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【CK3】織田信雄の逆襲② 清須会議編(1585-1587)

 

1582年6月21日(天正10年6月2日)。

天下統一を目前としていた織田信長が、突如として家臣の明智光秀に討たれる「本能寺の変」が勃発する。

中国地方にいた羽柴秀吉、北陸地方にいた柴田勝家の両方がそれぞれ敵対していた勢力(毛利、上杉)との二正面作戦を強いられ、かつ明智方に細川忠興がついたことでこの戦線は長期化し、変勃発から3年が経過した1585年7月1日にようやく明智光秀は討たれ、大乱は終結することとなる。

 

畿内が混乱に陥っている間、信長の次男であった織田信雄は家臣の九鬼嘉隆の水軍の力も借りて紀州を征伐。

父・信長も苦戦したこの山中の穴熊たちを見事平定し、紀伊半島南部に巨大な勢力圏を築くこととなった。

 

そして1585年夏。

いよいよ混乱にひとまずの落ち着きを得ることとなった織田家宿老たちは清州の地に集まり、今後の織田家の行く末を巡る会議を開始することとなる。

果たして、織田の命運は如何なる結末を迎えるのか。

そして、信雄の「逆襲」の行方は・・・。

 

Ver.1.10.2(Quill)

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目次

 

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清洲会議

1585年8月2日。

清洲城で開かれることが決まった会議に参画すべく、織田領各地から有力者たちが集まりつつあった。

まずは明智討伐の第一武功者であり今や織田家中筆頭の実力者として見られている羽柴筑前守秀吉

同じく明智光秀と対峙し、越後の上杉景勝との二正面作戦を強いられながらも北方より明智方を牽制し続けていた織田家筆頭家老・柴田修理亮勝家

対明智戦では羽柴の麾下に加わり琵琶湖北西よりこれと対峙、丹後を拠点としていた細川忠興に対する牽制として機能していた丹羽五郎左衛門長秀

同じく羽柴麾下で明智との戦いに参戦し、その決戦となった山崎の戦いでは大きな武功を挙げることとなった信長の乳兄弟・池田紀伊守恒興の計四宿老が会議の主役となっていた。

なお、本来であれば彼らと同格であり、会議への参加資格は十分にあったはずの滝川左近衛将監一益は、北条との戦いに敗れその領土をすべて失った挙句、今もどこで彷徨っているのか生きているのかさえ不明ということで不参加が決まった。

 

会議で決められたことは3つ。

1つは織田家督の継承者について。これは、信長の嫡孫・三法師であることは初めからほぼ決まっていたも同然であった。

問題は、その三法師の「後見役」を誰にするかーーすなわち信長の次男・信雄か、三男の信孝か、という問題である。

 

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「畿内にて御父上の弔い合戦が行われている中、紀州で随分と好き勝手していたようだな」

清州城城外。四宿老の会議には交われず城外での待機を余儀なくされた織田信孝は、苛立ち混じりに隣の信雄を睨みつけながら吐き捨てる。

「奴らはいずれ織田家に牙を剥く。その牙を先に抜いていただけだ。いずれにせよ織田家の利益になることをしていたのだから文句を言われる筋合いなどない。

 そういう貴様こそ、羽柴の赤い尻に付いて歩いていただけで、何も武功を得られていないと聞くではないか。御飾りの権威で満足するならば、大人しく領地で座していれば良いものを」

一触即発の二人の様子を、家臣たちは冷や冷やとした様子で遠巻きに眺めている。

「会議が閉廷したぞ!」

騒めきと共に城の門が開かれ、中から五宿老が各々苦虫を噛み潰したような表情で出てくる。その中でも羽柴秀吉のみは、凄味のある無表情で中央を歩いており、先の明智討伐の功績をもとに、彼が織田家中最有力者となったことが如実に伝わる様子を見せていた。

だが、信孝と信雄にとって重要なのは、彼らの立場についての決定だった。やがて近づいてきた柴田が口を開く。

「織田家新当主、三法師様の後見役となるのはーー信雄殿、信孝殿、その両名と致します」

信孝は眉根を寄せる。信雄にとってはそれは予想通りの結末であった。謂わば、棚上げ。それは彼らにとっては大した関心事ではなかったということだ。

「国分けは?」

信雄の言葉に、柴田は背後の三宿老ーーというよりは羽柴ーーに視線を送る。羽柴は目を伏せ首を振る。

成程な。信雄は合点が言ったように内心で呟いた。

 

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「ーーで、信雄殿は先だって手に入れた紀州の領有を認められる代わりに、新たな知行はないと」

「と、言うよりほぼ現状追認だな。羽柴のみが一人勝ちといったところだ。一体、誰が当主かと思うが如くな」

「柴田殿は何も文句は仰られなかったので?」

正福寺。3年前、本能寺の変直後に密談を交わしたのと同じ場所で、三河の大名にして信雄の義父である徳川家康が膝を突き合わせていた。

「随分と不満気ではあったがな。だが明智との戦いで何もできなかったのは事実であり、発言権がないと言うのが実態か。まあ、我はその場に居たわけではないが、概ねそんなところだろう」

茶を点てながら、無表情に淡々と語る信雄の真意を、家康も読めずにいた。果たしてその器の中を掻き回しながら、どんな未来を思い描いているのか。羽柴よりも、柴田よりも、家康にとってはその動向が気になる相手であった。

「さて、岳父殿。そちらは幾分、落ち着いたかね」

目線を合わせぬまま訊ねる信雄に、家康は無言で頷いた。北条と組み滝川・上杉と争った先日の神流川の戦いに勝利した家康は、旧武田領を大いに獲得し、その勢力を伸ばしていた。

「いよいよ、岳父殿の御力を借りる必要がある時が来たと思ってな」

信雄は器を置くと、顔を上げ鋭い視線を家康に向けた。やはり、その目を見るだに、家康は亡き信長公のことを思い出す。そのような目は、同じ信長公の子である信孝でも見せることはなかったはずだ。

「一体・・・どちらへ?」

すでに紀州をものにした信雄は、羽柴柴田や徳川程ではないにしろ、それなりの戦力を有する大名にもなっていた。そんな彼が、徳川の力を必要とするほどの相手とはーー。

「三七だ」

信雄は躊躇うことなく、弟・信孝の別名を口にする。

「すでに羽柴とは話を付けてある。三七めは早くも会議の約定を破り、当主三法師を手中に独占しつつ城に立て籠っている」

「そして柴田もそんな三七を支持し、織田の秩序に対する反旗を翻している。看過できぬことだ」

言葉とは裏腹に、信雄の口元には笑みが浮かんでいた。

それは、表から見れば、天下人への歩みを突き進まんとする羽柴秀吉による、織田信雄を利用した策略のように見えるだろう。

しかし、こうして実際に信雄を目の前にしている家康にとっては、また異なる感想を抱かざるを得なかった。

 

かくして1585年冬。

会議という場で平穏にまとまるはずだった織田家中は、むしろより過激な形でその混迷を極めていくこととなる。

 

 

妹背山の戦い

1585年12月26日(天正13年11月6日)。

信雄は信孝の居城である伊勢・神戸城に向けて兵を進め、開城と降伏、当主三法師の引き渡しを要求する。

当然、信孝側はこれを拒否。抵抗の構えを見せると同時に、同盟国であった四国の長宗我部氏に救援を求め、長宗我部もまたこれに応え参戦を宣言した。

だが、同時に東海の徳川家慶も信雄側で参戦を宣言。

織田家新当主の後見役を巡る兄弟間の争いは、外部勢力をも巻き込んだ巨大なものとなったのである。

さらに、信雄のこの行動に対し非難する声明を出したのが柴田勝家。だが冬季故に北陸の主力軍を出せずにいる間に、羽柴秀吉が今度はこの勝家の介入に対し誓約違反を理由に軍を動員。

南方で兄弟間とその後ろ盾の二大勢力による激闘が始まる中、北方でもまた、織田家中二大巨頭による激突も始まろうとしていた。

 

 

冬も春も過ぎ夏に入り始めていた頃、伊勢神戸城は陥落し、周辺の支城もあらかた制圧し終えていた。

城に滞在していた信雄・信孝の兄弟姉妹たちの多くを保護したものの、肝心の信孝・当主三法師の姿がない。

聞けば、すでに当主三法師を連れて和泉へと向かったと。そこで長曾我部軍と合流し、体制を整えるつもりだろう。

すぐさまこちらも徳川軍と合流し、共に大和の地を抜け和泉へと向かうこととする。

和泉方面ではあらかじめ三好笑岩蜂屋頼隆らと内通し反乱を引き起こさせていたのだが、その鎮圧のために蜂屋居城・岸和田城を包囲していた信孝・長曾我部連合軍に対し、強襲を仕掛ける。

だが、長曾我部軍は逃げ足も速く、和泉山脈の中を速やかに逃走。総指揮官・木造具政はこれを逃すまいと、同様に山中を全速力で追撃することとした。

山中を駆け抜け、ついに彼らは、紀ノ川沿いを上ろうとする信孝・長曾我部連合軍の姿を見つける。

話によると2,000名程度しかいないと聞いていた彼らの軍勢は、それよりもさらに少ないようにも思われ、その足並みも乱れ、信雄・徳川連合軍4,600の敵ではないように思われた。

 

だがこれは、稀代の軍雄・長曾我部元親の仕掛けた罠であった。

 

穴伏川沿いを南下し、平野部を東へ逃げようとする信孝・長曾我部連合軍の横腹を突く格好となったはずだった信雄・徳川連合軍。

しかし、これが全速力で信孝・長曾我部連合軍の近くにまで達しようとしていたそのとき。

信雄・徳川連合軍の左翼に位置する妹背山から、数百名規模の伏兵が、突如として姿を現したのである。

しかも、この伏兵の中には、雑賀・根来仕込みの精鋭鉄砲兵の姿も。

完全なる奇襲。そして先ほどまでの乱れた足並みが幻だったかのような統率の取れた動きで襲い掛かる長曾我部兵たち。一方の信雄・徳川連合軍は、強行軍で山を駆け抜けてきたばかりでもあり、十分な対応が取れぬまま次々と兵が斃れていくばかりであった。

 

「畜生! 何だっていうんだこの状況は! やっぱり織田信雄なんていう凡愚と手を組むべきじゃなかったんだじゃねえのか!?」

「――平八郎!」

榊原の言葉に、乱戦の渦中にあった本多忠勝は気づく。並みいる雑兵の間から、巨大な槍を持った熊のような大男が現れたことを。

「貴様が世に聞く本多平八か! 御手並み拝見させていただくぜ!」

わずか一振りで無数の兵を薙ぎ払う膂力を見せつけるその熊を前にして、忠勝は喜色を浮かべながら一人立ち向かう。

周囲も思わず近づくことのできないほどの迫力を放ちながら剣戟を重ねあう二人の戦いは、永劫ともいえる時間の果てに、やがて熊の放った一撃が忠勝の左眼辺りを抉ったことで決着が付いた。

だが、才蔵が止めを刺そうとする前に、そこに横槍を入れた岡田重善の攻撃によって、すでに足元も覚束ないほどに疲弊していた才蔵は傷つけられ、潮時だと悟った彼は速やかにその場を後にした。

「撤退だ。これ以上は何も得るものはない」

榊原は自ら撤退の御触れを出し、重傷を負った忠勝を最優先で守らせながら、整然とした退却を指示していく。

高台まで逃れた彼が振り返ると、長曾我部軍のわずかな手勢が、何倍もの信雄軍の敗残兵たちを追撃していく様子が目に入った。

「これが土佐の鬼若子か・・・触れてはならぬものに、触れてしまったようだな」

余りにも衝撃的な結果。2倍以上の兵力であたったにも関わらず、溶かされるが如く勢いで惨敗させられた。長宗我部元親、余りにも恐ろしい存在であった。

 

神戸城にてその敗戦の報せを受け取った信雄。同席していた家康はその眉根の彫りを深くするも、信雄がいつも通りの――いや、いつも以上の――無表情さでこれを受け止めていることに気が付いて冷静さを取り戻した。

「また、戦いの中で大きく負傷した木造中将殿が危篤状態とのことで――」

「捨て置け」

「は――」

「もはや、勇敢と無謀とを履き違える猛将など、我が軍には不要。要らぬ戦闘で自軍のみならず同盟軍をも危険に晒すなど以ての外。九鬼殿不在の中代理で任せた指揮官であったが、やはり時代の変化に追いつけぬ老兵は使い続けるにも限界があるな」

淡々と告げる信雄を前にして、家康はまるで、かつて信長公を前にしたときと同じ緊張感が背中を走るのを感じていた。

数日後、戦時の傷を原因として、「伊勢の赤鬼」木造具政はこの世を去ることとなった。

 

信雄はもうその話は終わったとばかりに使者を帰らせ、改めて家康に向き直る。

「この度は岳父殿の雄軍を貸していただいたにも関わらず、迷惑を掛けてしまい申し訳ない」

小さく頭を下げる信雄に、家康はとんでもないと慌てて手を振る。

「手前らの軍も、あれだけの数を揃えながら実に情けないばかりです。信雄殿の言葉、耳が痛くなる思いです」

「まあ――先ほどの言葉通りだ。時代は変わった。一つ一つの戦闘で戦争全体の趨勢が変わるようなことは、もはや有り得はしない」

信雄は火鉢を手元に引き寄せ、火箸でもってそれを突き刺し始める。

「戦略的には、変わらず我らが有利は続いておる。岳父殿、もう暫く、兵を貸していただくぞ。信孝の城をすべて落とし、持久戦に持ち込んで降伏させてやろう。土佐の蝙蝠も、そろそろ冬眠の時間になるだろう」

 

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信雄の言葉通り、妹背山の劇的な勝利にも関わらず、状況が大きく変わることはなかった。

新たに立て直した徳川軍2,400と信雄軍1,000超でもって再び河内・和泉に侵入し、信孝の支城を次々と陥落させていく。

紀伊半島と四国とを結ぶ紀伊水道はあらかじめ九鬼嘉隆の水軍で完全封鎖しており、補給もままならない長曾我部軍はさらにその兵数を減らしており、もはや奇襲も叶わない以上、まさに「冬眠」せざるを得ない状況に追い込まれていた。

さらに、1587年7月1日(天正15年5月26日)、羽柴秀吉と柴田勝家との戦争が終結。

領地のやり取りはなかったものの、柴田方が羽柴方の言い分を全面的に認めることを誓い、これで信孝は織田家中の後ろ盾を完全に失ったことを意味していた。

 

1587年10月22日(9月21日)。

和泉における信孝方の最後の城・佐野城が陥落。

城主・桑名具教はその他の支城と異なり最後まで降伏を受け入れず、主君への忠誠を誓い城と共に運命を共にしたという。

天晴なり、と周囲の家臣たちが口を揃えて彼の名を讃える中でも、信雄は平生の冷静さを失わない様子でこの報を聞いていたという。


かくして、2年にわたり続いた実質的な「家督継承戦争」は終結。

清須会議における第三の目的であり最重要課題であった「国分」についても決着と相成り、羽柴が山城・近江全国を領有することを柴田はじめ家中共同で賛意を示すと共に、信雄が伊勢全土を獲得。そしてその同盟国である徳川が、旧「当主三法師」領として遺されていた尾張の地を獲得することとなった。

 

これで、織田家は安定を取り戻したと言えるのだろうか?

 

――いや、まさか。

一時の混乱が終息し、暫しの平穏を取り戻したのは事実ではあるが、それは次なる混乱に向けての助走期間でしかないことは、当事者の誰もが理解していた。

 

それでは、物語を次なる舞台へと進めていこう。

 

第三話、「関ヶ鼻の戦い」編へと続く。

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