リストリー・ノーツ

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【CK3】江戸城の主・起 関東不双の知恵者・太田道真(1455-1475)

 

時は室町時代末期。

天下は八代将軍・足利義政の代であったが、嘉吉の乱以降の混乱により既に幕府の権威は地に堕ちており、地方では地場の有力諸侯がほぼ独立した権力を握り始めていた。

ここ関東も例外ではなく、関東管領に任ぜられた山内上杉家が関東一帯を支配。本来は鎌倉公方を補佐する役割だったはずの彼らが、幕府の意向を後ろ盾とし、次第に主君・鎌倉公方に対し平然と対立するようになっていった。

この対立が頂点に達したのが享徳三年十二月二十七日(1455年1月15日)に起きた、鎌倉公方・足利成氏による関東管領・上杉憲忠の暗殺事件。これをきっかけとし、山内上杉家とその分家・越後上杉家、そして山内上杉家の家臣として相模守護に任ぜられていた扇谷上杉家とが連合し、成氏との戦争状態に突入することとなった(享徳の乱)。

 

この、関東の支配権を巡る上杉家と鎌倉公方との対立の背後に、その一族がいた。

扇谷上杉家の家宰として圧倒的な権力を誇り、武蔵国東端に河越城江戸城を築くなど、主君・扇谷上杉家をも凌ぐ程と称されるようになっていく、太田道真資長父子である。

史実ではその権勢を恐れた主君によって暗殺され、歴史の表舞台から消えることとなる彼ら一族。

英雄が消えた後の関東は、伊勢盛時の血族がのさばるような混沌の状態に陥ることとなった。

 

――然して今回は、この運命に逆らおう。

悲運の名家・太田家を導き、関東を正しき秩序のもとに統一することを目指していきたいと思う。

 

Crusader Kings Ⅲ AAR/プレイレポート第8弾、Shogunate「享徳の乱」シナリオ「太田家」編、ここに開帳す。

 

Ver.1.11.3(Peacock)

使用DLC

  • The Northern Lords
  • The Royal Court
  • The Fate of Iberia
  • Firends and Foes
  • Tours and Tournaments
  • Wards and Wardens
  • Legacy of Perisia

使用MOD

  • Japanese Language Mod
  • Shogunate(Japanese version)
  • Nameplates
  • Historical Figure for Shogunate Japanese
  • Invisible Opinion(Japanese version)

 

目次

 

第2回以降はこちらから

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下剋上

河越城会談

康正二年十月十一日(1456年11月17日)、太田資長は築城されたばかりの河越城を訪れていた。この城の築城主であり、相模守護・上杉顕房の家宰であり、そして資長の父でもある太田道真に対面するためである。

「父上、実に見事な御城で御座います。我もこれに見習い、只今江戸城を築きつつありますが、いやはや如何ほどのものにならん」

「何を言う。聞かば、汝が城も中々のものというではないか。儂は築城の才しか持たぬが、汝はあらゆる分野において才を持つ者。儂もいつでも隠居できるよう、越生に庵を建てておるところだ」

「何を仰りますか、父上。父上は関東管領が家宰・長尾殿と並び関東不双の知恵者と呼ばれる程の傑物。若き三郎殿もお支えになられ、その信頼も厚いでは御座いませんか」

資長の言葉に、道真の表情がふっと暗くなる。それを見て、資長もわずかに姿勢を正す。

「三郎殿の信頼も厚い、か。果たしてそうかな」

「――と、言いますと」

道真は少し前屈みになり、声を顰めて資長に語りかける。

「先達ても三郎殿は我が兵営にお越しになり、閲兵されていったが、その際にも何かと文句を付け、気に入らない様子であった」

上杉三郎こと相模守護で扇谷上杉家当主・上杉顕房。史実では享徳の乱勃発直後の分倍河原の戦いで戦死するが、この世界ではしっかりと生き残っている。

 

「長尾殿に密かに話を聞くに、どうやら三郎殿は関東管領殿に対してもよからぬ感情を抱いているようだ」

「三郎殿からしてみれば、今の関東管領殿は、京より派遣されてきた部外者のようなもの。山内上杉家の弱体化に伴い自分たち扇谷上杉家が主導権を握れると算段していた中で、面白くないところもあるのかも知れませんね。

 しかし、元々はその絵図は三郎殿の父君たる道朝殿が描いたものと存じておりますが」

「その通りだ。その機微も知らず、若き感情に任せて分別を弁えぬ振る舞いは、ともすれば主君としての器量にも疑問を抱きかねぬな」

道真の剣呑な言い回しに、資長は緊張感をより一層強めた。覗き込んだ父の目は、真っ直ぐに資長を貫いていた。

「――ともあれ、この辺りの動きは、どうやら背後で小田原城主・大森殿が動いているようだ」

「成程。扇谷上杉家内にて、大森殿は父上に次ぐ立場。我々を追い落とすことで、家臣筆頭の座を奪い取ろうという算段ですね」

「ああ。奴が我々を中傷し、三郎殿を惑わし、もしものことがありうるのであれば――我々は、為すべきことをせざるを得んだろう。

 ゆえに鶴千代、我々は共に役割を分け、『その時』に向けての準備を進めていく必要がある」

「は――」

資長は首を垂れ、力強く頷いた。

「――しかし具体的には、どのように?」

「儂が外交を担う。汝は数ある才の中でも最も得意とするその関東無双の武威を用い給え。今は戦乱の時。活躍の場は至る処に在るだろう。

 その間に儂は――京へと向かう」

「京へ?」

「ああ――管領殿が開かれる歌会に、招かれておるのでな」

 

管領・細川勝元

康正二年十一月十七日(1456年12月23日)。

京で開かれた管領・細川勝元主催の歌合せ会。

それ自体はアイヌ人の首長が勝利するなどあまりにも意外な結果が生まれたりもしていたが、もちろん道真の目的は他にある。

日本語すら使えないんだが。

 

「いやあ、見事でしたな、道真殿。さすがは関東に聞こえし名歌人なり」

「河越千句」の逸話でも有名な太田道真は「詩人」の特性がデフォルトで付いている。息子の資長も同様。

 

「何、拙者などまだまだ。あと十数年は修行が必要と考えております。その頃にはこのような壮大な歌会を関東でも開きたいところですな。寧ろ、我が息子・資長の方が才があるやも知れませぬ。いつか、管領殿にも会わせたく存じますな」

「ほう、それは是非とも」

他愛ない会話を暫し交わしたのち、いよいよ道真は本題へと迫る。

「――ところで管領殿、何やら近年、京でも不穏の様相がある御様子」

「ほう、口のみならず耳も良いのか」

細川勝元はニヤリと笑う。

「察しの通り、先来の畠山家お家騒動に因み、政権内は常に混乱し続けている。首尾一貫しない将軍の采配に不満を持つ者も多くなっておる」

ふ、と勝元の表情が真剣なものとなる。

「道真殿――もしも、天下を差配する責任有る者に不足あり、世が乱れるとしたならば、これを補佐する責務ある者は如何にせん――?」

勝元の言葉に、道真は暫し沈黙する。彼の意図を探るべく、その双眸の奥深くまでを覗き込もうとする。

やがて、道真は口を開き、答えた。

「今や、幕府存亡の時。日ノ本を取り返しの付かぬ災厄に巻き込ませる前に、適切なる統治を果たすべき責任を持つ者が、行動を起こすべきかと存じます」

道真の言葉に、勝元は満足気に頷き、再び口の端を広げた。

「うむ――道真殿、世の為、そして真に幕府の為に、共に下剋上の徒とならん」

勝元の差し出した手を、道真は迷いなく握り返した。

 

太田家の拡大

その頃、関東では、二年前から継続していた享徳の乱がいよいよ大詰めを迎えていた。

当初、双方の戦力の均衡より長期化が見込まれていたこの紛争も、越後上杉家も含めた積極的な介入と、そして扇谷上杉家家宰たる太田家の嫡男・資長の圧倒的武威が発揮され、次々と野戦にて勝利。

鎌倉公方足利成氏方の拠点は次々と制圧されていき、長禄二年正月(1458年2月)には成氏も降伏。

関東管領・山内上杉家が擁立していた成氏の兄・義氏を新たな鎌倉公方として確定させ、長らく続いていた関東管領と鎌倉公方との戦いは「一旦」落ち着きを取り戻すこととなった。

史実でも山内上杉家に享徳の乱で山内上杉家によって擁立されるこの義氏(還俗前は「成潤」と称されていた)は、史実では1457年の時点で病死してしまう。この世界では無事これを乗り切り、見事新たな「鎌倉公方」となることができた。

 

そして前回の永享の乱に続きこの乱でも活躍した太田家に対し、直属の主君・扇谷上杉家のみならず、その上の関東管領・山内上杉家からの覚えもよくなり、次第にこの両者が結びつくようになる。

山内上杉家家宰・長尾景仲との関係も密なものとなり、実質的に山内上杉家を支配する彼の許しを得て、太田家は周辺の諸侯を支配下に収め、拡大していった。

そして道真は、時間をかけてじっくりと、主君・扇谷上杉家の持つ「相模守護」職を太田家が継承することの道理を固めていったのである。

顕房の実力ある家臣たちの中からも、道真に寝返る者が現れ始めていた。

 

ただ――如何に関東内部でその理屈を積み上げられたとしても、京の幕府がこれを許すかどうかは別であった。

寧ろ、世の秩序を乱す「下剋上」の風習を誰よりも嫌うのが幕府であり、何としてもこれを抑えようとするであろうことは予測できたことであった。

故に、道真は待っていた。「その機会」が訪れることを。

そしてそれは、寛正四年(1464年)に訪れる。

即ち、将軍・足利義政に対する大反乱戦争。

発端は尾高久倫という山陰の農民が中心となって起こした一揆だったが、これが瞬く間に拡大し、西日本全土を巻き込むほどに。

そこに、同じく西日本で勢力を誇っていた管領・細川勝元と一族の備中守護・細川勝久、さらには故・山名宗全の後継者たる播磨守護・山名政豊を中心とした山名一族が同調し、地方を困窮せしめる幕府に対する抗議という名目で一度に挙兵するに至ったのである。

 

これで、中央政府は関東に口出しする余裕を失った。

これを見て、ついに道真は動き出す。

 

寛正の政変

寛正六年五月二十五日(1465年6月27日)。

太田道真は主君・上杉顕房に対し宣戦を布告。大義名分は、顕房に関東管領・上杉房顕に対する謀反の意有りとの由。これを房顕の家宰・長尾景仲が追認したことで、疑惑は事実となった。

押し寄せる太田家の軍勢に、顕房の軍もたまらず退却。先の享徳の乱における太田軍総指揮官・太田資長の武威を十分に理解していた元同胞の軍指揮官たちは、これとまともにぶつかることを良しとしなかった。

そうしている間に顕房が本拠としていた小田原城は包囲され、十ヶ月の後にこれを陥落。

翌文正元年十二月(1467年1月)には多東・石神井城近辺で決戦が行われ、顕房軍が壊滅。顕房自身も捕えられたことでついに降伏と相成った。

関東管領・上杉房顕にもこれを認められ、道真は無事に相模守護、そして「大名」となることができたのである。


――だが、彼の野望はそれで終わりではない。

「関東不双の知恵者」の鋭い目は、さらにその「先」を見据えていた。

 

 

関東平定

長尾の兄弟

応仁元年五月二十七日(1467年7月7日)。

道真は関東管領・上杉房顕の家臣である伊豆守護・上杉朝定主催の狩りへと参加していた。

この狩りには関東内で上杉房顕に従う諸勢力が一堂に会するものとなったが、その中でも太田家の勢力は筆頭格に位置するものであった。

そこで道真はある人物の姿を探していたのだが――見つからない。

仕方なく道真は、その人物の「弟」に声をかけることとした。

「景明殿、景信殿はお越しになられておられぬ御様子か」

「ええ。兄上は政務にて多忙とのことで河越城にて待機しておる」

「成程。左衛門尉殿がお亡くなりになられてまだ数年。諸々整理せねばならぬ事も多いだろう故、仕方あるまいな。儂もお手伝いできる事あればと思い、お話したかったものだが・・・」

長尾景信。父である左衛門尉景仲が1463年に亡くなり、家督と山内上杉家家宰の職を相続した。

 

「まあ、多忙というのは半ば口実のようなものだと思うが・・・」

少し影を差したような表情で景明が呟いたのを道真は見逃さなかった。

「何か気にかかることが?」

景明は少しだけ道真を見つめたのち、躊躇いがちに口を開く。その声量は抑えられ、周囲を窺いながらの話し方であった。

「道真殿は信頼に足るお方だと信じてお話ししましょう。兄上は、我々兄弟にも何かと隠し事をしながら物事を進めている御様子。主君・房顕様とも密談を重ね、その内容も秘して教えて貰えぬ。一体何故我々を信頼しようとせぬのか、そんな状況では我々の方でも兄を信頼することなどできぬ」

小声だが早口で捲し立てる景明。よほど鬱憤が溜まっていたようだ。道真はうんうんと頷きながらこれを聞く。

「孫六兄も同様の意見を持っておられる」

「なんと、忠景殿も」

末弟の景明のみならず、景信次弟の忠景までも景明同様に不満が溜まっていると聞き、道真は心の中でほくそ笑む。

「――承知致しました、景明殿。景信殿も何かご事情あっての事と察しますが、関東管領が家宰たる長尾家内で揉め事があっては一大事。私からも必ずや景信殿にはお声掛けし、景明殿のご不安の解消に努めさせて頂きます」

「え、ええ。・・・それと道真殿、偉大なる父・景仲亡き後、この壮大なる関東管領を護るためには、我ら三兄弟共に力を合わせ解決せねばならぬと思っております。故に、その、決してその成功は兄だけの功績ではないと」

「――ええ、ええ。分かっております、景明殿。私も元は扇谷家家宰たる身。我が老身において出来うる限りを尽くし、景明殿らの功績に報いる御対応を、景信殿や房顕様にはしかと御願い申し上げる所存で御座います」

柔和な笑みと共に語られた道真の言葉に、景明はほっとした表情を見せる。

「頼みます、道真殿。私にとっては道真殿こそ真に信頼に足る兄上のようにさえ思います。是非とも、若輩たる我らを教え導き、この関東を安泰させ給う」

差し出した景明の手を、道真はしっかりと握り返した。

 

そして、その足で道真は、主君・房顕の元にも近づいた。傍にはこの狩りの主催者たる朝定や、先ほども話に出た景明の兄・忠景の姿があった。彼らと話し込んでいた房顕が道真の姿を見かけると、笑顔と共に大きく手を振った。

「おお、道真殿。丁度貴殿の話をしておったところだったのだ」

「拙者のお話を? 恐縮です。一体どのようなお話でしょうか」

「いやはや、貴殿のお話と言えばもちろん、兼ねてよりのご活躍に決まっております。先も扇谷家の謀反を未然に防ぎ、嫡子の資長殿の武勇と鎌倉公方との戦いにおける働きぶりは、関東、のみならず日ノ本随一の父子であると評判で御座います」

傍らの朝定が世辞を並べ立てる。忠景は黙ってはいたもののその表情は柔らかく、彼らが自分に対して敵意の類は持っていなさそうだと道真は判断した。

「そのように仰って頂けるのは嬉しくもありますが些か照れも御座いますな。それに、理由有りとは言え、主君に刀を振るうという行為に及んだことは強く恥づべき事とも感じております。許されるならばすぐにでも隠居し、全て息子に任せてしまいたいくらいです」

「――それは困る。資長殿も実に頼りになるお方だと思ってはおるが、道真殿が完全に政務から離れてしまっては不安も残る。これからも我ら上杉を支えて頂きたい」

道真の言葉に慌てる房顕。その様子に道真は笑いながら返す。

「もちろん、房顕様、拙者も本気ですぐにとは考えておりません。拙者にはまだやり残したことがあると思っておりますからな」

「やり残した事?」

忠景が訝しげに尋ねる。

道真は少しだけ周りを見渡し、そして声を潜めて話し始めた。

「房顕様。先達ての戦いで新たな鎌倉公方に据えた義氏の件について、やや剣呑な噂が飛び交っていると聞きます」

房顕は左右の男たちを心配そうに目配せしたのちに、まっすぐ道真を見つめて返答する。

「ああ――その通りだ。元より我らの力によってその地位を得たにも関わらず、この所そのことを忘れたかのように横暴な振る舞いが目立つ。お飾りに過ぎぬのに、まるで本当に我らを家臣であるかのような態度を繰り返すあの男に、正直、我慢がならなくなってきている。このままでは10年前の戦乱の再来ともなりかねんと、奴は理解しておるのか」

「同感で御座います、房顕様。とは言え、関東管領の立場から大義名分もなく仕掛けるのも、なかなか難しいのではないかと思料します」

「その通りだ! そこが悩ましいところでな。景信とそこは日夜話し合うも、良い案が浮かばぬ」

傍らの忠景が少し驚いた顔を見せたことに、房顕が気付いた様子はない。

道真は笑みと共に房顕に語りかける。

「では、その大義名分を拙者が持ってきましょう」

何、と房顕は驚く。忠景はもちろん、ニヤついた表情を浮かべ続けていた朝定さえもその表情を変化させた。

「できるのか」

「ええ、宛ては御座います。とはいえ、正道とも言えぬ為、拙者も単独で事を起こす手筈を考えております。房顕様は、それを後に追認してさえ頂ければ」

「そ、そうか・・」

「ええ、こういった荒事は我ら太田に任せ給え」

頷く房顕。訝しげに道真を見やる忠景。何のことかわからないという顔をしている朝定。

三者三様の反応の中で、道真は想定通りに道が作られていく手応えを感じていた。

 

上洛

応仁元年八月九日(1467年9月4日)。

道真は息子・資長を連れて京の花の御所(室町殿)を訪れていた。今回は、細川勝元との面会が目的ではない。むしろ彼がこれを先に知っていれば、何とか止めようとさえしたかもしれない。

実は先達て、伊豆の狩りよりも前に、道真は一通の手紙を受け取っていた。それは、現将軍・足利義政から直々に送られし書状であり、その内容は彼の弟である足利政知と、資長の長女のとの婚約を申し出る内容であった。

今回の件で幕府公認の相模守護になったとはいえ、まだまだ一地方の大名に過ぎず由緒も何もない太田家に対するこの申し出はあまりにも破格であり、その狙いが太田家の持つ実力にあるというのは明白であった。

それだけ幕府、そして将軍・足利義政は追い詰められていた。

先の「尾高久倫の乱」の結果、幕府の権威は大きく失墜し、畿内・西国を中心に諸勢力が幕府からの実質的な独立を果たす。反乱に直接加わった細川・山名はもちろん、畠山や斯波といったこれに加わらなかった者たちも、である。

彼らは更なる幕府権力の縮小を画策しているようだが、これに対し幕府権力の回復を求める勢力も勿論おり、その筆頭となるのが義政の教育役でもあった政所執事・伊勢貞親。今回の政知と太田家との婚姻の話を進めていたのもこの男であった。

 

「遠路はるばる、良くぞ参った。関東にて貴殿らの活躍、よく耳にしておるぞ」

上座に座りし義政は、道真・資長父子に向けて厳かに言い放った。その表情には疲労の様子が浮かび、近年の幕府状況の悪化を明確に反映していた。

「畏れ多き事。寧ろ京の混乱に参陣できなかった事、悔やむ思いで御座います」

道真は顔を伏せたまま応える。傍らの資長も同様に平伏する。

「構わぬ、構わぬ。それよりもこれからをこそ是非、我らの力になって貰えれば」

「は。勿論で御座います。此度、実に名誉な事をお申し出頂き、恐縮至極で御座います。改めて主君・関東管領共々、上様の御力になれるよう、尽力する所存で御座います」

そこまで言った後、道真はゆっくりと顔を上げ、義政を見据えた。その真っ直ぐな視線に貫かれ、義政は思わず傍らの貞親を見やる。

「一点、お願いしたいことが御座います。我らが今後、上様の危急を助くるに値する状況と実力を得るべく、関東の統一が、早急に必要となってきております」

「――と、言うと」

「先の乱において、鎌倉公方には新たに義氏殿を据えられておりますが、この義氏殿も再び不穏なる様子を見せております。いよいよ、関東の権力二元体制を改め、関東管領の下で一統すべき時ではないかと思いますが、如何でしょうか」

「私も、同意見です」

と、傍らより伊勢貞親が口を挟む。彼とは事前に話を付けていた。

「現在の鎌倉公方・足利義氏は、現在の地位はあくまでも上様の恩寵により与えられているという事実を忘れ、父の持氏、弟の成氏と同様に、立場を弁えぬ意向をお持ちの御様子。畏れ多きことに、足利から独立した独自の鹿沼なる王朝を打ち立ててさえいることが、その何よりの証左で御座います」

「成程・・・奴らにとってみれば、京がこのように混乱している状況は、独立の絶好の機会というわけか」

「ええ、その通りです」と道真。「このまま彼らを捨て置く訳にはいきませぬ。上様の御赦しさえ出れば、すぐにでも我々が兵を出し、これを叩き潰してみせましょう。地方にて上様に忠実なる勢力がこれに反抗する勢力を滅ぼすという場面を見せることで、上様の権威も自ずと高まることでしょう」

「確かに・・・確かに、その通りだな」義政は興奮し、やおら立ち上がった。

「良いだろう。我が許可する。太田道真・資長よ、貴殿らの力を用いて逆賊・鹿沼義氏を打倒せよ。そして、鎌倉公方を滅ぼし給え! これより関東は貴殿らが主・関東管領のものとする!」

 

応仁の乱

応仁元年九月四日(1467年10月11日)。

相模国守護及び武蔵国守護代・太田道真の名において、鎌倉公方・鹿沼義氏に対し、幕府への謀反の疑い有りとの嫌疑にて宣戦が布告される。そして関東管領・上杉房顕はこれを黙認した。

ただちに出兵した太田軍1,700名が、本拠地・古河を後にして慌てて逃亡する鎌倉公方軍950名を追いかけ、結城の地にて最初の激突が繰り広げられる。

戦いは思いもかけず激戦となった。違いに数多くの死者を出す混戦となり、その中で総指揮官の太田資長が重傷を負うという場面も。

この戦いで負傷した資長は、以後片足での生活を余儀なくされる。

 

それでも続く久良岐の戦いなどでは圧勝を重ね、次第に鎌倉公方方は追い詰められていく。

そして応仁二年七月十六日(1468年8月13日)。

古河・鎌倉といった敵重要拠点をすべて制圧し終え、義氏もついに降伏。

最終的にその鎌倉公方という役職も廃止され、関東はついに関東管領の権威による一元統治が実現したのである。

 

だが、その直後に関東はさらなる混乱に巻き込まれることとなる。

 

突如、上杉家内での大規模な内紛が発生。

挙兵した反乱側には、上杉家家宰・長尾景信の弟である忠景・景明の姿もあったという。

 

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「――実に騒々しいな、全く」

関東北部、関東八屋形の一つに数えられ、繁栄を極めた宇都宮氏の居城にて、訪問していた道真に対し、現当主・宇都宮等綱は吐き捨てるように呟いた。

我が生まれし頃よりすでに五十年。この関東は常に戦乱に巻き込まれ、多くの人が死に、涙を流してきた。余りにも長すぎる」

「仰る通りです、等綱殿」

等綱の言葉に、道真は頷く。

「貴殿の父上を横死させた逆賊・鎌倉公方は勿論、今や、関東管領職を戴く上杉家ですら、この地を安定させることままならぬ御様子。もしもここで外来より実力有る者が現れれば、これに靡き味方してしまう勢力がいてもおかしくないほどに混乱し、人々は苦しめられてしまっております」

語りかける道真の目を、等綱はじっと見つめる。

「――道真殿、貴殿がその役割を担うと、言いたいのか?」

等綱の言葉に、道真は無言で、しかしその口の端をわずかに上げる。

「必要と、あらば。既に将軍殿の内諾も得ております。後は、関東の諸勢力が同意さえしてくれれば」

フ、と等綱も笑みを零した。

「我は生涯の仇である足利持氏の子らを滅ぼした貴殿を信頼している。そして貴殿らが、この関東で最も強い一族であることもな。それゆえに、貴殿が娘との婚約を申し出、同盟を結んだのだから」

「ええ――有難う御座います」

言いながら、道真はすっくと立ちあがった。

「それでは、等綱殿、我が人生最後にして最大の下剋上、とくと御覧じ候へ」

 

最後の戦い

永尾忠景・景明兄弟を中心とした反乱軍と、彼らが兄・長尾景信を中心とした管領軍との激突は、文明元年十二月九日(1470年1月20日)に巻き起こった大里の戦いで景信が敗北し捕らわれの身となったことで決着が付いた。

しかしおよそ1年半に及ぶ上杉家内部での全面戦争は、関東の家々を焼き払い、田畑を荒らし、農民を苦しめ、そして上杉家家臣内部での拭い切れない対立を生み出すこととなった。

もはや、上杉家にこの関東を治める力量はないのではないか? そのことを表すかの如く、数多くの不吉な現象が関東を襲い始めていた。

もちろんこれは、今や関東中に大きな影響力を保持しつつあった太田道真と資長の父子が、同盟国・宇都宮家と共に意図的に流通させた風聞であった。

最後に決定的な役割を果たしたのが、文明四年正月十三日(1472年3月1日)に上杉房顕のもとに届けられた一通の書状。それは、将軍・足利義政による、上杉家からの関東管領職剥奪と太田道真の就任を知らせるものであった。

ここにおいて、もはや太田家の優位は覆らざるを得ないものとなった。

上杉家はこれに従いかつての家臣・太田家に服従するか、もしくは無謀な抵抗へと突き進むほかなくなったのである。

窮地に追い込まれた房顕の取った道は――。

 

かくして文明五年二月二十一日(1473年3月28日)。

「関東不双の知恵者」太田道真による、謀略の限りを尽くした最後の戦いが勃発する。


「あの裏切り者め・・・逆賊の徒が・・・すべて謀であったというのか・・・」

太田家の攻撃に備えるべく、関東平野の北部、足尾山地の付け根にある足利荘・勧農城に逃げ延びていた関東管領・上杉房顕は、口惜し気に吐き捨てる。

「先の戦いでも我らが兵力は壊滅・・・もはや、抵抗する術は御座いません」

側近の言葉に房顕はさらに激昂して応える。

「長尾はどうなっておるんだ! 小栗判官は・・・先達ては奴らの要求に従い、景信も更迭し、奴らの利権を認めてやったというのに、この状況に動かねば意味がないではないか!」

側近たちは互いに顔を見合わせ、誰がそれを言うべきか迷っていた様子だったが・・・やがて意を決したようにその一人が口を開いた。

「御屋形様・・・大変申し上げにくいことなのですが・・・長尾忠景殿、景明殿、共に既に太田の軍門に下っているご様子で・・・小栗判官殿も連絡がつかず、よもや・・・」

側近たちの言葉に、房顕は押し黙る。その表情は青ざめ、自らの運命を悟った様子であった。

「何ということ・・・十年前、その勢力を広げさせるよりも前に、暗殺でもするべきだったのか、あの鬼父子は・・・」

側近たちは何も言えず、房顕のその言葉は座敷の中でむなしく響くばかりであった。

 

文明五年八月十四日(1473年9月15日)、上杉房顕は降伏を受け入れ、勧農城を開城。自らも捕らわれの身となった。



かくして、太田道真・資長父子は、関東を平定。将軍・足利義政からも、関東管領の地位を正式に授けられることとなる。

この「新管領」の前に、早速関東中の諸侯らが臣従の意を示し、太田家による大クーデターはひとまずは滞りなく進んでいく様子を見せていた。

長尾忠景もその優秀な能力を活かし、太田家の家宰・筆頭家老としての地位を与えられた。


宇都宮等綱の言葉通り、まさに50年近くにわたり続いてきたこの関東の動乱も、いよいよ決着が付きつつある状況となっていた。

そして、太田道真の命もまた。

 

「――我が息子よ。我は自らの為すべきことをすべてやり切った。そして今、この関東を正義と平穏によって統治すべき重大なる責任を手に入れた。儂はもう、長くはない。息子よ、お前がこの責任を受け継いでいく必要がある。・・・できるな?」

道真の言葉を、息子の資長ははっきりと頷き、受け取った。

「承知いたしました、父上。父上の偉業を引き継ぐことの重圧は計り知れないものは御座いますが、わが生涯をかけて責任を全う致しましょう」

資長の言葉に道真は満足気に頷いた。

 

その後、太田道真は隠居し、息子に家督と共にすべての実権を明け渡した上で、関東中の諸国を放浪した。そこで関東の人々と触れあい、彼らの話を聞き、そしてまた彼も彼の話を彼らに語り継がせるなど、その人生の最後を人々の中で過ごすこととなった。


そうして、文明七年四月十七日(1475年5月30日)。彼は64歳でその生涯を終えた。

太田家、そして新たなる関東管領の地位はその息子にして彼以上の才の持ち主と噂される太田左衛門尉資長改め「太田道灌」へと引き継がれていくこととなる。

然し、それとほぼ時を同じくして、日ノ本は更なる混沌へと導かれていくようになる。


その混乱の影響は、関東にも決して届かぬものではなかった。

 

 

「――そうか、道真が死んだか」

「ええ。後を継いだ太田左衛門尉・・・出家して今は道灌と名乗っているようですが、こちらもまた、中々の曲者と言われてはおります」

「フン・・・良いだろう。我ら一人で事を成せぬのであれば、異なる方法を取ればよいだけ。重景、貴様はそういったことが得意であろう?」

「ええ。勿論、我が全力をもって、我らが敵、太田家を滅ぼす手段を考えましょう」

「うむ――我らが伝統ある関東管領の地位を穢した太田家なる兇徒を、必ずやこの手で滅さん。もちろん、それを許した現将軍も、我が父を殺した伊勢もまた――」

 

――いよいよ、世の混乱は窮まれり、「戦国時代」へと突入していく。

そしてその中で、関東は、太田家は、果たしてその試練を乗り越えることができるのか。

 

第二話へと続く。

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