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【Victoria3プレイレポート/AAR】大インドネシア帝国の夢 第3回 変革と拡大の時代(1876年~1896年)

 

史実における悲劇的な運命に抗うべく、ラジャ・ムダ(副王)のトゥアンク・イブラヒムによる改革が進められていったスマトラ島北部の「アチェ王国」。

最初の20年で地域大国として認められるほどの成長を見せたこの国は、その威厳と資本をもって「インドネシア」地域全域に自らの関税同盟を広げ、バラバラであった多島海の国々の統一を図っていくこととなる。

この動きに警戒心を持ったのが、この地域の支配圏を握っていたオランダ領東インド。本国政府には無断で、単独でアチェ王国に対し攻撃を仕掛けるが、イブラヒムはこれをアアザム親子の活躍によって見事撃退。逆にスマトラ全域、そしてスラウェシ島やスンダ列島など、オランダ人によって支配されていた同胞たちを解放することに成功した。

 

その戦争のさなかに、50年近くに渡りこの国を統治してきたスルタン、アラウッディン・ムハンマド崩御

間もなく、改革を主導してきた副王トゥアンク・イブラヒムも、後を追うこととなる。

 

 

偉大なる牽引者を失ったアチェ王国は果たしてどこへ向かうのか。

そしてその先に、「大インドネシア」の統一は果たされるのか。

 

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目次

 

前回はこちらから

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内戦の危機

アチェ王国第31代目スルタン、アラウッディン・ムハンマド・ダウド・シャーが崩御し、その嫡男であるアラウッディン・スレイマン・アリー・イスカンダル・シャーが即位。

しかし強力な伝統主義者でアヘン中毒でもあるこの男は、今やトゥアンク・イブラヒムの改革によって弱体化され尽くしていた貴族勢力の言いなりも同然であった。

すでに諸改革により自由主義的な政策の恩恵に預かっていた大多数のアチェ臣民からは「大衆の敵」と目されるほどに嫌われているこの男。

偉大なる改革者トゥアンク・イブラヒム亡き後、この国の統治の主導権を巡り、激しい争いが繰り広げられていくこととなる。

 

まずは1876年3月10日。政権を握っていた労働者組合たちの手により審議が進められていた比例課税制度が制定。財政が一気に潤う。

赤字続きだったこの国もようやく大きな黒字を手に入れることになる。早速建設局を増設し、ようやく軌道に乗り始めていた人口を元手に大開発を進めていく。

 

だが、貧しい労働者たちにも無際限に権力を譲渡していく急進的な彼らの改革に対し、自由党内の知識人たちの間でも反発が広がる。

知識人層のリーダーに新たに「市場自由主義者」のトゥアンク・ベンダーラがついたことをきっかけに、自由党は解散。知識人層が自由貿易党を結党すると共に、労働者組合は新たに「社会民主党」を結党した。

 

但し、制定されたばかりの「普通選挙」下において、今や全人口の43.3%を占める労働者たちの数の力は圧倒的で、1876年選挙に向けては社会民主党が圧倒的優勢の情勢であった。

 

そして1876年10月7日。予想通り、社会民主党の圧勝。

 

この結果を受けて、社会民主党党首を務めるアブドゥラー・ラージャ・イヌ——かつてこの国の成長の発端となった「スマトラ戦争」で活躍した英雄ユースフ・ラージャ・イヌの息子――は、「国民」の意志を受けて決定的な改革に着手する。

 

すなわち、スルタンによる統治体制を終わらせ、「議会共和制」を導入するという改革。暗愚かつ保守的なアラウッディン・スレイマンによる統治を拒否し、国民に選ばれた政治家たちによる統治の実現に舵を切ったのである。

君主制」と比べ権力が200も失われるのは痛いが、散々悩まされてきたイデオロギーペナルティがなく、また政府の数によるペナルティの少なさにもメリットのあるこの制度。権力に関してはすでにアラウッディン・スレイマンの人気の無さからマイナスがついている状況なので、「憤激(権力+100)」「政略専門家(権力+10%)」持ちのこのラージャ・イヌが首相に就くことである程度カバーできると踏んだ。


選挙後も知識人層との連立政権を維持しているこの政府において、法案の制定自体は難しくない。

しかし当然、この伝統への反逆に対し、宗教勢力であるスンナ派ウラマーを中心に野党・保守党は激烈な怒りを表明。

やがてその怒りは、革命への機運となってこの国を混乱へと導いていくこととなる。

スンナ派ウラマーの指導者であるアル・ムカッマル・ビン・ニクは「好戦主義者」であり、スルタンを廃しようとするアブドゥラー・ラージャ・イヌたちの目論見に対し、過激な手段をもって対抗しようと呼びかけていた。

 

スマトラアチェ領マラヤ(旧ジョホール王国支配地)での蜂起の兆しがあると報告を受けたアブドゥラー・ラージャ・イヌは、ただちに自身の勢力基盤であるアチェと南スマトラの兵舎でのみ製法を変更。さらに南スマトラには兵舎の増設を行い、蜂起に備える。

この事態を予見していたわけではないが、元々資金節約のために製法を最低限にしていたが、それが逆に役に立った形だ。

 

そして3月11日。ついに反乱軍は蜂起する!

予定通り、北スマトラとマラヤの2か所が反乱軍領土に。

先のスマトラ戦争の英雄リアヤト・アアザム(大アアザム)は2年前にすでに亡くなっており、さらにインドシナ司令部に配属されていたアビディン・アアザム(小アアザム)は蜂起の際に捕らえられ、殺されてしまっている。

アブドゥラー・ラージャ・イヌは、新たにインドネシア司令部にアリー・リアット・シャー将軍、およびアリー・ベンダーラ将軍を雇用。

実はムアビディン・アアザムについてはインドシナ司令部が蜂起によって消滅した際にインドネシア司令部に飛ばされていたのだが、バグの一種なのか「動員」できない状態に。そのくせ兵隊は吸い取ってしまっていたので泣く泣く「退役」させることに。せっかくの「防衛戦略の達人」だったのに・・・。


それぞれの戦線に兵を配備。いざ敵を迎え撃とう、と準備していたら・・・


6月1日。

まさかの、反乱軍の降伏。

さすがに、こちらだけ散兵や騎馬砲兵を用意して、自分たちは動員して数は揃えたとはいえ非正規歩兵だけで戦うことに無理を感じたか。

あるいは、新たにアチェ王国のスンナ派ウラマー指導者となった「平和主義者」のイドリス・ムルシドゥによる説得が効いたのか。

彼の頼みも聞き入れ、アブドゥラー・ラージャ・イヌは、アル・ムカッマル・ビン・ニクら反乱の首謀者の処刑は執り行わないこと、そして来る共和制の実現に際しても、スルタンの退位までは求めず、ただ政治的な権力をすべて剥奪するに留めることを決めた。

 

いずれにせよ、これで保守派の勢力は完全に沈黙。

 

1877年9月20日に議会共和制が制定。

予定通りスルタンは象徴的な地位に留まり、国家の運営は「首相」トゥアンク・ベンダーラによって率いられることとなった。労働者組合の指導者アブドゥラー・ラージャ・イヌはあえてその地位を彼に譲ることによって、政権の安定を図ったのである。

最も支持を集めているのは労働者組合のはずなのになぜか知識人層が首相に。何で?

 

一時は国家の致命的な分裂すら覚悟したアチェ王国。

しかしそれはギリギリで回避され、この国はトゥアンク・イブラヒムの意志を継ぐ改革者たちによって新しい「アチェ共和国」として再スタートすることとなる。

そしてそれは、「インドネシア共和国」へと繋がる大きな第一歩なのであった。

 

 

洋務運動・殖産興業・富国強兵

さて、内戦の危機もひとまず脱し、新たな共和国体制で再スタートを切るアチェ共和国。

そして、オランダの領土を次々と侵略しつつGDPでも世界14位にまで達しつつあるこの国に対し、それまでは無関心あるいは見下していたヨーロッパの国々も見方が変わってくる。

今後、東インド会社含むイギリスやスペインといった国々とも対峙する必要がある中、スルタン制という伝統を捨てたアチェ共和国は、同じように不必要な伝統も捨て、西欧と肩を並べる存在になっていく必要があるだろう。

よって、ディシジョン「洋服を導入」を実行。MOD「Western Clothes」でアジア系国家が使用可能になるディシジョンで、地主が主流派から転落死、知識人が政府の一員であるとき(かつ、他国の従属国ではないとき)に実行可能なディシジョンだ。

実行すると、早速トゥアンク・ベンダーラも洋装に着替え、対等な関係構築のためヨーロッパへと出立した。

様々な国を歴訪したベンダーラ首相だったが、最大の目的地は列強2位プロイセン

この国は東南アジアに植民地を持っていないためアチェインドネシア共和国にとっては潜在的な敵国にならないと共に、アチェを「守護」しようとしてくれている。その他の候補国であったオーストリアやフランスはこちらを警戒しているのとは対照的だ。

貿易協定も結び、関係をさらに高めていくことを目指していく。アチェ史上初めて対等な関係を結んだ西欧国となった。

このときのプロイセン王はホーエンツォレルンのマルガレーテ女王。年齢的には史実ではドイツ帝国第2代皇帝となるフリードリヒ3世の娘か? 実際マルガレーテという名の娘はいた。この世界では初代皇帝ヴィルヘルム1世が史実より早く亡くなり、その息子のフリードリヒ3世が史実よろしく早々に亡くなってしまったというような流れだろうか。ところでサリカ法はどうなった??


そしてこの海外遊説で西欧の先端技術・最新の法制度を目の当たりにしたベンダーラ首相は大いに刺激を受け、西欧に倣った国家の改革にさらなる情熱を傾ける必要を痛感した。

そのためにまずは法制度改革。「言論の保護」「保証された自由」に続き、さらには政権内最大勢力である労働者組合の意向も受けて「労働者の保護」も制定していく。

労働者組合のアブドゥラー・ラージャ・イヌは続けて「児童労働の制限」も通そうとするが、すでに労働者の保護制定によって不満を表明しつつある資本家集団をさらに怒らせてしまうため、ベンダーラ首相の説得もあり中断。再び内戦の危機に見舞われることは避けなければならない。

「市場自由主義者」であるベンダーラ首相自身もこの法律には反対であり、子どもたちへの教育の機会拡充はもう少し時間を置く必要があった。

 

対外政策では1881年に、オランダ領東インドと同盟を結ぶマギンダナオに領土割譲要求。そこに思いがけずもついてくる事態に。

陸軍462大隊は恐ろしいが・・・艦艇はわずか15隻! いけるはずだ!

いつも通り外交工作フェーズ終了ギリギリで要求を付けつけるほか、動員もそのタイミングで行う。最初のシアク戦争のときから行っているテクニックだが、遠方からやってくる強国を相手にする場合、動員を遅らせることで彼らの動きも遅らせ、開戦時にまだ現地に着いていないという状況を作れる。

これでマギンダナオの首都を早々に制圧して戦争支持率を落とす基盤を固めた上で、清軍が到着したら防衛体制に。首相トゥアンク・ベンダーラの兄アリー・ベンダーラ将軍による全力防衛。

しかし、清軍6,000の兵を率いるシャー・シング将軍の猛攻に、ベンダーラ将軍は押し敗けている。

シャー・シング(シェール・シング)は、史実では1841年に即位し1843年に暗殺されているシク王国の王。この世界ではシク王国は健在で、年齢的には彼の息子と言えそうなババ・シンクによって治められている。にもかかわらずこの男が清軍の手先となって、しかも明らかに清の余力を考えると少なすぎる軍隊のみ渡されて放りだされているこの現状は、一体何を意味するのか・・・イギリスに対抗すべく、清との間に屈辱的な関係を強いられている?

 

その要因はこれ。清軍の歩兵部隊は旧時代の戦列歩兵のままだが、支援火砲に榴散弾砲がすでに用意されている。こちらはまだ騎馬砲兵で、その能力差は2倍とかなり開きがあるため、ここで差がついているのだ。しかし、何と言うアンバランスさ・・。

一方、ボルネオ島に侵攻するオランダ軍は戦列歩兵・騎馬砲兵の旧時代セットであり、こちらは難なく司令官なしで撃退している。

この戦いにはかつてオランダ領東インドの国民として暮らしていたオランダ人プロテスタント兵士たちも参加。宗教の関係で今なお差別されている彼らだが、兵士としてかつての母国と戦う姿勢を見せることで権利を勝ち取ろうともがいていた。

なお、同じ南スマトラの兵舎にはスンナ派に改宗したオランダ人士官も。

 

その後はいつも通りジャワ島の敵首都バタヴィアに強襲上陸を仕掛け、1882年6月20日には早くもオランダ領東インドは降伏。

いよいよ敵領土もジャワ島の3州と西ボルネオのみとなり、すでにオランダ本国からも独立している(オランダ領とは?)状態なので、次回あたりは傀儡化を狙ってもいいかもしれない。

 

ジャワ戦線に派遣されていたアリー・リアット・シャー将軍率いる13大隊もミンダナオ戦線に戻され、彼らの兵を貸与されたベンダーラ将軍の軍は今度は難なく清軍を撃退。

さらに、この戦闘に突入する前にあらかじめこちらも攻勢をかけ、ギリギリ相手よりも遅くなるタイミングまで進行度を調整済。

すると、最初の戦闘が終わった直後にこちらの攻撃で戦闘が開始するのが、このとき先の戦闘での疲弊が敵軍に残っている状態! 士気が下がっている兵は戦闘に参加させない傾向はあるようなので、結果的に敵大隊数を減らした状態で戦闘に突入できるのだ。

なかなか陸戦では安定した攻勢がかけられずにいたが、こういうやり方がポイントになってくるのかもしれない。

そして一度崩し始めると、引き続き連戦連勝になりやすくなるため、このまま攻勢をかけ続ける。

 

結果、1882年10月9日にはマギンダナオも降伏。清を交えた戦争も勝利で終えることができた。

 

1885年には「汎民族主義」の技術をアンロック。

これで専用CB「多島海統一」を使用できるようになり、2州以上ある国家相手でもその領土一気に併合できるようになる。

わざわざ属国化する必要もなくなるし、屈服した場合でもちゃんと2州以上を併合できるので地味に便利である。

 

 

そうこうしているうちに1886年8月。

アチェに共和制をもたらした立役者であったアブドゥラー・ラージャ・イヌが死去。まだ47歳の若さでの、早すぎる死であった。

その後を継いだ労働者組合のリーダーは何と若き女性。アリー・リアット・シャー将軍の娘だという彼女は、新たな時代を象徴するリーダーとして期待された。

しかし、やはり女性が政治の実権を握るには早すぎたか。彼女自身のやや横柄な態度も相まって国民人気は高くなく、社会民主党の支持率もやや低下気味。

「目の上のたんこぶ」もいなくなり、いよいよ首相としての権力を思うように揮えるようになったトゥアンク・ベンダーラは、実業家集団と結束していよいよ「自由貿易」の制定に向けて動き出す。

ついに国庫の黒字額が関税額を超えたため、自由貿易に手を出すべきときがきた。

 

労働者組合の抵抗むなしく、1887年1月20日にこれも制定。

一方、この見返りとして、労働者組合の求める「義務初等教育」の制定も1887年11月に制定。子どもたちを危険な労働環境から解放し、国家の成長の基本となる初等教育を充実させることとなった。

 

ただ西洋の技術制度を採り入れるだけでなく、そこから成る果実――すなわち経済成長・産業革命の波も十分に享受していくアチェ共和国。

1890年代には石油やゴムも採れ始め、それらを活用した産業は高い利益率を誇っていくこととなる。

 

この急成長を遂げる経済を背景に、軍備の増強――富国強兵も図っていく。あの小国アチェは今や世界13位の陸軍常備兵と世界6位の海軍を保有する軍事国家へと成長しつつある。

 

ではこのあたりで、1895年時点でのこの国の様子を見ていこう。

 

 

1895年のアチェ共和国の状況

GDPは1895年時点で2億600万ポンドに到達。20年前の8倍。その前の20年は6倍だったことを考えると、成長の速度が急上昇しており、典型的な産業革命による発展を享受しつつあると言える。大地主経済とは偉い違いだ。これがVictoria3だよね。

人口は1,422万。こちらは20年前の3倍と、その前の20年と成長速度の点では変わりなかった。それでも移民による増加も多くなってきているのは良い傾向。一方、失業者も増えてきている

首都メダンのあるアチェ州が460万人と最大。GDP全体の46%がここで産出されている。

生活水準も一気に上がって高水準に。税率は普通のままだが、大地主経済のときの苦労を考えると恐ろしいものである。人口の少なさは大きなポイントだろうけど。

結構な差をつけて1位を独走している。あとはこれがどれだけ維持できるか。

 

20年ごとの推移はこんな感じ。

今回、莫大な関税収入を犠牲にして自由貿易に切り替えることのメリットは果たしてあるのだろうかと考え恐る恐る採用してみたが、その分の穴を急成長した「利益配当税」で埋めてくれる形となった。

そしてこれが利益配当税の内訳。取引所による利益配当税が4割近くを占めていることがわかる。

こちらが世界1位の生産性を誇る南スマトラの取引所。

ロシア帝国に3,100個の家具を売りつけており、年間従業員1人あたり138.2ポンドの貿易収入を得ていることが原因だ。

このように、取引量もそれにより貿易収入も、重要主義のときとはけた違いに膨れ上がるのが自由貿易の最大の特長。

国庫に直接収入が入らない分、取引所のPOPを大儲けさせ、彼らから徴収する所得税と利益配当税で間接的に国庫を潤すその政策は、結果的には重商主義より大きな利益をもたらしうるだろう。

但し、これはあくまでも比例課税以降を採用し、利益配当税が徴収できるようになった場合の話。前回の大地主経済や教皇庁経済のように土地ベース課税や人頭課税を採用する場合には関税で儲けた方が基本は良いと思われる。

また、現行のバージョンでは海上貿易で輸送船団を使用しまくる結果、港の支出が大きくなるのが厳しく、ロシアのような大市場と陸地でつながっている場合と比べるとアチェのような海洋国家では貿易で儲ける分にはビハインドが重い。

輸送船団が際限なく要求される。すでにアチェ共和国内には102個の港が設置されている。すべて「産業港」である。

その結果、国庫支出の3分の2を占める「国家公務員の給金」のうち、港に勤める公務員に支払われている給金が4割を超えてしまっている。政府施設用商品購入費用も10万2,000ポンドに達し、港に必要な汽船と石炭の購入費がそのうちの7割を占めている。

 

また、自由貿易による取引所の繁栄は、この国の支配者の姿にも影響を与えている。前回までは重商主義下で取引所の所有者が商人ギルド、すなわち「商店主」たちであり、彼らが全職業の中で最も影響力を持っていたが、自由貿易になることによって新たに取引所の労働者となった資本家・事務員が影響力ワンツーを誇ることとなった。

選挙でも自由貿易党が勝利するようになり、労働者組合の影響力も随分落ち込んでしまった。これは主要施設の所有権を「公開企業」にしたことによって、資本家の数が増えより影響力が高まるように仕向けたのもあるだろう。

 

なお、もう一つ発見があって、今回「議会民主制」を取る中で政府の正当性がかなり高止まりしているのだが、その影響もあって体制派が莫大な数に膨れ上がっている。

その結果、各利益団体にも支持度に対する大きなボーナスがついており、対立する利益団体からも各種ボーナスが得られるようになっている。

ブルジョワも与党自由貿易党に入りたがっているようだが彼らを入れると正当性が減るため無視している。

 

これはかなり有用なため、正当性を高めること、ひいてはそれに資する議会民主制などの制度はかなり戦略的な重要性を持っていると言えそうだ。

 

文化・宗教状況も見ていく。

文化はいよいよ多文化主義ならではの様相を見せ始め、それでも影響力はまだまだスマトラ人が握り続けている。

宗教の方も高い改宗圧力を保っているにもかかわらずスンナ派の数が少なくなってきている。基本的に完全分離にはしたくはないので、できるだけここは頑張って改宗を進めていってもらいたいところ。

 

最後に、この国の現在の最多数派(最も人口の多いアチェの最も割合の多い労働者POPの中から最も数の多いPOP)と思われるPOPを見ていこう。アチェの建設局で働くスマトラ人労働者だ。

と、言いつつ実はアチェの労働者にはもっと人数の多いPOPがいて、それが被差別身分であるプロテスタントのマンデ人労働者と、そして同じくプロテスタントの「失業者」POPである。

特にこの国でおそらく最多数派と思われるPOPが失業者というのは、今のこの国の大きな課題を示しているように思う。

この問題の解決が次の20年の、そして「大インドネシア」における重要な課題となるだろう。

 

 

だが、その解決の前に、この20年の「最後の仕事」に、トゥアンク・ベンダーラ首相は取り掛かることとなった。

 

 

もう一つの歴史への復讐に向けて

1895年9月。

この世界のイギリスもまた、例によって国内の革命によってハノーファー朝が倒され、新たにコンロイ家マリー女皇による帝政が開始されていた。

史実ではヴィクトリア女王の後見人になろうと画策し失敗したジョン・コンロイ准男爵が存在するが、その娘が権力簒奪に成功した世界線か。

 

しかしその内戦の結果列強ランクは6位にまで落ち込み、陸軍は46大隊、海軍も46艦隊しか残されていない、弱小国に成り下がっていた。対してこちらの陸軍総数は70大隊、海軍も60艦隊が常備されている。

それでも列強は列強。アチェ共和国のトゥアンク・ベンダーラ首相はこれをチャンスと見る。

これまでマレー半島の先端を侵し続けていたシンガポールを奪い返し、オランダと並ぶ憎き歴史の仇敵イギリスを東南アジアから追い出す大きなチャンスであると。

よって、早速彼の国に対して「承認の強要」を行う。

どうやらイギリスは江戸幕府と同盟を結んでいるようで、その陸軍総数97大隊が敵に回る見通し。とはいえ江戸幕府は海軍を持っておらず、なんとかなるだろう。

 

と思ったら江戸幕府がいきなりイギリスを裏切る。

 

取り残されたイギリスは「怯えている」状態。

まさかこんな姿が見られるとはな!

 

と思っていた次の瞬間。

 

あれ?

 

直前まで「守護」の態度だったはずなのに・・・!

 

すでに「塹壕歩兵」まで用意されているアメリカ陸軍10万弱がやってくる・・・!


1895年12月23日、開戦!

 

果たして、アチェ共和国に未来はあるのか。

 

第4回に続く。

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