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【CK3】織田信雄の逆襲⑥ 虎狩りの役編(1611-1615)

 

本能寺の変以降の混乱を収拾し、旧織田家領内の勢力争いを制したのは、史実の羽柴秀吉でも、柴田勝家でもなく、織田信長が次男、織田信雄であった。

1604年冬に巻き起こった「大坂の陣」にも勝利し、最大の敵であった羽柴家と徳川家の双方に勝利したことにより、その地位は盤石なものとなった。

敗戦後、羽柴家当主・羽柴秀勝の求心力は低下し、その領国たる中国地方での大反乱に遭い、多くの領地を失うことに。

これを重くみた信雄によって再度羽柴は攻められ、最終的に秀勝は居城・加古川城と共に炎の中に消え、後を継いだ嫡子・秀親は信雄への臣従を受け入れることとなった。

 

そして1610年3月。

室町天皇からの勅使を大坂城で迎え入れた信雄は、武家の棟梁たる征夷大将軍に就任。

その居城・大坂城を中心とした「大坂幕府」が開府され、これより世は大坂時代と呼ばれるようになる。

だが、それはまだ「戦国の終わり」を意味する訳ではなかった。

戦乱はまだまだ続く・・・亡き父の意志を継ぐ、果たされなかった天下統一の夢を、信雄は叶えることができるのだろうか。

 

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目次

 

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中国平定

1611年2月26日。

信長、秀吉と並ぶ「三英傑」徳川家康が遠行。

68歳と、当時にしては高齢を誇っていたものの、最後は静かに眠るようにして逝ったという。

4月1日。

父の葬儀を終えた嫡子にして新たな徳川家当主・秀忠は、大坂城へと出仕していた。

「将軍様、此度の毛利攻めの成功、誠に祝着至極に御座います。私めがこれに参陣できなかったこと、深く申し訳なく存じます」

平伏する秀忠。これに、将軍・信雄は大仰に答える。

「面を上げよ、秀忠殿。御父上がお亡くなりになられた直後故、致し方無し。祝着の言葉も要らぬ。寧ろ、葬儀に駆けつけられず、此方こそ申し訳ない。貴殿の父御には実に世話になったからのう」

「とんでもございません。・・・晩節は、将軍様に刀を向けることさえしてしまい、ひどく面目なきことと存じております」

「気にする勿れ。その件はすでに父御とは話がついておる。それに、此度改めて、貴殿の娘と我が息子との婚姻も結ばれた。改めて今後も義兄弟として、固い同盟関係の継続を願うぞ」

信雄の九男・長雄と、秀忠三女・勝姫との婚約が結ばれた。

 

「有り難きお言葉」秀忠は誠実な瞳で信雄を見据える。そこに二心はないように思えるが、この男もかの徳川公の嫡子。油断はできぬ、と信雄は内心呟いた。

万が一の事態あらば、人質として手元に置き続けている仙千代の存在がある。

形上は織田家の同盟国として対等の立場にある徳川家だが、今や織田の実質的な臣下であることは誰の目からも明らかであった。

 

そして、先の話でもあったように、今や毛利家もまた、同様に織田の臣下となっていた。

信雄の将軍就任直後、信雄は西国の毛利家当主・毛利元経*1に臣従と人質の供出を求めるも、元経はこれを拒否。

直ちに信雄は徳川を除く同盟国(実質的な臣下)を引き連れてこれに宣戦布告したのである。

この、「中国攻め」はわずか半年で終結。

毛利方にはかつての「能登殿の乱」時に敵対し敗北の後に諸国を放浪していた佐久間勝政の姿もあったが、これも戦場にて討ち取られ、時代の趨勢を感じさせる出来事となった。

信雄は毛利家の新当主として毛利元就の九男・秀包を据え、安芸国の領有を認める。

その他、北九州・花尾城を支配していた麻生家氏周防国を与えるなど権力の再配置を行った他、中国北部の島根四郡と伯耆国とを次男・高雄に与え中国勢への牽制とした。

こうして西国の地盤を固めた上で、信雄は次なる目標――四国へと、矛先を向けることとなる。

 

 

虎狩りの計

四国、土佐の大名、長宗我部信親

かつて、妹背山の戦いで信雄・徳川連合軍に大敗を味あわせた異才・元親は1603年に没しており、その嫡子たる信親が現在の土佐、そして四国の大部分を支配していた。

この信親に対しても、信雄は人質の供出と、彼が領する西讃岐や宇和の割譲を要求。武力のみならず、征夷大将軍として、これは朝廷の意思でもある、という権威を背景にしての圧力であった。

もしもこの要求に従わず抵抗するのであれば、全面的な侵攻を行い、土佐一国さえも渡さずに全所領改易するとの脅しも含め。

しかし、長宗我部信親はこの要求を拒絶した。

 

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「信親は降伏せぬと」

「ええ、人質の供出も拒否。領土についても全土安堵を申し出ております。書きぶりは丁寧なれど、全面的な拒絶、徹底抗戦の構えですね」

「朝敵となることさえ、厭わず、か」

取次として幕府の外交交渉を統括する細川忠興の言葉に、信雄は眉根を寄せた顔で唸る。

細川忠興は足利一門に連なる由緒ある家柄として重宝され、その娘「古好」は信雄の嫡男・秀雄の正室ともなっており、関係は深かった。さらに先達ての中国攻めでは武将としても活躍し、猛将・佐久間勝政を討ち取るなどの武功も建てており、信雄の絶大な支持を得ると共に、その権威と交友関係を活かし、諸外国との外交を一手に引き受ける大役を担っている。

 

「しかし、軍事力においては先の毛利と比べても貧弱。敵うわけもなかろうに、何か策があるのか?」

「・・・慎重に行く必要はありそうですな。密偵を各国に投じておきます」

忠興の言葉に、信雄は頷いた。

長宗我部信親。かつて、妹背山の戦いで彼に土をつけた異才・元親の嫡子。彼もまた、名将として名高いと聞いている。

「・・・決して油断はできぬ。全力でこれに当たるべし」

信雄は指示を出しながらも、言いしれぬ不安が押し寄せてくることを感じていた。

 

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1612年2月3日。

征夷大将軍・織田信雄は、朝廷の宣旨という形で四国の長宗我部に対する討伐を宣言。

四国北東部の徳島城には井伊直政率いる中央軍を招集し、北西部の川之江城には、中国地方から兵を集め毛利家当主・毛利秀包にこれを率いさせる。

そのまま大軍でもって長宗我部の支城を次々と攻撃。3月9日には大筒を率いた井伊軍が海部城を包囲し、3月24日には毛利軍が白地城を包囲した。

そしてそこで長宗我部軍主力2,000が高知城に籠っているとの情報を聞き出す。

織田軍は包囲戦力のみをそれぞれの城に残し、残る主力軍で一気にこれを強襲することにした。

 

1612年5月。

高知の森の中で行われた土佐の戦いでは、2倍近い兵数差にも関わらず、地の利を生かした長宗我部軍の決死の抵抗に遭い、勝利はしたものの多くの兵を取り逃がし、こちらもほぼ変わらない損害を出してしまうような辛勝となってしまった。

「三法師殿、御味方の犠牲夥しきこと、甚だし。逃亡する長宗我部軍をすぐ追撃するのも道理ではございません。まずは土佐周辺の敵城包囲とこれの制圧を完了させるべきかと。いずれにせよ奴らもすぐには立て直せぬと考えます」

「うむ・・・兵部殿の仰る通りだ。まずはじっくりと地盤を固めよう」

軍監・井伊直政の言葉に、四国攻めの総大将を任ぜられていた信雄の嫡男・秀雄は頷く。彼の指揮の下、四国南部の諸城に対する包囲が続けられていった。

しかし絶望的な状況にも限らず、各城の城主たちはなかなか降伏勧告にも応じず、これを力攻めする味方の兵たちも、慣れぬ外国の地での長期滞在に次第に疲弊と不満が溜まりつつあると聞いていた。

「一体奴らは何を考えているんだ? それほど、土佐の屋形は信頼能うというのか? まるで、何か、大きな逆転の芽を待っているかのように・・・」

苛立ちと共に直政は頭を抱える。そこに、伝令がやってくる。

「兵部殿、長宗我部軍の主力が、熊毛に現れたとの報告」

「四国からも出たというのか? いつの間に? 伊予は羽柴の当主が領土。これを気付かれずに通過するとは考えられぬし、海を使ったか? だが村上水軍による海の網も張り巡らせているはずだが・・・」

そこまで考えて、直政ははたと気付いた。その、可能性に。

「いかん・・・すぐに三法師殿に・・・いや、合わせて大坂の将軍殿にも早馬を出せ。我々もすぐに兵を纏めるぞ。このままでは、四国から抜け出せなくなるぞ!」

 

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「御協力、感謝致します」

船から降りた信親を待ち受けていたのは、瀬戸内の海域を支配する村上水軍の長、親泰であった。

「いやいや、我々にとっても、貴殿らが奴らを四国に引きつけてくれたことで、やりやすくなるというもの。・・・貴殿の御味方の多くが命を落とし、今なお四国の領民が苦しめられていることは、至極残念ではございますが」

「詮なきこと。織田に抵抗すると決めたそのときから、その責を担う覚悟は出来ております。

 いずれにせよ、ここからが本当の戦い。獲物を喰らわんと近づいてきた織田軍を、四国という名の檻に閉じ込め、その隙にその領土全域で少兵を各個撃破する虎狩りの計。天下人のつもりでいる織田に、目にものを見せてやりましょう」

 

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1612年7月30日。

伊予を治めていた羽柴秀親、その伊予沖の越智を拠点とする村上水軍はじめ、10諸侯総勢5,400人が織田領国各地で蜂起*2

その中には信雄の忠臣であった九鬼嘉隆が嫡子・守隆の姿もあり、屈強な九鬼水軍は村上水軍と共に四国・本州の間の海峡を完全封鎖。織田軍を四国の地に閉じ込めることとなった。

さらには中国攻めの後も恭順の意を示し、所領の出雲を安堵されていた毛利元景*3も蜂起勢力の一員。次男・高雄の本領たる伯耆国へと攻撃を加えていた。

一つ一つの勢力は大したことはない。落ち着いて各個撃破していけばそれで良い。

とりあえずは、一族の高雄への救援の為、中国地方への出口となる伊予へと攻めかかることに決めた井伊直政。長宗我部の支城に展開していた各兵力を、伊予・松山城へと集中して向かわせるよう指示を出していく。

 

「お屋形様、織田軍は存外機敏に動いており、伊予の羽柴領が早速脅かされております模様」

「状況に慌てず、冷静沈着なる用兵。織田の『国斬り兵部』は噂通りの戦巧者だな」

家臣の言葉に、信親もまた冷静に対応する。

「ただ閉じ込めていただけでは虎は狩れぬ。いつかは檻も食い破られてしまうからな。檻の外から、いかに槍を突き刺し、その血を流させるかだ。

 皆の者、行くぞ。これは、我らが四国の為、その命擲つことを厭わなかった同志達の、弔い合戦である!」

信親の言葉に気勢を上げる長宗我部軍が讃岐から突如現れ、一気に織田家が占領していた白地城へと強襲を仕掛ける。

「長宗我部の鬼子は実に神出鬼没だな・・・このまま白地城を落とされてしまっては、さらに状況は悪くなる。急ぐぞ! 奴らがこれを落とす前に、逆にこれを包囲して殲滅する!」

1613年4月26日。

井伊直政率いる織田軍2,500は、白地城を包囲する長宗我部軍1,100を攻撃するべく、讃岐山脈と法皇山脈の間に横たわる隘路を全速力で駆け抜ける。

先行した物見からの情報によると、いまだ長宗我部軍は白地城の包囲を続けているらしく、城の眼前に横たわる吉野川の存在もあり、かなり攻めあぐねている様子だ。

これは好機。城の手前にいる少兵をすぐさま蹴散らしたのち、城兵と合流し、包囲していた長宗我部軍を逆に全滅させるのだ!

狙い通り、白地城の直近に陣取っていた長宗我部軍を一気に蹴散らした織田軍。そのまま、白地城に近づき、城兵たちと合流しようとしたところで・・・

ぱぱぱぁぁぁん・・・・

 

「兵部殿ッ! 城から銃撃が・・・白地城はすでに、長宗我部軍によって制圧されていた模様ッ!!!!」

「な――に?」

血の気が引く思いを感じる直政。これは奴らの謀だったというのか・・・?

それでは、まさか・・・

 

直政が敵の狙いに気が付いたときにはすでに遅かった。

部隊の後方が俄かに騒がしくなり、決死の形相をした伝令が直政のもとに駆け付けると、絶望的な表情で報を告げる。

「後方より長宗我部軍伏兵が出現。御味方の軍が次々と敗れ、潰走しております!!」

それは凄惨な光景であった。

仲間の兵が次々と敵兵によって屠られ、逃げ惑う兵は他の兵と絡み合い、足を取られている隙に背後から槍で突き刺され、絶命する。

なんとか逃れようと吉野川を渡ろうとした兵の幾人かが流され、あるいはそのまま力尽きて、四国三郎と呼ばれた名川を赤い血で染め上げることとなった。

とくに長宗我部軍の土佐吉田氏の3人――政重康俊重親の活躍は目覚ましく、競うようにして織田兵の屍を築き上げていった。

それでも、直政は整然たる撤退戦を組み立て、2,000以上の兵をこの地獄から逃れさせることに成功した。

 

この一連の動き、そして四国での長宗我部軍による井伊軍敗退の報せはただちに、大坂城に残る信雄の耳に届けられた。

「島根に居られる高雄殿の軍勢も、大原の地で敵主力に捕まり、壊滅との由」

武田孫八郎殿が討ち取られるなど御味方の被害は甚大なれど、伊東一刀斎殿の奮迅の活躍もあり、高雄殿は無事、逃れられたとのことです」

伝説の剣豪、一刀斎。中国攻めの際、浪人していた彼を捕え、登用することに成功していた。

 

伝令の報告を聞きながら、信雄は落ち着いた様子で押し黙っていた。周囲の家臣たちも皆、緊張感を覚えながらも彼の次の言葉を待っていた。

「――そうか、於次の倅めが・・・儂を裏切ったか」

クククッと信雄は笑う。

「良いだろう。根切りにしてやる。まずは九鬼――貴様からだ」

 

 

根切り

1613年5月10日。

九鬼水軍の長、九鬼守隆は、在田郡鳥屋城にて報告を受けていた。

村上水軍と連携しての、紀伊水道から瀬戸内海にかけての制海権の確保。ここを通ろうとする織田軍の妨害を行い、彼らを四国に閉じ込めておくという任務である。

「ふう」

腰掛けに座り、溜息を一つ吐く守隆。既に事を為した今でさえ、彼は変わらぬ後ろめたさと恐怖とを抱き続けていた。

父・嘉隆が織田家から受けた恩を忘れたわけではない。熊野新宮)在田の地を与えられ、吉野の領有も認められている。全ては、父の奉公と、これに対する織田からの恩賞によるものであった。

それは感謝している。その恩に報い続けるべきだとも感じている。

だが一方で、織田家によるの領有以来、それまでは織田家の加護の下保証され続けてきていた九鬼家による紀伊半島東西交易の独占が脅かされ始めていた。

織田家は自身の直轄領とした堺における交易の利益を最優先とし、九鬼家の交易路とその下流に位置する大坂・あるいは瀬戸内交易との「間」に入り込む姿勢を見せていたのだ。

 

さらに、今回の四国攻め。元より九鬼家は長宗我部とは友好関係を保っており、彼らの行う南海航路との接続は九鬼家の大きな稼ぎ頭の一つだった。

故に長宗我部と織田家とが開戦しないよう、父の代から求め続けていたのだが、2年前にその父が亡くなったことで、織田家中における九鬼家の発言権は失われつつあったのだ。

そこに、羽柴と長宗我部から、瀬戸内交易の要所・備前の割譲と長宗我部家南海航路における独占交易権を条件に協力の申し出を提示された以上、守隆に選択肢はないも同然であった。

これは仕方のないことであった。九鬼家の繁栄を守るためには、こうするほかなかったのだ。

「守隆様、ひどくお疲れのご様子。お早目にお休みされては如何」

父の代からの家老・長秀の言葉に、守隆も頷く。「ああ・・・そうさせてもらう」

守隆が覚束ない様子で寝所に向かうのを確認し、長秀は城の搦手門へと密かに足を運び、そこに潜んでいた織田の密偵たちと接触した。

突然の当主の死によって、九鬼家の家督はわずか9歳の良隆のものに。

これを補佐する母・栄と家老・長秀の主導により、九鬼家はすぐさま織田への臣従を表明。これで織田家に対する「網の目」の一角が崩れることとなった。

 

 

「――次は長宗我部、貴様の番だ」

 

1613年7月。

織田軍は大坂で新たに招集した3,000の兵と、柴田軍3,800の兵とを、制海権を取り戻した淡路を通らせて阿波の井伊軍2,700と合流させる。

この支援を買って出たのが、阿波国主の安宅氏。元々は北淡路の洲本城を有していた三好一族の傍流だが、その後この地を支配した羽柴家が混乱していた時期に安宅神五郎が反乱を起こし阿波から淡路全域を領有。今はその嫡子・親盛が当主を務めるが、元々の主君筋で阿波国主であった十河存保を追放した羽柴家への恨みと、この海域での影響力獲得の好機を得るため、織田家への全面的な協力を申し出た。

総勢1万を超える圧倒的な兵力を前にして、さしもの長宗我部信親もどうすることもできず。

その本拠地たる香美郡・安芸城にて行われた決戦で文字通り「根切り」が繰り広げられることとなった。

白地城の戦いで織田軍を苦しめた吉田一族の一人、康俊も、信親を逃がすための殿軍にてその命を落とした。


信親自身はこの戦いで取り逃がしてしまったものの、その間に安芸城は落城し、信親の弟の香川親和も切腹。さらに信親の妻・西園寺前子を捕えることにも成功する。

 

「もはやここまで、か。父上の夢見た四国一統は叶わず。結局の所、徒に犠牲ばかりを増やし、織田を止めることも能わず。我はあまりにも愚かよの」

土佐の山中で燃え盛る安芸城を眺めつつ、信親は自嘲気味に呟いた。

「そんなことはない」

傍らに立つ、信親が従兄弟・香宗我部親氏が否定する。

「我々一門も、また家臣たちも皆、元親公の代より、貴殿ら父子の夢を共に追うことに、楽しみを覚えてきた。此度、織田と敵対し、多くの仲間達が討ち死にあるいは城と運命を共にすることとなったが、それでも多くの者がそのことに誇りを抱き、後悔することなくその命を散らしているだろう。

 とりわけ、貴殿ら父子の魅せる、かの軍略の見事さ。我々は常に、敗走する敵兵達を眺めやりつつ、胸のすく思いであった。確かに此度の戦には負けはしたかもしれないが、長宗我部家の矜持は、何一つ敗れていないと感じている」

親氏の言葉を、信親は無言で受け止める。やがて、決心したように呟いた。

「ありがとう。私も、貴殿らと共にこの人生を駆け抜けられたこと、誇りに思う。決めたよ。我は降伏する。これ以上、四国の民を苦しめるわけにはいかない。この首と引き換えに、この戦いを終わらせることとしよう」

「承知した。我も最後まで、お供しよう」

 

かくして1613年12月19日。織田信雄を生涯苦しめ続けた長宗我部家はついに降伏。四国の支配者としてのその名は永遠に潰えることとなったが、一方で信雄を2度敗北せしめた父子として、その名は永遠に語り継がれることとなったという。

 

 

「さて――」

報告を受け、信雄は満足そうに頷く。

「秀親――最後は貴様の番だ」

 

 

敦盛

1613年12月末。

四国の長宗我部敗北を知り、これの救援に向かおうとしていた羽柴軍8,300は慌てて瀬戸内海を東方に逃亡。

1月に姫路に上陸するが、そこからもさらに北上。

そして丹波国・氷上にてついにその一部が捕えられてしまう。

尾張浅井家の浅井長時率いる1,400の軍勢がこれに挑み、壊滅させられるが、その隙に羽柴軍本隊は再び南下。

これを追いかけた織田軍は、4月に播磨国・神崎郡にてこれをついに捕えた。

双方の死者が合計6,000名近くにまで上るようなこの激戦の中で、数多くの名将たちが傷つき、あるいは命を落としていった。

これでほぼ半壊状態となった羽柴軍は、捨て身の覚悟で残存兵を率いて東、大坂城へと向かう。

しかし、武庫の地にまで届いた所で追討軍に追いつかれ、眼前にも大坂城から出てきた織田軍・同盟国の上杉軍などに囲まれ、ここで決戦と相成った。

 

「高秀、このような無謀な戦いにお前を巻き込んでしまい、申し訳なく思っている」

白川峠から見下ろした先の平野部に広がる織田同盟軍の兵の群れを眺めやりつつ、羽柴家当主・秀親は傍らの弟に声をかけた。

「いえ、兄上。すでに戦の前にて何度も、そのことはお話をしているではありませんか。我らは亡き父が遺した唯一の血を分けた男兄弟。その命運は一蓮托生で御座います」

高秀は力強く頷く。秀親にとって、唯一心許せる存在である、この高秀。側室の子ではあったが、たとえば同母弟がいたとしても、ここまで愛することができたとは思えないだろう。常に誠実で、人の痛みが分かる男であった。

「それよりも、許せぬのは叔父上たちです。織田に恨みを持つ心は同じでしょうに、兄上の誘いを幾度も断り、未だ京都より身動き一つしようとしない。羽柴一門の矜持よりも、保身を優先しようとするその思惑・・・」

「良い、良い。彼らは彼らなりに、羽柴の血を後世に遺そうと必死なのだ。それに、彼らにとって我々は、実際に血を分けた存在とは言えぬだろうからな」

そう言って、秀親は微かに笑った後、おもむろに唄い始めた。

 

 思へばこの世は常の住み家にあらず

 草葉に置く白露、

 水に宿る月よりなほあやし

 金谷に花を詠じ、

 榮花は先立つて無常の風に誘はるる

 南楼の月を弄ぶ輩も 

 月に先立つて有為の雲にかくれり

 

「兄上、それは・・・?」

高秀の問いに、秀親は答える。

「我らが祖父が、人生最大の戦いを前にして、舞いと共にかくの如く謳ったという。その戦いは圧倒的に不利な中での絶望的な状況ではあったが、祖父公は見事その戦いに勝利し、その後昇り龍が如く世にその名を知らしめたという。そういえば、そのときの祖父公は、今の我らと丁度同じ年頃でもあったという」

「――左様で御座いますか。それならば、我らもまた、この戦いに勝利せんと」

秀親は高秀の言葉にフ、という微笑で応える。その直後、伝令より、織田の軍が動き出したとの報告が入る。

 

羽柴秀親、その生涯、最後の戦が幕を開ける。

それは一方的な虐殺であった。四方を山と海、そして湿地帯とで囲まれた武庫の地に逃れられる場所などなく、羽柴方の兵卒はすべて残虐に皆殺しにさせられたという。

但し、秀親と高秀の兄弟の身柄だけは、信雄のもとに届けられることとなった。

それは信雄たっての要望であった。「必ず、無事に我の下に引き連れるように」と。

 

 

そして、1615年1月5日。

大坂・道頓堀刑場。

ここに設けられた処刑場に、羽柴秀親・高秀の両名が並ばされていた。白装束を身に着け、両名は抵抗する様子もなく目を伏せ、その瞬間をただ待っていた。

いざ、執行人が刀に手をかけ、振り上げようとしたそのとき。

秀親は朗々とその唄を口ずさみ始めた。

 

 人間五十年、

 下天のうちを比ぶれば、

 夢幻の如くなり

 一度生を享け、

 滅せぬもののあるべきか

 これを菩提の種と思ひ定めざらんは、

 口惜しかりき次第ぞ

 

執行人は彼の唄が謳い終わるのを待ち、その刀を振りかざした。

この様子を見ていた周囲の織田紋を付けし侍たちは、皆一様に、涙を流したという。

 

かくして、1612年2月の四国攻めから始まった一連の「虎狩りの役」は、その完全鎮圧までの間に丸3年間という長い月日を要することにはなったものの、最終的には織田信雄という男の強大さと恐ろしさとを世に知らしめる結果となり、終結した。

 

戦後、反乱に加担しなかった羽柴一門はその命こそ奪われはしなかったものの、山城や近江に所有していたその領土を悉く取り上げられ、蟄居を命じられた。

取り上げられたその領土はその殆どを信雄の子どもたちに配布され、中国から畿内に至るまで、織田一門の影響力がより高まる結果となった。

さらに、一連の戦役における多大な武功を評価され、井伊直政には長宗我部家が領有していた土佐および四国各地の領土を丸々と譲渡。一躍、織田家中における最大勢力の一角へと上り詰めた。

同じく武功、のみならず外交においてもよく信雄を助け、嫡男・秀雄の岳父でもある細川忠興には、竹野・大飯の2州を加増。

また傀儡の毛利家当主として織田家に対する忠誠を行動で示し続けた毛利秀包には、反乱に加担した毛利元景の領土も含む美濃・石見那賀・越智郡の3州を加増し、これもまた織田家中における有力大名として名を上げることとなった。

また九鬼家は反乱に加担したものの、早期に自ら降伏を願い出てきたことを受け、飯高・志摩・吉野の地は取り上げられたものの熊野(新宮)・在田の地は引き続き安堵され、南海交易路における優遇もまた引き続き認められることが決定した。

 

 

戦いは終わった。

混乱に陥った織田家内はひとまずの平穏を取り戻し、その勢力をさらに拡大していくこととなる。

次なる狙いは西国の果て、九州

しかし、この地に住まう獰猛なる「鬼」の一族が、信雄に大いなる「悲劇」をもたらすこととなるーー。

 

 

第七話、「緑川の戦い」編へと続く。

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*1:毛利輝元の嫡子。架空人物。史実の嫡子である秀就はこの世界ではわずか5歳で天然痘にて亡くなっている。

*2:名目は秀親の弟の高秀を新たな将軍として推戴するというものであるため、以下では「高秀による幕府請求戦争」という名称が用いられている。

*3:吉川元春の孫。