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【Victoria3プレイレポート/AAR】永遠の大韓帝国 第3回(最終回) 大韓帝国の成立(1898年~1936年)

 

1834年にわずか8歳で即位した第24代朝鮮王・憲宗(ホンジョン)は、20代で崩御した史実の運命を乗り越え、改革派の王族・李是応(イ・ハウン)と実業家出身の領議政(首相)・文相璜(ムン・サンファン)と手を組み、旧態依然とした両班の支配権を奪う改革を進めていった。

しかし1860年代末に起きた宗主国・清の崩壊をきっかけに経済が崩壊。ロシアとの同盟を成功させ景気回復を実現した憲宗の妻の義兄・閔左根に権力が集まり、再び勢道政治の危機に陥ろうとしていた。

権力奪回を狙う李是応は、力を伸ばしつつあった知識人集団(開化派)の頭目鍾曹(チョン・チョ)に接近。共和主義者の兵曹判書(防衛大臣)・洪栄(ホン・ギョン)と共に自由党(チャユダン)を結成し、1883年の選挙で自由貿易党を打ち倒した。

以後も民衆の支持を集め、徐々に影響力を増していく自由党に対し、閔左根は自らの自由貿易党と共に連立政権を組むとともを提案し、権力にしがみつこうと模索する。

しかし、自由党の勢いは止まらず、ついにはこれを打倒しようとした閔左根の汚職が明るみとなり、逮捕。

1891年の選挙ではついに獲得議席過半数を超え、単独政権を開始することとなった。

 

2度目の勢道政治の危機を乗り越え、国民の自由と民主主義を守るための改革を進めていく憲宗と李是応。

彼らは1898年に共にその長い人生を終えるまで国家のために尽くし続けた。

 

ついに、朝鮮は運命の20世紀を迎える。

なおも世界は混沌に満ちており、分割された中国には列強の魔の手が伸びつつある。

果たして、憲宗と李是応の意志を継いだ朝鮮国は、史実における消滅の運命を回避し、永遠の繁栄をつかみ取れるのか。

Victoria3プレイレポート/AAR第13弾「朝鮮」編最終回。

「帝国」は、永遠を夢見ることはできるのか。

 

Ver.1.3.5(Thé à la menthe)

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~ゲームルール~

  • 「プレイヤーに対するAI挙動」設定は「無情」
  • 「AIの敵対行為」は「高い」

 

目次

 

第2回はこちらから

suzutamaki.hatenadiary.jp

 

これまでのプレイレポートはこちらから

革命と改革のメヒコ100年史:新DLC「Voice of the people」で遊ぶメキシコ編

虹の旗の下で 喜望峰百年物語ケープ植民地編。完全「物語」形式

パクス・ネーエルランディカ:オランダで「大蘭帝国」成立を目指す

1.2オープンベータ「ロシア」テストプレイ

MOD『出版産業の興隆』で遊ぶ大英帝国RP重視プレイ

強AI設定で遊ぶプロイセンプレイ:AI経済強化MOD「Abeeld's Revision of AI」導入&「プレイヤーへのAIの態度」を「無情」、「AIの好戦性」を「高い」に設定

大インドネシア帝国の夢

大地主経済:ロシア「農奴制」「土地ベース課税」縛り

金の国 教皇領非戦経済:「人頭課税」「戦争による拡張なし」縛り

コンゴを自由にする

アメリカ「経済的支配」目標プレイレポート

初見スウェーデンプレイ雑感レポート

 

Crusader Kings Ⅲ、Europe Universalis Ⅳのプレイレポートも書いております!

 

アンケートを作りました! 今後の方向性を決める上でも、お気に入りのシリーズへの投票や感想などぜひお願いします!

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1899年選挙

1899年。憲宗および李是応亡き後の朝鮮では、今後の国家の指導者役を巡り、激しい政治闘争が繰り広げられていた。

4年前の選挙では相変わらず自由党が勝利するも、その勢いは往時を遥かに下回り、新興の社会民主党(サフェミンジュダン)に迫られていた。

自由党は鍾曹引退後の後継者として「改革論者」の胡権(フクォン)を新党首に据えていたが、女性の権利拡大や児童労働の制限など「やや進みすぎた」彼の改革案は、19世紀末の朝鮮の一般民衆にはまだ受け入れ難いものであった。

それよりは社会民主党の掲げる「労働者の権利拡大」の方が民衆にとっては受けが良かった。折しも嶺南の石炭鉱山で落盤事故が発生し、労働基準局の設置など、労働者の保護に関する意識が高まりを見せていた時期でもあった。

このままいけば1899年の選挙では社会民主党が勝利するか、と思われていたのだが、1899年3月に社会民主党・党首の鍾亨九(チョン・ヒョング)が国営鉄道に関わる大汚職に関与していたことが暴露され、これを擁護しようとした社会民主党ともども、その権威が大きく傷つけられることとなる。

自由党党首として李是応と共に1880年代~1890年代の自由主義改革を推し進めてきた英雄・鍾曹の弟として期待されていたが、激しやすい性格とアヘン中毒、そして今回の汚職で明らかとなった強欲さとが合わさり、その評判を大きく落とすこととなった。


そんな中、勢力を伸ばしつつあるのが農業党(ノンオプダン)であった。

その名の通り農村民を中心に支持を集めるこの政党は、選挙制が導入された1875年から存在する最古の党の一つではあるが、その第一回選挙では自由貿易党や自由党を差し置いて第一党になるなど、古くから確かな地盤をもった政党でもあった。

そんな農業党が、今回の選挙ではエンジニアや商人など、都市の中流階級・中所得者層を中心とした「ブルジョワ勢力」も合流したことで急遽勢力を拡大し、今回の選挙では再び最有力候補として注目されていた。

その小ブルジョワ勢力を率いるのが、平民出身ながら科挙に合格し吏曹の役人としても活躍したキャリアを持つ国沈(クク・シム)。

彼は実に多くのことを選挙公約として掲げたが、その中でも最も注目を集めたのが「ロシアとの不平等条約の解消」であった。

それは1873年5月に閔左根が締結した「露朝修好通商条約」であった。当時、旧宗主国の清が崩壊し、経済的にも混乱状態に陥っていた朝鮮にとって、これを脱する唯一の方法として考えられたロシアの関税同盟への参入を決める条約であった。

それは当時の貧しい朝鮮にとっては大きなメリットとなる条約ではあったが、今や世界第3位の経済大国となった朝鮮にとっては、デメリットも大きくなりつつあった。

とくにこれまでロシア市場においてほぼ独占状態にあった「絹」が、ロシアが広東地方を租借したことによって市場に大量供給。

これを受けて絹の価格が大暴落し、朝鮮国内の養蚕農家は大打撃を受けることとなってしまった。

さらに、条約の中にはロシア人の「治外法権」も定められており、ロシア人の朝鮮人に対する強い差別意識と合わさって数多くのトラブルを招いていた。

例えば1895年末に漢城府で起きた「甲申事件」。ロシア人のイワノフという実業家が、通りがかりの朝鮮人を捕まえて、自分の財布を盗んだと主張。その場で殴打して殺してしまうという凄惨な事件であった。

イワノフはその後ロシア公使館に保護され、朝鮮の警察は彼の引き渡しを要求したものの、それが認められることはなく、裁判にかけることもできずに終わってしまった。

この顛末は朝鮮の一般民衆のロシア人に対する憎悪を掻き立てただけでなく、ロシアとの関係を重視する政府与党に対しての大きな不満へと繋がり、市内では暴動や焼き打ち事件の発生も見られたほどであった。

 

国沈は、そんな民衆の怒りを能く扇動した。そして彼はこの治外法権を含むロシアとの不平等条約を直ちに撤廃し、朝鮮の清の独立を達成させると高らかに宣言したのである。

 

そして7月20日。朝鮮国第7回選挙は農業党が全体の3割の議席を獲得し第一党に登り詰め、自由党および社会民主党はこれに惜敗する形となった。

新たに領議政となった国沈は、早速、公約通りにロシアとの露朝修好通商条約の破棄を一方的に宣言。

当然、ロシア側は反発するも、国沈は意に介さず、ただ一言だけ「朝鮮は誇り高き独立国であり、諸外国との一切の不平等な取り決めは行わないこととする」と伝えるに至った。

 

いよいよ、「朝鮮」が大きく躍動する時代がやってくる。

 

 

大韓帝国の成立

ロシアとの不平等条約の改正を実現した国沈政権が次に手掛けたのはもちろん財政再建。ロシアの巨大市場が失われ、農業はともかく各種産業が資源不足・需要不足に悩まされるのは30年前の「危機の時代」と同様である。

但し、唐突に巻き起こったあのときと異なり、今回は事前に入念な準備をした上で自ら実行。GDPは激減したものの、それでもなお世界6位の位置は保ち、その混乱は最小限に抑え込まれている。

ただ、ロシア8,700万人の人口と市場が失われたのは大きい。工業製品を中心に製法をダウングレードし、生産性を落とさざるを得ないのは間違いなかった。

よって、国沈の財産再建策の重要なフェーズとして、「市場の確保」が大きな命題となった。

 

彼が目をつけたのは、分裂後、統一の道筋も見えない中国の軍閥であった。

その混乱の隙を突いて、ロシアのみならずフランス、ポルトガル、スペイン、オーストリア=ハンガリーなど各国が租借地の確保や保護国化を進めるなど、「中国分割」が進んでいた。

福建はポルトガルが、山東半島は丸ごとオーストリア=ハンガリー帝国のものとなっている。

 

このままではどのみち中国は欧米列強の食い物にされてしまう。それならば先に、我らが偉大なる朝鮮国がこれを「保護」しなければならない。

国沈はそのように朝鮮国第25代王・純宗(スンジョン)に奏上する。若き「権威主義者」純宗はこの国沈の提案に大いに賛同し、彼を「我が盟友」と讃え全権を委任した。

史実同様に閔妃の子として生まれた李坧。史実では24歳の頃に毒殺を目的としてアヘン入りコーヒーを飲まされ、身体及び精神に重篤な影響を残す状態となり、後に大韓帝国第2代にして最後の皇帝として即位するも完全なる傀儡としてわずか3年で廃位させられている。

 

1900年7月27日。

国王の承認を得た国沈は早速、遼東半島から西安にかけての広大な地域を支配する山西軍閥に対して朝鮮国の属国となることを要求。

山西軍閥は最初こそ抵抗する構えを見せたが、西欧列強がいずれも沈黙を選び動かなかったことから最終的に屈服。朝鮮の属国となることを選んだ。

続いて国沈は北京周辺を支配する「中華帝国」にも同様に服従を迫った。

 

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1870年に清を滅亡させ、五族共和を目指す「中華民国」を成立させた聶王(ニー・ワン)。しかし直後の大分裂を防ぐだけの器量はなく、その支配領域は北京周辺のごく狭い範囲に止まった。

そして彼はその領域すら保持しきれなかった。

1872年7月10日。

指導力を発揮できず、内輪での権力争いに終始する中華民国政府に対する北京市民の不満を背景に、士大夫たちの中の有力者であった呂于リュウ・ユウ)がクーデターを敢行。

自らを漢人による帝国「中華帝国」皇帝と名乗り、帝国の統一を臣民に誓ったのである。

 

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しかし、それから30年。

結局のところこの「皇帝」は旧領の回復を果たすどころか何一つ成し得ることのないまま、ただ再度の民衆不満と蜂起を武力で弾圧して抑え込みながら紫禁城における権威だけを保持し続けるだけに終わった。

そしてその砂上の楼閣に対し、国沈は終焉を突きつける。

今度もまた、欧米列強はどこも静観の構え。中華帝国は孤立無援で朝鮮と対峙するほかなかった。

しかしどれだけ弱小たろうともそこは中華の皇帝。最後まで自ら屈服することを選ばず、彼らはあくまでも勇敢に戦うことを選んだ。

 

もちろん、歯が立つわけはなかった。

朝鮮軍10万の兵が一気に燕山山脈を越え、万里の長城を乗り越えて北京へと迫る。

北京では袁世凱なる将軍の抵抗に遭うものの、10倍近い兵数の差とほぼ農民と変わらないような悲惨な首都防衛軍を前にして苦戦することなくこれを開城。

1901年4月1日には皇帝・呂于も降伏を認め、朝鮮国はついに、中華の中心地たる北京をその支配下に置くことに成功したのである。

 

1901年5月4日。激戦の跡が残る北京市内を国沈と側近たちに連れられて、純宗王は歴史と伝統に包まれた紫禁城へと足を踏み入れた。

それは、これまでのどの朝鮮国王も――そして、あらゆる歴史においてすらも――成し得なかった偉業であった。

第25代朝鮮王・純宗は、この紫禁城内で多くの漢人朝鮮人たちに囲まれて祭天の儀式を行い、翌5月5日に詔を出して「皇帝」に即位した。それは明朝の皇統を継承するものであると宣言され、満州人による帝国でも先だっての「僭称された」中華帝国でもなく、正当なる中華の地の皇帝として、すべての漢人朝鮮人の上に立つものであることが明言された。

そして、真に独立した帝国であることを示すべく、「朝鮮」の国号を「大韓」に改め、ここに、「大韓帝国」が成立したのである。

とはいえ、ゲーム上では「朝鮮」のままなのが寂しいところ。

 

だが、それはまだ、世界においては東アジアの「小国」が吠えているだけに過ぎない、とみなされていた。その証拠に、この朝鮮国の勝利も、大韓帝国の成立と初代皇帝の即位に際しても、北京市内の欧米列強公使館からは何ら祝福に訪れる者もおらず、山西軍閥中華帝国が攻め込まれたとき同様、沈黙を保ち続けていたのだ。

 

未だ、「大韓帝国」は「未承認大国」のまま。

国沈は、そこから一歩踏み出すための「計略」を考案し、そして実行に移そうとしていた。

 

 

世界との戦い

天津戦争

天津。

北京の南東120㎞に位置し、渤海湾に面した華北地域最大の対外開放港。

しかしこの隋代以後伝統ある港湾都市も、1895年の対西戦争の結果、スペインの租借地として奪われ、支配されていた。中国の弱体化の象徴とも言える都市である。

 

1901年7月28日。

天津市内のカトリック教会のミサに出席していた中華帝国の外交官がスペイン人司祭に暴行されるという「天津事件」が発生する。

その際に彼らは「朝鮮の犬め」と言った侮辱も吐きかけたということで、中華帝国宗主国である大韓帝国からもスペインに対し厳重な抗議と謝罪および賠償を要求した。

しかしスペインはこれを断固として拒否。自分たちの租借地内では自分たちの法律が適用されると主張し、中華帝国の外交官は不法侵入者であり、暴行されたのは当然であると反論した。

これを受けて大韓帝国は天津に向けて軍隊を派遣。これを取り囲む。

慌ててスペインも現地に艦隊を派遣するも、それが十分に間に合わないうちに、11月10日、大韓帝国はスペインに対し宣戦布告を行う。

大韓帝国中華帝国及び北西軍閥との連合軍8万の侵攻により天津に駐留していた2万のスペイン軍は必死の抵抗を行うもおよそ2ヵ月間の戦いの末に陥落。

激怒したスペイン軍は翌年1月に朝鮮半島の江原道に上陸。首都・漢城に迫る。

ただしこれも、後続の補給用の艦隊が次々と大韓帝国海軍によって沈没させられたことで弱体化。

駆けつけた帝国軍によって7月までに完全に殲滅させられた。

台湾のスペイン租借地でもスペイン軍の反撃が行われるが、これも補給不足により停滞。逆に押し戻されてスペイン租借地打狗(ターカウ)が包囲され籠城戦となる。

最終的に1902年9月27日に台北の地で講和条約が結ばれ、スペインの天津・台湾の租借地保全が認められる代わりに、総額616万ポンドの賠償金支払いが約束させられることとなった。

この「天津戦争」によって欧州列強の一角であるスペインに実質的な「勝利」を収めた大韓帝国は、もはや国際社会でも無視できない存在として認められることとなる。

そしてそれは、同時に世界の「警戒」を向けられる国となったことも示していた。

 

 

東アジア戦争

1905年。

完全なる独立と勢力圏の拡大によって朝鮮人の栄光を際限なく高めることに成功した国沈率いる農業党は、1903年選挙でも4割以上の議席を獲得する圧勝となり、信任された彼らの征服行動はさらに進展。

列強諸国の影響力がまだ及んでいない直隷軍閥大城軍閥をも武力で屈服させ、帝国の傀儡国として樹立させた。

しかし、すでに帝国は世界から危険な存在として認識されており、帝国のこの中国での拡大が彼らの既存の中国利権をも脅かしかねないと考えた一部列強は手を組み、ついに1905年11月15日、その一角であるアメリカ主権連合国が大韓帝国に対しこの10年間で獲得したすべての中国利権の放棄を要求、これに応えないのであれば武力に訴えることも辞さないという最後通牒を突きつけた。

フランス共和国もこのアメリカ主権連合国の宣言に同調。イギリス、ロシア、オーストリア=ハンガリーなどのその他列強は追随こそしなかったものの、大韓帝国は列強2国に対し単独で立ち向かう必要に迫られた。



1906年3月14日。

大韓帝国帝都・漢城にある景福宮の玉堂に、皇帝・純宗とその側近たちが集まっていた。

この日はアメリカ主権連合国とフランス共和国から届いた最後通牒に対する回答を決める日であった。

最後通牒は、大韓帝国がすべての中国利権を放棄し、その支配下にあるすべての諸侯の独立を保証することを求めており、それが実現されないときには、アメリカ主権連合国とフランス共和国とが共同で大韓帝国に宣戦布告する旨が書かれていた。

 

皇帝純宗は、玉堂に並べられた地図や書類を見ながら、沈痛な表情で話し始めた。

「私はこの最後通牒に対して、どうするべきか迷っている。我が国は中国の軍閥を従えて東アジア最大の国家となったが、それはアジアの守護者としての我々の使命であり、正義の行いであった。しかし、それを快く思わないものたちが、嫉妬と欲望から我々に圧力をかけ、中国利権を放棄させ、そしてそれを横から奪い取ろうとしている」

「陛下、我々はそれに断固として立ち向かわなければなりません」と、兵曹判書(国防大臣)の国尚沃(クク・サンオク)が立ち上がって声を上げた。領議政・国沈の弟で同じく好戦主義的な男である。

アメリカとフランスは確かに強大であり、近代的な兵器も数多く持っております。しかし、彼らは我々を極東の田舎者であると侮っており、そこに付け入る隙があります。我々は中国軍閥を統制し、十分な数の兵を用意することができます。さらに、フランスと敵対するオーストリア=ハンガリー帝国との極秘の交渉は成功しており、彼らの山東半島租借地を経由して最新の武器弾薬を輸入することが可能となっております」

「しかし、それはあまりにも危険な賭けではないか」と反論したのは左議政(副首相)の刑沈(ヒョン・シム)。農業組合の指導者で、本来与党の農業党の中心人物は彼であったのだが、後に合流してきた国沈にその座を奪われており、国兄弟に牛耳られつつある政治の主導権を何とか奪い取ろうと躍起になっていた。

フランス共和国アメリカ主権連合国も、それぞれ列強4位・5位に位置する強国であり、彼らの軍隊は量・質ともに我々を遥かに凌駕するものであることもまた、事実です。我々は冷静になって状況を注視し、行動しなければなりません」

「刑閣下。お言葉ですが」と、それまで黙っていた領議政の国沈が厳かな声で割り込んだ。

「私が密かに調べさせていたところ、興味深い話が出てきました。刑閣下。あなたはどうやら、ここ数カ月、フランスの外交官と何度か会っているようですね」

「な、」何を、と言いかけた刑沈を国首相は鋭く睨みつけ、有無を言わせぬ勢いで言葉を続ける。

「陛下、畏れ多くも、偉大なる帝国を蝕もうとする害虫は、すでに諸外国の陰謀により宮中の奥深くにまで入り込んできているようです。惑わされてはなりません――」

「惑わそうとしているのはどちらだ! そんな根拠のない話、私は知らんぞ――」

「衛兵ッ!」

色めきだって立ち上がった刑沈が跳ね飛ばした椅子の音と、兵曹判書の国尚沃の怒号とが部屋中に響き渡り、部屋の脇に立っていた無骨な衛兵たちがすぐさま刑沈を取り囲んだ。

「陛下! 私を信じてください! 私はこの国を思って――」

「連れていけッ!」

きしむ音を立てながら部屋の入り口の大きな扉が閉められると、なおも叫び続ける刑沈の声は遠く小さくなっていった。

部屋の中に取り残された人々の間には戸惑いと警戒の表情が相互に行き渡るが、その中で唯一涼しい顔をした国沈が沈黙を破った。

「それでは、決を採りましょう。米仏の要求を呑むか、跳ね除けるか――」

もはや、答えは分かり切っていた。

 

かくして1906年3月15日。

大韓帝国は正式にアメリカ主権連合国及びフランス共和国による要求を拒否することを宣言し、これを受けて米仏連合は大韓帝国に対する宣戦を布告した。

東アジア戦争」の開幕である。

4月24日。仁川沖の黄海にて、上陸を狙うアメリカ主権連合国艦隊とこれを防衛しようとする大韓帝国艦隊との海戦が繰り広げられる。

アメリカ主権連合国艦隊はすでに最新鋭の「モニター艦」を配備しており、やはり海においても質で大きく劣る大韓帝国艦隊であったが、その保有する85隻の船全てを迎撃に出していたことで、数的有利でもってこれを撃退した。

しかしその隙に、反対側の東海側から今度はフランス軍が上陸作戦を敢行。帝国艦隊全軍を黄海での防衛に回していたため、無抵抗に上陸を許してしまった。

しかし、ここでは都元帥(陸軍総司令官)の保明根(ボ・ミョンゴン)が22万の兵を率いてあらかじめ待機しており、上陸したばかりのフランス軍7万を一気に包囲し、殲滅を開始する。

包囲されたフランス軍も最新鋭の兵器で決死の抵抗を見せ、大韓帝国軍に2万5千以上もの戦死者を出すほどの激戦となったが、最終的にはこれを完全に制圧。4万のフランス兵が投降し、捕虜となった。

この戦いを指揮した都元帥の保明根はイギリスやプロイセンなど欧州を歴訪し最新式の軍事技術と戦術とを学んだ開化派のエリート。彼が組織した新式の軍隊「別伎軍」が今回、その威力を見事に発揮してみせた。

その後も朝鮮半島への直接侵攻を狙って米仏連合軍による上陸作戦が繰り返されるも、その度に数で勝る大韓帝国軍が次々とこれを撃退。半島内に縦横無尽に張り巡らされた鉄道網も、この機動防御に大きな貢献を果たしたという。

 

首都への直接上陸に限界を覚えた米仏連合軍が次に狙ったのは中華帝国の首都・北京。

その玄関口、スペイン天津租借地のすぐ南に位置する滄州(ツァンジョウ)に、黄海大韓帝国海軍防衛網をかいくぐって侵入したフランス軍5万が上陸する。

現地の直隷軍閥の防衛部隊では歯が立たず、あっという間に敗北。占領。

すぐさま本土防衛軍の一部をこの北京方面へと派遣し、海上では米仏輸送艦隊への襲撃を行ったことで、何とか戦線を膠着させる。

1908年8月。開戦からすでに2年半が過ぎ、双方の戦争支持率はすでに0%。互いに互いの戦争目標を達成できず、あとはもう、米仏が諦めて白紙和平に応じるのを待つだけとなっている。

すでにフランス共和国は白紙和平に応じる構えを見せているものの、アメリカ主権連合国はまだ諦めきってはいない様子。

すでに米仏艦隊によって大韓帝国の交易路もズタボロに破壊され尽くしており、国民生活にも悪影響が及び始めていた。まさに「持久戦」である。

そんな中、1909年2月。開戦から3年が経とうとしていた頃、米仏は東海側から2か所同時での上陸作戦を仕掛けてきた!

北部のフランス軍8万弱の上陸部隊は羅将軍の30万弱の防衛部隊で十分撃退可能だが、問題は南部、江陵の港に現れたアメリカ主権連合国軍4万の兵。江陵には保元帥率いる6千の兵しか駐留していない状況であった。

さしもの保元帥も質・量ともに劣っていては勝ち目はない。1909年3月には江陵を放棄して保元帥は撤退する。

このまま帝都・漢城を蹂躙されてしまうのか――と、思っていたところで、ついに待ち望んでいた報せが届いた。

それは、米仏との講和条約の締結の報せであった。

 

3ヶ月半前、国沈の指示で駐英大使・李光洙(イ・グァンス)からイギリス国王ヘンリー9世宛に「中立の友誼的斡旋」が申し入れられていた。極東アジアへの進出が他列強よりも遅れを取っていた英国にとって、このタイミングでの介入はこの地域での英国のプレゼンスを発揮する上で願ったりかなったりであった。

1909年2月11日。アメリカ主権連合国軍が帝国の本土を脅かしているまさにその時、会議の場として選ばれたロンドンにおいて、帝国の運命を決める講和会議が始まっていた。

大韓帝国の全権委任大使は外務大臣烉沈(ファン・シム)。一方のフランス共和国全権委任大使はジャン=バティスト・デュモン、そしてアメリカ主権連合国の全権委任大使はウィリアム・エドワード・タフトであった。

17回にわたる会議は互いが互いの要求を突きつけ合い、激しい鍔迫り合いによって難航していた。帝国は国内世論のことを考え、安易な妥協ができないのは確かであった。一方、講和第一優先で内容は白紙和平でも何でも良いという立場であったフランスは別として、アメリカのタフトは国王ベンジャミン1世から「1ドルの金も朝鮮に与えてはならない」と厳命されていた。

平行線が続く中、本土での戦いが劣勢に傾きつつあることを知った国沈がすぐさま議政府内の意見をまとめ、妥協案をロンドンの烉沈へと送った。このまま講和の機を逸すれば、中国利権全てを失いかねない状況でもあった。

そして3月10日の午前の秘密会議を経て午後の本会議の場にて、帝国側もアメリカ側も内容に同意し、ついに講和が事実上成立した。

3月13日には両国の間で休戦条約が結ばれ、本国で漢城府目前にまで迫ったアメリカ主権連合国軍はその歩みを止めることを余儀なくされた。

そして1909年3月17日。ロンドンの海軍工廠内にて韓米仏講和条約の調印がなされた。その内容は、大韓帝国の中国におけるすべての利権の保全を認める代わりに、米仏は一切の賠償金の支払いを行わないとする、事実上の白紙和平であった。

一切の賠償金を求めないという大韓帝国の決断に対しては、少なくない数の海外メディアが「平和を愛するがゆえに成された英断」と報じ、英仏2大列強を相手取って戦い切ったことと合わせ、国際社会における大韓帝国の威信を大いに高める結果となった。

東アジア戦争直前は国際的な包囲網の中で大韓帝国に対する禁輸措置を取った第3国なども多かったが、それらともこの勝利の後に関係改善が進んだ。

 

一方、総額1,628万ポンド(天津戦争の賠償金の約2.6倍)にも及んだ戦費の回収が全くできなかったという事実は、大韓帝国臣民とそれを焚き付ける国内メディアにとっては格好の批判材料となった。

扇動された民衆は条約が署名された3月17日当日、漢城市内の政府庁舎や交番、警察署などを襲撃し、焼き討ち・破壊される事件が発生(漢城暴動)。

駐漢アメリカ公使館のほか、アメリカ人牧師の働くキリスト教会まで襲撃の対象となったことで危機感を覚えた政府はただちに戒厳令を発布。即日施行し、近衛師団が鎮圧にあたった。

この騒動により、死者は17名、負傷者は500名以上、検挙者は2000名以上にものぼった。このうち裁判にかけられた者は104名、有罪となったのは87名であった。

暴動は収束したものの、この結末に対する政府への反発は収まらず、最終的に国沈は弟の兵曹判書・国尚沃の更迭という形で責任を取り、幕引きを図った。

 

最後に幾何かの混乱はあったものの、いずれにせよ帝国は最大の危機を乗り越えた。

世界的な大韓帝国のプレゼンスも確かに増し、いよいよこの国は真に「列強」としてその名を歴史に刻むこととなっていく。

 

 

永遠の大韓帝国

1917年12月26日。

兼ねてより北アフリカの地で覇権争いを繰り広げていた列強4位フランスと列強8位スペインとが、ついに激突。

この動きに対し、フランスと犬猿の仲であった列強3位オーストリア=ハンガリー帝国が介入を決断。その同盟国両シチリア王国も巻き込み、欧州はにわかに世界大戦の様相を帯び始めていた。

この隙を突いて領議政の国九(クク・グ)はフランスの中国権益である蘇州ヘの侵攻を皇帝・純宗に進言。これを容れられ、翌1918年2月1日にフランス共和国へ宣戦布告し、3月には上陸作戦の成功と共に「中国の解放」を旗印とした侵攻作戦を開始する。

3年前に引退した国沈の後継者として小ブルジョワ指導者および領議政へと就任した嫡男の国九。農業党からは離脱し、現在は弟の国李が主導する実業家集団と共に「自由貿易党」を形成し、政権与党を担っている。


1919年3月にはこの「世界大戦」も終結。パリのヴェルサイユ宮殿で結ばれた講和条約によって大韓帝国はフランスの領有していた蘇州の獲得を実現する。

1920年には東アジアで初となる万国博覧会漢城府で開催され、大成功を収めるなど、大韓帝国は世界随一の先進国の一つとして着実に認められつつあった。

その影響の一つの形として、先だっての「世界大戦」にて共闘関係にあったオーストリアとは完全に対等な「貿易協定」を結び、国際電話交換台の設置を行うなど、その関係を深めていった。

「世界大戦」後、オーストリアでは急進的な元軍人モナルド・スカンマッカの主導による革命が勃発し、帝政が打倒され共和政が開始されていた。


それは大韓帝国にとって喜ばしいことでもあったが、一方でそれは、より一層、世界の混乱へと関わらざるを得なくなることを意味してもいた。

 

1933年。

3年前に巻き起こったイギリスの株価大暴落に端を発する世界恐慌の煽りを受け、欧州では政変が頻発。

中心地イギリスでは軍部のクーデターによって王政が廃止されたほか、フランスでも社会主義勢力による大規模な内乱が勃発した。

そして大韓帝国の同盟国オーストリアでも、過激なドイツ民族主義的グループが勢力を拡大させており、その流れの中でオーストリアプロイセンを飲み込む形で合併。「統一ドイツ」が成立する。

この「ドイツ」は、オーストリアが領有していた旧来の山東半島のみならず満州地域にも進出したことで国境を接したロシア帝国と激しく対立。

欧州は再び、激しい戦乱の渦に飲み込まれようとしていた。

 

 

帝都・漢城府。昌徳宮。

齢60を超え、いよいよその治世の終盤を迎えつつあった大韓帝国初代皇帝・純宗は、この国の行く末に想いを馳せていた。

これまで常に頼りにしてきていた国一族も、国内の近代化と並行して進む民主化によって政治的影響力を失い、今や与党の地位は自由主義勢力や社会主義勢力によって乗っ取られてしまっていた。

後継者たる王世子の李昪(イ・ヨク)も何やら理解し難い思想に入れ込んでおり、世界の潮流に合わせる形で、この国の国民の大半が、もしかしたら帝政そのものへの意識を失いつつあるのかもしれない。

急進主義者の扇動者もおり、大統領共和政への法改正への意向が非常に強くなっている。

 

だが、時代と共に、変化は受け入れざるを得ないとは理解している。この「帝国」が永遠でないときても、それが国民の求めるものであるならば、それもまた、致し方ないのかもしれない。

少なくとも、偉大なる韓民族の繁栄が永遠のものでありさえすれば。そのために父と自分とが成し遂げてきたこの100年の努力は、決して無駄ではなかったと信じている。

 

純宗は窓際に立ち、空を眺めた。

遠く満洲の地から砲声が届いたような気もした。さすがに幻聴だろうが、純宗にとってそれは、どことなく不吉な響きに思えてならなかった。

 

 

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と、言ったところで今回の物語はここまで。

1935年12月31日時点での各種データを見ていこう。

 

まずは国家威信ランキング。直轄領がほぼ初期5州しかない中で、経済成長の限界もあり。最終的な列強威信ランキングでは6位に留まってしまった。

GDPでは世界4位。ロシアの関税同盟下では最大で3位までいったことを考えると、やはり後進国の単独市場ではなかなか厳しいところがある。

市場ランキングでもロシア市場に劣る4位。市場内総人口で勝っているはずなのだが、その中での経済発展の差がやはり水を開ける要因となったようだ。

 

税率も最低にまで引き下げ消費税もすべて撤廃したものの、市場内の経済発展が十分ではなく各産業施設の製法も最大にできないくらいで生産性が上がり切らず、生活水準も伸び切らなかった。

同じ理由で労働組合の力も最終盤までなかなか上がってこなかったことによって法制度も「人頭課税」「制限選挙」どまり。このあたりは20世紀前半の東アジアの国家としてはむしろ自然な方なのかもしれない。

帝国本土で最も人口の多い労働者POPの生活水準が「貧困」で終わってしまったのは残念。やはり王政を廃止し、労働者たちのための国家を作れるようにしていくべきなのか?

1930年代後半になるまでは急進派の方がずっと多いような状況だった。終盤で社会民主党が力をつけてきて各種労働者保護系の法律を制定し始めたことでようやく労働者の体制派も増えてきた。

 

世界の様子も見てみよう。

まずは東アジア。満州山東半島をドイツが、福建をポルトガルが、浙江をスカンディナヴィアが直接領有するなど中国分割が進んでいる。そしてアメリカ主権連合国に半分の領土を奪われた日本は、残り半分をフランス共和国に奪われており、国家としては消滅してしまっている。

欧州はすでに何度も見ている通り。ドイツは中欧帝国を形成しており、ベルギーもドイツ領に。フランス共和国内にはリヨン公国が独立しており、イタリアはロンバルディアを得られていない両シチリア王国がイタリア化せずにそのまま残っている。イギリスはイギリス共和国となっている。

北米大陸は東半分が王政のアメリカ主権連合国として独立していること以外は割と普通。・・・と見せかけてジョージア州はドイツ領になっている。

なお、この西半分のアメリカ合衆国は一時、福音主義者たちによって支配された「アメリカ組合主義国」になっていたことも。アメリカは国家の名前が豊富に用意されていてうらやましい。

最後にオセアニアを見てみるが、珍しく先住民アボリジニによる国家が独立している(しかもその一部が共産主義革命を起こしている・・)。また、ティドレがニューギニア島をがっつり植民しているというのもなかなか珍しい姿だ。


世界は混乱に満ちている。

この世界に安定した平和が訪れるのにはもう少し時間がかかりそうだ。

 

この世界で、大韓帝国は――もしくは「韓国」は、繁栄を迎えることはできるか。

 

 

それはまた、別の物語で。

 

 

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