうが、そうはさせぬ。こうして我らの諜報網はすでに四国中に張り巡らされておる。今は毛利に従属しているが如しだろうが、やがてこの伊予のみならず四国全土を我々が支配下に収め、必ずや毛利にも反旗を翻し、独立した大大名となるのだ。

 その野望を邪魔立てはさせぬ。左近、すぐに兵をまとめ、土佐に侵攻するぞ。奴らが兵を集め終えるまでに早くても1ヶ月はかかるだろう。その前にこれを叩く!」

 

10月8日。

伊予・土佐国境に位置する四国山地山中の地蔵峠。急峻なこの山道を、河野軍は精悍たる様子で進軍していく。その行軍速度は恐るべきものであり、中村城で兵を集めつつあった長宗我部軍はこれを集めきる前に強襲されるはずであった。

しかし、いざ土佐の地に降り立ち、中村城を目の前にしたとき河野軍が目の当たりにしたのは、すでに1万を超える兵を集め終え、万全の準備を整えてこれを迎え討とうとしている長宗我部軍の姿であった。

「兄者の指示通り情報を流したが、狙い通り奴らはまんまと誘き出されたようだな」

「ああ――意思なき獣の考えることを予見することは容易い。兵を集め始めたという確かな情報を聞かば、奴らはきっと兵の招集に1ヶ月はかかると目論むだろうからな」

「だが、我らが土佐の民は違う」

実弟の吉良親貞の言葉に、元親は頷き、答える。

「彼らは死生知らずの勇敢なるつわものたち。招集に応じ直ちに参集し、規律もあらゆる国の兵士たちをも上回る」

「さらに此度は恩賞望み次第と触れ回っているようではないか」

親貞は苦笑する。

「随分な大盤振る舞い。兵たちの士気もそれは上がるに違いないが、そこまで言うからには生半可には終わらせるつもりはないのだろう? どこまで攻め込むつもりだ、兄者」

親貞の言葉に、元親は感情を読み取れぬ顔で真っ直ぐに弟を見つめ、告げる。

「伊予一国、すべて」

兄の言葉に、親貞も言葉を失う。それが冗談の類ではないことは、兄の表情を見て理解していた。

「すでに姉君の嫁ぎ先である九州の土持殿にも援軍も要請している」

「この一戦で河野軍を全滅させたのち、土持殿の軍と合わせた全軍で伊予全土を制圧する。毛利が介入する前に終わらせねばならぬが故、速度が肝要であるからな」

淡々と述べる元親。親貞も抗弁することもなく、覚悟を決める。その親貞の肩に、元親も手を置いた。

「伊予を平定したのちは、その地を弥五良、お前に渡すつもりだ。毛利との最前線、決して容易ではないだろうが、任されてくれるか?」

兄の言葉に、親貞も頷く他なかった。

長宗我部家が四国の王となる、そのための第一歩が今まさに踏み出されようとしていた。

 

 

10月27日。まんまと土佐に誘き寄せられた河野軍は慌てて引き返そうと試みるも、すでに周囲は長宗我部家の一領具足らによって取り囲まれており、彼らは皆、渡川のほとりにて散々たる敗戦を被ることとなった。

反撃の手段を失った伊予守を一気に攻め滅ぼすべく、四国山地を越えて長宗我部軍が逆侵攻。

同盟国の土持軍も加え、翌元亀元年(1570年)6月10日には敵本拠地の湯築城を陥落させ、通宣の身柄を捕えることにも成功。

北伊予を除く伊予国のほぼ全土を、元親はその傘下に置くこととなったのである。

さらに、四国における最後にして最大の敵対勢力・三好家においても、長宗我部による侵攻の好機となる内紛が発生していた。

 

 

三好家最後の英雄

きっかけは三好家当主・三好長治の生母である小少将という絶世の美女を巡る確執であった。

元は細川持隆の側室であった彼女は、長治の父にあたる三好実休に見初められ、その室となるが、のちに継室として長治を産んでいる。しかし実休の死後もその美しさは衰えを見せず、今度は三好家重臣で阿波国木津城主・篠原自遁と密通することとなるが、これを諌めたのが自遁の実兄で篠原家当主であった篠原長房であった。

実休時代からの重臣で、実休死後に若き長治を自遁と共に補佐し、実質的に三好家を取り仕切るほどの権力を握っていた長房。しかし小少将は自らを諌めるこの老臣を疎ましく思い、実子の長治を通してこの排斥を講じるようになっていく。

この状況に嫌気が差した長房は、居城の上桜城に引き篭もるようになるが、これを長房による蜂起の準備と断じた長治はその逮捕と領地の剥奪を試みる。

ここに来て長房も、本当に蜂起する他、取る手立てはないと決断。

永禄十二年(1569年)9月27日、長房は主君・長治に対する反乱を起こしたのである。

そして、この篠原長房とは、この世界における長宗我部元親の「義父」であった。

 

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「殿」

夜、元親の居室を訪れた正室の篠原繁子は、丁寧に指を膝の前に揃え、深々とそのこうべを垂れた。

「面を上げよ」

元親の言葉に従い上げられたその表情は、蝋燭の炎に照らされて赤く輝き、双眸には強い決意の光が灯されていた。

「我が父・長房は、今まさに自身の名誉と尊厳を守る為の戦いに赴いております。父は強く、これに従う兵たちもまた精強なれど、やはり強大なる三好家のその他の臣たちをすべて敵に回すことはあまりにも分が悪い状況となっております」

妻の言葉を、元親は黙して聞いている。その瞳は真っ直ぐに妻に向けられ、その言葉の続きを待つ。

「――殿、どうか父をお助け下さい。父は、もはや三好家における反逆者の汚名を着せられており、実休様の代より仕えしこの家に留まることは難しくなっております。

 故に、この反乱の後においては、長宗我部家の下につくことも厭わぬと、父は申しております」

元親はその言葉に瞳の色を濃くする。

「――相分かった。我々とて三好を敵に回すことは決して簡単に決断できるものではないが、いずれにせよ周りの敵は恐るべきものばかり。この四国を統一しなければ、民の安寧はないと理解している。

 貴殿の父を救うべく兵を挙げよう。そして、四国の王として、最後の一歩を踏み出すことを約束しよう」

 

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永禄十三年(1570年)6月25日。

長宗我部元親は義父・篠原長房の反乱を支援すべく、かつての天下人の末裔たる三好長治に宣戦布告。

上桜城へと救援に向かう長宗我部軍に対し、三好軍は海部にてこれを迎え打とうとするも、長宗我部軍はその精強さにおいて問題なくこれを撃退。

すぐさま全軍を阿波全土に送り込み、その制圧を開始。

翌永禄十四年(1571年)2月には長治の居城・勝端城を陥落させ、長治を自害せしめることに成功した。

残るは、三好家の残党を駆逐するのみ。

四国最強の三好家も、実にあっけない終わりを迎えることになるだろう。

 

――そのように、思われていた、のだが。

 

 

事態に変化が訪れるのは同年(1571年)6月のこと。

突如、伊予の地に、長治に代わり三好家の当主となった長治の実弟・三好存康率いる1万5千の軍勢が上陸。ただちに国府城(唐子山城)の包囲を開始したとの報せが、元親のもとへと届けられた。

すぐさま元親は撃退のための兵を伊予へと送り込むが、間もなくして国府城は陥落。

存康の軍は続いて隣接する湯築城の包囲を開始したのである。

 

「状況はどうだ」

元親の言葉に、弟で長宗我部家の軍奉行を務める吉良親貞は、机の上に地図を広げながら説明する。

「敵方は恐るべき菅達長の水軍によって縦横無尽に瀬戸内を渡り、神出鬼没の攻勢を仕掛けている。今回もまた、海から仕掛けたのは間違いないだろう。

 だが、先の唐子山城と異なり、今回の湯築城は海からやや距離が開いている」

「よって、夜のうちに東三方ヶ森の峠を越え道後平野に兵を展開することで海との補給線を断ち、一気に湯築城を包囲する三好軍を逆包囲することができるだろう。こうすれば奴らは逃げ道を失い、殲滅も能うかと」

「うむ――」

説明を受けながら、元親はどこか不穏な胸騒ぎを感じていた。この地理の中に、何か引っ掛かるものを感じる――が、明確なものは出てこず、ひとまずは弟の言葉に従うことにした。

 

9月13日。

計略通り夜の内に整然たる行軍を終えた長曾我部軍およびその同盟国軍総勢2万は、湯築城を包囲する三好存康の軍を逆に包囲することに成功。沖合に停泊する菅水軍との連携を断ち、あとは湯築城内で籠城する城兵たちと連携してこれを殲滅するのみであった。

が、ここから事態は急変する。突如、一帯を恐るべき豪雨が襲い、道後平野に流れ込む伊予川の水かさがみるみるうちに増していったのである。

この事態によって、道後平野はあっという間に湖のように変わり、長宗我部・同盟軍は民家の屋根や木の上に登り避難。その次の瞬間、まるでこの事態を予期していたかの如く、沖合の菅水軍から小舟に乗った兵たちが現れ、あらかじめ湯築城背後の高台に避難していた三好軍と合流。屋根の下や木の下から長柄の槍で次々と長宗我部軍を串刺しにし、吉良親貞や福留儀重らも前線で重傷を負うほどの惨状となっていったのである*1

 

「――まるで鬼神天魔の如き悪運だな」

最も後背に位置していたがゆえに、洪水の発生と共に芝ヶ峠の高台に避難することができていた元親は、この事態を息を吞んで見守っていた。

「だが、これに乗じて逃れようとすることは許さぬ。死せる我が兵らの弔い、必ずや果たしてみせん」

元親は未だ雨が降り続く中、生き残った1万の手勢を引き連れて、丘陵地帯を抜け、祝谷の丘陵地帯に陣取る三好軍本陣へと強襲を仕掛けた。

これはまさに激戦というべきものであったが、元親の勢いはすさまじく、地勢の悪さをものともせず、数的劣勢を瞬く間に覆していったのである。

それでも、これまでのように敵を殲滅させる圧勝とまではいかなかった。存康含め敵軍の3分の2以上を海へと逃してしまう。

勝利し、撃退はしたものの、この「伊予川の戦い」によって得た長宗我部軍の犠牲は甚だしく、とくに同盟国・土持家の軍は再起不能なほどにまで壊滅。

元親の姉・元子が嫁いでいた親成の弟・元綱がこのときの傷が原因で亡くなったことをきっかけに両者の関係は断絶。同盟破棄・および戦闘からの離脱と相成ったのである。

さらに瀬戸内海を支配する菅海軍と三好存康軍がどこから侵攻してくるか読めないこともあり、その警戒のための兵を割く必要があることからも、長宗我部軍による三好侵攻戦はしばしの停滞を余儀なくされた。

 

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「兄上」

元亀元年(1573年)春。

三好家より奪い取った勝端城にて指揮を執っていた元親のもとに、元親の次弟にして安芸城主の香宗我部親泰がやってくる。

「ああ――弥七。弥五良の具合はどうだ?」

「まだまだ傷が深くまともに動くことは難しそうですが、命に別状はありません。食欲もあり、数か月後には動き回ることもできるやもしれません」

「そうか。無理はせぬようよく言い伝えておけ。この戦いは、我々だけで十分に収めることができるのだから、心配はするなと」

「ええ、そのようにいたします。そのことですが――」

と、親泰はいくつかの書状を取り出しながら説明を開始する。彼はその巧みな弁舌と智慧を活かし、長宗我部家の外交を取り纏める役割を果たしていた。

「昨年末、尾張の大名・織田信長が、京に住まう三好の傀儡・足利義栄を追放し、前将軍・足利義輝が弟の足利義昭公を新将軍に奉じるための上洛戦を成功させました」

今回も史実通りのルートを選択。

 

「このとき信長に協力したのが、かつて三好三人衆と共に天下を牛耳るも、やがてこれと対立し始めることとなった松永久秀と、彼らに擁立されて天下人となるはずが義栄を擁立し始めたことでその立場を崩されかけていたがために同じく対抗心を募らせつつあった三好義継の両名となります」

「三好勢は一枚岩ではなく、その内部に多くの火種を抱えているというわけだな」

「ええ。そして此度、その義継との同盟締結が実現致しました。我々は彼を三好家の正当なる当主として認め、三好存康を四国から追放した暁にはその権益を保証すると約定を交わすことによって」

「義継は先達ての三好三人衆による義昭公襲撃事件において久秀と共にこれを防いだことから義昭公の覚えも良く、その妹君を正室に迎えるなど、畿内における影響力を急増させております。合わせて三人衆も弱体化しており、もはや存康は四国にて孤立する状態を避けられなくなってきていると言ってよいでしょう」

「さらに」と、親泰は続ける。

「中国の雄・毛利元就より、その息子と兄上の姫君との婚約による同盟締結の誘いが来ております」

「ほう」

ここまであまり表情を変えずに親泰の報告を聞いていた元親も、さすがにこの報せには目を見開き驚く様子を見せる。

「奴らもいつ我々に牙を剥くか、気が気ではなかったが・・・まさかの僥倖。弥七、良くやった」

「有り難きお言葉。早速、毛利家は我々の四国平定戦への協力を申し出ており、彼らの水軍と伊予の村上水軍との連合により、瀬戸内の制海権は確固たるものとなるのは間違いないでしょう」

「うむ――」

元親は頷く。その表情には、彼にしては珍しい、安堵の色が浮かんでいた。

「これで、長きに渡る三好討伐戦を終着に至らせることができるだろう。しかし三好存康・・・衰退しつつあるとはいえ、一時の栄華を極めし三好の名を継ぐに相応しき男であった」

 

 

8月。

四国山中にてゲリラ戦を展開する存康のもとに、その書状は届けられた。長宗我部元親からの休戦締結を求めるものであったが、その条件は存康が阿波一国を長宗我部家に差し出すというものであり、実質的な降伏勧告に等しいものであった。

しかし、すでに阿波のほぼ全域のみならず淡路まで完全に制圧され、瀬戸内の制海権も完全に失われた存康に状況を挽回する手立てがないことは確かであった。

家臣たちの説得に応じ、存康は敗北を認めることに決めた。まだわずか19歳。しかしその瞳は、いつかの復讐の時を誓い、熱く燃え滾っていた。

「土佐の巨京くじらよ・・・これで終わりにするつもりは、毛頭ない。いつか必ずや、その首を捻じ獲ってやろう」

 

8月31日。

長宗我部元親は阿波の大名・三好存康と休戦条約を結んだ。3年以上にわたる長き戦いに、ようやく一つの決着が付いたのである。

これにて、長宗我部家は四国のほぼ全域を掌握。

これにて、誰もがこの長宗我部元親を、四国の唯一にして絶対の「王」であることを認めざるを得なくなったのである。

 

いまだ、讃州をわずかに残しているとはいえ、毛利との同盟も含め、その体制は盤石。

この7年間を、ひたすらに戦い続けてきた元親も、ようやく平穏を手に入れられる――そう、考えていた。

 

 

だが、その思いを打ち砕く、無残なる出来事が発生する。

 

元亀三年(1575年)9月。

青ざめた顔をした弟の親泰より、その報せが届けられる。

「兄上――将軍・足利義昭を奉じる畿内の最大勢力・織田信長が、我らの土地を要求し、兵を挙げたとの由」

 

元親は、否応なしにその奔流の中へと吞み込まれていくこととなる。


次回、「神崎川・引田の戦い」編へと続く。

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過去のCrusader Kings Ⅲプレイレポート/AARはこちらから

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*1:なお、この辺りの戦況は史実の「中富川の戦い」を参考にしている。