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【CK3】平家の末裔 in 1408-1443「春広の代, そして戦国時代と平家の再興」

 

平家――平氏の中でも特に平正盛に連なる血統――は、壇ノ浦の戦いにおける敗北を経て平頼盛を除き全滅し、事実上の滅亡を迎えた。

その頼盛の血統は史実においてははっきりとした記録が残ってはいないものの、その一つの可能性として語られるのが、越後の山奥・古志郡に勢力を有していた「」氏。

自身も池殿、池大納言とも呼ばれていた頼盛の血統を受け継ぐ「かもしれない」存在として、彼らは確かにそこにいた。

 

そして、この物語では、そんな彼らが実際に平家の再興を目指して戦っていたら、という世界を描く。

史料にも残っている14世紀前半の池七郎成清は33歳の若さで亡くなるも、その嫡男・慶宗が半世紀近い治世の中で北越後から会津にかけての広大な領域を支配。

あまりにも偉大すぎた父の後を継いだ豊兼は、気負いすぎた末に越後守護の風間光信に背後を突かれ、居城の落城と共にその命をも落とす結果となった。

次いで家督を継承した綱景は、すぐさま兵を集めて風間に反撃を喰らわせ、さらに謀略を尽くしてその命を密かに奪い取る。

その後、風間の遺児から越後守護の座も奪い、さらには新田義貞没後半世紀近くに渡り内紛を繰り返していた主君・新田家に対しても反旗を翻した。

その戦いも優位に進め、綱景はまさに北陸の盟主の座を奪い取る、その目前にまで迫っていたのである。

 

だが、その時――以前から気になっていた頭痛が、致命的なほどの痛みに変わった。

それはやがて止めどない痛みの奔流となり、「慶宗に次ぐ英雄」となるはずだった綱景の命を唐突に奪い取ることとなった。

 

平家の再興まで、あと一歩。

一族の想いは、僅か21歳の「春広」へと受け継がれていく。

 

 

Ver.1.10.1(Quill)

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  • The Northern Lords
  • The Royal Court
  • The Fate of Iberia
  • Firends and Foes
  • Tours and Tournaments
  • Wards and Wardens

使用MOD

  • Japanese Language Mod
  • Shogunate(Japanese version)
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  • Historical Figure for Shogunate Japanese
  • Personage
  • Invisible Opinion(Japanese version)

 

目次

 

第2回はこちらから

suzutamaki.hatenadiary.jp

 

平家の復活

1407年7月15日。

池春広は父の死を戦場で知ることとなった。

幼い頃から武勇に優れ、軍奉行・江刺晴政の後見も受けていたことで軍略についての才も類稀なるものであった春広。

そのこともあり、彼は一乗谷陥落後、懸塚広忠率いる本隊が北方の南会津侵略へと向かう敵軍を迎え撃つべく北上したのちに、一乗谷周辺に残り周辺の砦の制圧とこれを奪還しようとする敵の残党に備える役割を担っていた。

早馬が会津にて斃れた父の話を告げた時、彼は眉ひとつ動かさずに訊ねた。

「で、会津に向かわせた本隊は勝ったのか? 負けたのか?」

「ハ——はい、いえ、懸塚殿は無念にも戦死致しましたが、それ以上の将兵の死者は出ず、戦いには問題なく勝利・・・敵兵の3分の1を失わせ、敗走せしめております。間も無くその敗走兵を追って、本隊もこちらにやってくるでしょう――」

「そうか、分かった。ならばやってくる敗残兵をこちらで迎え討とう。沢辺隊は小丸城の包囲を続け、平原隊は敵の帰還先候補の1つである村岡城へと向かわせろ。江刺は私と共に大野城へと向かい、陣を張るぞ」

父の死の報に動揺する様子も見せず、テキパキと指示を出していく春広。それは家臣たちにとって頼もしい姿であると同時に、どこか末恐ろしさも感じさせるものであった。

 

とは言え、棟梁の死を前にしても一切の緩みも見せなかったことで、新田軍は僅かな希望さえも打ち砕かれることとなった。

越後から命からがら逃げ延びてきた総指揮官・新田行義の軍勢は、大野に陣取る勇壮なる池軍の部隊を前にして、なすすべもなく降伏を選ぶ他なかったのである。

 

そして1408年6月19日。

新田氏から北陸の支配権を奪い取り、もはや日ノ本においては並び立つものもほぼいない存在となったことを理解した春広は、いよいよ一族の使命を現実のものとする。

 

すなわち、これまでの「池」の名乗りを改め、明確に自分たちのルーツが何者であるかを日ノ本に宣言すること――そう、「我らは平家である」と、彼は宣言したのである。

ここに、「平家」が復活する。

だが、これで終わりではない。これは「平家の復活」であっても、「平家の再興」とは異なる。

かつて平家を滅ぼした源氏の末裔たる足利を打ち倒し、偉大なる祖先・平清盛が如く、天皇親政の下、日ノ本の政を支配することこそがーー真の意味での「平家の再興」と言えるものなのである。

 

物語はまだまだ続く。春広の、次なる野望に向けて。

 

 

南朝の勢力拡大

1409年7月21日。

池春広、改め「平春広」は、兼ねてより念願だった上洛の許しを得て、ついに南朝の天皇・第100代桃園天皇*1への謁見を果たす。

今や南朝勢力の中心の一角となった春広にとって、天皇は当然、最も忠誠を尽くすべき相手でもある。

一方で、かつてその天皇をも「支配下」に置いたのが平家というもの。表向きは敬虔な様子を見せる春広も、心の底ではこの若き君主をいかにして利用してみせようか、ということを眈々と考えていた。

 

そして、今回の上洛のもう1つの目的が、新たな同盟関係の構築である。

 

現在、日本全土の65%超を南朝勢力が有している。

南北朝勢力それぞれの上位七カ国の総兵数で順位付けすると以下の通りで、これだけを見てもいかに南朝が優勢であるかが良く分かる。

この先、北朝勢力を打倒し、南北朝の統一を図る上で、南朝勢力の上位数カ国との同盟を形成することが非常に重要になる。

 

と、いうことで、早速春広は京に来ていた関係者と会合を設け、同盟締結のための交渉に赴くこととする。

平家自体も南朝No.2の総兵力を誇るだけあり、これまでは見向きもしなかった有力守護たちも皆、前向きに話し合いの場を開いてくれた。

 

結果、まずは春広の長女の秀を南朝最大勢力である播磨守護・赤松範次の三男・政則と婚約させる。

続いて次女の平梓と丹波守護・千種冬平を婚約させる。

さらに三女・篠を摂津守・守護の伊丹正顕の三男・正理と婚約させる。

合計10,591の総兵力。

まさに日ノ本最大の軍事同盟が完成した瞬間である。

 

このまま真正面から足利将軍に立ち向かったとしてもおそらく勝てるだろうが・・・念には念を入れて、外堀から埋めていくこととする。

 

まずは加賀守護・富樫稙家を攻め、これを滅ぼす。

さらには関東・下総の小山氏千葉氏らを攻め、これも服属させていく。

南朝方の快進撃に恐れをなし、北朝第五位の勢力を誇る薩摩守護・島津重兼が南朝側に寝返ったばかりか・・・

足利将軍家の側近中の側近であったはずの高氏までもが、南朝に与することとなった。

1415年頃には日本全国の4分の3は南朝が制する状態となり、足利将軍家はまさに四面楚歌という状況に陥っていた。

 

あとは、総攻撃を仕掛けるべき好機を待つのみ。

そしてそれは、敵方ーー足利将軍家の内部対立という形で、具体化することとなった。

 

 

幕府の終焉

足利将軍家は、初代尊氏が1366年に薨去すると、その嫡男である義詮が二代目将軍として即位した。

史実と違い60まで長生きした義詮の後を継ぎ、その嫡男である義満が1391年に即位。

「天才」特性を持ち、史実通りの名君に相応しい能力値と総兵力を有していた・・・このときは。

しかし、この義満の即位の翌年。

義満にとっては叔父にあたる、尊氏の四男・尾張守護「右近衛少将」持氏が、信濃の諏訪氏や弟の宮内大輔重氏らと共に反乱を起こす(明徳の擾乱

絶対的な数的劣勢にも関わらず8年以上に及び耐え続けてきた義満だったが、ついに1400年10月14日に降伏を宣言。

義満はわずか伊豆一国だけを与えられ、新たに持氏による政権が発足することとなる。

 

だが、義満もこれで諦めたわけではない。

 

1412年。今度は義満の甥(弟の子)にあたる足利氏義を将軍職に就けるべく、氏義の弟である義成、その従兄弟である持弁など、義詮系統の勢力が結集し持氏に反旗を翻したのである。

この動きに対し、持氏は抵抗することもなく降参の意を示し、大将軍位は再び義詮系統に回帰する。持氏としても、この頃着実に勢力を拡大しつつあった南朝に対する警戒心が強く、その中で足利将軍家内で内紛をしている場合ではない、という冷静な判断があった。

 

だがその冷静さも、代償として与えられた三河国を剥奪されるという横暴を見せられてしまえばもはや長続きはしない。

1418年7月3日。

再び足利将軍家は内乱を開始。

今度は持氏の弟の重氏を擁立しての大内戦となったのである。

 


1419年6月13日。

関東平野を見下ろせる位置にある利根郡沼田城。

関東一円を支配する幕府勢力に対する最前線となるこの城で、春広は最後の準備を行っていた。

視線の先には、緑野郡の辺りでほのかに上がる黒煙を目にすることができる。

「やはりあの地が激戦地となっているようですな。先だって碓氷峠の戦いでは激戦の末に重氏軍が勝利。そのまま関東の氏義軍の諸砦を占領して回るつもりでしょう」

軍奉行に任命している弟の越後守護・平盛信は机上の地図を示しながら説明をしていく。

「当然、それを留めようとする氏義軍の主力がここに集結するはずです」

「そこを我々が強襲し、一網打尽にするわけだな」

春広の言葉に、盛信は頷く。

「敵は総勢4,000名弱はいるはずです。互いに争い合っている中とはいえ、決して油断の出来る相手ではないでしょう。この最も重要な緒戦は兄上の指揮のもと行いますが、その副官としてこの国で兄上の次に優れた指揮官である我が家臣・北条重広を付けさせていただきます」

盛信に示され、背後に控えていた男は静かに頷く。ひどく内向的であるがゆえに普段はほとんど喋ることをしない男ではあるが、その実力は申し分なく、戦場においては鬼神の如き采配を繰り広げると噂されている男だ。

「なるほど、心強い。それではただちに関東北部を我々のものにしてみせよう。で、その後は?」

「敵主力を一度叩いてしまえば、あとは遮るもののない関東平野です。一気に南下して鎌倉を叩いてしまうのが吉です」

「とは言え、奴らも鎌倉には十分な兵を残しているだろう?」

「ええ、とくに相模の三浦氏はかなり厄介な相手ではあります。正面から単独でぶつかるのは得策ではないでしょう。

 そこで、すでに服属させている千葉氏・高氏に葛飾方面から横やりを入れていただきます。間に湿地帯が横たわってはおりますが、彼らは地勢を能く理解しており、奇襲を仕掛けるには十分な戦力となるはずです」

「すでに両氏とは話をつけております。戦後の足立・豊島のあたりの割譲という飴と、忠誠を示さなければどうなるか、という鞭とを併せ。両氏の跡取り息子はすでに人質として我々の城におり、彼らも下手な真似はできないはずです」

と、沼田城主でもある一族の平広景は不敵な笑みを浮かべながら告げる。基本的には人好きのする気の良い男なのだが、時折何を考えているか分からない不気味なところが見え隠れする男だ。

「そして氏義軍の主力がある飛騨方面には木曽に本拠を構えている信濃守護の平頼実殿が、重氏軍の主力が存する東海方面には同盟国の赤松・千種・伊丹氏らが総攻撃をかけていただく手はずとなっております。全方面より攻撃を受け、さすがの幕府も一たまりもないでしょう」

「相分かった。それでは、早速作戦を開始しよう。朝廷の権力を簒奪しようとする忌まわしき朝敵を排除し、幕府の時代を終わらせるべきときだ」

 

 

1419年6月16日。

南朝軍総大将・平春広は、足利幕府に対し全面的な宣戦布告を発布。同時に各方面からの侵攻を開始した。

同年8月。群馬郡を真っ直ぐ南下する平軍5,000名超の姿を確認し、争い合っていた足利両軍は蜘蛛の子を散らすかの如く逃散。

対幕府軍緒戦となる「緑野の戦い」は、敵指揮官不在の中での一方的虐殺となった。

あっけなく緒戦を終えた平軍は、ほとんど損耗のない軍を細かく分けながら関東平野の諸砦を占領しつつ南下。

豊島の地で鎌倉方面から北上してきた氏義軍と激突するも、重氏軍との内乱で疲弊しきっていた氏義軍にはもはやまともな戦力は残っておらず、およそ7倍の戦力差でもってここでも圧勝を期することとなった。

蓋を開けてみれば、あっという間であった。

開戦から1年半後には鎌倉を含む関東の主要城塞をすべて占領下に置き、1420年12月23日に氏義は降伏した。

これで、「南北朝の統一」に必要な条件はすべて達成した。あとは、天皇自らこれを宣言することで、目的は達せられるのである。

そして1421年5月17日。

ついに桃園天皇の号令の下、幕府の後ろ盾を失った北朝の後崇光天皇や皇太子頼仁親王は廃位させられ、彼らの宣旨によって有効化されていた足利将軍家の征夷大将軍職も正式に解任。幕府は滅亡し、桃園天皇による親政(応永の新政)が開始される。

これにて日ノ本は大和朝廷の威光の下、統一されることとなり、永遠の平和が訪れた

 

 

はず、だった。

 

 

 

 

1421年7月8日。

討幕に功有り、播磨に加えて明石の守護職も拝受していた赤松正則が、突如桃園天皇に対し朝廷の独裁権――すなわち「治天の君」であることの放棄を要求した。

当然、桃園天皇はこれを拒絶。しかし赤松は自身の支持者を少しずつ増やしていき、半年後の1422年1月13日には肥後守護の菊池修理大夫時親、羽後及び羽前守護の葉室家平など計七名の守護・国人を賛同者として集め、改めて連名で要求を突き付けた。

合計した総兵力は1万を超える。

桃園天皇はもはや、抗う術はなかった。

 

 

かくして1422年3月16日。

桃園天皇は応永の新政の終了を宣言。諸国に対する朝廷からの強制力は失われ、各国を治める守護は「大名」と呼ばれ、各国が独自に法律を制定し、それぞれが独立国に等しい権限を持つようになった。

 

だがそれは同時に、激しい「戦国の時代」の始まりを意味してもいた。

物語はまだまだ終わらない。

それは新たなる局面を迎え、さらに加速していく。

 

 

戦国時代の幕開け

天皇親政による全国統治は1年も保たず、日ノ本全土は独立した諸侯が群雄割拠する戦国時代へと突入した。

この戦国時代はDLC「Fate of Iberia」を導入していると、このDLCで追加される「闘争システム」を利用したルールが設定される。

それは下記のような概要だ。

スタート時点では「天下統一/乱世」フェイズとなっており、ここでは次のようなルールが設定されている。

つまりより戦争が活発に巻き起こり、暗殺も容易くなるといったまさに「乱世」の状況が生み出されるというわけだ。

そしてこのフェーズでは、下記のような行動を取ることによって少しずつ「進捗ポイント」が溜まっていく。

完全な乱世から、少しずつある一定の統治者による支配が固まっていくようなイメージか。

これらの進捗ポイントが蓄積され1,000ポイントにまで達成すると、今度は「天下統一/治世」フェーズへと移行する。1590年の豊臣秀吉による統一のフェーズをイメージしている様子。

するとルールは以下の通りに変更される(戦争への影響は変化せず)。

改宗がより早く進むようになり、統一へと近づいていく。そして暗殺などの敵対的策謀よりも、懐柔などの個人的策謀の方が成功しやすくなってくる、といった変化だ。

 

そしていずれのフェイズにおいても、戦国時代を「終わらせる」ためには以下の3つの方法のいずれかが必要となる。

①天下静謐

②惣無事令

③欣求浄土

それぞれ織田信長、豊臣秀吉、徳川家康をイメージした「勝利条件」のようで、自分以外の全ての強敵を打ち倒すか、公家としての階位を最高にまで高める(そのためには莫大な資金が必要となる)か、全土の8割を自分の味方だけで支配するか――力か、金か、外交か――という3択で戦国時代の終焉を目指すこととなる。

いずれにせよ、独自の「幕府」を開く必要が必ずある。

そしてそのためには、山城国――すなわち、「京都」を奪い取る必要があるのだ。

天皇には悪いが――これも、戦国の習いなれば。

平春広は、一世一代の「下剋上」へと挑むこととなる。

 

 

とはいえ、いきなり京を攻めるのは難しい。平家の本拠地である北陸と京との間には、近江国を支配する名門・京極家が鎮座している。

総兵力3,061ーー現在の平家の総兵力の半分程度ではあるものの、これを無視して京に攻め込んだとき、背後から突かれ退路を断たれてしまえばひとたまりもない。

よって、まずはこの京極を叩くこととする。今や平家はその倍にも及ぶ6,183の総兵力を持つ日ノ本最大の勢力であり、単独で問題なくこれを打ち倒すことができるだろう。

その予想通り、突如として領内に雪崩れ込んできた平家の軍勢を前にして京極軍はなすすべもなく潰走。その領地のほぼ全域を制圧される。

1424年10月6日。開戦からわずか15か月で、かつての南朝第三位は降伏の道を選ぶこととなった。

もはや京は目の前。戦を終えたばかりの春広はすぐにでも「上洛」を行おうという腹積もりであった。

だが、ここで思わぬ事態が到来する。

急激な拡大と共にその食指を朝廷にまで伸ばし、始まったばかりの戦国時代を全て吞み込んでしまおうとする春広に対し――諸侯が、「包囲網」を形成したのである。

春広にとってーーそして平家にとって、その存亡をかけた最大の戦いが始まる。

 

 

最後の戦い

首謀者は、まさに春広によって喉元に刀を突きつけられた格好となっていた桃園天皇。

春広を朝敵と断じ、その追討の宣旨を発したのである。

それは春広にとって、叛逆の絶好の口実でもあった。

直ちに桃園天皇に対し宣戦を布告。

その全勢力をもってあっという間に京都盆地を制圧せしめ、これを降伏させるのは時間の問題であった。

だが、ここで、追討の宣旨に従って陸奥将軍・北畠具運が春広に対して宣戦布告。

南朝の最忠臣たる北畠家がその総兵力5,000強でもって春広の居城・観音寺城を包囲する!

流石に危機感を覚えた春広は、京に侵攻していた全軍を結集し都へと反転。

その隙に京を脱出した桃園天皇は吉野へと逃れ、平軍の接近を知り観音寺城包囲を解いて南下した北畠軍と合流することとなった。

この両者が合同することは春広にとっても厄介である。

すぐさま彼は同盟国に使者を遣わせるが――

「包囲網」のせいで同盟国たちは皆、敵にこそ回りはしなくとも、春広の味方をすることは拒絶することとなった。

 

致し方ない・・・。

自らの軍勢だけで、この難局を乗り越えてみせる!

 

 

1427年1月31日。

敵軍が分散している隙を突き、北畠軍の本拠地・秋山城に奇襲を仕掛ける。敵もまさか、こんな真冬に山中の城に仕掛けてくるとは思っていなかったようで、逃げる暇もなく平軍の先発隊に補足されてしまう。

平家vs北畠家。互いのプライドをかけた総力戦。この戦いに勝利したものが、天下に最も近い存在となるだろう。

山間部に降り積もった雪が赤く染められる中、数多くの死傷者を出しながらも明け方には決着。

のちに「秋山城合戦」と称されるこの激戦の中で、実質的な敵軍の総大将・北畠具運を拘束することに成功した。

これで敵軍最大勢力は瓦解。

あとは、桃園天皇の引き籠る吉野を落とすだけである。

その吉野がかなりの堅城で、100体の攻城兵器を用意しても半年以上包囲戦は継続することとなった。

それでも1427年8月19日。ついに、吉野城陥落。

同時に桃園天皇の身柄も確保。

もはや成す術を失った桃園天皇は潔く敗北を認め、全面的な降伏を宣言した。

桃園天皇の降伏により包囲網も解除。あっけない幕切れであった。

 

完敗を喫した桃園天皇に対し、春広は彼とその後継者・秀仁親王の廃位を決定。京の都からの追放を言い渡した。

代わってこの桃園天皇の従兄弟にあたる行貞親王を新たに宇治天皇として即位させ、実質的な傀儡とした。

この宇治天皇により征夷大将軍に補任され、ついに春広は自らの「幕府」を開く。

春広はその居城を会津から琵琶湖畔・安土に位置する観音寺城に移しており、このことからのちにこの幕府のことは通例「観音寺幕府」と呼ばれることとなる。

 

まさに、春広は――そして、復活した「平家」は――「天下」を、手中に収めることに成功したのである。

主に近畿から西日本を中心に勢力圏を拡大していった12世紀の平家と異なり、この時代の新・平家は、主に東日本を中心とした勢力圏を誇ることとなった。

 

 

エピローグ:平家の再興

幕府設立後も暫くは春広の権威を認めず反抗する者たちは現れた。

例えば桃園天皇降伏直前の混乱期を狙って、本州最北端の南部家が、旧朝廷領・現幕府領最北端の「三戸郡」を狙って攻め込んできたり。

あるいは天皇追放などという大逆を犯した春広に対する懲罰として、全国の神道信徒らによる一斉蜂起が巻き起こったり。

この反乱にはかつて足利に使えていた相模守護・三浦持義も加わり、幕府内での内乱という様相を呈することにもなった。

 

特に後者は反乱勢力の数もかさみ、合計で1万を超えるほどの兵力にまで膨れ上がったものの、すでに「包囲網」が解けている今、春広に味方する数多くの同盟国の力も借り、問題なくこれを打ち倒すことに成功した。

日本海を渡って一気に北上してきた幕府軍の総攻撃を受け、南部軍もあっという間に壊滅した。

 

神道信徒らの反乱はわずか3か月で鎮圧され、この「正長の乱」を最後に、表立って幕府へと反抗する戦いが巻き起こることはなくなった。



それからさらに、年月が流れて――。

 

 

 

1443年6月7日。

平春広は内裏の正殿・紫宸殿に招かれていた。この日、彼は従一位及び太政大臣の官位を授かる儀式を受ける予定となっていた。

紫陽花や百合といった初夏の花々が咲き誇る中庭で笠取天皇の御前に立った春広は、その手より直々に勅書と笏とを手渡された。

「平内大臣、汝の忠心と功績を称え、今日より汝を従一位太政大臣とする」

「有難く拝命致します。これからも永劫に、陛下の為に尽くすことを御誓い致します」

深々と頭を垂れ、殊勝な言葉を口にする春広。当然、その言葉を額面通り受け取る者などこの場には誰一人存在しなかったが、そのような事を口にする者もまた居るはずもなかった。

すでに、天下は彼のものであった。

この15年、正面から幕府に歯向かうものは存在せず、13年前に「不可解な死」を遂げた宇治天皇に代わり、その弟である義詮が第102代笠取天皇として即位させられていた。その妃には春広の娘であるを娶らされており、笠取天皇は春広の完全なる傀儡となっていた。

春広の四女・皐。未来の天皇を産み、平家に新たな栄光をもたらす使命を与えられた。

 

しかし、笠取天皇も内心はどうあれ少なくとも表立って春広に反抗するわけにはいかなかった。下手な振る舞いをすれば、自らもきっと兄と同じ運命を辿ることになる・・・ゆえに、彼は表面上は春広と友好な関係を築かざるを得なかった。

 

そして、その天皇の権威と自らの「太政大臣」としての立場を利用し、笠取天皇の勅定という形で全国に「私闘禁止」を指令。

すなわち、「惣無事令」である。

見事、天下は統一された。戦国の世は終わり、日ノ本に平穏がもたらされた。

すべてはこの、「天下人」平春広の手によって!

やっぱり平家の末裔たれば、「太政大臣」になるほかあるまい!

 

かくして、完全なる形で平家は再興された。

きっとこの世界は、永遠に平和を享受することになるだろう!

 

 

 

 

「平家の末裔 in 南北朝時代」完。

 

 

 

 

 

 

その後

それでは「その後」の平家についてダイジェストで見ていこう。

「太政大臣」となり天下を統一した春広はその後、急速に老いを味わうこととなっていった。

その兆候が訪れたのは彼が天下人となってからわずか1年後であった。


平家の永遠の繁栄の為、彼はその全てを自らの子に投資しなければ・・・という思いと共に、嫡男・晴宗の領地の市場を拡充するなど、代替わりに向けての準備を着々と進めていた。

しかし、1445年11月24日。その嫡男・晴宗が、まさかの突然死。

おそらくは、狩りに出て、その場で勇敢と無謀とを取り違えたのだろう。傲慢で、頑固なところがある彼だけに、狩猟頭の言うことを聞かなかったのか・・・


あとに残されたのは晴宗の遺児・実成。春広にとってはより愛らしく、目に入れても痛くない存在ではあるものの、平家の棟梁としてはその「愚鈍」さがあまりにも不安であった。

この先、果たして平家はどうなってしまうのか・・・

深い不安に苛まれながらも、身体はついてはいけず。

1446年2月23日。観音寺幕府初代将軍にして平家の再興者、清盛以来となる武士として太政大臣にまで登り詰めた男は、その精魂をすべて使い果たし永遠の眠りへと沈んでいった。

 

そして、この偉大なる存在の死と共に、観音寺幕府は最初の試練に直面することとなる。

 

 

1446年12月16日。

愚鈍な実成とこれを傀儡としようとする側近たちに対し、実成の叔父(春広の次男)にあたる越前守護・宗景からの将軍位の要求。

当然、実成側はこれをすぐさま拒絶するも、すでに宗景は多くの賛同者を味方につけており、その総兵力は実に1万6千。実成側の約4倍にも達し、勝敗は誰の目から見ても明らかであった。

 

しかし、この実成という男、愚鈍と思われていたものの、その芯はしっかりとしている男ではあった。

とくに教育役であり友でもあった宗輝によって鍛えられた「不屈の軍人」としての魂は誰にとっても侵し難く、平家の混乱に乗じて独立を画策して蜂起した土肥*2義材に対しては見事なまでの返り討ちを食らわせている。

実成自ら軍を率いて関東まで出兵し、蜂起した義材や山名氏、国衆らの領地を次々と占領していく。


そしてやがて宗景との争いも一進一退の膠着状態に陥り、「文安の乱」と呼ばれたその戦乱は実に13年にも及ぶ長期の大内戦となったのである。

とはいえやはり国力の差は覆し難く、最終的には反乱を起こした側である宗景が勝利。

春広の次男・宗景は、観音寺幕府第三代将軍として新たな天下人となった。

 

しかし、この戦乱の間に当然のことながら幕府の求心力は大幅に低下。

その間に中央の権力から独立し、独自に勢力を拡大していく地方の大名たちも現れ始め、世は再び戦国時代の様相を呈し始めていた。

安芸・石見・周防・長門の四か国を支配する大大名へと成長した安芸武田氏。

備前・備後守護であった菊池氏も今や九州をほぼ統一しかけている。

かつて春広に敗れたこともある南部家は、平家の内紛に乗じて東北の幕府領の一部を今度こそ手に入れることに成功したほか、蝦夷地の一部にもその勢力圏を拡大しつつある。

 

だが、そんな混乱に陥る平家・観音寺幕府に、ひとときの平穏をもたらす者が現れた。

その男の名は平貞宗

初代将軍・春広の三男で宗景の弟であった彼は、1465年に宗景が薨去した後、その孫の四代将軍・重胤の摂政としてこれを補佐。彼が若くして亡くなると1476年に第五代将軍として53歳の高齢で即位した。

彼は非常に聡明で高い智慧を持ち、その学識は年を重ねるごとにより輝きを増していった。

彼はさらに一般的な大和言葉だけでなく、宮中で使われる御所言葉にも精通し、さらには琉球やアイヌなど辺境の言葉についても自由に使いこなすなど、その聡明さは底知れず。

さらにその知識・探究欲は自らの身体にも向けられており、長寿と健康には誰よりも気を遣い、70を優に超えてもなお元気で居続けていた。

最終的には学識30にまで向上。

 

よって、高齢の即位にも関わらず27年間もの統治を実現し、文安の乱で混乱した観音寺幕府に安定をもたらすことに成功した。

そんな彼も、1503年に80歳でついに薨去。

しかし老衰による死ではなく狩猟の際の事故で亡くなったというのだから恐れ入る。

 

春広同様に嫡男に先立たれていた彼の後を継いだのは、嫡孫の宗持。しかし春広と違い十分に時間が残されていた貞宗は、その継承のための万全の準備を整えており、その治世の安定も保証されていた。

1503年時点での日本全図。

 

果たして、この先も彼ら平家は脈々とその血統を繋ぎ、繁栄を保つことはできるのだろうか。

――もちろん、「盛者必衰の理」を誰よりも理解しているのが彼ら平家であるのは間違いないだろう。

それが永遠ではないことを悟りつつも――それでも、彼らはその名声を、誇りを、決して途絶えさせることのないよう未来へと繋いでいくことになるだろう。

 

そしてそれは、また別の物語である。

16世紀後半には天皇家と同格の「伝説」級の家柄となった。

 

 

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*1:下記画像中は「直仁」と記載されているがこれは諱。のちに南北朝統一の際に桃園と改称されるため、天皇の名としてはこれが正と考えて良いだろう

*2:足利家の分家。