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【Vic3/Victoria3】世界で最も豊かで幸福なスイスの作り方② 改革の代償(1856-1876)

 

13世紀末、ハプスブルク家の支配に対し原初三州が「盟約者同盟」を結び成立したスイス。しかし当時はまだ独立した国家の連合体であり、17世紀のウェストファリア条約で神聖ローマ帝国からの独立が認められた後も、18世紀末にフランス革命に巻き込まれ強制的に自由主義と民主主義を植え付けられた後も、その実態は決して変わらなかった。

それが大きく変わるのが、1850年代。1831年の農民解放から始まる「再生」時代も終盤に至り、長く政権を担ってきた農業党が失墜。

代わって台頭してきた保守派勢力が1851年選挙で勝利し政権交代。自由主義改革の進む「再生」時代に対する保守反動の時代を迎えていた。

この状況を憂慮したスイス連邦首相*1ヨーゼフ・フランツ・カール・アムルヒンは、自由民主派の領袖である旧友フリードリヒ・ルートヴィヒ・フォン・ケラーと結び、新たに自由民主党を結党。

スイスに真の自由と民主主義を根付かせることを約束するアムルヒンの演説に多くの有権者が同調し、ついに1855年11月13日、自由民主党が圧勝。アムルヒンが連邦議会議長に就任する。

ここから、スイスの改革が始まる。

 

だが、その改革は決して平坦な道ではない。

その先には多くの困難と課題、そして支払うべき「代償」が待ち構えている。

 

ヨーゼフ・フランツ・カール・アムルヒン。

この世界のスイスを大きく変革させる立役者となった男の、人生最後の20年間の物語が幕を開ける。

 

 

Ver.1.5.13(Chimarrao)

使用DLC

  • Voice of the People
  • Dawn of Wonder
  • Colossus of the South

使用MOD

  • Japanese Language Advanced Mod
  • Visual Leaders
  • Historical Figures
  • Japanese Namelist Improvement
  • Extra Topbar Info
  • East Asian Namelist Improvement
  • Adding Historical Rulers in 1836
  • Interest Group Name Improvement
  • Western Clothes: Redux
  • Romantic Music
  • Cities: Skylines
  • Beautiful Names
  • ECCHI

 

目次

 

前回はこちらから

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改革の進展

1855年11月13日に成立した自由民主党内閣。連邦議会議長に元首相のアムルヒンが就き、副議長兼外務大臣に元自由民主派領袖のケラーが任命された。

さらに内務大臣として農業党党首のエルンスト・アウグスト・デーラーが入閣。「改革論者」たる彼もまた、自由民主党の掲げる自由と民主主義の理念に同調し、共にスイスの改革を進めることに同意してくれていた。

早速、この政権は新たな法律を制定していく。まずは1856年8月12日に「女性の財産権」を制定。次第に減少しつつあった労働人口の回復に寄与させる。

この後はいよいよ「普通選挙」の制定に着手。相変わらず地主層が「民主主義者」であるために反発がないのが実にありがたい。

制定をサポートすべく、アイルランド人の扇動者ウィリアム・スミス・オブライエンを招聘。

史実では1848年革命の一環としてアイルランドで巻き起こった「アイルランド人青年の反乱(または「飢餓の反乱」)」の首謀者の一人として知られ、これが無惨にも失敗するとヴァン・ディーメンズ・ランド(現在のオーストラリア・タスマニア州)に流刑となった。その後1856年に無条件の恩赦を与えられ帰国を許されたが、この世界では帰国することなくこうして異国での改革に精を出すことになったようだ。

 

オブライエンは首都ベルンでスイス国民たちに語りかけた。特に現在の制限選挙下において選挙権を持つ、教養ある知識人たちを中心としたサロンにおいて。彼がフランスの革命で目にした自由と民主主義の理念の価値、そしてそのかけがえのなさを、切実に。

さらにオブライエンは保守的なチューリッヒの地主層に対しても、彼らが購読している人気の新聞を通して普通選挙の価値を訴え、この支持を取り付けることにも成功した。

これらのオブライエンの活躍により、審議の末に1858年12月13日に普通選挙法は成立。

オブライエンは自らの達成に満足し、政界を引退することに決めた。

史実ではアイルランドへの帰国後、何も成功させることができぬまま政治的に沈黙をせざるを得なかったオブライエン。

しかしこの世界では、遠い異国の地ではあるものの、スイスという小さくも可能性に満ち溢れた国で、自由と民主主義の萌芽を根付かせる大仕事を成し遂げた満足と共に、つつましくも静かで幸福に満ちた生活を送る権利を得たのである。

そして、スイスの国民たちは、そんな彼の成し遂げたことを讃え、ベルンの連邦議会場の前に彼の胸像を作ることに決めた。

スイスの国民たちは、この国の民主主義を確かに一歩進めるのに貢献した外国人のことを決して忘れないだろう。

 

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政治改革と並行して、経済的な改革も進めていく。

1855年5月には、東スイスのライ麦畑がレベル10になったことでようやく最初の企業「ベルン製粉」が建設できるように。

企業はVer.1.6で色々バランス調整が行われる予定のようだ。

 

同年6月7日には「鉄道」技術もアンロック。本格的に工業化・産業化の波がスイスにも訪れることとなる。

 

一方で、大国にはない内陸小国スイスならではの大きな悩みが。

すなわち、自給できない資源の多さ。例えば縫製工場の生産性を上げるために必要不可欠な染料資源。普通はこれを輸入するわけだが、内陸国で港も作れないスイスでは輸入先が限られ、陸上貿易だけでは1つの輸入ルートの最大取扱量にもかなりの制限がかけられ、自給不可資源の獲得にはかなり苦労することとなる。

染料が足りず、低い製法で我慢するしかない。結果、施設数を増やして供給を賄う他なく、貴重な労働力を浪費することとなる。

 

硫黄も同様に自給できず苦労していたが、1860年頃にプロイセン市場でこれが大量に余っていることが発覚。

輸入関税も0にした上でこれを輸入開始。なんとか貿易収支も黒字化し、安定供給が可能になった。

 

困難と立ち向かいながら、なんとか政治改革と経済改革を進めていく自由民主党・農業党連立政権。

GDPも最初の4年だけでも順調に成長し、国民からの支持も上々。

1859年11月13日の選挙でも問題なく2度目の勝利を果たした。

だが、そんな安定期のスイスの周辺、欧州においては、安定とは程遠い騒乱が巻き起こりつつあった。

 

 

改革の代償 決定的な対立

まずはスイスで自由民主党政権が成立した直後の1856年5月1日。

激化した普墺の対立が頂点に達し、「普墺戦争」が幕を開けようとしていた。

その隣のフランスでは5年前にそれまでの七月王政が崩壊し、新たに第二共和政が開始されていたが、その共和政政府が制定していた国民衛兵法の撤廃を求める農村民と知識人たちの運動が過激化。

この激化は1858年5月18日についに頂点に達し、フランス国民の大半が農村民に率いられて蜂起。フランス大内乱が発生することとなる。

ロシア、プロイセン、ベルギーといった欧州各国はフランス政権側を支援するも、最終的には革命側が勝利。

同盟関係にあったフランス旧政府を打倒された形となったプロイセンは、成立したフランス新政府と対立。欧州の新たな火種が生まれつつあった。

さらに1862年5月にはオーストリアが北イタリアで反乱を起こされる事態に。

独立を求めるヴェネツィア(サン・マルコ共和国)側には教皇庁が、オーストリア側には両シチリア王国がつき、オーストリア内部での内乱はイタリア統一を求めるイタリア諸侯同士の争いと関わり合いながら肥大化していくこととなる。

さらにプロイセン内部でも、普通選挙を求める急進主義者フェルディナント・ラッサールが暗躍する。

スイスでは比較的穏当になされた自由主義的改革が、欧州各地では炎となって国民を巻き込み、その血を流させようとしていた。

 

そして、スイス国内でも、政権交代から10年が経過した頃から、次第に政権内部でも新たな動きが出てくる。

すなわち、ここまで二人三脚で進めてきた自由民主党の両頭、ヨーゼフ・フランツ・カール・アムルヒンフリードリヒ・ルートヴィヒ・フォン・ケラーの「対立」である。

 

その発端となったのは、連立与党を組む農業党党首の内務大臣エルンスト・アウグスト・デーラーが要求した「文化的排斥法」の是非を巡る意見相違である。

これまでの「人種隔離法」は、スイス国民たるアレマン人(ドイツ語話者)およびフランス・プロヴァンス人(フランス語話者)に共通する「系統文化特性」すなわち「ヨーロッパ人であること」が国内で差別されない絶対条件であった。

一方、デーラーが要求した文化的排斥法は、そこからさらに一歩踏み込み、「(系統文化特性以外の)文化特性」すなわちフランス語やドイツ語を話せさえすれば、等しい権利を有する国民であると認める法律であったのだ。

これは、改革論者デーラーにとっては何が何でも通したい法律であった。そしてアムルヒンも、これに特に異論を唱えることはなく、法律の制定を支持することとなった。

が、副首相(副議長)のケラーがこれに慎重論を唱えた。話す言葉が違えど同じ価値観を共有するヨーロッパ人ならまだしも、例え言葉が同じでも、全く異なる文化、ましてや野蛮なるアフリカの黒人たちがこのアルプスに囲まれた小さな国で同居するなど・・・

「ケラー、これは理念だけでなく、我々の国の現実的な発展のために必要なことなのだ。適切な産業発展のために、我々の有する人口、労働力だけでは近い将来、限界が見えていることは、財務大臣のオスヴァルト・ヴィスからの報告で明らかだ。早々に手を打つ必要がある。そのための法改正でもあるのだ」

「ならばアムルヒン、私も現実的な話をしよう。お前たちの言っていることは理解できる。だが、我々と全く文化も習慣も・・・そしてときに宗教すら異なるかもしれない彼らがこの国にやってくることで、この国の国民が危険に晒される恐れがあるのだ。私自身は彼らに対する偏見は何もない。だが、この小さなスイスでさえ、数百年にわたる長い年月をかけてようやく、州の垣根を越え、一つの国として一体化できるかもしれないところにまで到達したのだ。そこに、突然全く異なる異邦人を招き入れて、無事で済むわけがない。たとえ直線的な経済発展が犠牲になろうとも、私はこの『スイス』を守りたいのだ」

ケラーの言葉に、アムルヒンは言葉を詰まらせる。アムルヒンもまた、長い時を共に過ごした友人の悲痛な訴えを理解することはできた。

だが、だからこそ――。

「ケラー、君の言いたいことは分かる。だが、やはり私は自分の理想のため、そして理念のため、君の意見は受け入れらない。私はこのスイスを限られた固有の民族だけのための理想郷ではなく――幸福を求める、『あらゆる人々のための』理想郷としたいのだ」

アムルヒンの言葉に、ケラーは沈黙する。

しかしその表情は、すでに覚悟を決めていた。

「では――」

「ああ」

二人はそれ以上は言葉を交わさなかった。当然、最後の握手も。

そのままケラーは踵を返し、部屋を出て行った。

アムルヒンはその背中を最後まで見つめ続けた。そしてケラーが部屋を出た後もしばらく、その扉を見つめたまま、部屋の中央で立ち尽くしていた。

 

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1867年5月18日。

ヨーゼフ・フランツ・カール・アムルヒンの盟友であり、連邦議会副議長、すなわち政権のNo.2の立場にあったフリードリヒ・ルートヴィヒ・ケラーは、10年以上におよぶその盟友関係を破棄し、副議長の座を辞任すると共に政権与党・自由民主党からの脱退を表明した。

そして彼はかつて自身が領袖を務めていた「自由民主派」を復活させ、野党党首としてアムルヒンらと対立する道を選ぶこととなった。

一方のアムルヒンは、新たな副議長として農業党党首のアウグスト・デーラーを任命。さらに農業党自体を自由民主党に合流させ、その勢力をさらに拡大。むしろケラー脱退前以上の勢いを持つこととなった。

さらに・・・この選挙戦のさなか、ケラーの過去の汚職がリークされる。彼が副議長だった時代に、チューリッヒの鉄道会社との間で交わされた密約と巨額の賄賂がジャーナリストの手によって明らかとなったのである。

自由民主派の幹部たちは、彼を切り捨てることに決めた。この事実については何も知らず、すべてはケラーの独断によって行われたものである、と――そして彼を除名処分とすることで幕引きを図ったのである。

もちろん、それで自由民主派の衰退が押し留められるわけもない。むしろケラー1人の名声により成り立っていた同党はさらなる勢力後退を味わい、1867年選挙は自由民主党の圧勝で終わることとなった。

そしてケラーは政治的引退を余儀なくされ、逃げるようにしてベルリンへと帰っていった。そこで彼を知る者は多くはなく、わずか2年後の1869年4月27日に、見守る人も少ない中でひっそりとその生涯を終えることとなった。

その報せを、ベルンに住むアムルヒンは葬儀の3日後に受け取った。当時あまりの多忙に寝る暇さえない日々を過ごしていたアムルヒンにとって、その報せは彼の予定をわずかにでもずらすことにつながるようなものではなかった。

それでも、馬車に乗って次の目的地に着くまでの間、彼は確認しなければならない書類を開きはしたものの、その文字がすべて視界の中で滲み、読むことのできない状態になってしまったことに気が付いた。

「どうされました? 閣下」

異変に気づいた御者がアムルヒンに尋ねる。

「いや」アムルヒンは応える。その声はわずかに震えていた。

「何でもない・・・少し、疲れただけだ」

 

ヨーゼフ・フランツ・カール・アムルヒンは68歳の年を迎えていた。

人生の晩年を迎えつつあった彼は、多くのものを犠牲にしながらも突き詰めた理想の実現のため、その改革の大詰めへと向かうことを決めた。

 

 

改革の果実 人口問題の解決

1870年代に入り、スイスの経済成長は停滞の時代を迎えていた。

原因は明白であった。

これまでは、農村で暮らす百姓たちを都市の工場や商業化した農場、鉱山などの労働者として駆り出し、より大きな生産と需要のサイクルに組み込んでいくことで経済発展を成し遂げてきた。

そのサイクルが、ついに止まった。もはやスイスに余剰の労働人口は失われ、利益を出せない工場は人手不足に苦しみ、積極的な投資も成長に寄与しない、そんな状況に陥りつつあったのだ。

施設画面の右下、「百姓」および「失業者」の数がそのまま余剰労働力となる。基本的には1施設5,000人の雇用者を労働力を必要とするため、この状態では1つも施設が建てられない状況と言っても良い。

 

対策は色々取っていた。政策面では女性の財産権を認め就業率を高めたほか、実業家集団の反発を覚悟で子どもが危険な仕事に就くことに制限を設け、将来の適正な労働力が若くして失われることを防ごうと試みた。

1862年にはスチームドンキーの技術を、1865年にはロータリーバルブエンジンの技術を、1868年には脱穀機の技術をアンロックするなど、労働力削減のための新技術を積極的に開発。

さらには建設局を複数解体するなどして、公務員の数を減らして一般企業での労働力を増やす施作なども行なっていった。

 

それでも1870年代に入ったところでいよいよ限界を迎えつつあったアムルヒンは、より抜本的な改革に着手することとなる。

すなわち、ケラーにも伝えていた、スイス国外からの労働力の招聘である。

 

「国外からの労働力を招き入れる上で、重要なのはこの土地にどれだけの魅力があるか、という点です」

1871年2月。財務大臣のオスヴァルト・ヴィスがアムルヒンに説明する。彼は有能な実業家であり、資本家階級の代表として自由貿易党の党首を務めてもいたが、一方でスイス国内における急進的自由主義思想をいち早く導入し、アムルヒンらにも大きな影響を与えた男でもあり、兼ねてよりその親交は深かった。

4年前に農業党党首として自由民主党への合流を決断したエルンスト・アウグスト・デーラーも、昨年春に既に亡くなっていた。後継者となったレオ・リッチーは急速に進む労働の機械化に対する懸念を強く表明するラッダイト主義者であり、彼は再び農業党を復活させた上で自由民主党に対する激しい批判を繰り広げることとなった。

ゆえに、アムルヒンは新たにヴィス率いる自由貿易党と連立を組むことに決め、彼を財務大臣として入閣させた。そして、今新たな政策的相棒として、共に改革へと突き進むことに決めたのである。

その目的はもちろん、スイスの経済発展。そして目下の人口問題解決のためのレクチャーを、ヴィスから受けていたところであった。

「労働人口問題を解決するための移住誘致政策は2つあり、より簡単なのは自身の市場を拡大するかより大きな市場に組み込まれた上で、その市場内の貧しい州から人を惹きつける『市場内移住』です。対外拡張も植民地獲得も政策として採用していない我が国でこれを実現させるためには必然的に他国の市場に入ることが求められますが・・・」

「それは却下だ。かつて、フランスがそれを求めてきたこともあったが、拒否している。経済は国家の命脈であり、それを他国に握られることは危急の折にただ殺されるのを待つだけとなることを意味する」

「それはその通りですね。元より我らが国は古来より多くの国の隷属下に置かれ、わずか70年前には実際にフランスの傀儡ともなっていました。そのことを避け尊厳ある自律を保つことこそが、スイスのスイスたる所以であります。

 それでは」

と、ヴィスは説明を続ける。

「もう1つの移住誘致政策は、大規模移住を実現することです。これには、より大きな移住求心力を必要とします。ライバルは、世界の全ての州ですから。この移住求心力を高く保って、どこかの国で大きな騒乱に見舞われ、故国を去らねばならないと切実な思いにかられた人びとに魅力的な土地であると感じさせねばなりません。

 移住求心力には様々な要因がありますが、最もシンプルで上げやすく、効果的な方法は州の生活水準を上げることです」

1871年2月時点の西スイス州移住求心力の内訳。当然、布告「隣の芝生は青い」キャンペーンを制定することや、知識人の支持を高くして移住求心力ボーナスを得ることなどは基本となる。この辺りの仕様も1.6で若干の変更ありのため注意すること。

 

「なるほど。ではその生活水準を上げるためにはどうすれば良い?」

「ええ。大事なのは平均値であり、そのためには人口の大半を占める下層階級の生活水準を上げることが必要となるでしょう。彼らの消費する商品の価格を下げることはその1つの方法です」

1871年2月時点の下層階級の需要一覧。穀物や衣類、食料品といった基本商品の需要が高く、この辺りの価格を下げることが国全体の生活水準改善に寄与することとなる。

 

「ただ、より直接的で効果の大きい方法は、税率を下げることです。消費税も、高級品のそれは下層民への影響は少ないでしょうが、なければない方がもちろん良いです。税率を最低にし消費税を外し、余った権力を産業奨励布告に変えることで、生活水準はみるみるうちに上がっていくはずです」

「そのためには財政的余裕が必要だな」

「ええ。ですが現在、新たな施設投資は労働力不足から不要である以上、思い切って建設局を大々的に破壊し、建設費用を浮かすことで、財政はかなりの余裕が作れるはずです。今の成長のボトルネックは人口。で、あれば、その対策に全力を投じるべきです」

ヴィスの言葉に、アムルヒンは頷いた。未来の成長のために、成長への投資をあえて切り捨てる。その決断を、アムルヒンは下す覚悟を決めたのだ。

「分かった。すぐさま税率を最低にまで引き下げ、国民の生活水準の向上に努めよう」

「ええ。さすれば国外の難民たちも、スイスを魅了的に感じやってきてくれることでしょう。

 もう1つの要素として、彼らを差別する法律がこの国にないことが重要ですが、かつてアムルヒン議長は『文化的排斥法』を制定する英断をなされました。その意味は今回確実に生きてくるでしょう」

「ああ――そうだな。そうだと、実にいいな」

アムルヒンはちくりと胸が痛むのを感じたが、表情に出すことはしなかった。

「それでは、我らの政策の成功を祈ろう。そして、このスイスのさらなる発展と繁栄を願って」

 

この政策の成果は、すぐに形となる。

その年の6月末。早速、「アフリカ系アンティル人」たちの集団移住が行われ始めたことが、報告されたのである。

彼らはフランス領ガイアナや西インド諸島に住んでいた黒人たちであり、ヨーロッパ人ではないが、フランス語を話せるということで、ヴィスの言葉通り、かつて断行した文化的排斥法改革が功を奏した形となったのだ。

彼らは週3,000人超の勢いで西スイス州に移住してくるという。もちろん、大規模移住は単発的なものであり、その効果は1年も続くものではないため、続いて何度かの大規模移住発生が求められるものではある。

だが、これでアムルヒンは自らの政策が決して間違っていなかったことに自信を持ち、さらにその方向性を深化させていくことを決断した。

続いて彼はヴィス率いる自由貿易党との関係をさらに強化し、関税撤廃し海外交易を活性化させる「自由貿易」法の制定に着手することとなる。事実、いくつかの自給不可能な資源を大量に輸入し、かつ余剰生産品の生産性を高め国民の生活を豊かにする上で輸出量の拡大も図っていく必要がある。

そのためには今の自由貿易党の力だけでは不足なため、移住してきたアフリカ系アンティル人の中から才能を見出したタンドレード・ボルノを財務省麾下の貿易関税局局長に任命し、自由貿易法制定に尽力させる。

この努力の結果、1873年5月17日には、これも制定。

スイスは、更なる躍進に向けて、確実に一歩一歩を踏み出しつつあった。

 

そして、1874年12月。

アムルヒンは政界からの引退を発表し、後任として国防軍総司令官であったアレマン人将軍マンフレッド・ネフが指名される。

アムルヒンはその4年後、故郷であるルツェルンの地で78年の生涯を閉じることとなる。

史実では49歳で不審な死を遂げることとなっていた彼は、この世界においてはその改革を貫き、そしてスイスの運命に確かな道筋を示したのであった。

 

 

しかし、アムルヒン引退後の政界は、再び動乱に巻き込まれることとなる。

急速な産業化と並行して行われた民主化による労働者たちの発言権の増大と、産業化に伴う被害としての彼らの犠牲の増大。

ヴィスはこの事故の責任を取り、財務大臣を辞任することを余儀なくされた。

 

それらはやがて、彼ら「虐げられるもの」たちの不満とそれを解消してくれる存在への期待へと移り変わっていった。それは、経済発展を遂げる国においては決して避けられないものであった。

1875年5月22日。同年末の選挙に向け、労働組合を中心とした新政党「社会民主党」が結党され、労働組合の代表ガストン・ベルリオーズがその党首として労働者たちの声の代弁者となる。

政治的意識に目覚めた彼らの政治的発言力は決して無視できるレベルのものではなく、1875年11月13日の選挙結果においては、なんとか自由民主党が勝利したものの、その差はごく僅かなものであった。

 

いよいよ、19世紀最終盤の20年間が始まる。それは、国内の意見を二分する、より大きな混乱と激動へと導かれるものであり、そして国外においてもさらなる混乱が生まれる20年となりそうである。

果たして、スイスはどこへ向かうのか。

そして、アムルヒンが夢見た理想の実現は、果たして叶うのか。

 

次回、第三話。

最後の改革」へと続く。

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1876年データまとめ

GDP:世界19位(1千万£)

1人当たりGDP:世界1位(3.71£/人)

ついに、目標の1つであった「一人当たりGDP」で世界1位となった。とは言え、まだその差は僅差。最終的に1936年時点でこれを維持する必要がある。

生活水準:世界2位(16.5)

こちらも目標の1つであった生活水準1位に向けて、あと0.5ポイント差での2位にまで上り詰めてきた。大規模移住のためにも、引き続き生活水準を上げていく政策が基本となるだろう。

 

1856年⇒1876年の収支推移

実に6倍の成長率を誇った最初の20年と比べ、この20年のGDP成長率は2倍に落ち着いた。物語中でも触れた通り、余剰労働力の枯渇問題がボトルネックとなったのだ。その分、今後は建設を抑え、生活水準の改善に重点を置いていくこととなるだろう。

 

1876年の全施設状況

20年前は「ライ麦畑」が市街地を除いたときの最大収益施設ではあったが、1876年時点では石炭鉱山が1位に躍り出た。なお、ライ麦畑はレベル合計35、石炭鉱山は20であり、総労働者人口は2倍以上の差がある。

その要因の一つは、石炭の生産性を上げる「西スイス鉱山産業」を設立したこと。合わせて伐採所の生産性も挙げる「スイス林業」も設立したことで、伐採所の収益も上がっている(一方で途中設立した「ベルン製粉」は、西スイス鉱山産業を設立するための枠を確保するために解散させている)。

このお陰もあり西スイスの石炭鉱山は世界12位の生産性を誇り、平均賃金も国内TOPクラス。ここで働く労働者たちも、国家全体の生活水準を引き上げる貢献を果たしてくれている。

石炭の生産性を押し上げるもう一つの要因は、積極的な「自動化製法」の導入にあるだろう。労働者人口の枯渇という小国の課題を解決するためには、自動化の製法は欠かせない。そして中盤においてこれらを使用する中で、石炭の需要は急激に増していくのである。

小国プレイでも、鉄と石炭の存在は最低でもなければどうしようもないことがよく分かる。

 

さて、そうやってライ麦畑をはじめとする農業優位の時代から明確に工業化が進んだこの20年で、有力な職業の勢力分布も大きな変化が生じていた。

 

1856年⇒1876年の職業・文化・宗教の人口比率推移

農家の政治力が大きく減衰。それでもなお2位の位置にはつけているが、すぐ下に小ブルジョワの主要支持基盤たる商店主が迫ってきている。また、資本家や技師などの実業家集団の主要支持基盤は相変わらず上位の政治力を保有しているが、そこに労働組合の主要支持基盤である機械工が着実に迫りつつある。

次の20年で、このあたりの政治地図はさらに大きな変化を見せることとなるだろう。

 

これらのデータが次の20年でどう変化していくかもまた、見ものである。

20年前と比べ、さらに光量と建物の数が増した夜のベルン。遠方には鉄道が走る姿も見受けられる。


第三話「最後の改革」へと続く。

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*1:行政の長というよりは象徴的存在としての役職。ゲーム上の首相は後の大統領のような立場である連邦議会議長。