1836年。
開府から200年以上が経過し、経年劣化を見せ始めていた江戸幕府による統治は限界を迎えつつあった。
1787年(天明7年)に即位した第11代将軍・徳川家斉の治世の前半においては、白河藩主・松平定信による寛政の改革が行われ財政の再建が図られるも、厳格過ぎるその政策は幕府上層部の反発を招き、1797年に松平は罷免された。
松平失脚後しばらくはその影響の残る政治が行われていたものの、1818年(文政元年)に老中首座に任命された水野忠成は、家斉の放漫な浪費を戒めるどころか自らも収賄を奨励するなど、財政への規律は再び緩み始めていた。
折しも、日本近海に外国船が姿を現すことが多くなり、その対策による出費も嵩む中、貨幣改鋳にて無理やり資金を用意しようとした末に招くこととなったインフレは庶民をより苦しめる結果を招いた。
おそらく、幕府は長くはもたないであろう。
太平の世は終わりを迎えつつあり、この極東の島国も世界の混沌から無縁ではいられなくなりつつある。
しかし、その「終わり方」と、新たな時代の「迎え方」において、「この世界の日本」は、我々の知る歴史とは少し異なった軌跡を描くこととなる。
異なる改革、異なる主役たち、そして異なる国際秩序ーーその果てに、この「日本」はどんな運命を迎えることとなるのだろうか。
Victoria3プレイレポート/AAR第15弾「日本」編。
動乱の100年が今、幕を開ける。
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目次
第2回以降はこちらから
「天保の改革」
時は天保10年9月3日(1839年10月16日)、大御所・徳川家斉が薨去。すでに将軍職を譲られていながらも実権は殆どなかった世子・家慶が親政を開始する。
彼はすぐさま父の側近たちを粛清し、老中首座ながら同じく権力を抑制させられていた水野忠邦を重用。財政再建のための天保の改革を開始した。
まずは弛緩した大御所時代への反動から奢侈禁止・風俗粛正を命じ、酒類・茶葉・陶磁器など贅沢品を中心に次々と課税。
一方で年貢率も最高水準にまで押し上げたことで、贅沢品と縁のない農民たちについても生活はより苦しくなっていき、耐えきれず田畑を捨てて逃散する者や、一揆に訴えるほかない状況に追い込まれる人びとも増えていった。
その農民たちの声を受け、立ち上がろうとする者が現れた。
男の名は寺内護久(てらうちもりひさ)。
大阪の町に現れ、庶民の味方として政治を改革せんと欲す、この国最初の「扇動者」である。
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寺内護久は1797年10月25日、尾張藩の馬廻として仕えた本家の分流の8代目として、大阪天満に生を享ける。
代々大坂東町奉行組与力を務める家の慣例に従い、護久自身も14歳で与力見習いとして大坂東町奉行所に出仕し、25歳で与力となった。
元来正義感が強く、奉行所時代は汚職や不正を次々と暴き立てたことにより奉行所内では疎まれることも多く、1830年には半ば追放される形で与力を辞し、早くも隠居の生活へと入っていた。
隠居生活の間も自邸に引き篭もることなく、むしろより精力的に藩内を巡り、主に農民の生活改善のために奉行所の知人や跡目を譲った養子の格之助を通じて各種提言を重ねていった。
しかし、1839年に水野忠邦による天保の改革が開始され、農民たちに課される年貢もより一層厳しくなったとき、彼はついに我慢できなくなり、自ら民衆の先頭に立って根本的な改革を訴えるようになる。
農民たちの権利回復と生活の改善を強く訴えた寺内の運動は瞬く間に全国へと広がり、その支持者たちの盛り上がりは幕府にとっても無視できないほどの規模にまで膨れ上がりつつあった。
1840年1月14日。
江戸から大阪に一人の男が派遣された。
男の名は二宮尊徳。小田原や下館など、各地の農村を復興させた実績でもって幕府に召し抱えられ、水野忠邦による天保の改革の重要な一翼を担う存在となっていた男だ。
奉行所にて対面した二宮尊徳と寺内護久。
高い緊張感の中、口火を切ったのは寺内の方であった。
「二宮先生のことは良く知っていますよ。農民たちも口々に、先生の偉業について熱く語ってくれる。先生に助けられた村の者の知り合いもいるくらいだ」
「それは光栄なことだ。私はただ、自分の信じるままに、正しいと思ってやってきただけなのだが」
「そんな先生が今は、幕府の言いなりですか」
寺内の挑発的な物言いに、居合わせた奉行所の役人たちは慌てた様子で二宮尊徳の顔色を窺うも、そこには何ら気にした様子はなく、むしろどこか楽し気な様子さえ浮かんでいた。
「耳の痛い言葉だな。しかし、大事を成すためには、自らもまた大きな器に入らなければならないというだけだ。そこに巻き取られるつもりは毛頭ない」
「で、あれば、その器におれの考えも乗せるつもりはありませんか? それは幕府にとっては都合の悪い考えかもしれませんが——先生の考える経世済民には役立つものだと考えております」
しばし沈黙し、逡巡する様子を見せる二宮尊徳。それを見据える寺内の表情は自信に満ち溢れており、自らの考えで二宮尊徳を説き伏せられると信じて疑わない様子であった。
二宮尊徳はやがて、「申してみよ」と寺内を促した。寺内は前のめりになって、その考えを語り出す。
「まず、納税を現状の年貢ではなく金納とします。幕府が今慌てて年貢率を上げて無茶な『改革』をしようとしているのも、近年の貨幣経済の浸透や凶作・天変地異により収穫高依存の年貢収入が低迷しがちなことが原因にあります。
もはや物納は時代にそぐわない。そこから改革するべきです」
「なるほど。それは幕府にとっても利益があるな。だが一方で、現金を得るために土地を捨て、離農する者がより一層増えてくるのではないか? 金納であれば税収入の面では問題ないかもしれないが、農村の衰退は未来へ禍根を残すぞ」
「ええ、ですから、幕府・藩による米の買い付け制度を公的に実施するようにする必要はあります。金納と物納の混合政策とも言うべきでしょうか。但し、その税率は収穫高に関わらず一定。不作の時は出稼ぎをするなどして農民自ら対応する工夫は必要となるでしょうが・・・逆に収穫高が高くても税率は一定のため、より一層、彼らは勤勉に農業に励み、結果、収穫高も保たれるはずです。
二宮先生、それこそが貴方が求めていた姿では?」
「たしかに、勤労意欲は保たれるかもしれん。だが、それを納税するのは誰だ? 多くの農民は土地を持たず、本百姓・地主から借り受けた土地を耕し、生活している。そんな彼らからも納税するつもりか?」
「そこが今回の改革の肝となります。
先生、この法令の下では、すべての水吞百姓も含めた農民・耕作者たちに、地券を発行し、土地の所有を認めるのです。三世一身法、墾田永年私財法、太閤検地・・・過去のすべての土地改革を超える土地改革を、我々は成し遂げるべきなのです」
「すべての百姓に土地の私有を認める・・・? そんなことが、できるものか」
あまりに傲慢で非現実的な寺内の提案に、二宮尊徳は愕然とし、気色ばむ。
「そもそも、君の考えではこの令を出す対象を天領に限らせるつもりはないのだろう?」
「ええ、全国一律に実現させねば意味はないでしょう」
「ならばなおさらだ。天領に限ったとしても地主たちの反発は必至であるのみならず、各藩にまで同様の法令でもって強制しようとすれば、それこそ国が真っ二つになる恐れすらある」
「しかし、なさねばなりません」
寺内は怯むことなく、毅然とした姿勢と表情を変えることなく二宮尊徳を睨みつける。
「近年、近海にも異国船の姿がひっきりなしに現れ、数年前には清国が戦争に敗れ、土地を奪われている事例もございます」
「もはや、国内をバラバラにしたまま放置しているわけにはいかないのです。ましてや、国家が国民を苦しめるような、そんな歪な統治体制は一刻も早く正さねばなりません。
江戸を中心とした中央集権体制を早急に敷き、国民が一丸となって国家を富ませ強くする政策を進めなければ、この国は百年ももたず滅びます」
「言いたいことは分かる。理解もできるし、それは正しいだろう。しかし実現性の問題だ。どんなに意見が正しくとも、成し得なければ意味を持たない。私だって、必要に感じ印旛沼開拓について進言したが容れられなかった。できることとできないことに仕分け、できることを積み重ねていくことが肝要なのだ」
「ならば、それをできるようにするまでです。おれはすでに全国の農民から支持を得ております。一方、先生もまた、農民はもちろん、多くの藩からも信頼され、影響力を持っております。おれたちが力を合わせることで、この改革は実現させなければなりません」
熱のこもった寺内の言葉に、それ以上の否定はしないまま沈黙して思案する二宮尊徳。
やがて、誰も何も言葉を発せぬまま過ぎた長い時間の果てに、二宮尊徳は口を開いた。
「相分かった。君の意見を私も重く受け止めよう。いずれにせよ、大きな変革が今、この国には必要だ。私も政治生命をかけて幕府に進言する。その中でいくつかの妥協の必要も生まれるだろう。しかし、私を信頼してほしい」
二宮尊徳の言葉に、寺内はうなずいた。
一か月後、江戸に戻った二宮尊徳はその必要性とそこから得られる利益について、老中首座・水野忠邦及び諸藩の有力者たちを熱心に説き伏せ、これを納得させた。
これまで中抜きや汚職によって利益を上げていた一部の有力者たちの反発は根強かったが、ここに関してもある程度の徴税者の「権利」について目を瞑る形で妥協。まずは形を整えることを重視した。
さらに幕府内で力を持つ儒学者たちに対しても、これまで以上の異学を禁じる「天保異学の禁」を出すことで妥協を図り、懐柔。
その過程で蘭学者にして強硬な鎖国反対論者であった渡辺崋山も処刑されるなど、痛ましい事件も引き起こされることとなった。
そのようないくつかの「妥協」の果てに、天保13年4月8日(1842年5月17日)。
ついに、全百姓の土地の私有を認め、税納方を年貢から金納へと切り替える土地改革「地租改正」が実現することとなった。
幕府の理解も得て進められたこの改革であったが、実態としては農民たちの力を強め、幕府の指導力に陰りを見せるという結果をもたらすことに。
今や幕府内で老中首座・水野忠邦以上の影響力を持つようになった二宮尊徳・寺内護久ら農民勢力たちの主導のもと、次々と「改革」は進められていった。
史実とは異なり、よりラディカルに、未来へと向けて「前進」していく結果をもたらしていくこととなったこの世界の「天保の改革」。
そして、より大きな「変革」は、外国の動きをきっかけに、今度は「幕府内」から生まれていくこととなる。
「開国」への道
安政2年秋。清国は再び英国による侵攻に見舞われ、その首都・北京を制圧されるなど危機に瀕していた。
これを受け、ロシアは清・英の両国の間に入って講和条約である「北京条約」締結を仲介。
清はロシアの後ろ建てを得たことで英国に対しては最小限の条件での講和を結ぶことに成功するも、その見返りとして外満州の地をロシアに割譲することを余儀なくされたのである。
欧米列強による東アジアへの侵略。
幕府内はもちろん、庶民の耳に至るまでこの情勢は知れ渡っており、国民たちは国家の行き末に不安を抱く日々を送っていた。
そんな中、安政3年11月5日(1856年12月13日)、第12代将軍・徳川家慶が兼ねてからの病に耐え兼ね、薨去。
後を継いだのはまだわずか17歳の徳川家茂。家慶の実子14男13女すべてが病弱で成人する前に亡くなっていたことから、家慶の異母弟の子である彼が第13代将軍として任命されたのである。
しかしいずれにせよ弱体。さらに老中首座・水野忠邦もまたその地位を保ってはいたもののすでに齢60を超えており指導力を発揮できない中、家茂の後ろ盾であった彦根藩主・井伊直弼が事実上の支配者として実権を握りつつあった。
井伊直弼が自らの改革における柱としていた人物は主に3名いた。
一人は琉球との交易において莫大な利益を上げ、函館から新潟、大阪、長崎に至るまで支店を拡大するほどの成功を収めていた薩摩藩の御用商人・浜崎太平次。彼が行っていたのは幕府から許可されるはずのない密貿易であったが、井伊直弼はこれを事実上黙認し、代わりに幕政への協力を強制していたのである。
二人目は熊本藩士の儒学者・横井小楠。
熊本の農村で私塾を開いていた彼は実に開明的な思想で新たな時代に向けた多くの知恵を持っており、これに目を付けた井伊は彼を招聘し幕政改革への助力を請うこととなった。
そして三人目は、禄高2,500石の旗本で異国船に対する詰警備役を務めていた小栗忠順。
若くしてその才覚は頭一つ二つ抜け出ており、その率直な物言いゆえに閑職に回されることも多かったが、井伊はすぐさまその才を認め、老中の一人として任命した。
井伊直弼は彼らを率いてこれまでの幕府の方針を大きく変える改革を打ち出していくこととなる。
まずは、迫りくるロシアの重圧に備えるべく、彼らと国境を接する蝦夷地および樺太の開拓を進めることを決意。まずは蝦夷に「開拓使」を設立するに至った。
さらに軍制改革も行う。これまでのように各藩から兵を募る形式ではなく、広く国民全般に対しての徴兵制を敷き、軍隊の質を担保する策を取ったのである。すでに地券の発行による全国の農民統制の基礎ができていたこともまた、この改革の基盤となった。
1860年に老中・水野忠邦が死去すると、新たに老中首座となった小栗が将軍・家茂の許可を得て井伊直弼に対して大老職就任を要請。
すぐさまこれを受け入れた井伊は、いよいよ抜本的な改革へと着手することとなる。
すなわち、2世紀以上にわたり続いてきたこの国の伝統たる「鎖国」体制を終わらせ、世界へと門戸を開くこと。
すでに、清国の利権を獲得していた欧米列強は次の食指を日本へと伸ばしており、もはや一刻の猶予もなかったのである。
とはいえ、国民を二分しかねないこの「開国」という決断。
とくにこれまでの水野忠邦時代に幕府内で影響力を持ち続けていた農民層が、引退した二宮尊徳に代わって指導者となった布田保之助を筆頭に開国路線に対する強硬な反対論を展開。
異国との交易により市場が混乱し、生活が苦しくなるかもしれないといった現実的な不安から、鬼のような異国人が我が物顔で国中を歩き回り、娘を攫っていってしまうに違いないといった感情的な反発まで、なべて保守的な農民たちの不安を放置したままの改革の断行にはリスクが伴っていた。
そこで、井伊は「あの男」への懐柔を試みることとなる。
すなわち、天保最大の「改革者」、寺内護久である。
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20年前とは逆に、江戸に招かれることとなった寺内。
西ノ丸御殿の御用部屋へと通された寺内はそこで、自らと比べ一回りも若く、しかし精力的な様子が見える井伊の姿を認めた。
それは、かつての自分にも確かに存在した活力のようなものであった。
「お招き頂き感謝申し上げます、井伊殿」
「こちらこそ、遠方よりはるばるお越しいただき、感謝いたします。本来であれば私の方から出向くべきでしたが、何分、多忙につき、勘弁頂けると幸いです」
「それは勿論、この動乱の世の中、井伊殿ほどのものが江戸を離れるなどもってのほかです。お気になさらず。
しかし、わたしなどを招いて、何をご期待されているのでしょうか? わたしはもう、隠居の身ですよ」
「ええ、それでも、私は貴方のお力を借りたいのです。貴方はかつて、この国に大きな改革の一歩を築いていただいた。その功績は国中に知れ渡り、今や保守派であっても改革派であっても、貴方のことを深く尊敬している。
しかし今、この国は再び改革への道を歩む必要に迫られている。そのとき、貴方の力が必要なのです」
真剣な表情で寺内に迫る井伊。寺内の口元に、微笑が浮かんだ。
「何か愉快なことでも?」
不可解な表情を浮かべる井伊。やや、不服そうな様子も見える。
「いえ、かつてわたしは、幕府に対して注文を付ける側でした。それが今や、幕府から、幕府のために働くことを求められているとは、皮肉なものだな、と——。
いいでしょう。かつてのわたしも、自らの大義を果たすため、二宮先生を頼り、それを利用した身です。今、先生と同じ年の頃となり、かつての自分と同じ年頃の改革者に助力を求められて、断れる道理などないでしょう。
非力ながらも、できることをしてみせましょう。わたしもまた、この国が強く、誇り高いものへと変わらねばならぬと考え続けてきたのは事実なのですから」
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かくして、寺内は「改革」へと再び身を投じることとなる。
彼は早速、江戸の町で流行していた瓦版にて、自ら開国を支持する言論を発表。農民に深く敬愛される寺内の言説は、瞬く間に江戸を越えて日本全体に広がり、開国への支持を集め始めた。
一方で、改革に反対する一部の雄藩からの抵抗も根強かった。
その筆頭である水戸藩主・徳川斉昭や、開国自体は否定しないものの、朝廷の意向を無視した性急な条約締結を志向する井伊ら幕府の姿勢に対して批判する福井藩主・松平慶永といった反対勢力に対しては、彼らが詰問のため不時登城を行ったことを理由に隠居・謹慎の処分を下す(文久の大獄)。
反対者が力を失ったことによって井伊派を止められるものは誰もおらず、いよいよ文久2年11月18日(1862年12月26日)。
幕府は米蘭露英仏の五か国に対し修好通商条約を結ぶ旨を通達し、200年以上に及ぶ鎖国体制を終了と「開国」が宣言された。
諸外国はこれを歓迎し、早速横浜の港には数多くの外国船が交易のため訪れるようになる。
寺内護久が夢見た、新しい日本の未来が、今まさに花開こうとしていた。
しかし、やはりそれでもその改革はあまりにも性急過ぎた。
その一つの結末が、1863年3月に巻き起こった「桜田門外の変」であった。
民権運動
そもそも、井伊直弼と水戸藩主・徳川斉昭ら開国反対派との対立は、その前段階である「将軍後継問題」から連綿と続く根深いものであった。
第12代将軍・徳川家慶の後継を巡り、若年ながら前将軍の近親者ということで家茂を推した井伊ら「南紀派」に対し、徳川斉昭や松平慶永ら「一橋派」は、斉昭の子で一橋徳川家の養子となっていた徳川慶喜を第13代将軍として推挙していた。
しかし結果は、すでに幕府内で有力な地位にいた井伊直弼の意向により、家茂が第13代将軍として正式に就任。
禍根はこのときから残っていたのである。
そして、自らの側近たちと共に改革を進め、ついには「天皇の勅許なくして」諸外国との条約締結に至ったという井伊に対し、抗議を行うべく登城した徳川斉昭とその子・徳川慶篤、そして松平慶永。
しかしこれに対して井伊は定式日以外での登城を理由に隠居・謹慎の処分を下す。
この、主君に対する屈辱的な処罰、そして朝廷の意向を無視した井伊の横暴に対し、江戸市内に潜伏していた水戸藩士らによって1863年3月3日の朝、雪の降る桜田門外にて井伊直弼は暗殺された。
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文久3年6月19日(1863年7月26日)。
老中首座として、井伊に代わる新たな幕府最高権力者となった小栗忠順は、変後の混乱の終息と国内対立とを解消すべく上洛を果たした。
同地には謹慎を解かれた徳川斉昭と松平春嶽(慶永から改名)、そして薩摩藩主・島津久光といった雄藩の藩主たちが一堂に会しており、この先の政治の行く末を定める重要な会議となることは明白であった。
「して、陛下の御意向としては、此度の勅許無しの条約締結については、将来の鎖国への復帰を前提に特別に許諾。引き続き公武一和の原則の下、朝廷と幕府とが意見を一つにして政務を執り行うものとする」
最年長者として議長を務めることとなった水戸藩主・徳川斉昭は、先立っての孝明天皇との会談内容を元に、陛下の意向をつらつらと述べていく。他、決定事項として、将軍・徳川家茂に対する、皇妹・和宮親子内親王の降嫁が確認された。
しかし、この斉昭公の進行に割って入る形で、薩摩藩主・島津久光が口火を切る。
「此度の無勅許締結並びにその後の大獄事件については、現幕府中枢の暴走によるものと思料する。陛下もその点はお怒りで、その上で恩赦を賜ろうとしている。しかし全てそのままで終わらせることが適切とは決して思えぬ」
然して、と島津は続ける。その鋭い眼光は真っ直ぐと小栗に差し向けられていた。
「まずもって、将軍・徳川家茂公の上洛は必須と考える。次に、我々薩摩藩の他、長州藩・土佐藩・仙台藩・加賀藩といった有力諸侯で構成される五大老の設置を義務付けるべし。これまでのように、譜代大名でのみ統治することは、真の公武合体とは決して言えないだろう」
議長の斉昭公は遮ることもなく腕を組み押し黙り続けている。その表情からは意図を読み取れないが、議長が何も言わなければ小栗としてもこれを遮るわけにはいかない。
「第三に、これも同様に権力の一極集中を避ける由として、一橋慶喜の将軍後見職への就任、並びに松平春嶽公の大老就任を進言する」
そこまで言い切ったのち、久光は参加者一同を見渡していく。明らかに、小栗ら南紀派に対する一橋派からの牽制であり、今回の「失態」を踏まえての逆襲を開始しようとする意図が明らかであった。
そして、小栗も彼らがそのように出てくることは予想済であった。
「仰っていることは理解できます。これまでのような譜代大名中心の幕政体制は望ましくなく、より平等で開かれた、挙国一致による政務態勢が必須であることは、私も理解いたします」
威圧的な一橋派の面々を前にしても小栗は臆することなく、淡々と言葉を紡いでいく。
「一方で、我々二派閥の対立をより鮮明化していくこともまた、陛下の御心からはかけ離れるものとなります。陛下がお望みなのはあくまでも公武一和。その『武』に当たる者たちが主義主張において対立したままでいることは、いつか近いうちに内乱を引き起こしかねません。そうすれば、我々の自滅を待ち構えている諸外国の思惑通りとなってしまいます」
理路整然とした小栗の言い分に、斉昭公も久光公も言い返すこともできないまま押し黙る。小栗は続ける。
「ゆえに、私は提案致します。選挙、というものを」
「選挙?」
突然の言葉に、久光は素っ頓狂な声を出す。
「ええ。欧米では当然のものとして行われている、民による政治の代表者を決定するものです。わが国でも一部の農村においては入札という形で行われているものですが、それを国政の担い手においても同様に行うのです。『参与会議』という形で、老中と同格の位置づけの会議体を江戸城内に設置し、その代表者の決定を全国の国民の『投票』によって決定するのです」
「そんなことが・・・」
「できますとも。我々がこれから、この国を諸外国に攻め滅ぼされることなく頑強にしていくためには、国民一人一人の力を借りて、これを合一して物事を成していくことが重要です。経済においては地租改正を、軍事においては徴兵制をそのために施行してきました。その上で政治においてもまた、同様なのです。
すでに陛下にはこの点についてお話をさせていただいており——前向きに、受け取って頂いております」
最後の言葉に、久光はもはや抵抗する術がないことを悟った。自分たちが先んじて陛下の言葉を引き出し、議論を優位にするつもりが、すでに先手を打たれていたのだ。
「いいだろう。そうであれば我々がより多くの議席を得られるよう努めるだけだ。制度については一任する。くれぐれも不正の無い、公平なものを用意することだ」
そう言うと久光はすぐさま立ち上がり、そそくさとその場を立ち去っていった。
------------------
「寺内殿、何とか同意を取り付けることができましたよ」
「ありがとう。これでわたしも安心して生涯を終えることができそうだ」
江戸に戻った小栗は待ち構えていた寺内護久に声をかける。寺内もまた、気合の入った様子で準備を整えており、今すぐにでも城を飛び出していきそうであった。
「もう行くのですか?」
「ああ、わたしも先は長くない。最後の仕事だ。しっかりとやりきって、満足したまま逝きたい」
そう言うと寺内は右手に杖を持ち、年齢に見合わないがっしりとした体を支え、庭先へと歩き出した。
「私もかつて二宮殿から話は聞いておりましたが・・・本当に貴殿は根っからの改革者なのですね」
「いや、井伊殿に出会うまではわたしもしばらくは燻っていたよ。しかしまあ、今は確かに、この国が大きく変わろうとしているときなのは間違いない。そのきっかけがかつてのわたしの動きにあるのだとしたら―—それにけじめをつけなければならない」
数名のお供と共に旅立っていく男の背中を眺めながら、小栗は自らの責務についても心の中で自問した。
この先、この国がどうなっていくのか―—改革は国を変える。良くも悪くも。
私は幕臣として、自分の信じるところに従って改革を突き進めてきた。それはこの国が生き抜くために必要なものではあった。
しかし、やがていつか、私自身もこの時代の変革の奔流に飲み込まれ、打ち棄てられるときが来るかもしれない——。
それでも、私は自身の仕事を全うするほか、ないだろう。寺内がそうであったように。
慶応元年8月18日(1865年9月21日)、寺内の努力も実り全国的な選挙制度の礎が整ったことで、ついに日本国初の「参与会議議員選出選挙」が開催されることとなった。
およそ半年間に渡り、全国でそれぞれの「派閥」が自派の議員の当選を求める演説を繰り広げ、やがて慶応2年2月8日(1866年3月21日)にその第1回投票が行われた。
結果は、小栗ら「開国派」諸侯の圧勝。斉昭公や島津といった「攘夷派」を大きく上回り、佐幕派との連携によって参与会議での議題を優位に進めることができそうだ。
そして、この国民の政治参加という偉大なる一歩を導いた「改革者」小栗忠順は、寺内と並び国民からの絶大な支持を集めることとなり、結果として幕府の権威を復活させる契機となった。
かくして、史実とは異なる「日本史」は、1868年を超えていく。
果たして江戸は永遠のものとなるのか。それとも、やはり時代の奔流の中に飲み込まれていってしまうのか。
「破」へと続く。
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